1. 鳳凰と龍の男

「おーい、白川さーん。いるんでしょー? わかってるんですよー。いい加減、金、返してくれませんかねー?」



木製の古くてボロいドアを叩く鈍くて重い音が、何度も何度も狭い室内に響いた。その音と同時に響く気怠そうな男の低い声は僕を何度も恐怖させ、身動きを取れなくする。



「聞いてんのか、この野郎! 出て来いっつってんだろぉーが!」



寒い日だった。春だというのに身が縮まるような日だった。外には怠そうに話す男と声を荒げる男のふたりがいて、声を荒げる口の悪い男はドアを何度も蹴っていた。ガンッガンッと古い木の板を蹴る音は、次第に大きくなって、蹴り破られそうで怖くなった。布団を頭からかぶり、暖房のつかない部屋で目をつぶって耳を塞ぐ。この小さな古いアパートの冷え切った一室で、自分は死ぬのだろうか。そう思うとやるせなくて、鼻先がつんっと痛くなった。こんなところで泣いてどうすんだと心の中で強く叫ぶが、心というものはもうすでにぽっきりと折れている。


家族の裏切りは何よりも堪える。この悲惨な現実に泣きたくもなるものだ。自分の人生、何ひとつ良い事なんてなかったのだから。きっと自分の人生はこんなもんなんだろう。不運続きなんだろう。幸せになんて、なれやしないのだろう。 僕という人間は、所詮そういう星の下の生き物だろうと諦めが僕を支配していた。



「ご近所の方にも迷惑かかるでしょーよー。早く出てきた方がいいよー?」



いつもの二人組は立派なスーツを着ていて、一見闇金の取り立てには見えなかった。少し前に取り立てに来ていた人達はいかにもって感じの、センスのない派手な柄物のシャツを着た男達だった。けれど今は高そうなスーツをピシッと着た男達である。とはいえ、どう見ても、いわゆる普通のビジネスマンには見えない。静かに淡々と迫る男と、ドアを蹴って大声を上げる暴力的な男の二人組。彼らはきっと最終的に僕を殺して、臓器を売るんだろうと思った。金持ちの病気持ちのガキ共に、自分の臓器は使われるんだろう。取り立ても本気を出してきたに違いない。僕は息を殺し、暗い部屋の中で静かに彼らがいなくなるのを待った。ひたすら待った。


こんな事になった原因の父親は三日前から姿を消していた。父親として、人として、最低であるあの男は最後には闇金に手を出して、多額の借金だけを残して消えてしまった。


碌な人ではなかったから死んでいようが生きていようが正直どうでもいい。けれど後始末くらいつけてほしかった。最後の最後まで碌でもない人だった。こんなの理不尽すぎる、そう思ってもどうにもできない現実ってのがあって、悔しくて、布団をギュッと強く握りながら、男達の足音が遠退くのを待った。


しばらくして怖いお兄さん達が帰った後、僕は糸のほつれた古いダッフルコートを着て、おせっかい好きな友達から貰ったプレゼントの、どこかのブランドものらしい赤いマフラーを巻いて、しんと静まる外に出た。肌寒い風が鼻先を赤くする。


外に出ると自分の家のドアは張り紙だらけ。外すことがとても面倒で、静かにその場を後にするしかなかった。鼻をすすりながら携帯を片手に、誰もいない近所のコンビニへと入った。


いらっしゃいませ、という言葉は砕かれ、何と言われたか一瞬わからず、言った金髪の張本人は暇そうにボーッと宙を眺めていた。コンビニのバイトって、そんなに儲からないよな、なんて金の事を考えながら、古い茶色の革財布を開けて中身を確認する。小銭が数枚あるばかりのちっぽけな財布。とんだ貧乏人だが腹は減るわけで、半額シールが貼られたおにぎりとお茶を買って、また肌寒い外に出た。


明日、生きていけるかわからない不安を引きずったまま、どうしたら良いのか全くわからなくて、ボロアパートには帰りたくなくて、近所の公園に足を運んだ。


錆びて色の剥げたベンチに腰をおろし、街灯の下でお茶のペットボトルを開ける。冷たい風のせいで鼻が垂れてきたけど、そんなのはどうでも良くて、冷たいおにぎりを口に入れた。生きるのってこんなに大変なもんなのかな。あの人が消えたから来月から無駄な出費はなくなるだろうけど、取り立てのお兄さん達からどう逃げれば良いのだろう。何をどうしたら良いのだろう。お手上げ状態だった。誰でもいいから助けて欲しい。取立てのお兄さんたちには正直に言えば助けてくれるだろうか。父は消えましたって。はい、そうですか、じゃぁ借金はチャラです。とは、ならないだろうか。


はぁ、と苦しくて溜息をつきながら曇る夜空を見上げた。明日は雨かもしれないな。冷たいおにぎりが胃に落ちて胃が動き出すのがわかった。



「何してんの、そんなとこで」



その時突然、聞き覚えのある低い声がした。



「あ…」



「あ、じゃねぇわ。お前、ここ一週間、学校来てねぇだろ」



むすっとした見覚えのある、ムダに目鼻立ちの整った顔がそこにはあって、そいつは高い身長から僕を見下ろして眉間にシワを寄せている。怖い顔して、高いところから見下ろされて、言葉に詰まってしまうな。



「…バイトしてんの」



「バイトだぁ?」



意味がわからん、と言わんばかりに声を張り、自転車を停めて、ベンチに座る僕の隣に腰を下ろした。頭一つ分違うそいつはベンチに浅く腰をかけ、背もたれに寄りかかって僕と目線を合わせる。そうしてフードのポケットに寒そうに手を突っ込んだ。僕も寒くてその行動を真似た。



「お前、なんかヤバイことに巻き込まれてんだろ」



「なんで?」



「17のガキが昼からバイトだなんて普通のことじゃないだろーよ」



「そうかな。17でも働けるよ? それに大丈夫、今んとこ体とか売ってないし」



「当たり前だろ!」



僕の事をいつも心配して気にかけてくるこの同じ歳の彼は、大きなお屋敷に住んでいてる金持ちのボンボンだ。けど、貧乏人の僕となんだかんだいつも一緒にいた。このボンボンは本当のボン、なわけで、こいつの家は黒崎会だかなんだかいうヤクザの家だった。こいつ自身は組長の息子である。だからだろう。驚くほど友達が少ない。黒崎 辰也、と聞けばヤクザの息子だとここら辺の人間ならすぐにわかる。こいつはいつまで経っても友達は作れないらしい。


当たり前、といえば当たり前だろうけど。ヤクザ絡みだって知って積極的に関わりたいと思う人はまずいないだろうから。いくら人が良くて金があって容姿が良くても、それは当て嵌まるらしい。


けど僕は小学校からなんだかんだ縁あって一緒にいる。だからきっと僕は誰よりもこいつのことを知っている。人の厄介ごとにすぐ首を突っ込もうとするバカで、すぐ屈託のない笑みを見せるやつで、憎めないやつだってことを誰よりも知っている。



「別になんでもない。ただ、欲しいもんあるから金が必要なだけ」



話題を逸らしたいとついた真っ赤な嘘をそいつは、「俺に嘘つくのやめろよ」と簡単に見破って、不機嫌そうに口をへの字に曲げた。そして僕がしていたマフラーに手を伸ばし、「ホコリついてる」とゴミを払ってまたポケットに手を突っ込む。



「どーも。…ねぇ、これ、めちゃくちゃ温かいよ」



「知ってるよ」



そいつはそう言うと口角を少し上げて笑った。こいつから貰った肌触りの良いマフラーを、僕は機嫌を取るために触れ、それを察知したかのようにこいつはヘラッと笑う。言いたくないから言わない、それを許してくれる優しいやつではない。僕のことは何でも知りたがって、懐っこくて、今の状況の僕からすると面倒なやつでしかない。



「…なぁ、父ちゃんにまた殴られたのか? 家を出るから金が必要とか、そういうことなのか?」



「あーいや、少し、違う。…はぁ、実は金が必要なのはさ、病気になっちまったんだ、あのクソ親父が」



そうでも言わないと、このバカは自分から厄介ごとに巻き込まれようとする。ただでさえ、実家がヤクザでややこしい立場なのに、変に僕を助けようとするだろうからバカを信じさせるために、現実味のある嘘をひとつつくしかなかった。



「そうだったのかよ」



単純なおバカさんは僕がそいつに二度も嘘をつかないとでも思ってるんだろう。簡単に二度目の嘘を鵜呑みにして目を丸くした。



「そ、だからバイトしなきゃならないわけ。あの人が入院しちゃうから、色々と大変なんだよ」



「そういうことは早く言えよ! 俺、お前の親友だと思ってたのにさぁ、相談とかしろよなぁ。なぁ、俺もバイトするよ!」



今みたいにこいつはいつも突拍子もない提案をする。予想できない返事をして僕を困らせる。僕は君の助けなんか必要としてないのに、君にはどうしようもできないのに。むしろ、君は入って来てはいけない問題だと言ってやりたかった。でも僕は、ありがとう、と静かに礼を言って、「自分のことは自分でするから大丈夫よ」 そう続けて笑ってみせた。父が1000万円の借金残して蒸発したから僕が取り立てに追われている、なんて言えるはずもない。



「ほんと、それ、お前の悪いところだぞ。俺にも頼れよ」



けれどそいつは少し拗ねたような声を出して、僕の目をじっと見た。



「はいはい、わかったよ」



僕はそいつから視線を外し、少しそいつの言葉を嬉しく思いながら、俯き、嬉しさを隠すように手の平をただ見ていた。



「なぁ、飯とかも食いに来いよ」



「飯?」



「お前、ずっとひとりで飯作ってきたろ。だから息抜き程度にたまには来いよ、俺ん家。俺が作ってやるからよ」



「 …うん、わかった」



こいつ自身もひとりで飯を食べて寂しいんだろうなと、なんとなく考えている事がわかる気がして、僕は口約束をした。何度かすっぽかした約束を今度は守ってやろう。



「本当だからなー。てか学校できれば来てほしいんですけど」



「相変わらず寂しがり屋だね。僕がいなくて寂しいんだ?」



「寂しいわけないだろうが」



ハハハと笑ってやるとふてくされたそいつは、不服そうに唇を尖らせて、「お前がいない学校がつまらないだけだ」と強く言う。子供っぽくてバカでどうしようもないが、可愛いやつだ。



「近いうち行くよ。テスト前には必ず」



「必ず来いよ」



そいつは垂れ目の甘い顔を少し悲しそうに歪め、僕の横顔を見上げてそう言った。鼻先と頬を赤くし、日焼けした健康的な肌を寒そうに震わせると、腕時計を見て時刻を確認する。「もう行くわ」と鼻をすすりながら立ち上がった。



「体に気ぃつけろよ、あと何かあったらすぐ俺に言えよな」



自転車に跨ってそいつは心配そうに笑う。僕には君に言えない事がたくさんあるんだよね、とは言えない。



「辰也、ありがとう」



感謝を述べるとそいつは眉間にシワを寄せ、照れを隠したようにフードを被り「お前から感謝されんの、なんか気持ち悪いわ」そう言って照れ臭そうにした。そして僕の目を見ると、「しかも久々に名前呼んだし」と付け加える。



「そうだった?」



「いつも、ねぇ、とか、あのさぁ、とか、そんなんばっかじゃん。今日はやっぱなんか隠してんの?」



ほうら、出た出た。無駄に効く鼻。勘が良いのはとても面倒。どう答えようか、なんて考える暇はなく、僕は咄嗟に「何もない」と答えて目を逸らした。嘘をつく人間は目を逸らす、なんてよく言うけど、それは本当らしい。けれどその仕草を見ていたのに辰也は「そ。わかった」と呆気なく話しを終えた。わざと、見逃した。追求するのをやめた。「じゃぁ、またな」そう言って辰也は自転車を飛ばして帰路につく。なぜ見逃したのか僕には分からない。分かりたくもない。どちらせよ彼を頼る事は出来ないのだから。


僕は冷たい空気を鼻から一気に吸い込み、ゆっくりと口から息を吐いた。寒さに鼻の奥が冷たくなる。いい加減帰ろうとゴミを捨て、肌寒むさに身を縮めながらボロアパートに帰った。



「うわ…」



だがあの二人組が玄関の前に立っていた。たまたま振り返ったひとりの男と完全に目が合った。僕を見つけるとその表情はガラッと変わり、おらぁーっと叫んで追いかけてくる。獲物を見つけたライオンみたいで僕はギョッとした。ライオンから逃れるために全力疾走したけれど、獲物に飢えてるライオンは意図も簡単に僕を捕まえる。僕は足が速い方ではないから、50メートルほど走って捕まった。息を切らしながら二人は僕の肩を抱く。逃げるなよ、という意味を込めてがっしりと。



「どーして逃げるの?」



黒髪、あごひげ、つんと尖った鼻先と、笑いボクロが特徴的なお兄さんは、優しく僕に問いかけたけど、僕の手の震えは止まりそうにもなかった。これで死ぬんだ。僕の短い人生はこれで終わりなんだ。そう思うと頭が真っ白になる。



「もう逃げられねぇからな、ふざけやがって」



舌打ちをしたその人は坊主で首筋から見える刺青がいかにも、という感じでガラが悪くて口も悪い。身長が高く、ガタイも良く、格闘技やってますって感じの大きくて怖い人だった。瞬間、お手上げだと感じた。何をどうしたって逃げられないと。殺されるんだと。横にいるお兄さん達は真ん中に挟み込んだ僕を全く逃がす気はなく、ぐっと肩を抱く力を強めた。



「で、お父さんどこ?」



「…消えました」



そう答えるのも心臓が破れそうなくらい勇気が必要だった。震えが伝わっていそうで怖い。



「はい?」



ガラの悪いお兄さんがそう聞き返す。だから僕はもう一度ハッキリと伝えた。



「き…消えました。3日前から、本当に、消えちゃったんです」



「嘘はよくないよ? 痛い目に合うからね」



「だから本当に消えたんです。嘘なんかじゃ…ありません」



二人組はお互いの顔を見合わせ、優しい口調の男がため息をついた。



「じゃぁ居場所、わかる? 行きそうなところとか」



「行きそうなところは行きました。駅前のパチンコ屋とか、レモンっていうスナックとか、…でもいませんでした。本当にわからないんです。こっちも、困ってるんです」



許してはくれないだろう。心臓は破裂しそうなくらいバクバクと騒がしく鳴り、倒れそうなくらい脈が速くなるから不安だった。黒髪の男は僕の言葉を聞いて、にっこりと笑った。その笑顔が心底怖い。



「そういうことなら君が肩代わりしようか」



「え?」



肩代わり、つまり、死ねってことだ。そう解釈できてしまうとパニックになる。僕は優しい口調の男を見つめたまま固まった。あぁ、やっぱりそうなるんだ。消えたと本当の事を言ったって、僕は殺されちゃうんだ。あんな親父のために僕が不幸になるのかよ。なんで。どうして…。



「ほら、若い子の臓器って高く売れるんだ。1000万なんてあっという間だよ」



「そうそう、簡単に返せる。どー? 手っ取り早いと思うだろ? お父さんも喜ぶぞー?」



僕はどれだけ不幸なんだろう。どれだけ自分を犠牲にしたら幸せになれるんだろう。まだ17だっていうのに。高校生だっていうのに。もう死ぬことを考えなければならないらしい。



