ゴールドタイガー李徴

久佐馬野景

おまえの苦労をずっと見ていたぞ 本当によく頑張ったな?

 虎が見ているんですよ。

 彼はそう言ってコートの襟を合わせて身震いをした。「虎ですか」と円了が聞き返すと、うなずいて、またコートを身体に引き寄せる。

 まだ九月である。八雲などは半袖でも汗をかいている。実際、夏日どころか真夏日もいまだに多い。

 そもそも円了と八雲がなぜ彼――袁と名乗っていたので、袁さんと呼称することにする――と出会ったかというと、円了がスマホで怪しげな動画を視聴していたところにまで話は遡る。

 ――私は闇大仏

 ――途中で消してはならない

 ――この動画を拡散するのだ

 ――そうすれば莫大な富を得る

 大仏の周囲に派手な演出とともに文字が出てくると、動画の拡散や音源の使用を要求してくる。要はチェーンメールや情報商材の類いであった。

「気楽なものだね。バックルームやリミナルスペースが出てきた場と聞いて登録してみたらこれだ」

 円了は闇大仏の忠告を無視して動画を途中で止め、ほかの動画を漁り始める。

 屋外の公園である。日は高いがひとはふたり以外におらず、動画を音声つきで視聴していても迷惑にはならない。

 円了がアンパンマンの映像にMY FIRST STORYの「I'm a mess」を流してオープニング映像風に加工した動画を見ながらニコニコ動画のMAD文化との共通点と、ヒットチャートに押し上げるまでの影響力というニコニコ動画との乖離について語っていると、円了のスマホがすっと影に入った。

 気づくと円了の背後にコートを着た男がひとり、立っていた。ベンチに座った円了の頭越しに、スマホの画面を凝視している。

 円了も動じはしないが居心地は悪い。仕方なく振り向いてどうかされましたかとたずねると、男は憔悴した様子で「虎が」とつぶやく。

 ひとまず円了は自分の名を名乗り、八雲を紹介する。男ははあ、だか、へえ、だかわからない声を上げて自分は袁という者ですがと名乗った。

 ここでまず円了と八雲は警戒を強める。男に対してではない。この公園という「場」そのものに対してだ。

 円了と八雲は異界から異界へと当てもなく行き来している。今回たどり着いたこの公園は広く、穏やかで、ふたりで腰かけても余裕のあるベンチがあったので一休みしていくことにした。

 しかし結局はここも異界であることに変わりはない。ふたりが歩く場所とはすなわち異界であるのだが、そこにも脅威の強弱というか、異常の度合いの差というものが存在する。

 袁さんが名乗ったことで、ここも決して安全な場所ではなさそうだと、円了と八雲は身体の芯にいつでも臨戦態勢を取れるように力を込める。

 袁さんの名前が問題なのではなく、問題とすべきなのは本来、円了と八雲が名乗った行為にある。円了は「僕は円了といいます」と名乗り、八雲を指さして「彼は八雲です」とだけ言った。本来なら、これは自己紹介としては不十分と見做される。だが袁さんは気にする素振りもなく、自らもまた名乗った。

「そういえば僕もここに来る少し前に虎が出てくる動画を視聴しましたよ。あれのことですか」

 お前の苦労をずっと見ていたぞ――円了が言うと、袁さんは何度もうなずく。

「なるほど。動画の中の虎に監視されていると。僕としては精神科での診療を受けることをおすすめしたいのですが」

「いえ、いえ。私は統合失調症ではないんです。話すと長くなるのですが、聞いていただけますか」

 ちょうど暇を持て余していたし、スマホの動画にも飽きてきていたので、ふたりは袁さんの話を聞くことにした。


 浪速の李徴は博学才穎、平成の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで兵庫県庁に補せられたが、性、狷介、自ら恃むこと頗る厚く、パワハラに甘んずることを潔しとしなかった。


「いや、山月き――」

 八雲が思わず口を挟もうとしたが、円了に遮られる。黙って聞こうじゃないかと小声で言う円了にならい、八雲も口を噤んで袁さんの話の続きを待つ。

 袁さんの話は以下のようなものだった。

 李徴は県庁を辞すると個人でVTuber活動を開始した。県庁で俗悪な輩に屈するよりは、Vの者としての名を電脳空間に遺そうとした。しかし、配信は容易に伸びず、生活は苦しくなるばかり。李徴は漸く焦躁に駆られてきた。この頃からそのVの容貌も極まっていき、最初は人型だったVの姿は絵師ママに無理を言って奇妙に歪み始めていった。数年の後、貧窮に堪えず、妻子の衣食のために遂に節を屈して、再び浪速に赴き、一地方公務員の職を奉ずることになった。一方、これは、己の配信業に半ば絶望したためでもある。曾ての同輩は県庁で知事のパワハラに屈し、彼が昔、鈍物として歯牙にもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬことが、往年の俊才李徴の自尊心を如何に傷つけたかは、想像に難くない。

 一年の後、公用で出張し、琵琶湖のほとりに宿った時、ついに発狂した。或夜半、急に顔色を変えて寝床から起き上がると、何か訳の分からぬことを叫びつつそのまま配信を開始した。配信の途中で闇の中へ駆け出し、彼は二度と戻ってこなかった。配信は悪い意味で伝説となり、呪いのVとして拡散された。

 翌年、袁さんがTikTokで動画を流し見していると、ふと金色の虎が語りかけてくる動画に行き着いた。

 ――おまえの苦労をずっと見ていたぞ

 ――本当によく頑張ったな?

