鳳凰は辰に溺れる

Rin

プロローグ 僕は今

「おい、シロ、なにしてんの」



「別に、何も」



「俺には荷造りしてるようにしか、見えねぇけど」



「ん? うん、ハハ、そうだね。荷物の整理、してた」



「…そのヨレヨレのYシャツ、ようやく捨てんのか」



「…んー、そうね。もう、必要ないから」



「そうか」



男はたぶん、全てを知っていた。僕が大切に持っていたシャツのことも、勘付いていた。誰のもので、どうして持っているのか、全て。


だから僕が捨てると決心した今、男はそうか、とだけ言って表情を変えず、僕を見下ろしている。そして少しの沈黙のあと、「…で、どこに行くんだよ」と話しを変えた男は、心の広い、懐の深い男である。



「日本」



「帰んのか」



「もう、ほとぼりも冷めたろう? 僕にはやっぱり、アメリカは向いてない」



「7年住んでてそんな理由か。もうちっと、上手い理由なかったのかよ」



男は荷造りする僕を、腕を組みながら見下ろし、壁に寄りかかっている。



「僕は嘘が下手だからな。まぁ、ひとまず、君の分の荷物もまとめたよ」



僕の勝手な行動に、男が呆れ果てるのは予想できていた。



「だから、ってなんだよ。つーか、誰が日本戻るって言ったよ」



「もう大丈夫だって。戻って来て下さいって、昨日の夜、山内くんがまた言いに来たんだ。諏訪(スワ)さんも、日本にいるみたいだし、戻ろうよ」



「そんなこと言ったって…」



「もう、良いんじゃない? 派閥争いも、5年経てば、みんな過去の話しになるって言うだろ? プラス2年も長くいたんだ。君の顔を見たところで誰も襲いかかったりしないさ」



「そうは言ってもなぁ…」



僕はこの男と共にアメリカを出たい。この男と共に日本へ帰りたい。かつて、共に日本を出たこの男は、頑なに日本へは戻りたくない、そんなことはとうの昔から分かっている。


けれども僕は、帰りたかった。



「辰也、」



「あ?」



「僕のことは、好きかい?」



「なんだよ、今更、気持ちわりぃ」



「好き、か?」



「……あぁ」



「東京に戻ろう」



「東京って。…田舎とか、ひっそりと暮らすんじゃねぇのかよ」



「僕と今後も一緒にいたいのなら、東京へ戻ろう」



「でもお前なぁ…」



「墨が入ってる人間は、田舎じゃぁ浮きまくるし、それに、男同士ってのも噂の種になる。だったら東京に戻った方が良い。何も起きやしないさ。木は森に隠せって言うし、東京へ戻ろうよ」



「…けど、なんで、急に」



「米が無性に食べたいからだよ」



「お前、パン派だろ」



「最近乗り換えたんだ」



「なんだよ、それ」



7年もアメリカにいて、突然、米が食いたいから日本に帰るだなんて、まず他に理由があると思うんだろうな。


でも、男はきっと、それをあえて聞かなかった。本当の理由ってのを知っているから。


こいつも随分と僕に優しくなった。


前は僕の嘘を見逃してくれなかったのに。

今は、優しく僕の嘘を見逃してくれる。



「何時の飛行機なんだ?」



「明日、朝一の飛行機。2時間後に山内くんが迎えに来てくれる」



「山内のヤロー、なんで俺に言わないでお前に先に言うかなぁ」



「だって君は帰国を断るだろ? もう、7年も経って、ほとぼりも冷めてるってのに」



「そうかもしんねぇけどさ…」



「僕のことなら大丈夫よ。どーせ、辰也は僕が殺されるんじゃないかとか、危ない目に遭うんじゃないかとか、そういう心配してくれてるのかもしれないけどね、大丈夫だから」



「わかんねぇだろ、そんなの。何も起きないなんて保証ないだろ?」



「まぁ、ね。でも、7年前の若頭の恋人を狙ったところで、なーんの価値もないと思うからね」



「…なんかちょっと、癪だな」



「君の知名度も価値もそんなものさ。喜びなよ、もう狙われなくて済むんだし。…よし、荷造り終わった」



「…お前なぁ、」



「まだ時間あるね?」



「ん? あぁ…」



「おいで、辰也。久しぶりに、しよう」



「…ん」



「君、優しくなったね、本当に」



「お前の全てを知っておきたい、ってのは、高校ン時にやめたんだよ」



「そっか、そうだね。ありがとう、今まで」



「おう」



辰也とあの人は違う。


あの人は、やっぱり生きていた。髪は短くなって、シワも増えたが、あの人だった。相変わらず、素晴らしい鳳凰と龍を背中に飼っているのだろう。体型の変わらないあの人は、もう、相当年を食ってしまったが、うんと美しくて端正な顔で笑っていた。その甘い笑顔は、隣にいる男に向けられていた。


あの人は相変わらず、甘くて優しいお香の香りがした。

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