「死ぬこと以外に道はないんですか」



僕は震えた声でそう尋ねると優しい口調の男はふふっと笑った。



「生きていたい?」



「はい」



「こんな人生でも?」



「……はい」



「なくはないよ。君次第だ」



「僕次第ですか?」



「そう。…まぁ、ここじゃなんだ、場所を移動しよう」



場所を移動すれば殺されるんじゃないのか? そんな思いがふと過ぎると体は言うことを聞かなくなり動けなくなる。



「おら、動けよ、ガキ!」



けれど僕は弱い。動けと尻を蹴られ、僕は渋々動いた。



「車に乗ったら…僕を殺しますか?」



「殺さないよ、大丈夫。ほら、行くよ」



信用ならない。けれど、僕に選択肢なんてなくて、二人組に連れられて黒の高級セダンに乗せられた。着いた先は繁華街から少し離れたビルで、口の悪い男に肩を組まれながら中へ進んだ。5階に着くと古びたドアがあり、そこを開けるとスーツを着た人が数人いた。僕の心臓はずっと限界とばかりに鳴っていて、このままだとストレスで死ぬんじゃないかと思った。



「ただいま戻りました」



僕の隣にいた優しい口調の男はそう言って中の人達に挨拶する。いかにも怖そうな人はひとりもいないが、たぶん、この人達は人を簡単に殺すんだろうと思った。


それがヤクザなんでしょ? 僕なんかあっという間にバラバラになって、臓器は売られて、他はどうせ豚の餌になるんだ。



「そのガキが白川んとこのガキか」



「そうっす、白川 智人、17歳っす」



僕の代わりに僕を紹介した口の悪い男は、僕を前に出して自分は一歩後ろに下がった。



「長谷部さんいますか?」



「なんだ、長谷部さんに渡すのか」



「まだわからないですけど、死にたくないって言うもんで」



「そりゃぁ死にたくはないわなぁ、まだ17だろ? これからって歳だ」



いったい、どうなってしまうんだろうか。学校には行けないのだろうか。普通の生活には戻れないのだろうか。辰也、どうやら二度と会えないかもしれないよ。もし僕が死んだら泣いてくれる? 泣いて暴れるだろうか? 君は妙に僕を好いてるからちょっと異常なくらい好いてるから、僕の死はとてつもなくショックなものになるだろうな。僕の死に泣いてくれる人がいるっていうのは少し嬉しいけど、僕はまだ死にたくはない。


そんなことを考えていた時、ドアが開いて男の人がひとり、のそっと気怠そうに入ってきた。大きな人だ。背も高く体格も良い。灰色のコートに垂れ下がる赤いマフラーが印象的で、映画に出てくるマフィアそのものみたな人だった。



「あ! 長谷部さん、お疲れさまっす!」



「おう」



長谷部さん、と呼ばれるその人は多分ここにいる誰よりも偉い人らしい。みんながみんな、頭を下げて出迎えた。雰囲気のある怖そうなその人は、黒いストライプ入りのスーツをコートの中に着ていて、それがすごく似合っていた。ポケットからシガレットケースを出し、一本だけタバコをつまらなそうに取り出すと、細い指で挟み、口に咥える。眉間に軽くシワを寄せると、重そうな年季の入ったシルバーのジッポで火を点ける。ジュッと先が焼け、ゆらりと煙が上がった。長谷部さんは肺の奥まで煙を吸い込むようだった。


怖い人なのに、なんだか僕の心臓はさきと違った理由でドキンと強く鳴った。長谷部さんはふぅーっと宙に煙を吐いて、メガネをくいっと上げる。たぶん30後半くらい。落ち着いていて、黒髪は軽く後ろに撫でつけられていてる。漂う雰囲気はインテリヤクザだ。でもどこか上品で美しいと思ってしまうのは、何故だろう。


壁に寄りかかりながら、真っ黒な切れ長の瞳でしばらくじっと僕を見ていた。そうして、「それが、白川のガキか」 と低い声で問う。僕を睨むような目が怖い。僕が答えずにいると、横にいた口調の優しいお兄さんが無機質に答える。



「はい。まだ、死にたくないって言うので長谷部さんに連絡しました」



「若いな、いくつだよ」



そう言ってまたタバコを一口吸う。近くにいた下っ端らしき人が大理石の灰皿を差し出し、長谷部さんという人はポンッとそこに灰を落とした。



「17です」



僕の横にいたお兄さんがまた答えると、「名前は?」と低い声で訊ねてくる。その瞳にどきりとした。いや、そうじゃない。自分に質問が飛んできて、一瞬びっくりしただけ。名前を聞かれたと気付くのに数秒かかった。



「の、のりと…白川 智人です」



「そうか。俺は長谷部 虎太郎(ハセベ コタロウ)だ。まぁ、そこ座れ。…西嶋、茶持ってこい」



表情は一切変えずに、その人は自分の名前を告げて僕に座るよう命令する。西嶋と呼ばれた口調の優しいお兄さんは、「はい」と返事をして部屋を出て行ってしまった。僕にとってそれは不安材料でしかなく、目の前の怖い人を直視できずに自分の手を見つめたまま、時間が過ぎるのを待った。この怖い人は他の人たちに奥に戻るよう命じ、この部屋には僕と目の前のインテリヤクザ、そしてお茶を持ってきた西嶋さんだけになった。西嶋さんが戻ってきてすぐ、長谷部さんはタバコの灰を灰皿に落としながら、「このガキの臓器はいくらで売れる?」と真剣な顔で訊ねた。その質問は僕の死を決定付けているものだった。僕の頭は一瞬で真っ白になった。思考回路は止まりかけ、何をすべきかなんて分からなくなる。けれどすぐに必死に逃げ道を考えた。ここからどうしたら逃げられるのか、どうしたら幸せになれるのか、どうしたら…。



「ざっと計算しても5千万以上。借金は簡単に返せる額だと思います」



けれど僕の願いと裏腹に、西嶋さんは僕の臓器売買の話しを進めた。僕を殺さない、なんて言ってたのに。その事は無かった事になってしまった。西嶋さんは湯気のたつ熱いお茶をテーブルに二つ置くと後ろに下がり、無表情で長谷部さんを見ている。



「だってよ」



それを聞いた目の前の冷たそうな人は片眉を上げて僕を見る。いたずらっぽい、揶揄うような表情。薄い唇を微かに開けて僕を震え上がらせる言葉を吐く。僕の命を左右できる優越感に浸っているような、そんな表情だった。



「でも、生きていたいので…」



僕が静かに答えると長谷部さんはふっと笑い、タバコを灰皿に押し付けて消すと足を組み直した。



「生きたいかぁ、そうだよな、生きたいよな。じゃぁお前が選べる道を提案しようか」



そう言うと組んでいた足を崩して地面につけ、膝に肘を置いて顔の前で指を組み、威圧感のひどい提案を僕にする。



「ひとつ、臓器を売る。ふたつ、体を売る。みっつ、裏ビデオに出る」



「体を売る…」



やっぱり、そうなるんだ。体を売るのが1番金になるんだ。



「ふたつめはつまり男娼だ。金を貰って誰とでもセックスする。みっつめのビデオはつまり裏のポルノビデオ。売れれば臓器を売りとばす次に金になるし、プロと乳くりあうだけだから、それほど体の負担もねぇだろう。けどまぁ、無修正で一生お前の羞恥を誰かが見ることになるだろうがな」



「そう、なんですか…でも、そのビデオで、僕は何をすればいいんですか」



僕の無知な質問に長谷部さんは初めて声を出して笑った。ケタケタとバカにするみたいな笑いだった。



「お前、見たことないのか?」



「ある、けど…」



正直ちゃんとは見たことなかった。知ったかぶりに近かった。僕は本当に性というものに疎いらしい。



「けど?」



「女の人と、その、性行為してお金貰えるなんて、なんだか、選択肢の中では1番楽そうだなって…」



言った瞬間、ひどく後悔した。楽だなんて言って、だったら辛いことをさせてやろう、と思われたら最悪だ。心の中で強く舌打ちをして長谷部さんを見ると、長谷部さんはふっと鼻で笑った。



「女の人とじゃなかったら?」



「え?」



あ、そうか。僕は女の人がポルノビデオですることを強要されるのかもしれない。



「お前、17だったな?」



「はい」



「本物の高校生か。これは良いな。…で、セックスしたことは?」



「ない、です」



「ねぇのか? 清純派の真面目くんね」



清純派の真面目くん、なんて言葉は僕にはなにひとつピンとこなかったが、長谷部さんの目が怖くて、はい、と小さく頷いて目線を外した。



「そりゃぁ面白いな。高く売れそうだ。顔も綺麗な顔してるし、肌のキメも良さそうだし、上物だな」



面白い、高く売れる、僕はビデオに出るとは一言も言ってないんだけど、それで話しは進み、死ぬことはどうやら免れたらしかった。



「よし、じゃぁ、ビデオに出てみるか? 借金を返すには道は長いがな」



「…出たら、学校戻れますか?」



「学校は好きか?」



「いや、…はい、好きです」



「まぁ戻れるだろうよ」



僕に何ひとつ興味なんてなくて、僕を一商品としてしか見ていない長谷部さんは、お茶をずずっと飲むと、僕を全く見ずに立ち上がった。西嶋さんと何か小さな声で話し、話し終わると僕を見下ろして、「来い」とだけ言って出て行った。僕は長谷部さんに置いてかれまいと席を立ち、西嶋さんは長谷部さんが出るのを頭を下げて見送った。


どうなってしまうのか、イマイチ把握できていないけれど、無言のまま時間は過ぎて僕は運転手付きの真っ黒な車に乗る。その車は僕なんかが乗ることはないと思っていた高級車だった。後部座席に僕と長谷部さんは乗り、長谷部さんは乗るとすぐにタバコに火を点けた。それにしても運転手付きだなんて、とんだ待遇なんだ。



「お前、母親はいないのか」



今まで経験したことのない世界に僕が目を輝かせていると、長谷部さんは外を見ながら、そう言葉だけを投げてきた。



「いないです、10の時に消えました」



ぼうっと外を眺める長谷部さんを見た。僕からは後頭部しか見えない。



「そんで今回は父親が消えた、ってわけか。…恨んでるか? 父親を」



「まぁ、はい。後始末してから消えてくれれば良かったなと思います」



「父親は嫌いか?」



「…はい」



好きとか嫌いとか、そんな感情すら通り越していたかもしれない。毎日飲んだくれ、ろくに働かず、バイトで貯めた僕の金を全て奪って僕の人生を台無しにした。僕が受けた数々の酷い仕打ちは、思い出すだけで反吐がでる。でも、あの人は僕にとってたったひとりの父親だった。散々な人生だったのに、どこかまだ肩を持ってしまうのはなぜだろうか。血の繋がった父親だから、なんてくだらない理由なんだろうか。嫌いになろうとすると、母がいた時の優しいあの人を思い出して胸が痛くなって苦しくなる。そんな思い出なんてなくなってしまえば楽なのに。自分でも父親というのがわからなかった。最後の最後まで、わからないのだろうと思った。


しばらくの沈黙の後、長谷部さんはタバコの煙を吐き、寒そうな外をまたじっと眺めながら、「借金返すまで、俺がお前を預かる」そう一言だけ言った。僕に拒否権はなく、「わかりました」と返事をすると、長谷部さんは何も返さずそのままじっと流れる景色を見つめている。


しんと静まりかえった車内、ひとけのない外、寒そうな空をただボーっと眺めながら、どこまで行くのかと考えていた。繁華街から30分弱走った静かな高級住宅街に長谷部さんの家はあった。高層マンションで、エントランスには訳のわからない大理石でできた大きな丸いオブジェがあった。ヤクザがこんなとこ住むのには正直驚いた。


自分の人生でこんな夢みたいな場所を訪れる日が来るとは思ってもみなくて、僕は周りをキョロキョロと眺めている。その姿は挙動不審で戸惑いまくってる場違いな人間でしかないだろう。


長谷部さんは僕が戸惑いまくってる事なんて気づいてるのか、ないのか、わからないが足早に先へ進んだ。このマンションにはエレベーターが4つもあり、エレベーターを待つ一角には小さなアンティーク調のシャンデリアが高い天井からぶら下がっていた。


長谷部さんは上がるボタンを押し、すぐに開いたドアからエレベーター内へ入り、14階のボタンを押した。疲れた様子で壁に寄りかかり、僕は背後の壁一面の鏡を見た。指紋ひとつない。隅々まで磨かれていた。冷たい手摺に寄りかかりながら、夢のように綺麗な場所だとため息をもらしてしまう。僕からしたらこんな場所、貴族が住むような場所だ。


チンと音がエレベーター内に響き、静かに止まった。長谷部さんは何も言わず、角部屋のドアの前に立ち、鍵を開けて僕を招いた。驚いたことに玄関の床は大理石でできていて、長谷部さんの革靴の音がコツコツと響いた。



「靴は適当に置いておけ」



そう言って長谷部さんは来客用らしいスリッパをポンっと僕の前に出したが、それが意外にも牛柄で、なんだか少し緊張が和らいだ。長谷部さん本人は黒革のスリッパなのに、僕は牛革のスリッパで、ヤクザの家に牛柄のスリッパがあるなんてなんだか面白かった。でも牛柄好きなんですか? なんて聞けるわけもない。


僕は長谷部さんに案内されてリビングに入った。広い玄関を抜けると大きなガラス窓があり、綺麗な夜景を一望できる部屋がリビングになっている。部屋は他にもいくつあるのかわからない。



「お前の荷物は明日取りに行く。着替えはこっちで用意してやる。風呂場はあっち、トイレはここを出て右、お前の寝室はそっちだ」



はい、と答えたがイマイチよくわかっていないのが正直なところ。僕は本当に場違いだった。いかにもな高級マンションに不釣合いな糸のほつれたコートと、毛玉のひどいトレーナーを着ているのだから。自分が心底恥ずかしくなった。コートを脱ぎ、僕が身につけている唯一のブランドものであるマフラーを外して丁寧に畳み、コートと一緒に腕に掛けて長谷部さんの指示を待つ。


すると長谷部さんは、僕を焦げ茶色の革のソファに座らせ、「少し待ってろ」とどこかへ消えた。大きなテレビを目の前にして、フカフカのソファに寄りかかり、肌触りのいい絨毯を踏みしめ、僕は一体何をしてるのかと、突然与えられた自由時間に戸惑った。


なぜ、長谷部さんは僕なんかを家に連れて来たのだろうか? 長谷部さんにとってメリットは何もないのに。そう思いながらひとりソファに座って、家主を待っている。何もすることはなく、消えた長谷部さんの行方を考える。


僕はひとり座らされている。このまま長谷部さんが戻って来なかったら僕はどうしたら良いのだろうか。逃げればいいだろう、なんて普通は思うかもしれないが、僕に帰る場所なんてどこにもない。だったらビデオに出る、なんていう条件付きでもここにいた方が僕は幸せになれる気がした。


そんな事を淡々と考えていると長谷部さんは戻って来た。消えたわけではなく、白いTシャツと黒のジャージを履き、タバコを咥えている。シャワーを軽く浴びたらしく、濡れた髪をタオルで乾かしている。長谷部さんからは石鹸のいい香りがした。その手には僕の為の着替えが一式あった。もちろん、新しい下着も。髪をきっちり後ろに撫でつけてスーツにメガネ、なんてインテリヤクザな姿から、ジャージ姿で髪をおろしている姿のギャップが激しくて同一人物かどうか一瞬戸惑ったが、もちろんそれは長谷部さんであった。この人、ジャージなんて履くんだ。そう僕は着替えを受け取りながら思った。


長い手足を持つ長谷部さんはジャージとTシャツ姿でも十分様になっていた。おろされた濡れた髪と、タバコとメガネ。この人は若い頃、とてつもなくモテたんだろう。いや、今でも十分モテるのかな、そう思わせるその容姿に僕は釘付けだった。



「腹、減ったか?」



ずっと見ていた僕の視線に気付いた長谷部さんは、そう聞きながら、うざったそうに僕の視線から消える。



「…はい」



正直に答えると長谷部さんは灰皿を手にしながら、また僕の方へと戻ってきた。僕の視線がうざくて消えたわけじゃないらしいと僕は内心ホッとした。失礼だろうし、あまり長く見ないようにしようと心の中で決めて、下へと目線を移した。



「なに食べたい?」



上から降ってくる言葉に、「なんでも、構わないです」と僕は目を合わさずに答える。



「そうか」



返事をした長谷部さんの表情は見ていないから全くわからないが、きっと僕をあの冷たい目で見下ろしていたのだろう。長谷部さんはまた僕の前から姿を消して、僕はまたひとりになった。何か失礼なことを言ってしまったのだろうかと自分の言動に不安を覚えながら、僕はソファの上にいる。この時間、何をしていればいいのか、まったくわからない。ポケットに入れていた携帯を確認すると電源が切れていて使い物にならなかった。ため息まじりに窓の外を見ると、きらきらと夜景が広がっていた。


けれど美しいとはあまり思えなかった。なぜだろうか。よくわからないが、たぶん、人を見下してる気がしたからかもしれない。僕は見下される側の人間だから、たくさんの金を持ってる人間がこうして人々を見下しているのかと思うと嫌な感じがした。不快だった。世の中に、嫌気がさした。


僕が勝手に夜景にイライラしていると、食欲が湧くような香ばしい良い香りがしてきた。しばらくすると長谷部さんは洒落た器にパスタを盛って持ってきた。ローテーブルにパスタとフォークを置くと、どかっとソファに座ってワインのボトルを開ける。



「飲むか?」



「え、いや、あの…僕、まだ17ですけど」



「飲まないのか」



「の…飲みます」



とても美味しそうなご飯が出てきた、そう驚いて動揺し、ワインを勧められて更に動揺する僕に長谷部さんは揶揄うように笑っている。甘いジュースとか炭酸とかお茶とかお水とか、そういう選択肢はないのかな。そう思いながらグラスに注がれた少量の黒に近い赤い液体を睨みつける。長谷部さんが飲むところを目にしてから、僕も一口飲む。甘みのない液体で、渋くて、飲み物としての意味がわからなくて、眉間にシワを寄せていると長谷部さんは肩を振るわせた。どうやらただ揶揄われていただけのようだ。



「飲めないか」



「…ごめんなさい。飲めないです」



「悪かったな、別のを持ってくるよ。何がいい? オレンジジュースがあったはずだな…あとは、緑茶とか水とか」



ヤクザの冷蔵庫も普通なんだなと思いながら「オレンジジュースお願いします」と食い気味に頼むと、長谷部さんは少し笑いながら奥のキッチンへ消えて、瓶に入ったオレンジジュースを持って戻ってきた。この人のほんの少しの優しい笑顔に僕の緊張も居心地の悪さも、ゆるゆると解けていくようだった。コップを渡され、僕は久しぶりに飲める甘いジュースに心底感動しながら飲んだ。


ワインより100倍美味いそれは僕の胃を満たし、僕を安心させる。それにびっくりすほど美味いミートパスタ。なんて贅沢なんだろ。僕のテンションは上がる一方だ。ヤクザに拉致られたっていうのに、なんだか幸せなことしかなくて僕の頭は混乱していた。先に食べ終えた長谷部さんはひと息ついて、またタバコを吸っている。



「お前、明後日から仕事してもらうけど、何をやるか一応見ておくか?」



「え?」



ポルノビデオをこの人と見るのか? なんて疑問に思ったが、言葉に出す前に長谷部さんは一本のビデオをビデオデッキに入れて再生ボタンを押した。それは衝撃的だった。大きなテレビ画面いっぱいに映る卑猥で乱暴な光景。スキンヘッドに入れ墨を入れた男と、ガタイの良い怖い顔の男と、細身で小柄で愛らしい顔をした男の3人がそこにはいて、女性は1人もいなかった。色の白い腰の細い若い男を、2人のゴツイ男がレイプしているようだった。無理に自分のモノを咥えさせ、無理に突っ込み、若い男は悲鳴に近い声をあげていた。涙を流していた。やめろ、やめてくれ、と何度も泣きながら抵抗していた。痛くて泣いてるのだろうか、これは本当の涙なのだろうか。僕には見分けがつかなかった。僕は呆気にとられていた。正直、怖かった。


しかし僕の行動は思っている事と反対に出たようだ。そんな映像を見ながらパスタを口に運んでいると、「あまり驚かないのか?」 と長谷部さんに問われ、僕は数秒何を言おうか迷った挙句、「…驚いてます」とだけ答える。



「こんなもの見せられて、パスタを食い続けるやつなんて初めて見たけどな」



「ほ、本当に、驚いてます。レイプって怖いなって…。これ、ゲイビデオですよね?」



「あぁ」



『いやっ…あ、んっ……』



長谷部さんはタバコの灰を灰皿にポンッと落としてビデオを眺めた。表情は一切変わらない。僕は正直、こんなに刺激の強いものを見せられて心底参っているというのに、この人は無反応にも程がある。



『オラァッ、もっと泣け!』



その時、ふっと、なぜかはわからないが突然、長谷部さんは女性に全く興味がなくて、ビデオのこの人達みたいな行為をしてるんじゃないかと思った。だとしたら、この人が僕をここに置いてる理由は単純で明快なものなのかもしれない。まさかなと思う一方、それならしっくりくると思う自分もいる。



「長谷部さんって女の人は嫌いですか?」



遠回しにしたつもりの質問に長谷部さんははっと笑い、「ホモかどうかって聞きたいのか?」と直球で返してくる。



「はい」



頷く僕に長谷部さんは表情を変えず、タバコの煙をふぅと天井に向かって吹き付けた。



「だとしたら? ここを出るか?」



長谷部さんはソファの背に肘を掛けると、タバコを挟んだ手の平に軽く頭を乗せて気怠そうに俺を見下ろした。



『んっ…イクっ!』



瞬間、僕の頭の中には長谷部さんと男がヤッてる姿が思い浮かんだ。こんな冷酷そうなヤクザも、この映像の青年みたいに喘いで、泣いて、よがったりするんだろう。それはきっと、かなり過激で、美しい。



「出ていったところで、帰る場所ありませんから」



「そうだな」



ふっと鼻で笑った長谷部さんはタバコを思いっきり吸い込むと、ふぅと吐いて灰皿に押し付けた。パスタを食べる音、人が泣く声、卑猥な水音、ベッドの軋む音。 あまりにも衝撃が強すぎる映像に僕はどうしたらいいのか全くわからず、冷静を装ってただ黙々とパスタを平らげた。テレビの画面には、さっきまで嫌がっていた若い男が気持ち良さそうに顔を赤らめ、男達によがっている。苦しそうな、でも気持ち良さそうな顔だった。長谷部さんもこんな顔するんだろうか。



「おい」



「はい」



「反応してんぞ」



顎で指された僕のそれは自分にも性欲ってものがあることを証明してくれた。僕は性的に興奮することはまずなくて、きっと病気なんだと思っていたほどだった。女性の裸を見たって興奮しないし、性行為ってもの自体に興味が湧かなかった。



「こういうの見て興奮すんのか」



「わからない、けど、僕にも性欲があるって気付かされた気分です。普段は無反応なのにな」



そこまで言うと長谷部さんは首を傾げて腕を組んで僕を見た。怖い顔が更に眉間にシワを寄せるものだから、さらに怖くなる。



「もしかしてはじめて勃起した?」



「エロビデオ見てこうなったのは、…はい、初めてかもしれないです」



「あーお前、本当似てるかもしれないな」



「誰にですか」



「このビデオに出てる若いのと。この色の白いのも、お前と似たような境遇でね。父親のせいで借金背負って、俺らに捕まったのよ。けどこいつはお前と違って成人してる大人だってのに、ビデオに出るってなって、全然勃たなくてビービー泣いてたね。数日経って、夜中にひとりで一本のエロビデオ見てたら無事に勃ったらしくて大はしゃぎ、なんて子供っぽい野郎だった。そんな男とお前は似てるなぁと」



「その人も僕と同じように借金のせいでビデオに出たんですか?」



「あぁ。まだまだ若いのに育った環境が悪すぎてインポになって大変だったね」



「そうなんですか」



「とはいっても、あいつはお前の借金の半分以下だったけどな。あっという間に完済して、ある日突然どこかに消えたね」



「消えた?」



「俺の知ったことじゃないがな。田舎に親戚がいるらしい。そっちで元気にしてるって話も聞いたけど、実際は何も分からねぇな」



僕はへぇと頷いて、またビデオへと目線を移す。この人と長谷部さんは一体どういう関係だったんだろうか。気にはなるが聞けずにいると長谷部さんは僕に、「眠いんなら、風呂入ってさっさと寝ろよ。ついでにそれも処理して来い」と顎で指す。眠いわけじゃないのにな。そう思ったが、「はい」と返事をして風呂場へ足を運んだ。確かに処理しなきゃならないものはあるから、シャワーは浴びなければならないみたい。服を脱ぎ、温かい湯で体をリラックスさせ、するりと手を下へ下へと這わす。ビデオの映像の若い男を、僕は勝手に長谷部さんに置き換えた。長谷部さんが男達に輪姦され、短く息を吐きながら苦悶の表情を浮かべて何度も何度もイカされる。いいなぁ、それ。僕は熱い息を吐きながらすぐに欲を放った。


どろどろと白濁した欲は排水溝に湯と共に流れていった。疲れた僕はそのまま少し座り込み、しばらくしてから風呂を出た。リビングに戻ると長谷部さんはソファで横になっていた。さっきのゲイビデオは流されたままで、タバコも火がついた状態で灰皿に残っている。静かに近付くと長谷部さんはメガネをかけたまま、すやすやと寝息を立てている。相当疲れていたのだろう。長い手足はソファの外に出され、仰向けで静かに寝ている。僕の携帯は、たぶん、足元にあるだろう。起こさないよう、ゆっくりと静かに近付いて手を伸ばす。携帯を無事に取り戻し、それをポケットに突っ込んで長谷部さんを見下ろした。


寝息をたてる長谷部さんは、眠っていると鋭さや冷たさが全くない。無防備すぎるほど無防備なのだ。それにしてもこんなビデオ見ながら寝てしまうってどうなのかな。実際、この人は興味ないのかな? 僕はこの人の事を知りたいと思った。大人しい寝顔を見ながら、そう思った。もし僕が、今、長谷部さんを殺そうとしたら。この人はどうするかな。僕は長谷部さんを殺して逃げるかもしれないのに。長谷部さんは考えないのかな。無防備に殺されるのかな。どうなのかな。僕を信用しすぎのような気もするけどな。


僕はそっと長谷部さんに手を伸ばし、かけたままのメガネを外した。テーブルに置いて、その顔をまじまじと見る。綺麗な顔立ちだった。鼻筋が通っていて、唇の形がいい。少し厚みのある柔らかそうな唇に、睫毛もよく見ると長い。この人の笑うとできる豊麗線とか、目尻のシワとか、僕はすごく好き。ふと笑う事が多いのかな。きっとこの人は優しい人なのかもしれないなぁ。



「ユキト…?」



なんて事を考えていたら僕は長谷部さんの頬に手を寄せていた。長谷部さんはその手を掴んで、僕ではない違う人の名前を呼ぶ。ドキッと心臓が跳ね上がる。でもすぐに僕は今まで感じた事のない、変な、嫌な、もやもやした感情に苛まれた。ユキトって誰だろう。



「…智人です」



名前を言うと長谷部さんは、はっとしたように起き上がり、テーブルに置いてあったメガネに気付くとすぐに掛けて僕を見た。



「あぁ、お前か…寝てなかったのか」



「携帯忘れてて、取りに戻りました。メガネかけたまま眠るのは危ないですよ、あと、タバコも」



「…あぁ」



ユキトって人はこの人の頬に手を寄せるような人なんだろうか。



「じゃぁ、僕は寝ますね」



「明日は早く起きろよ」



「わかりました」



この人にも恋愛感情ってものがあるのだろうか。情ってものがあるのだろうか。僕の手を掴んだ時、少し優しい顔をした。ユキトではないとわかると、悲しい顔をした。気のせいだったかな、わからない。今日は色々なことが起きたからもう眠ろう。ひとまず眠ろう。僕は考える事が嫌になってすぐに眠りについた。知らない人の、しかもヤクザの人の家のベッドだと言うのに、どうしてだろうか、とても安心できた。たぶん、怖い人が家のドアを叩いて脅すって事がないからかな。随分とゆっくりと深く眠る事ができた。


朝、自然と目を覚ました。眩しいほどの朝日が部屋中を照らしていた。時計を見るとまだ朝の7時を少し過ぎた頃。僕に与えられた部屋はシングルベッドがひとつと眺めのいい窓があるだけ。誰の何のための部屋だったのかも、わからない。そういや、この着替えも。長谷部さんにとってはこのサイズ、かなり小さいだろうから長谷部さんのではない。そう考えた時、ひとりの名前が思い浮かんだ。ユキト。長谷部さんが呼んだ、男の名前。その人のための部屋だったのだろうか。その人は今、どこにいるんだろう。急に戻って来たりしないだろうか。そもそも僕がここを使っていいのだろうか。まぁ、いいから与えられてるんだろうけど。


そんなことを朝から考えながら、洗面所へ行って顔を洗い、用意されていた新しい歯ブラシで歯を磨く。髪を整えて洗面所を出た。長谷部さんはまだ起きていない。


それなら僕が朝飯でも作ろうかと、キッチンへ足を運んだ。キッチンは綺麗に整頓されていて、男のひとり暮らしとは思えないほど材料も器具も揃っていた。


あの人、あぁ見えて料理好きなんだ。昨日食べたパスタも美味かったし、昨日使った食器もきちんと洗われている。あの後きっちり後片付けしてから寝たんだろうな。


さて、料理上手な長谷部さんは、朝食はご飯のが良いのかパンのが良いのか、どっちが好きなんだろう。目の前の食パンと炊飯器を見ながら首を傾げて考えた。しかし答えは案外すぐに決まる。炊飯器の中を覗くが何もない。ご飯は炊かれてないみたい。それならパンでいいかと僕は食パンを手に取った。コーヒーもいれておこうか。少しだけ舞い上がっているけど、飯を作ることは少しだけ怖くもあった。あのクソみたいな父親は、僕の作った飯をよくマズイと言って僕に投げつけたことがあった。たぶん母の味と違うから。母に逃げられて、惨めな父。僕に当たって気が晴れたろうか。そんな事があったせいで、僕は人に飯を作るのが少しだけ抵抗感があるのも事実。


しかし、長谷部さんにはずっと借りばかりを作るのは気が引けた。いや、僕は僕で売られたようなものだから気が引けるのは可笑しな話かもしれないけれど。でも僕の待遇はそれほど悪くはなく、むしろ良いくらいだから、出来ることはしたい、そう思うのは当然だろうと僕は思った。


それに飯が本当に不味いなら作らないが、そうじゃない、はずである。辰也は僕の作った弁当を美味いと言ったことがあったし、僕はバカ舌じゃないと思うし。誰かに何かをしてあげるのは嫌いじゃない。けれど今ここで長谷部さんに朝食を作って、その飯を僕に投げつけられたら僕はもう一生他人に飯は作らないだろう。


そんな事を考えながらスクランブルエッグを作り、食パンにバターを塗ってトーストする。ベーコンをカリカリになるまで焼いて、コーヒーの豆を挽き、紙のフィルターの上に置く。長谷部さんが来るまでの間でサラダを作り、コーヒーに湯を注ぐのを待っていた。長谷部さんは美味いと言ってくれるのだろうか。少しして、「…何してんの?」 と眠そうな長谷部さんが入ってきた。



「朝飯、作ってます」



「なんで?」



「…お腹すいたので。キッチン借りてます」



長谷部さんはテーブルに用意されていた二人分の朝食を見て、少しだけ訝しげな顔をする。



「俺の分も?」



「はい。コーヒーは今淹れますね、…あの、もう食べますか? できましたけど」



「あぁ」



そう返事をした長谷部さんは、少しだけ柔らかな笑みを浮かべたような気がした。本当に一瞬の事だったから、僕の見間違いかもしれないが、長谷部さんは口角を少しだけ上げて優しく返事をしてくれたようだった。


ダイニングキッチンで向かい合って座り、長谷部さんにコーヒーを差し出す。長谷部さんは何も言わず、そのコーヒーをずずっと飲み、手にしていた新聞を読んだ。長谷部さんは少しだけ新聞に目を通し、トーストを手にしながら新聞から目を離して俺を見た。



「ちゃんとした朝食だな」



「どれも簡単ですけど」



「料理はしてたのか」



「母がいなかったので、ある程度は」



トーストを齧ると長谷部さんは笑った。優しい笑みだった。あぁ、よかった、トーストを投げつけられなくて。

この人はやっぱり悪い人じゃないんだろうな。



「バター塗ってるのか。これくらいが丁度良いな」



「長谷部さん、」



「ん?」



「料理好きなんですか?」



「あぁ、まぁ嫌いじゃないかな? 俺も昔っからひとりだからね、料理は自然とやるようになったかな」



「そう、なんですね」



一緒に朝食を食べるというのは普通のことだろうか。なんだかとても胸がわくわくするような、幸せ、なような。とても変な感じがする。なんでヤクザに拉致られて幸せ感じてんだろう。人生に何一つ期待はしていなかったが、今は少しだけこの暮らしに期待を寄せてしまっている。目の前の人は僕に体を売らせるのにな。なんでだろ。



「食べ終わったらお前ん家行くぞ」



長谷部さんはそう言うとサラダを平らげる。



「あ、はい…」



「10時半に迎えが来る、それまでに支度しておけよ」



「はい」



会話はそれだけ。あとは黙々と食べ、長谷部さんは僕を見ようともしなかった。ずっと新聞を読んでいた。食べ終えると僕は皿を片付け、また長谷部さんと向かい合うように座る。長谷部さんはコーヒーを片手にまだ新聞を読んでいた。ヤクザも新聞を読み込んだりするんだ。そう頭の片隅で考えながら長谷部さんを飽きもせず見ている。長谷部さんはようやく新聞も読み終えると、新聞を畳んで僕を見た。



「家政婦みたいだな」



「色々世話になるので、これくらいの事はやりますよ」



「お前わかってねぇなぁ」



長谷部さんはタバコに火を点けるとそう鼻で笑った。



「何をですか」



「お前は売りもんだ、何を勘違いしてるか知らないが、明日、お前は体を売るんだ。つまり、ヤりたくもない相手とヤりまくって、ビデオに撮られて、裏で出回るんだぞ。それを斡旋してんのが俺だ。優しいおじさん、なんて思われちゃ困るな」



そりゃそうだ。そんな事はわかってる。僕は「はい」と頷いた。



「でも、こんなとこに住めるだけで十分ですよ。ボロアパートよりマシです。風呂も綺麗だし、温かいお湯も出るし、電気もつくし、ちゃんとした飯も食える」



そう返事をすると長谷部さんはケタケタと犬歯を剥き出して笑った。切れ長の細い目をさらに細めて、目尻にシワを寄せて笑う。



「そうか。それだけで簡単に脱いでくれんなら有り難いな」



「僕みたいな人、他にもたくさんいたんですか? 昨日のビデオの青年とか」



僕が首を傾げると長谷部さんはいいやと答えた。



「たくさんはいない。ある程度見た目のいいヤツじゃないとビデオ映えはしないからな。昨日の、ユキトって男も売れると踏んだからビデオに出しただけで、金にならない容姿ならビデオには出してないな」



ユキト。あの青年がユキトっていうんだ。へぇ。そうか。そうなんだ。どういう関係だったんだろう。



「ユキトさんも一緒に住んでたんですね?」



「ん? あぁ、そうだな」



「借金がチャラになって消えたんでしたっけ?」



「そうだな」



「ユキトさんってどんな人だったんですか?」



次から次へと質問をすると、長谷部さんは嫌気がさしたように眉を顰めた。



「どうしてそんなに気になる? 自分と似てるからか?」



「あなたが昨日、僕と彼を間違えたからです」



そう言うと長谷部さんはすっかり黙ってしまった。少し間を置いて、はぁとあからさまなため息を吐く。



「お前には関係のない話しだ。俺は準備する。半になったら出るからそれまでに支度を済ませておけ」



長谷部さんはそう言うと部屋を出て行ってしまった。パタンと閉まったドアを見ながら、僕は片眉を上げる。長谷部さんにも愛情ってものがあるらしい。それはきっとユキトって人に向けられてたのだろう。少し動揺してたよな。未練とかあるのかな。


部屋に戻って着替え、電源の切れた携帯をポケットに突っ込んで、またリビングへと移動した。昨日見たビデオが脳裏に焼き付いている。大きな画面いっぱいに、あの青年がよがる姿が映し出されていた。僕はまたそのビデオを再生した。なんでこんなの見てんだろ?



『あっ…やっ…ちょっと…』



『もっと泣け、オラァッ』



こんなのやっぱりレイプじゃないか。こんな表情でよがる人と長谷部さんか。僕には到底理解のできない世界かもしれないな。結局、そのビデオを見ていて時間は過ぎていった。半になって玄関に行く。長谷部さんは黒のダブルのスーツを着ていた。髪を後ろで撫でつけ、冷たい瞳で僕を見下ろした。



「さっさと行け」



急かされて僕は玄関を出る。エレベーターに乗って1階まで降りると昨日の高級車が停まっていた。後部座席に僕たちは乗り込み、ボロアパートへと向かう。その間、長谷部さんは何も話さなかった。何を考えているのか、僕には全くわからない。


アパートに着くと僕は自分の支度をした。携帯の充電器、制服、学校の教科書、好きな本を数冊、着替え、それだけ。あとは何もない。その間、長谷部さんは土足で部屋中を歩きまわった。



「きったねぇ家だな」



そう吐いて、シンクに吸っていたタバコを捨てた。



「この家に父親が戻ってくると思うか?」



「戻らないと思います」



「どうして」



「ヤクザがいる場所にわざわざ帰ってくるような律儀な人じゃありません。借金を子供に押し付けるような人です。戻ってきやしないでしょう。何処かで野垂れ死んでる可能性だってありますし」



僕は荷物を車に運んだ。長谷部さんは僕の顔を少しだけ見ると、「ひでぇ父親だったんだな」そう呟いて車に乗り込んだ。



「どちらまで行きますか?」



運転手が訊ねる。



「一旦、家に戻ってくれ。仕事になったら電話する」



「わかりました」



長谷部さんは冷たい目をした人だけど、たぶん、優しくて情に脆いのかもしれない。だから僕なんかを側に置いて世話を焼いてる。僕は長谷部さんの事を知りたかったけれど、移動中、長谷部さんは口を閉じ、僕を見ようともしない。興味が皆無といったところだ。


マンションに着くと運転手のお兄さんが僕の荷物を運んでくれた。長谷部さんと何か話してから出て行った。長谷部さんはソファに座ると、立ち尽くしていた僕をただじっと見ていた。そして見たあと口を開く。



「脱げ」



僕は突然、そう言われて驚いた。長谷部さんの目は笑っていない。いつもの怖い顔した長谷部さんだ。長谷部さんの前で脱ぐ? そしたら背中を見られるんだろうな。それは嫌だな。すごく、嫌だ。でも僕に断る権利なんて無いんだろう。



「俺が優しいおじさんじゃない、ってのはわかってんだろ? 仕事にならねぇからさっさと脱げ」



僕は言われるがまま服を脱いだ。パーカーを脱ぎ、Tシャツを脱ぐ。ベルトに手をかけて外し、ボタンを外し、ジッパーを下ろす。その動作をすべて、じっくり見られる。黒のボクサーパンツ一枚だけになって手を止めると、「全部脱げ」と急かされるように言われる。僕はため息をつきながらパンツも脱いで、裸を長谷部さんに晒した。


気まずくて早く服を着たくて、視線を逸らした。長谷部さんは「背中を見せろ」と僕に命じる。背中を見せるのは特に嫌だった。理由はとても簡単なこと。長谷部さんは何気なくタバコに火を点けてふかしている。僕を近くに来させ、体中を見ているけれど、僕は火の点いたタバコの近くに裸で行くのが怖かった。早くこの時間が終われと願うばかり。


どうしようか。微かに手が震えてきた。現実を遠ざけたいから目を閉じて、現実逃避に必死になった。長谷部さんは大きなため息をついて、「もういい」と吐き捨てた。僕は怖くなってごくりと生唾を飲み込んだ。



「服を着ろ」



「…はい」



「タバコの痕、背中にいくつもある、そうだな?」



僕は背中を見せてないのになとTシャツを着ながら思った。



「はい」



肯定すると長谷部さんはタバコを灰皿に押し付け、やっぱりなとぽつりと呟いたのが聞こえた。俺を手招きすると隣に座らせ、「背中、見るぞ」と声を掛ける。こくりと頷くと、長谷部さんは僕のTシャツを捲って背中を確認したようだった。数秒でTシャツは下ろされ、服を着直せと命令される。そそくさと他の服も着直した。



「正面は何もなさそうだが背中はひどいな。タバコの痕にアザだらけの背中なんて萎えちまう。こんなんじゃ背中は映せない。あとは、男優がタバコを吸うシーンも無くなさないとならねぇよな」



長谷部さんの頭の中にはプロットがあったのかもしれない。そう独り言のように吐かれ、僕はすみません、と眉を顰めて謝った。根性焼き、というのだろう。僕の背中にはそれが無数にある。数え切れないほどたくさんあり、ひどく汚くて惨めな背中だった。だから僕は背中を人には見せたくないし、裸で火の点いたタバコを持つ人の近くには尚更行きたくない。



「アザはあと一週間くらいで消えると思います」



「タバコの痕は消えねぇよな」



「…そうですね」



「親父に?」



「はい」



「本当、碌な父親じゃなかったんだな。見た感じだと、最近のものから、かなり時間が経っているものまである。虐待は頻繁にやられてたのか? 言いたくないなら言わなくていいが」



それを聞いてどうするんだろうと思ったけど、別にこの人になら何でも話したかった。同情が欲しいだけかもしれない。同情の末、僕は体を売らなくても済むかもしれないから。そう飛躍した考えが浮かぶが、どうせ体が売るという手段は変わらないだろうと思った。



「酷くなったのは母が消えてからなので、7年くらい経つと思います」



長谷部さんは「なげぇな」と呟いた。僕が隣に腰を下ろすと、長谷部さんは僕の目をじっと見た。眼鏡越しに、鋭い目が僕を捕らえて逃げ場を無くした感じがした。どうしてこの人に見つめられると動けなくなるのかな。心臓をぎゅっと鷲掴みされたみたい。蛇に睨まれた蛙、とはこの事かな。



「あまり詮索するつもりはない。ただ、そうはいってもこっちはボランティアじゃねぇ。仕事だ。わかるな?」



「はい。僕がここにいられるのも仕事があるから。理解してます」



「理解してるなら聞くが、お前、本当にセックスの経験はないんだな?」



長谷部さんは何かを嗅ぎつけたのかな。僕の発する何かを鋭い嗅覚で嗅ぎつけてしまったのだろうな。僕は表情を変えずに淡々と答えた。



「はい。どうしてですか」



「いや、確認だ」



長谷部さんはまた大きなため息を吐くと、「参ったな」と舌打ちを鳴らして、そのまま立ち上がるとキッチンへ消えてしまった。しばらくして長谷部さんは湯気の立つ、見るからに熱そうなコーヒーを2つ持って戻ってくる。



「コーヒー飲めたか?」



「はい。でも、ブラックはちょっと…」



「そうだな、待ってろ」



長谷部さんはキッチンへ再び消えるとミルクの砂糖を持って戻って来た。



「好きなだけ入れろ」



「ありがとうございます」



僕は用意されたコーヒーにドバドバとミルクと砂糖をこれでもかというほど入れる。だってブラックコーヒーは美味しくないから。そんな僕を見ながら長谷部さんはブラックコーヒーを飲んでいる。



「お前、学校は好きか」



「学校、ですか。嫌いじゃないですよ。友達も少ないけどいますし」



「そうか」



長谷部さんは長谷部さんなりに僕に気を使ってくれているらしい。どうでもいいような会話を敢えてしようとしてくれてる、そんな気がした。



「その割にはビデオに出る事に対して、全然抵抗しないんだな。今時のガキってのは怖いね」



あなたのがよっぽど怖い、そう口をついて言いそうになったがその言葉は飲み込んだ。



「抵抗したら何か変わってましたか?」



「さぁな? 変わってたかもしれねぇな」



「そうなんですね。でも長谷部さんが提示した選択肢の中ではビデオが一番リスクが少ない気がしました。臓器を売るのは論外、死んでしまうから。男娼として体を売るのは不特定多数とヤるって事ですよね? 病気移されるリスクが出てくるかなと思いました。その点、裏ビデオは相手もプロ。だったら安心かなって。確かに顔出ますし、一生ついて回って隠す事は出来ない過去になるのでしょうが、それでも、3つの中では1番マシかなと思いました」



そう甘いミルクコーヒーを飲みながら言うと、長谷部さんは「ほう」と少し驚き、それから首を少し傾けて僕を見る。 



「ガキらしさってのが皆無だな。そこまで飄々としてるガキは初めて見たよ。文句言わずに脚開いてくれンなら、こっちとしては有難いが、なんだかな」



長谷部さんの冷たい顔が更に冷たく、眉間に深い溝が出来る。何を思ってくれてるのだろうか。何を考えてくれてるのだろうか。長谷部さんにとっては扱い易い売り物だと思うのだが、何か困らせるような事を言ったろうか。それともやっぱり、この人は何かに勘付いて言葉を掛けてくれているのだろうか。



「ねぇ、長谷部さん」



「なんだ」



「長谷部さんが僕くらいの歳の時は、たくさんセックスしていましたか?」



僕には性欲というものが欠けている。理由ははっきりしていた。その理由は記憶のずっと奥にとどめておきたいもので、思い出したくない記憶である事は間違いなかった。僕の背中にタバコを押し付けたあの人によって、僕の性体験は歪で、決して楽しいものじゃない。だからそれを僕はセックスとは呼ばない。長谷部さんは一瞬何かを考えたようだった。考えて、怪訝な顔をする。



「さぁな、どうだったろうか」



「僕は、本当にセックスの経験はないですよ。セックスって、誰かに愛されて、愛して、するもんなんでしょう? だとしたら経験ないです」



そこまで言うと長谷部さんはコーヒーを一口飲み、頭を書いてから口を開いた。



「お前の父親、本当の父親か? 血の繋がった、本当の」



「はい、そうだと思います。証明できるものはないですけど」



「……そうか」



「同情してます?」



「してほしいか?」



「同情されるならお金が欲しいですけど」



「どこかのドラマみたいなセリフだな」



長谷部さんはくくっと喉の奥で笑う。



「僕の借金は多額ですから」



「消えたクソみたいな父親のためにセックスして金を稼ぐ。お前の初体験はビデオで流されて色んな人に見られるってわけだ」



「男の初はウケませんか」



「いんや、世の中色んなヤツがいるからな」



「けど何も知らないですよ。感じ方も喘ぎ方も、もちろんやり方も、何もかも。もしかしたら不感症かもしれない」



「それは脅しか?」



長谷部さんの揶揄う声を聞いて、僕は首を横に張った。



「まさか、脅してなんかいませんよ」



「男とヤるのは怖くないのか」



「うーん、どうだろう。怖いって言ったらやめてくれるんですか?」



「脅してんな」



「脅してるかもしれません。…冗談です」



今度は僕が揶揄うように笑ってみせる。男とセックスをする、その事自体に抵抗があるわけではなかった。確かにあの歪な性体験のせいで誰かとまぐわう事自体あまり気分の良いものではないが。でも正直、興味が湧いた。それは目の前の男のせいで。



「セックスには興味あるんですよ。気持ち良くなってみたい。どんな感覚なのかは知りたい」



その綺麗な顔はどう焦るのだろう。熱い息を吐いたりするのかな。その体に触れたら、怒るかな。僕は表情には一切出さないし、口にも出さないが、淡々と長谷部さんとの行為を思い描いて口に出した。



「ふふふ、そうか。脳が溶けそうなくらい気持ちの良いものかもしれないな。お前もいつかそういう体験できると良いな?」



脳が溶けそう、か。良いなぁ、それ。



「長谷部さんって、優しいですよね」



「あ? 今のどこから優しさを感じたんだ」



「たぶん、長谷部さんは僕が知っている大人の中で一番優しいかもしれません」



「お前は賢そうに見えてだいぶバカなんだな。俺はきっとお前が知ってる大人の中で一番優しさから遠い世界にいて、一番汚い人間だと思うが」



「でも僕を殴ったりしない。タバコを押し付けたりも。僕に自分のを突っ込んで欲求を満たしたりもしない。それだけで長谷部さんは、僕の知ってる大人の中で一番優しい」



長谷部さんはふっと鼻で笑うと口を開く。



「必要に応じてはするかもしれないがな」



その冗談混じりの言葉に、僕の脈拍は落ち着きをなくして速くなった。心臓がドキリと焼けた感じがした。必要に応じては、僕に暴力を振るうかもしれないし、僕に自分のを突っ込むのか。あぁ、たぶん、長谷部さんはわかってるのだろうな。僕の父親が最低のクソ野郎で、僕に何をしてきたか。僕がどれだけ無惨だったか。どれだけ僕が世の中を酷いと思い、期待していなかったかを。



「そうなんだ」



でも長谷部さんは僕が慕ってることを良しとしてくれない。長谷部さんは僕が長谷部さんに心を開いて近寄ろうとしていることに気付いていた。だから、それ以上は違うと言うように、コーヒーを飲み終えると、そそくさとその場を立った。この人はやっぱり優しい人なんだろうな。長谷部さんは仕事に出るが家の中で好きにしてろと告げて、長谷部さんは出て行った。僕はこの広い家にひとりっきりになった。


ソファにごろんと横になってぼーっとする。まだ時間は12時前。何をしようか、何をして時間を潰そうか。とてつもなく暇である。することが皆無である。だからひとまずこの家の探索を始めた。リビングの隣の行ったことのない部屋に行ってみる。その部屋を開けた瞬間、お香のいい香りがした。たぶん長谷部さんの寝室だ。長谷部さんからはほんの微かにこの香りがする。甘くて少し爽やかさもある独特な心地のいい香りだ。長谷部さんの部屋は遮光カーテンで締め切られ、昼前の明るい時間なのに部屋は暗かった。だからカーテンを少し開けて光を入れる。他人の部屋はなんだか覗いてはいけない気がする。特に、長谷部さんの部屋は、見てはいけないものがたくさんありそうだ。けれど好奇心ってものには勝てなくて僕はその部屋をじっくりと見て回る事にした。


部屋はキングサイズのベッドがひとつと、机と椅子、レコードプレーヤーと数十枚の古そうなレコード、そして壁一面に本棚がずらっと並んでいて本がぎっしり詰め込まれていた。経済、経営、株関連の本なんかが多くて、ヤクザだってことを忘れてしまいそうになる。ヤクザも勉強しなきゃダメなのかな、と思ったのが正直なところ。その他にも小説の棚、画集の棚があった。犯罪や麻薬の専門書なんかもたくさんある。こういうのを見るとヤクザっぽいと思った。


本棚を見ればその人がわかると言うが、長谷部さんはきっと、かなり学のあるヤクザなのだろう。自ら他人に暴力を振るう姿は想像できないけど、自分の手を汚さずに暴力を振るう姿は容易に想像できた。しばらく本棚を眺め、経営についての本を一冊取って開いてみた。けれど難しくてよくわからなくて、数秒で読むのをやめた。


今度は画集を見てみる。画集なら字を読まなくても楽しめるからだ。西洋画、日本画、ジャンルや年代によって別れていた。それから海外の街の写真集もあったが、目を引いたのは入れ墨のデザインとその人達の写真集だった。開いてみるとそれはもう未知の世界で、一瞬にして心を奪われた。そうか、ヤクザは入れ墨を入れてるんだった。辰也の父さんも入れてるって言ってたな。辰也も入れるって言ってたよな。きっと長谷部さんの体にもあるのだろうな。どんな入れ墨なんだろう。どこに入っているのだろう。


写真に載っている人々は、体の広範囲に入れ墨を入れていた。龍とか、虎とか、麒麟とか、あとは怖い顔をした神様のような仏像のような、分からないものとか。どれも迫力があった。けれどどれもとても美しい。そこには現実の動物もいれば架空の動物もいた。それらが上手く調和されて描かれている。虎を入れている男の背中があった。なんとも美しくて心を惹かれる。その人は背中から、尻にかけて広く入れていた。長谷部さんの背中にもこんな大きな入れ墨が入っているのだろうか。見せて、と言ったら見せてくれるだろうか。そんなことを考えながら、入れ墨の画集を読み終える。僕はそこにある全ての本を読み漁る気持ちで、次から次へと画集や本を読んでは元に戻した。画集はほとんど読み終わり、本は簡単そうなものだけを選んで読んだ。


そうこうしてると日が暮れ始め、部屋の明かりをつけないと読めないほど暗くなる。明かりをつけえ長谷部さんのベッドの上で小説を読み進めた。その小説は、刑事とヤクザの話しだった。性根が腐ってる悪い刑事に振り回される可哀想なヤクザの話し。こういう小説読むんだな。ヤクザものの話しは好きなのかな。でも中盤になると僕は疲れてしまい、眠くなってしまった。少しだけ眠ろうとそのまま本を開いて、ふかふかの白いクッションに埋れて眠った。夢は見なかった。気付けば1時間ほど眠っていたらしかった。


部屋の時計を見ると、もう夕方の5時をまわっている。だいぶ長いこと長谷部さんの部屋にいるらしい。寝ている間に長谷部さんが帰宅しなくて良かった、と安堵しながら読んでいた小説をまた読み進める。それも読み終え、本を元の位置に戻す。長谷部さんは、何時頃に帰ってくるのかな? もうそろそろ帰ってくるのかな? 何事もなかったようにしないとな、そう思いながら部屋の中を見回し、最初に入った時と全ての位置が同じかどうかを確認する。全てが元の位置にあると確信し、リビングに戻ろうとした時、机の上にある一本のビデオが気になった。透明なケースに入れられ、さらに真っ赤なリボンがついてるそれは、この部屋の中では異様だった。なのに入ってきた時には全く気付かなかった。長谷部さんの部屋にあるリボンのついたビデオ、どう考えても違和感しかない。


僕はそれを手に取ってまじまじと眺めてみた。透明なケース、リボン、黒いビデオテープ、テープの背には「虎太郎へ」と、黒いペンで雑に書かれていた。ケースからテープを取り出してみると、ケースの中にはメッセージカードが入っていた。そこには、「虎太郎、誕生日おめでとう。もうお前も37歳なんだな。悪友20周年記念に俺からプレゼントだ。大切にしておくれ 義昭」と書かれていた。どうやらこれは義昭という人からのプレゼントらしい。悪友20周年記念、ってことは、長谷部さんが17歳の時からの付き合いなのだろう。てか、長谷部さん37歳なんだ。もっと若いかと思ったな。


でも、なんだってプレゼントがビデオなんだろう? 文面から読み取ればふたりの友情の記録のような感じがする。だとしたら一緒に行った旅行とか、同級生なら学校時代のビデオだろうか? 思い出に浸ろうぜ、みたいな感じかな。何にせよ、僕の知らない長谷部さんが映っているのには違いないだろう。見たいな。すごく、見たい。若い頃の長谷部さんはきっと、うんと綺麗で男前だったんだろうから。背も高く、手足が長く、胸板も厚く、あの涼しげな顔で少しだけ笑っていたのかな。


僕は一度時計を確認し、まだ長谷部さんは帰ってこないだろうと予想した。ビデオを持ってリビングに戻り、長谷部さんの若い頃を見るべく、ビデオをセットして再生ボタンを押す。はじめは砂嵐が数秒続いた。そのあとで男の声が聞こえた。



「…義昭さん、義昭さんってば」



長谷部さんの声だ。でも画面は真っ暗で何も見えない。



「ちょっと待ってね、これ録画されてんの? あーされてるわ、よし、オッケ!」



画面が明るくなると長谷部さんと知らない男の人がふたりいた。若い頃の長谷部さんは、今よりも黒髪は短くて眼鏡はかけておらず、爽やかな好青年って感じがした。でもその爽やかな雰囲気と裏腹、えらく妖艶で美しい、そう思ってしまうのは、甘い顔を少し苦しそうに歪めていたからか、それともただ単に、しなやかについた筋肉からか。いや、両方かな。この人が僕と同じ学校にいたら、僕の青春は彼に捧げていたような気がする。いいなぁ。青春、送ってたかもしれないな。そんな長谷部さんは裸で手術台のようなベッドにうつ伏せで寝かされていた。


マスクをした男が長谷部さんの向こう側、画面奥側にいる。褐色の肌と切れ長の瞳、髪は短く、口元はマスクで見えないが、端正な顔をした人だ。そして手前にもひとり。スーツを着た少し怖そうなお兄さんだった。強面のその人は、黒髪をきっちり後ろで撫で付けていて、いかにもヤクザっぽい雰囲気がある。ガタイがよくて、つり眉と対象的な垂れた目、その瞳の色は僕みたいに薄い茶色だった。



「じゃぁこれから、虎太郎の背中に入れ墨を彫っていきまーす。コタちゃん、今、どんな感じ?」



強面の人が興奮気味にそう長谷部さんに訊ねる。



「平気です、と言えば嘘になります。正直、めちゃくちゃ怖いですよ。…痛いんですよね?」



不安そうに少し表情を強張らせた長谷部さんに、手前にいる強面は意地悪な笑みを浮かべている。



「痛いよぉー、そりゃぁもう。泣いちゃうほどさ」



「こら、義昭、虎太郎を脅すな。大丈夫だ、呼吸を合わせろ。そうすればそんなに痛くない」



そう慰めた人は彫師だろう。彼は長谷部さんの頭をポンポンと叩いて優しく笑っている。どうやらこれから長谷部さんの背中に入れ墨を入れるらしい。長谷部さんはハタチくらいだろうか。とても幼く見える。



「これで背中の根性焼や切傷ともおさらばだな。嬉しいだろ?」



強面がそう長谷部さんに言った。根性焼? 切傷? 今、確かにそう言ったなと、僕は映像に集中した。だってもしかしたら、そう思ってしまう。



「そうっすね、あの人にはさんざんな目に遭わされましたから」



「あはは、世の中って惨いよなぁ」



義昭という人はそう言ってしばらく笑うと、目を細めて長谷部さんを見下ろしている。



「本当、可哀想」



そう吐き捨てるように冷たく言葉を呟いた義昭という人が、僕はとても嫌いになった。



「おい、もうそろそろ始めるぞ」

 


そう彫師が声をかけて長谷部さんの背中に手を置いた。



「…お、お願いします」



長谷部さんの顔は強張っている。



「そんなに強張るな。義昭、話し相手になって、気を紛らわせてやれよ。その為にお前はいるんだろ。あ、でも虎太郎をおちょくるような事はするなよ」



「しねぇよ。俺がいつそういう事したってんだよ?」



「さーて、はじめるぞー」



「無視かよ!」



彫り師の真剣な目、長谷部さんの強張った顔、それを見下ろす義昭という人は、じとっとした目つきで長谷部さんの表情を見ていた。それは長谷部さんを心配をしているとか、励まそうとか、そういうようには見えなかった。むしろ、奥歯を噛み締め、痛みに対して苦悶の表情を浮かべる長谷部さんを見下ろして楽しんでいる。とても満足そうに目を細めていた。僕は苛立った。この義昭という男は、長谷部さんにとって良くない人だと思った。



「短く息を吐きな、楽になる。針の動きに合わせるんだ。今日は筋彫りだけだが、骨の上は痛みが強い。手彫りで時間が掛かるから、痛い時はいつでも言えよ。変に意地は張るな」



「はい…」



半分泣きそうな長谷部さんを見ていた義昭という男は、「コタちゃん、痛い?」 と首を傾げた。



「痛いです…でも、大丈夫です」



「あの人との関係を終わらせることができたんだ。嬉しいでしょ?」



「はい…」



「コタちゃんは強いね。俺がお前ならきっと死んでるわ。父親に掘られるなんて、考えただけでも死にたくなるよ」



こいつ。やはり最低な人間だ。ビデオを回してるのに、そういう自分の隠したい事を触れて欲しくない事を、わざと言ったのだ。まるで小馬鹿にして見下すみたいに。



「ヨシ、やめろ。お前は虎太郎の側に付き添ってやりたいって頭下げるから、ここに置いてやってんだぞ。虎太郎を刺激するな」



そう怪訝な顔をする彫師に長谷部さんは、「凛さん、大丈夫です」 と困ったように笑っている。



「虎太郎見てるとすっげーいじめたくなるんだよねー。なんでだろ。そういう顔されっと、すっげーいじめたくなるんだよ。…ってこれ、ビデオまわってんだった」



「お前のドS発言は永久保存版だな」



「ごめん、コタちゃん。あとで好きな本買ってあげるから許して」



「別に気にしてないです。平気です」



けれど、そうか、そうだね。やっぱり長谷部さんも経験してたんだ。だからあの時、参ったなと呟いたんだ。しばらくすると長谷部さんの施術の映像は終わった。それから数秒後また砂嵐があり、今度は入れ墨が完成した映像が流れる。裸の長谷部さんは、背中に大きな龍と鳳凰を飼っていた。大きな龍は力強く、目がギョロリと剥いている。鳳凰は華麗で美しく、長い尾は体のラインをなぞるように、長谷部さんの右の骨盤から性器の上まで描かれていた。豪快で美しいデザインだった。もし僕が頼んだら見せてくれるだろうか。そしてまた映像は終わる。これだけかとテープを取り出そうとリモコンを手にした瞬間、喘ぎ声にも呻き声にも似た声が響いた。複数の男がひとりの男を輪姦してる。これは作り物ではない。画面いっぱいに本物のレイプ映像が流れた。心臓が驚きと動揺で跳ね上がる。僕の目はその過激な映像に釘付けになる。



「やっ…あっ…あっ…あぁっ、…っ、義昭さん…! 義昭さ、ん… ごめん、なさい…!」



泣く声が長谷部さんの声だった。けれど長谷部さんの姿は見えないほど、まわりに下品な見た目の怖い男達が群がっていた。義昭さん、と呼ばれる先程の男は画面上にはいなくて、カメラの後ろでこれを見ていたのだと思うと、僕は本当にそいつの首を絞めてやりたくなった。しばらくすると男達は捌けていき、体中精液まみれの長谷部さんがぐったり横になっていた。顔は何発も殴られ、両目共にが腫れ上がり、頬は色を変え、口の端を切って血を流している。体もアザだらけで胸や腕、太ももの内側などにはナイフか何かで切られたような切傷があり、血がタラタラと流れている。微かに息をしている長谷部さんは長い手足を投げ出していた。その綺麗な体には、誰のかもわからない精液をぶちまけられて、それを指示したのはきっと、義昭というやつなんだろう。



「店の売り上げをちょろまかしちゃぁ、ダメよ、コタちゃん。薬もちょろまかしちゃぁ、ダメ。バレてこうなる事、わかってたんでしょうよ。 頭良いんだからさ。少しは考えないとぉ、ね? 虎太郎。ひとまず土下座して、謝ろうか」



「…すみ、まぜんでした」



げほげほと咳き込む長谷部さんは、ゆっくり体を起こし、カメラに向かって土下座した。僕は今、長谷部さんの隠したいであろう過去を見てしまっている。長谷部さんの酷い過去をじっと。



「汚ねぇなぁ、虎太郎。こんなんじゃぁ売り物にもならねぇよな」



義昭さんはカメラの奥から出てくると土下座する長谷部さんの前に立ち、前髪を鷲掴み、無理に顔を上げさせた。にんまりと笑うと、長谷部さんの顔面を何の躊躇いもなく蹴り上げた。そのまま横に倒れた長谷部さんは脳震盪を起こしたのだろう、全く起き上がれず、義昭さんに暴言を吐かれながら、また髪を乱暴に掴まれて無理矢理に体を起こそうとしていた。見るも無惨だ。



「コタちゃん、しゃぶって」



そんな長谷部さんに義昭というやつは残酷だった。僕は苦しくなった。でも見るのをやめられなかった。何故かな。こんな長谷部さん、見たくないはずなのに。はず、なのに。死にそうに苦しそうな長谷部さんは、ゆっくりとそいつのトラウザーに手を掛けるとベルトを外し、ジッパーを下ろして、何の躊躇いもなくそれを口に含んだ。義昭という非情な男の手は長谷部さんの後頭部に回されると、離れないように、そして喉奥にまで突っ込む為に、血でギトつく髪に指を絡めて無理に奥深くまで突っ込んだ。長谷部さんは嘔吐き、涙と鼻水を流し、もう顔はぐずぐずだった。何度も嗚咽してはその度に涙が溢れていた。義昭さんは長谷部さんの喉奥にありったけ出すと、長谷部さんは苦しそうにまた咳き込みながらその場に脱力する。



「きったねぇなぁ、……ったく。おい、これ、好きにしていいよ。俺は出掛けるから、あと宜しくね。あ、これもし死んだら連絡して」



義昭さんのその言葉にまた数人の男が群がった。そのチンピラ共の背中にも入れ墨がある。卑猥な音と、長谷部さんの苦痛に呻く声。太ももから流れる血と、溢れる精液と。よがるように動く龍と鳳凰は、チンピラヤクザに無惨に食われ延々と精液をぶちまけられた。そんな映像が1時間弱も続いた。長谷部さんは何度か気を失い、その度に水をかけられては起こされ、ひたすらにヤられる。いっそのこと殺してほしいと思っていたかもしれない。


ビデオは終わり、巻き戻してケースに戻した。長谷部さんの部屋に戻り、元あったようにテーブルにそれを置いた。長谷部さん、あれはどう見ても暴力だ。レイプだよね。気持ち良くなんてないよね? いや、違うのかな。だってあんな顔、しちゃうんだ。 あんな風に、しゃぶっちゃうんだ。あんなに澄まして冷徹そうな人があんな顔してイクんだ。 へぇ。そうなんだ。


僕はどうやら完全におかしくなってしまったかもしれない。重い頭を傾けて息を吐いた。長谷部さんとヤりたいな。頭はもうそれでいっぱいだった。


けれど、長谷部さんはヤらせてくれないだろう。だから僕は妄想する。義昭という人だったら、長谷部さんとどんな風に交わるのだろうかと。ヤりながら殺しちゃうかもしれない。首を絞めて、苦しんでる顔を見下ろしながら腰を振っていたら殺してしまうんだ。いいなぁ、それ。この妄想、けっこうクるね。


けれど僕は借金を背負ったただのガキで、長谷部さんは僕の命を左右するヤクザで、それより何より、大人で体格もいいから僕のが弱い立場だというのは明確だった。あーでも、どうだろ。僕自身はけっして小さな方じゃないから、押し倒したりできないだろうか。無理かな。それはさすがに無理か。


その時、ガチャッと玄関のドアが開く音がした。長谷部さんが帰って来た。僕は何もなかったかのようにテレビをつけてソファに座る。部屋のドアが開いて、疲れきった無愛想な顔の長谷部さんが入ってきた。



「おかえりなさい」



僕が見上げてそう言うと長谷部さんはスーツのネクタイを解きながら「何か飯は食ったか」と訊ねる。僕が首を横に張ると、長谷部さんは怪訝な顔をした。



「何も?」



食べることをすっかり忘れていた。



「はい、何も」



「食べ盛りのガキが何も食べてないのか」



「もともと少食だから」



長谷部さんは不思議そうに眉間にシワを寄せ、「ちょっと待ってろ」とだけ言って部屋を出た。部屋に戻って着替えてるらしい。棚の開け閉めする音がして、その後すぐにキッチンで何かを切る音、そして炒める音が聞こえた。僕はテレビを消してキッチンへと足を運ぶ。



「まだできないぞ」



「うん、わかってます」



長谷部さんの今日の部屋着は白いTシャツと大きめのスウェットパンツだった。こんなラフな格好でも体格が良いからもちろん様になる。得だよなぁ。僕はそんな事を考えながら、ただじっと目の前の長谷部さんを見ていた。



「なに、作ってるんですか」



長谷部さんと話したくてそう聞くと、長谷部さんは手際良く料理をしながら僕を見ずに口だけを開いた。



「生姜焼きだ。時間がないから適当だけどな」



適当でもなんでも僕に料理を作ってくれるというだけでこの人は良い人。ヤクザだろうがなんだろうが僕にとっては優しい人。



「…良い匂い」



「肉は好きか?」



「うん、大好き」



「そういうところはガキくせぇな」



だってガキですから。長谷部さんは、ふっと笑うと皿に大盛りの生姜焼きをのせ、冷蔵庫にあったサラダを小皿に盛った。ご飯を盛るように僕に指示を出し、僕は白飯を二人分盛って、冷たいお茶をコップに注いで椅子に座った。長谷部さんと向かい合って座るのが僕らの食卓。



「いただきます」



僕が食べる姿を長谷部さんはじっと見ていた。あまりにもじっくり見られるものだから僕は少し恥ずかしくなった。何をそんなに見る事があるのだろう。



「食べないんですか?」



僕が痺れを切らしてそう聞くと、「ん? あぁ」 と少し表情を緩めながら箸を取った。こんな飄々と弱みなんかなさそうな人が、あんな風によがって泣くんだもんなぁ。僕はこの人を見ながらそんな事を考えていた。いいな。僕の初めてはこの人がいい。


肉を頬張りながら、僕の頭の中はこの人でいっぱいだった。初めてに固執するわけじゃないけど、初はこの人がいい。ヤらせてくれないだろうか。長谷部さんが17歳だったら、同等だったら、僕はきっとこの人に恋していたに違いない。悔しいな。すごく悔しい。どうしてこうも立場が違うのかな。せめて僕が大人だったら、僕を色恋の相手として見る可能性ってのはある…気がするのに。とはいえ長谷部さんって男が好きだと決まったわけじゃないんだよな。まぁ、いいか、そこは。そもそもの問題なわけだし。僕は肉を飲み込みながら、目の前の人を手に入れる方法の無さに嫌気をさしていた。



「美味しいですね」



「そりゃぁ良かった」



「ねぇ、長谷部さん」



「ん?」



「長谷部さんって、いくつ?」



「37」



「誕生日は?」



でもなんでかな。僕はこの人と話していると、少し意地悪をしたくなる。



「先月だが」



怪訝な顔をしながら長谷部さんはそう言って外国物の瓶ビールを開けて、グラスに注いでいる。僕が何を言いたいのか分からないのだろう。僕はこの人の困った顔を見たくなる。ビデオのせいかな? そうだろうな。



「そうだったんですね。おめでとうございます」



「なんだ気持ち悪い」



「誕生日プレゼントとか貰いました?」



長谷部さんの表情が少し変わった。貰ったよね? 貰ったはずだ。義昭さんから。



「貰うわけないだろ」



けれど長谷部さんはそう嘘をついた。



「37のヤクザに誕生日プレゼントなんて可愛らしいものあげるやついねぇよ」



可愛らしいもの貰ってるのにな。過激な内容の素晴らしいプレゼントだったはずだよ、長谷部さん。



「いないですかね? 長谷部さんって友達多そうだから」



ねぇ、長谷川さん。長谷部さんにはプレゼントを贈ってくれる友達いるでしょ? 僕は無害な顔をして長谷部さんを困らせようと頭を回転させている。長谷部さんは僕のこと哀れなガキだと思っているのだろうから、父親の借金のカタに体売った可哀想なガキだと。だとしたら、哀れむ必要はないかもしれないね。だって僕は人生に嘆くより、今はあなたをどう手に入れようか、食らおうか、困らせようか、そんな事ばかり考えているのだから。



「友達が多そうなんて、どこをどう見たらそう思えるんだ」



長谷部さんはいつも通り面倒くさそうに答えるが、その表情は少し回答に困ったと言わんばかりである。まるで子供に難しい質問をされた親のようだ。



「友達たくさんいるじゃないですか」



「だから何を言って…」



「ご馳走様、とても美味しかったです。お風呂、洗ってきます」



僕はそう言って風呂場へ逃げた。何か言いそうだった長谷部さんを横目に、僕は敢えて話しを遮って長谷部さんの前から消えた。風呂を洗って湯を溜める。鏡に映った自分はあのアパートにいた時とは比べものにならないくらい生き生きしてるように見えた。



「おい」



「はい」



その時、突然低い声で呼ばれてビックリした。長谷部さんは風呂場のドアに寄りかかると腕を組みながら、いつも以上に怖い顔をしていた。



「お前、部屋に入ったか?」



あちゃー。なぜ、バレたのかな。全てきちんと元に戻したはずだけど。



「…ごめんなさい、リビングの隣の部屋、長谷部さんの部屋ですよね。本がたくさんあるから、暇つぶしに読んでました」



本当はビデオも見たんだけどね。ビデオの方が興味あるんだけどね。僕はそう思うだけで、言葉や表情では害のない弱そうな高校生を演じている。



「本、読んでたのか?」



「はい、すみません」



「いや、そうか、…なら良いんだ。まぁ、お前が好きそうなものなんてないと思うが、読みたきゃ勝手に読んでくれていい。けどあまり俺の部屋を物色したりはするなよ」



物色、ね。どうして嫌なのかな? 困ったものがでてきちゃうから、だよね? 僕は浴室から出ながら、「はい、わかりました」と素直に返事をしてみせた。



「長谷部さん、僕ね、画集…入れ墨のデザイン画と写真の本、すごく素敵だなと思いました」



「あぁ、あれか。興味あるのか? 入れ墨に」



「うん、特に鳳凰が綺麗でした」



あなたの体にも入ってるでしょ? 長谷部さん。僕は脱衣所の洗面台に寄りかかって長谷部さんを見上げた。



「鳳凰が気に入ったのか?」



「はい。実際入れてる人とか見たことありますか? 見てみたいなぁ、でも鳳凰を入れてる人ってあまり聞いたことないですよね」



僕はあなたの鳳凰が見たいんだよ。あなたの股間にまで尾を垂らした美しい鳳凰を。長谷部さんは眼鏡をくいっと上げると、「見せてやろうか?」そう言って僕を見下ろした。僕の心臓はとても素直だった。長谷部さんのその言葉に興奮しすぎて痛くなるほどに鼓動を速める。



「見たいです」



嬉しくて頷くと長谷部さんは、「付いて来い」とだけ言って脱衣所を出る。僕の心は躍っている。長谷部さんが僕のために脱いでくれる。脱いで背中の龍と鳳凰を見せてくれるんだ。きっと本物は想像以上に美しいんだろうな。長谷部さんの後を付いて行くと長谷部さんは寝室へと僕を招いた。間接照明だけのその部屋は薄暗く、僕はごくりと生唾を飲み込んだ。長谷部さんは机の引き出しから一枚の写真を取り出した。その予想外の行動に、まさかと言葉を失くした。僕の期待を見事に裏切った長谷部さんは「この鳳凰がこの世の中で一番美しい」、そう言って僕にその写真を見せた。写真には鳳凰を背負った男の背中があった。逞ましい筋肉質な背中に、自由に羽ばたく鳳凰が一羽。羽の細部までしっかり描かれたその鳳凰は華麗さと妖艶な不思議な魅力があった。でも僕が見たいのはそれじゃない。



「…綺麗ですね」



あなたの背中に入ってる事は知っているのに。あぁ、見せてはくれないのだろうか。僕は写真を手にとって見惚れるふりをした。長谷部さんは嬉しそうに「世界一の鳳凰だ」と微笑んでいる。一体これは誰なんだ。知らないし、どうでも良いよと口をついて言葉を吐き出しそうになった。



「昔、鳳凰は女の入れ墨だの、ヤクザの背中に背負うもんじゃないだの言うヤツがいたんだけどなぁ、この人の背中を見てから誰も何も言わなくなったんだ。美しくて華麗で、天高く昇る姿は龍と同様、もしくは龍よりも価値があると思ってる」



長谷部さんがそんな風に楽しそうに話してくれるとは思ってもみなくて、僕は「そう、なんですね」と頷く事しかできなかった。



「長谷部さん、」



だから僕は、鳳凰に憧れを抱いてる子供を演じた。



「なんだ?」



「やっぱり素敵ですね、いいなぁ、…生で見てみたいなぁ、きっとすっごい美しいんだろうなぁ。ねぇ、長谷部さんのまわりにはいませんか? 入れてる人」



僕はあなたの背中に入ってることを知ってる。そう心の中で連呼しながら長谷部さんを見上げた。長谷部さんは眉間にシワを寄せて少し迷いのある顔を見せた後、何かを決心したように口を開いた。



「鳳凰単体じゃなく龍と一緒で良けりゃぁ、俺の背中に入ってる。見るか?」



ようやく僕の待っていた言葉が聞けた。僕は心の中で大きくガッツポーズを決めた。もちろんと頷くと、長谷部さんはTシャツを脱ぎ、広くて彫刻のように整った筋肉質で完璧な背中を露わにした。間接照明の薄暗さで、背中の筋肉や骨によって陰影ができ、鳳凰の一部はその影に飲まれた。僕はただただ、うっとりとその背中を眺めた。


綺麗な引き締まった身体。広い背中に優雅に泳ぐ龍と、華麗に羽ばたく鳳凰。なんて、美しいのだろう。なんて、豪快なのだろう。長谷部さんは僕に背中を向けてベッドに座る。男らしくどんと座って、「見たがっていた鳳凰はどうだ?」と唇の端を上げた。ちょっと嬉しそうだなと僕はなんだか幸せな気持ちになる。この人の愛らしい笑みを見られるなんて、僕は今とても幸せだ。



「美しいですね、本当に華麗で、なんかもう、本当に…かっこいい」



入れ墨が、ではなくあなたが、だと言うことをこの人は気付かない。



「あの、鳳凰の尾ってどこまで続いてるんですか?」



僕は長谷部さんの背中を見下ろしながら、そうイタズラに聞いた。長谷部さんの眉根がぐっと寄り、僕は何も知らないフリをした。



「鳳凰の尾が好きなんです。尾のひとつひとつの曲線とか、繊細な毛先とか、美しいじゃないですか? でも、長谷部さんの鳳凰の尾、腰から見えなくなってるでしょう? だから、…どこかなぁ、って」



そう指差して首を傾げて尋ねると、長谷部さんはため息をついて僕の方へ体の正面を向けた。



「股間に入ってる。長い尾は、腰から骨盤をなぞって股間の上に、性器に向かって描かれてる。つまり下腹部やその周りにある」



「…見たい」



僕はじっと長谷部さんの目を見た。長谷部さんは明らかに困ったような顔をしたが、視線を外して、何も言わずスウェットパンツをギリギリまで下ろした。均等につき、盛り上がる腸腰筋にそって鳳凰の尾は垂れ下がる。その隆起はひどく僕を魅了した。長谷部さんには、下の毛がないらしい。だから相当、ギリギリまで、本当に局部だけが隠されている。あるものがない、その代わりに妖艶な鳳凰の尾がある。僕は今まで誰にも惹かれた事はなかったのに、今、この瞬間、僕は完全にこの人に落ちたような気がした。心臓がうるさい。長谷部さんに触れたい。



「満足か?」



僕はすっかり長谷部さんの体に見入っていた。あまりにも美しいから、僕は長谷部さんの声なんか全く聞こえてなどいなくて、ただじっとそれを見ていた。僕もいつか龍と鳳凰の入れ墨を入れたい。絶対に入れたい。この人みたいに背中に堂々と大きく背負いたい。



「おい」



長谷部さんは見惚れる僕に向かって更に眉間にシワを深くする。



「…はい」



返事をすると長谷部さんは呆れたような顔をする。そして、「もういいだろ」 とスウェットを腰の位置まで上げてTシャツを着てしまう。せっかく脱いだのにな。とても惜しい気分になった。



「僕もいつか入れようかな」



「お前が、これを?」



「うん、ダメですか?」



「ダメとは言ってないだろ。けど一生もんだからな」



「わかってます」



「けどまぁ背中のタバコの痕も見えなくなるし、ちょうど良いかもな」



「うん」



そうだね。長谷部さんも背中にタバコを押し付けられた痕があったんだよね。それから切り傷も。僕は知ってるよ。あなたも僕と同じような経験をしたことを。長谷部さんはそのままベッドでリラックスすると、「今日は疲れたな」と独り言のように呟くと、頭を掻いている。たぶん、もう用が済んだのなら部屋を出て行ってくれないか、という合図のようだが、僕は気付かないふりをして敢えて部屋を見て回った。わざとデスクを見て、ビデオを手に取る。なんと言うのだろう。どんな顔をするのだろう。



「長谷部さん」



僕はついこの人をいじめたくなってしまう。



「ん?」



「これ、なんですか? リボンで結ばれてる。プレゼントですか?」



長谷部さんの表情は分かり易いくらいに強張り、解けていたシワが眉間に戻る。動揺したが、すぐにそれは隠された。



「…カシラからのビデオだ。お前には関係ない」



カシラってことは義昭さんって人は長谷部さんの組の偉い人のようだ。僕はヤクザ社会の事なんて、ほとんど知らないけれど、カシラ、つまり若頭ってのがどんな立場にいるのかくらいは知っている。



「中身、何でした? ヤクザだし殺しのビデオだったりして。 あーでも、プレゼントっぽくしてるし、違いますか?」



長谷部さんはゆっくりベッドから下りて僕の正面に立つと、綺麗な顔を歪めて難しい顔をした。僕は見事、この人を困らせた。



「あの人とは付き合いが長いんだ。イタズラの一種。気にするな、お前が見るようなものじゃない」



長谷部さんは難しい表情の中に少しの寂しさを見せた。僕はそれを見逃さなかった。どうしてそんな顔をしたのだろうか。僕はその瞬間、胸がジリジリと焼けるように痛み出した事に気付いた。でも僕は相変わらず感情を殺すのが上手で、苛立ちも嫉妬も表には出てはいないだろう。長谷部さんはビデオを僕の手から奪い取ると、そのままゴミ箱へと捨てた。それほど僕にそのビデオの中身を見せたくないのだろう。


けれど僕は全てを知っている。ひどく過激で残酷で、ぐずぐずに汚れたこの人の過去がぎっしり詰まったビデオだということを。脅しのネタになりかねないのだから、そんなの借金苦のガキなんかに見られたくないだろう。この立場だって簡単に揺らぎ兼ねないのだから。



「そんなことより風呂はいいのか?」



「あ、…止めてきます」



けれど何のことはなく僕は話しを変えられ、風呂の湯を止めにまた風呂場へ走った。その後長谷部さんはすぐに風呂へ入った。長谷部さんが僕に自分の過去を話する雰囲気は皆無で、僕は長谷部さんの部屋で捨てられたビデオを横目に本を読んで時間を潰すことにした。しばらくして長谷部さんは真っ黒な濡れた髪をタオルでガシガシと豪快に乾かしながら部屋へ入ってきた。ほかほかと頬を少し赤くして、「お前も入って来い」とだけ言う。僕はそれに素直に従った。


本は本棚へ、僕は風呂場へ。体を丹念に洗った。長谷部さんと同じ香りが体からも髪からも漂ってきて、少し嬉しくなり、湯に浸かりながら、僕はずーっと長谷部さんを想った。僕があのビデオを観たと言ったら、どんな反応するのだろう。なぜ見たと怒るかな? それとも焦って言葉も出ないかな? それとも、泣くかな? いや、それはないか。でも、僕は知ってるんだ。涙を流して土下座したことも。暴力の中であんなに喘いでいたことも。あの過去を僕が知っているとわかったら、長谷部さん困るだろうなぁ。長谷部さんを、どうにかしたい。自分の手で、手に入れたい。風呂に浸かったまま考えすぎて僕はのぼせ、ふらふらになりながらリビングへ戻った。


コップ一杯の水を飲み、ソファに座り込む。のぼせて目が回るようだった。ひどく気分が悪い。長いこと浸かりすぎたと後悔しながらソファに横になり、白い天井を見つめた。長谷部さんは部屋にこもっているらしく、リビングには出てこない。僕がのぼせてここでへばっていることを長谷部さんは知らない。僕がへばってしまった理由も知らない。


あなたの事を考えていたら見事にのぼせたのに、あなたはちっとも助けてくれない。冷たいタオルを持って来てくれるくらい良いと思うけどな。そう僕は長谷部さんに心の中で訴えている。濡れた髪が少し気持ち悪くて、タオルを敷いて目を瞑った。心臓がバクバクと忙しなく鳴って呼吸が少しだけ苦しい。長谷部さん、看病してくれないかな。テレパシーが使えたら良いのに。けれどテレパシーの使えない僕は横になっているうちに、心臓が落ち着きを取り戻し、同時に心地良さを覚えていた。とは言っても冷静に考えると他人の、それもヤクザの家のソファで、裸で寝転がっているとはとんだ状況なのだが。家主にバレたら怒られるだろうか、とは思うが服を着る気力はまだ湧かなかった。



「……おい、おい」



気付いたら僕は寝落ちでいたらしい。



「おい、智人、起きろ」



重い頭を引きずりながら鈍い頭を回転させる。肩を叩かれ、誰が名前を呼ぶのかと意識がハッキリしたところで僕はハッとした。家主が眼鏡をかけて火を点けたばかりらしいタバコを咥えて、少し不機嫌そうな顔で僕を見下ろしている。僕は上半身を起こし、急いでタオルで下を隠して長谷部さんを見上げる。



「ごめんなさい、いつの間にか眠ってしまいました」



「眠いなら自分の部屋で寝ろ。風邪ひくぞ」



心配してくれたのだろうか。でも気怠そうな長谷部さんの顔を見ていると、どうやら心配というのは間違いだったかもしれないと思えた。



「明日から撮影だ。風邪をひいて台無しにしないでくれよ。金にならねぇ」



やっぱり心配なんてしてくれないらしい。考えていることはお金のことだけ。同情も何もないのか。そりゃそうか、好きで僕をここに置いているわけじゃないんだから。僕は随分とあなたの事を思っていたのにな。ここで寝てしまったのも、つい、あなたの事を考えていたからなのにな。なんて言い訳を考えていたら、長谷部さんはタバコの灰をぽんと灰皿に落とし、「わかったら寝ろ」とだけ言って僕に背中を向けた。また行ってしまうのか。そう思うと寂しくなった。



「長谷部さん…」



寂しさのせいか同情が欲しいのか、それとも特別な目で見てもらいたいのか、気付くと僕は長谷部さんを呼び止めていた。長谷部さんは怠そうに、「あ?」と眉間は皺を寄せて振り返る。



「一緒に寝ても良いですか」



僕の質問に長谷部さんは心底面倒くさそうだった。



「お前、いくつだよ」



「17」



「ひとりで寝たことねぇのか?」



「ない、って言ったら一緒に寝てくれます?」



面倒と顔に書いてある長谷部さんに、僕は畳み掛けるように食い気味に言った。



「他人の家で寝たことないからちょっと怖いだけなんです。昨日も全然寝付けなかったから…。だから今夜だけ一緒に寝ちゃダメですか?」



理由なんていくらでも作れる。僕は少し眉を下げ、申し訳なさそうに長谷部さんを見上げ、もう一度「やっぱダメですか?」と肩を落としてみせる。長谷部さんは呆れ果てたようだった。でも同時に、ヤクザに身売りした借金まみれのガキにひとりで寝ろと突き放すこともできないらしい。なんだかんだで世話好きなこの人の性格を上手く扱ってやろう。



「今夜だけだ。…わかったな」



吐き捨てるように言われた言葉に、僕は内心にやりと笑った。パンツを一枚だけ履いて長谷部さんと一緒に部屋へ入る。大人の後についてベッドルームへ入るなんて、響きは立派な援助交際か売春だ。けれど仕掛けたのは僕の方で長谷部さんはタバコをふかしながらベッドへと腰掛ける。間接照明だけの薄暗い部屋は、相変わらずお香の良い香りがした。


僕も長谷部さん同様、ふかふかのベッドに座った。長谷部さんは枕を背もたれに寄りかかり、開いた状態で放置されていた読みかけらしい本を手にして静かに読み始めた。ページの捲る音を聞きながら、僕はテーブル横のゴミ箱へと視線を落とした。さっき捨てられたあのビデオはまだゴミ箱の中にあって、長谷部さんに拾う気はないらしい。まるでビデオを捨てれば、あの過去も捨てられると思っているようだった。過去なんてどう足掻いたって捨てられやしないのに。



「もう寝ろ。明日のためにもな」



長谷部さんは僕なんか見ず、間接照明をそそくさと消すと、ベッド脇の棚にある小さなベッドサイドランプを点けた。寝ろと言われても寝れるわけがない。ただのガキに興味はないと言われたらそれまでだけど、僕は明日の撮影の前にどうしても長谷部さんとヤりたかった。僕はどうしてもこの人と初体験をしたい。僕は17歳、思春期真っ只中だから。



「ねぇ、長谷部さん」



「あ?」



横になりながら枕に片頬を埋めている僕を、長谷部さんは見もしない。



「僕、ちゃんと明日できるかわからないよ」



長谷部さんを見上げながら不安に顔を歪めてみせるが、長谷部さんは表情ひとつ崩さず、視線も本からは移さず、ぼそりと返事を返す。



「それはどういう意味だ?」



「ちゃんとセックスしたことないのに、他人と、しかもカメラの前で出来るとは思えません」



「今更、何をどう足掻いたって明日お前は撮影だ。お前が選んだ選択だろうが」



「あの3択の中じゃぁマシってだけじゃないですか。あーあ、僕の相手はどんな人かな」



「さぁな」



まるで僕との会話がつまらないと言っているようで、僕は悔しくなった。けれどその展開は想定内だったから、僕の感情はあまり乱れる事なく、長谷部さんにじりじりと近付いた。



「きっと相手は慣れてますよね」



「プロだからな。そりゃぁ慣れてるだろ」



「脳が溶けるほど気持ちが良いでしょうか?」



「さぁな」



「相手は背の高い人ですかね?」



「さぁな」



「黒髪だと思います?」



「知らん」



「背中に大きな鳳凰と龍の入れ墨、入れてたりしないかな?」



そこまで言うとさすがに長谷部さんは僕を見た。僕の言わんとしてることを察した様子だった。長谷部さんは「呆れるな」と冷たく言葉を吐く。僕の誘いをあっさり躱した長谷部さんはまた本へと視線を落とし、僕は舌打ちをしそうになった。ここまで来て手に入らないのは腹が立つなと僕は意を決して長谷部さんを見つめる。



「明日、知らない人とヤる前に長谷部さんとしたい」



僕はいてもたってもいられず白状した。あなたはきっと"普通"ってのに満足しないんだろうから、僕はそれなりに役に立つと思うから、わかったと頷いてくれないかな。でも長谷部さんは僕を見ない。



「17のガキに手ぇ出すほど俺は欲求不満じゃねぇよ」



そう言葉を返される。



「けど長谷部さんにとって僕は商品でしょ? だったら尚更じゃないですか。明日、使い物にならなかったらどうするの」



「覚悟決めてここにいるんじゃなかったのか」



「別にビデオに撮られるのは良いんです。他人とヤるのも。でも気付いたんですよね。痛いだけで、何もできないなんて最悪じゃないですか。それこそ金にならないかもしれません」



「痛がって泣いてくれんならそれはそれで画になるよ。初ものって感じでな」



意地の悪い言い方だ。長谷部さんは僕とする気なんて一切ないらしい。それは僕が子供だから? それともタイプじゃない? ユキトさんとはどうだったの? ヤったの? でもあの人、成人してたのか。だからヤったの? 僕はまだ子供だからってこと? 今更だなぁ。



「ねぇ、長谷部さん。もうわかってると思いますが僕にとってセックスって、一方的でなに一つ得られるものはない。僕が経験したものは暴力でしかない。明日の撮影だって愛は微塵もない。だからね、きっと、このままだと勃たなくなると思うんです」



この言葉に長谷部さんは何と返すだろうかと、僕は内心ドキドキした。知ったことかと僕を捨てる事だってできる。でも僕は長谷部さんが残酷になりきれない事を知っているから、この人の言葉を静かに待った。長谷部さんはため息をつくと本を閉じて僕を見下ろした。



「俺とのセックスには愛があると?」



「うん、長谷部さんは優しい人だから」



長谷部さんは僕を突き放せるほど残酷にはなれない。ヤクザのくせに冷めたく澄ましてるだけで、どっか行けと、気持ち悪いと、言うことすらできない。だからこの人は「俺はお前が思ってるような人間じゃねぇぞ」と静かに言うのだ。



「明日のために慣らしてほしいだけです。長谷部さん、経験豊富でしょ?」



僕は揶揄うように目の前のヤクザに甘ったるく笑いかけた。



「同じ年頃の女じゃなく、俺を欲する意味は到底理解できねぇな。後悔しても知らねぇぞ」



その言葉に僕の胸はドキドキと高鳴って、それは呼吸が苦しくなるほどだった。脈が速くなり、手に汗を握る。長谷部さんはそんなこと気付いていない。僕が長谷部さんをどうにかしたいと、支配したいと思ってることに、この人は全く気付いてないのだから。



「お前から誘ったんだ。しっかり理解しろよ」



「してるよ、ちゃんと」



僕は上体を起こして長谷部さんを見下ろす。そっと太ももに手を置いて、首を傾けてみる。



「何をすれば良い?」



「しゃぶってみろ」



なんてサドっぽいことを言ってるこの人は、涙を流してよがっていた過去を、僕が知らないと思ってる。こんな冷たい目をした人を早くよがらせたい。自分から僕を望ませたい。僕は長谷部さんが言った通りに行動に移した。スウェットパンツと一緒にボクサーパンツも少し下し、臍に、骨盤に、鳳凰の尾にキスを落として、ゆっくりとそれ近付いていく。両手でそれボクサーから出し、やる気の全くないそれを口に含んだ。モノが口の中に入るのはすごく久しぶりだった。舌を使って丁寧にしゃぶる。ちらっと長谷部さんの表情を確認すると、少しだけ表情に熱を帯びていた。少しずつ、少しずつ、硬くなるそれと比例するように、長谷部さんの表情も甘く、熱っぽくなって苦しそうに短く息を吐く。


気持ち良さそうな顔、そう思うと下腹部がどんどんと熱くなっていく。早く行動に出たいという衝動に駆られるが我慢し、静かに指示を待って、ひたすら長谷部さんの表情を堪能する。



「もういい、お前、横になれ」



僕は従い、長谷部さんのモノを手放してゴロンと横になった。長谷部さんは僕の下着に手をかけると、するりと脱がせ、獣のような鋭い目つきで僕を見た。そしてふっと笑う。



「男とのセックスだっていうのに、なんの抵抗もないガキほど怖いものはないよ」



その言葉、どういう意味だろう。けれど考える時間もなく、僕は言葉を急かすように口から吐き出した。



「長谷部さんとしたかっただけです」



「怖い事を言うな」



「なんで怖いの?」



「会ったばかりのヤクザとセックスしたいって言ってくるガキだぞ。怖すぎるだろうが」



「アハハハ、確かにそうですね。でも本音です」



「とんだ阿保だな」



「僕の裸で金儲けするヤクザなのにね。恐ろしい世の中ですね」



僕の性体験を早くあなたに変えたい。僕はまだまだ子供だけど、色々な経験をしてあなたを支配したい。僕はそうなるべきなんだ。



「本当に、いいんだな?」



長谷部さんは僕の脚の間に割って入ると、そう確認した。



「はい、予習しておかないと、明日できないですから」



長谷部さんは眼鏡を外すと、横に備え付けられた棚に眼鏡を置いて引き出しから透明な小さなボトルを引っ張り出した。この人はこのベッドの上で何人とヤってんだろ。何人にハメられてんだろ。そんな事を考えていると長谷部さんはドロリとした粘力の強い液体を指に絡め、僕の目を見ながら体内へと侵入させた。一瞬体に走った違和感につい力を入れると、「大丈夫か」と無表情に心配される。僕は大丈夫ですとだけ答えて静かに、リラックスするようにゆっくりと呼吸をした。久しぶりの感覚だった。でも全く違う感覚である。息を吐いて、シーツを握る。下腹部に力が入る。何分経ったかわからないが、たぶん、時間はかなり経っていて、僕の体はすっかり熱っぽかった。長谷部さんは引き出しからゴムを取り出し、また僕を見下ろした。



「明日、使い物にならなかったら承知しねぇぞ」



ドスのきいた低い声に僕は笑ってしまった。一応、僕達はセックスしてるのに。今にも殺されそうだ。頷く僕を見下ろしながら、長谷部さんはゴムを乱暴に口で開けて素早く着けた。



「使い物にならなかったら僕の体をバラして臓器を売るなりして、金にしてください」



「あっさり命を投げ出すのか」



「うん」



そう肯定すると長谷部さんは案の定困った顔をした。僕はそんな長谷部さんの表情を楽しみながら、呼吸を整えて体の力を抜いた。



「お前の命なんてほしかねぇよ」



長谷部さんは僕の腰を抱き、ぐっと力を込めた。瞬間、声にならない声が漏れて、自分でもわけがわからなくなった。長谷部さんが腰を動かす度に僕の心臓は血液を大量に体中に送るようだった。口で呼吸しながら、苦しいような気持ちの良いような、よくわからない感覚に陥った。乾いた肌のぶつかる音、長谷部さんの高揚する頬の色、熱すぎるくらいの吐息、僕は体全体で今の状況を楽しんだ。


どれほど時間が経過したかはわからないが、外は暗く、部屋の中はお香の良い香りと長谷部さんの甘い香りで充満していた。うっすら汗を掻きながら、喘いで、仰け反って、僕は長谷部さんを求めた。背後をとっていた長谷部さんの細い指が唇に触れて口内に侵入する。誘導されるように顔を横に向けると、噛み付くように唇が重なった。僕にとってはこれが初めてのキスだと、この人はわかってないのだろうな。初めてのキスがこんなに甘ったるくて、激しくて、僕はきっと一生忘れられないだろうな。責任、取ってほしいな。



「長谷部さん…」



「…あ?」



苦しそうな声だった。切羽詰まり、苦悶に満ちて、でも快楽の真っ只中って感じの声だった。僕はクッションに頬を埋めながら視界に長谷部さんを捉えた。



「長谷部さん、…もっと」



そう言うと長谷部さんは片眉を少し上げて驚いた顔をしたが、何も言わず強く激しく僕を包んだ。快楽の波に僕は涙を流した。ビクンッと下腹部に力が入り、僕は息を吐く。



「出すぞ」



「…いいですよ」



瞬間、長谷部さんの腰を掴む力が強くなる。ことを終えると、長谷部さんは軽く息を乱していて、すぐに僕から離れる。僕はというとヤるだけヤられて、体力だけがなくなり、くたっとベッドに体を横たわる。ぜぇはぁと肩で呼吸をしながら長谷部さんを見上げた。


本当は、この人、満足してないんだろうな。だって長谷部さんは、支配されて無理矢理押さえ付けられ、ひれ伏し、泣くくらいが丁度良いのだろうから。僕はそんな事を考えながら長谷部さんを見上げていると、長谷部さんは両手で髪を掻き上げ、その涼しげな瞳で僕を見下ろした。



「疲れたか?」



「息は少しだけ上がってます」



「ガキだな」



長谷部さんはふっと笑った。僕を子供扱いして少し小馬鹿にする。そんな相手にひれ伏す時、この人はどんな顔で僕に縋るのだろうかと僕は頭を少し傾けて考えた。



「長谷部さん、満足してないでしょう」



「満足、ねぇ」



「今度は逆、やらせてください」



「…お前がトップ?」



長谷部さんは眉間にぐっと力を入れて川の字を作ったが、僕はその長谷部さんにふふっと笑って返して上半身を起こした。



「うん。女役より僕は男役のが向いてると思うんです。まぁ、ビデオで求められるのはどーせ女役でしょうから、それはそれで良いんですけど。でも僕もまだ満足してないんです。まだヤりたい」



僕の言葉に長谷部さんは動揺する。と思った。僕が過去を知るはずないと思ってる長谷部さんなら、僕があなたに挿れたい、なんて言い出せばこの人は動揺するだろうと予想して言葉を伝えた。なのに長谷部さんはくくっと喉の奥で笑う。その涼しげな瞳を細めて、上体だけを起こしていた僕の横に腰を下ろすと、何の躊躇いもなく僕のそれを握っていたずらっぽく片眉を上げた。



「そうか、それは悪かったな。…なら、うんと楽しませてくれるんだろうな」



長谷部さんにとって僕はただお子ちゃまなんだ。僕は、この人を支配したいという欲を持ちつつも、敵わない事をその時に悟った。長谷部さんは口角を上げると怪しく微笑み、薄い唇を半開きに赤い舌で僕のそれを撫でるように咥えた。喉の奥まで咥えるとまた浅いところに抜き出される。正直驚いた。この人のいやらしさに、この人の美しさに、この人の考えていることに。僕は苦しくなって息を吐き、声が漏れないよう両手で口を押さえると、長谷部さんはぐっと強く上目で僕を見つめた。その鋭くも熱の籠った瞳を見ると、僕は今にも達しそうになって我慢する。それを察知したように長谷部さんの口角はにやりと上がっている。


心臓が破裂するかもしれない。いや、もう破裂しても良いなぁと、唇を噛み締めながら長谷部さんの真っ黒な髪に指を絡めた。固めていないと目の位置まである長い前髪は折角の甘い表情を隠してしまうから、僕はその前髪を横へと流しながら長谷部さんの表情を堪能した。長谷部さんは僕の手を取ると一度唇を離した。そしてそのまま自分の後頭部へと誘導して僕を見上げる。



「好きなようにしていい」



そう煽るように微笑まれると、何かが僕の中で弾け飛び、僕はこの人を理解した。だからこそ僕は自分の欲に正直になってしまう。髪を鷲掴みにして少し乱暴に上下させ、果てそうになるギリギリまでしゃぶらせた。喉の奥深くを抉り、嘔吐く様を見下ろしては心臓が騒がしさを増す。髪を掴み、もういいよと唇をそれから離してやると、長谷部さんはケホッケホッと咳き込みながら、やり過ぎだと言わんばかりに僕を見上げてくる。その扇情的な目にさらに自制が効かなくなっていくのを感じた。



「もうそろそろ、本番、しましょう?」



長谷部さんは「本番ね」と笑いながら唇を拭った。僕の上を跨ぐと指に唾液をつけ、後ろへと手を伸ばして半ば乱暴にそこを慣らした。その光景はあまりにも刺激が強い。僕の頭は甘すぎる現実にショート寸前で、心臓は本当に破裂するかもしれないと思った。


この人は普通じゃない。だから良い。だから僕は会って間もないこの人を信用し、落ちてしまったのだ。



「ゴム、いるか? いるなら着けてやるぞ」



長谷部さんは揶揄うような笑みを浮かべると、棚へと手を伸ばすから、僕はその手を取って「要らない」と首を横に振る。



「僕はその方が好き。長谷部さんが許してくれるなら」



「お前、童貞のくせにな」



「だから早く卒業させて下さい」



長谷部さんは僕の言葉にははっと軽く笑ったかと思ったら、「後悔すんなよ」と弱々しい笑みを見せた。後悔なんかするわけない。後悔しそうに見えるのだろうかと不思議で堪らない。すっかり熱を持ち、硬くなった僕のそれを長谷部さんは軽く握ると、ゆっくりと腰を落としていく。肉を押しのけ、ゆっくりゆっくりと奥深くに入っていく。僕は心臓を吐き出しそうだった。長谷部さんは少し窮屈そうに顔を顰めて、息を整えている。まだあまり解れてはいなかったのかもしれない。時間を掛けて、全てを入れると両膝をシーツに沈め、両手を僕の太ももの上に置いて、良いところを探しているようだった。この体勢だと鳳凰の尾がよく見えた。まるで見せつけてるみたいだった。


僕はただその危ない香りのする妖艶な美しさに呑み込まれ、じっと長谷部さんを見上げていた。長谷部さんはそんな僕に気付くと、苦しそうに息を吐きながら口を開く。



「休憩するな、って言いたそうだな」



「いえ、僕は…」



そんなつもりじゃない。僕はただあなたが美しすぎるから見とれていただけだ、という本音を言わせてはもらえなかった。



「久しぶりなんだ。少し、時間をくれ」



甘ったるいな。この人の艶やかで辛そうな顔を見ていると、僕は本当に腹上死してしまうんじゃないかと思った。僕の心臓は丈夫かな。脈を速めすぎて急に止まったりしないよね。不安になる。僕はそっと長谷部さんの太ももに手を這わせ、その熱っぽい瞳を見上げた。



「うん、ゆっくりで良いですよ。優しくもしますし…」



長谷部さんを見上げて言うと、長谷部さんはケタケタと困ったように笑い、前屈みになるよう体勢を直した。僕の胸に片手を置き、腰をゆっくりと動かしながら、苦しそうに笑っている。



「ふふ、そうだな、…うんと優しくしてくれ」



良いなぁ、この人。本当に欲しい。僕は自分の本性というものを知った。この人を食ってしまいたい、支配して誰の目にも触れないように監禁してしまいたい。年の差がなんだ、10代がなんだ、ヤクザがなんだ。僕は自分がとても動物的で、雄なんだと長谷部さんを見ながら感じている。



「…はい」



部屋には卑猥な水音が響いた。熱い息、滲み出る汗、我慢してるのだろうが甘く漏れる嬌声。下から突く度にくぐもった甘い声が漏れ出て、それがまた僕を刺激する。


僕は唇を噛み締めて我慢しながら考える。昔っから、この人はこんな感じなのかな。だから義昭って人に好かれたのかな。義昭って人との関係って、本当はなんなんだろ。今でも繋がっているのだとしたら、壊してやりたいな。だって僕は初めて誰かを欲しいと思ったんだ。この人を、僕のものにしたい。


長谷部さんは頬を赤くしながら、苦しそうに呼吸を繰り返している。一瞬、視線を僕に向けた。その妖艶な瞳に僕は果てまいと呼吸を整える。



「……っ、…智人」



「はい…」



「腰を、強く抱け」



「はい」



普段見るからに冷たそうな人、甘い言葉なんて絶対に吐かなそうな人、でもこうも簡単に乱れてくれるなんて思いもしなかった。この人の側にずっといたい。死ぬまで、ずっと、永遠と、側に居続けたい。この人の隣にいるのは僕じゃなきゃ嫌だ。



「もっと乱暴に突いて良いぞ、童貞くん」



長谷部さんのその言葉に、僕の心臓はドキンと一度脈を打って停止したようだった。


上体を起こし、長谷部さんの腰に両腕を絡めるようにして強く抱き、乱暴に激しく突いてやる。正直もう我慢の限界だった。それもこれも長谷部さんのせい。我慢強いはずの僕の我慢は簡単に打ち砕かれる。



「長谷部さん…」



長谷部さんは長い腕を僕の首に回し、名前を呼ぶと甘い瞳が僕を捉えた。



「なんだ?」



「キス、して良い?」



「いちいち聞かなくて、…っ、良い」



だから僕は貪るように食いついた。ぬらぬらと口内も犯している気分だった。長谷部さんの苦しそうな声と吐息はダダ漏れ、僕はそのまま長谷部さんの背中に腕を回して押し倒す。ベッドが軋み、長谷部さんの細い指が頭上でシーツを強く握った。片手はまだ僕の首に強く絡まり、離れそうになかった。イキそうなんだ。そう思うと僕も果てそうになって、生唾を飲み込み、僅かに残る理性を保って唇を離した。



「は、長谷部さん、…ゴムしてないんで、少し、離れないと中に…」



出すことになってしまいます、という言葉は最後まで言わせてもらえず、長谷部さんは口角をあげたまま、「中に、出して良い」そう僕の目を見つめて囁いた。もし長谷部さんが女で、僕が中にぶちまけたら僕の子供を身籠ってしまうかもしれないのにね。そしたら産んでくれるかな。僕に支配、させてくれるかな。けれど現実、この人は男で、当たり前だけど孕んでくれなくて、僕に支配もさせてくれない。



「…イきそ、」



長谷部さんを強く抱きしめると、長谷部さんは甘く笑ったようだった。僕は熱い息を吐きながら、高揚感に頬を染めた。奥深くに熱を打ち付けて吐き出すと、腹と腹の間がじんわりと温かくなる。長谷部さんの熱い手のひらに手のひらを重ねて、僕はもう一度啄むようなキスを交わした。はぁと深く息を吐いて全身の力を抜く。名残惜しい。長谷部さんはさっさと退けろと言わんばかりに背中をタップする。僕はゆっくりと中から引き抜いて、横に寝そべった。まだまだ余裕そうな長谷部さんをじっと見つめていると、長谷部さんは鼻で笑ってベッドから降りた。



「シャワー、浴びるぞ」



「…はい」



眠気に襲われ、疲れ切り、シャワーなんて浴びたくなかった。でも長谷部さんの汗ばんだ背中を追って少し冷たいシャワーを頭から浴びる。ふたりでシャワーを浴び、ふたりでベッドに入る。僕は幸せで、満たされていて、他に何も要らないと思った。甘い余韻に浸りながら、長谷部さんの広い胸に抱きついて、深い深い眠りにつく瞬間が何よりも幸せだと思うから。


再び目を覚ましたのは、早朝5時を少し過ぎた頃だった。デジタル時計を見つめ、隣で眠る長谷部さんへと視線を移した。長谷部さんはすっかり寝息を立てて眠っている。僕の方に向けたその寝顔は鋭さがない。


この人は僕を信用してる。僕は逃げないと確信してる。僕も行く当てもないし、その通り逃げないけど、でも僕が逃げたらこの人、上にこっ酷く怒られるんだろうなぁ。僕の借金は大きなマイナスとして長谷部さんの組に食い込むのだから、それを返済させるのが長谷部さんの仕事なのに、僕が今、逃げ出したりししたらこの人どう落とし前つけるのかな。落とし前だって。怖い言葉だ。とはいえ僕は何があっても逃げ出さないだろう。僕は長谷部さんに欲望をひしひしと募らせ、長谷部さんの頬に手を伸ばした。顔にかかる髪を横へと流し、僕はおやすみなさいと呟く。


朝が来るのがちょっと、待ち遠しかった。

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