 動画の内容は視聴者を労いつつ脅しとも取れる文言を交えて、動画の拡散といいねを強制するチェーンメールめいたものであったが、袁さんにはその動画のAI生成と思わしき虎と声に覚えがあった。

 袁さんは恐る恐る、動画の投稿者にDMを送った。

 ――その声は、我が友、李徴子ではないか?

 数日、DMに返信はなかった。ややあって、DMが動画の投稿者から届いた。

 ――如何にも自分は浪速の李徴である。

 李徴のDMは以下のように続いた。

 今から一年ほど前、自分が出張に出て琵琶湖のほとりに泊まった夜のこと、一睡してから、ふと眼を覚ますと、ラップトップから誰かが我が名を呼んでいる。声に応じてラップトップを開くと、声は配信用のストリーミングソフトを立ち上げるようにしきりに自分を招く。覚えず、配信を開始すると、絵師ママに作ってもらったモデルに自分の身が染み込んでいくような感覚があった。気づくと、そのモデルとして声を発し、動き回り、大きなインターネットの海原へと放り出されたようであった。自分がかつて人間の姿であったことは覚えているが、今の自分の姿は虎であった。虎の生首であった。それでも暫くはインターネット上で漂うデータとして振る舞うことができた。ところがある時、生成AIが学習のために虎の生首とかつての声を食いにやってきた。自分という存在は瞬く間に生成AIに取り込まれた。自分は直ぐに死を想うた。しかし、その時誰かが生成AIで虎の画像を生成したのを感じた途端に、自分の中のは忽ち姿を消した。

 実を言えば、今も己が人間であるかは証明のしようがないのだ。己はとっくにAIの一部で、この文章もAIがかつての己を学習しくって生成しただけのものなのかもしれぬ。恐らく、その方が、己はしあわせになれるだろう。

 他でもない。自分は元来配信者として名を成すつもりでいた。おまえがあの動画を見たということは、自分の願いの一部は今まさに叶っていると言ってもよいだろう。だがただのAI製の粗悪な動画だと思われ続けて拡散していくのを見ているのでは、死んでも死にきれないのだ。


「ふむ」

 円了は袁さんにスマホを返す。自分のスマホに届いたDMを本体をそのまま渡して読ませるなど、赤の他人にできる行為ではないとは思うが、口は出さないでおいた。

「奇妙な話ですね。だがわからない。あなたが何にそれほど怯えておられるのか」

「李徴は」袁さんがまたコートを引き寄せる。「おまえの苦労をずっと見ていたぞ、と」

「それは動画の導入、言うなれば客引きの文句でしょう。いや――この場合は違うのか」

 うなずく袁さん。

「李徴は見ているのです。虎となって」

「どういうことだい円了」

 八雲が口を挟むと、円了はすっと背後に指を突き立てる。

 ギャッとデカい猫のような悲鳴が上がった。円了の背後には、虎の生首が浮いていた。目を潰された痛みで空中でくるくると回転し、やがてぼとりと地面に落ちた。

「李徴というひと――虎か。とにかくその虎は、自分の姿を生成し複製し拡散させることで、現実に侵食を行っているようだ。そしてここは、どうやららしい」

 虎穴――というよりも、虎に周囲を囲まれた穴に追い込まれている、言うなればではないか。

 ――おまえの苦労をずっと見ていたぞ

 ――おまえの苦労をずっと見ていたぞ

 ――おおおまままえええののの苦苦苦労労労をををずずずっっっととと見見見

 虎の生首が立ち並び、同じ文言を口々に発する。

「どうする円了」

 八雲はぐっと拳に力を込める。いにしえの暗殺拳を使えるとはいえ、この状況を打破できるとは思えない。この「場」は完全に李徴に支配されている。

「遣る方ないが、仕方ないか。袁さん、よく聞いてください」

 虎に取り囲まれている袁さんに向かって、よく通る声で、だが穏やかに、円了は告げる。

「あなたがDMをやりとりしたあのアカウントはですね、とっくに削除されているんですよ。あなたは、もういない人間と虎とアカウントを相手に、ただ怯えているだけなんです。簡単に言ってしまえば、あなたは幽霊に苛まれているだけなんです。AIだとか李徴だとか、そんなことは一度置いておいて、恐ろしいのはただ幽霊なのだと置き換えてください。そうすれば――僕たちにも手が出せる」

「李徴は、李徴は……」

「死んでしまったのでしょう。だから、化けて出ているんです」

 虎が風に吹かれ、ふわりと浮き上がる。

「今だ」

「レイライン拳法、奥義――」

 レイライン拳法とは――大地を走るとされる「レイライン」。その上に自身の肉体を乗せ、神秘の力を拳に乗せて打ち込むいにしえの暗殺拳。一見レイラインが走っていない場所では力を発揮できないと考えられがちだが、なぜか拳士の立つ大地に必ずレイラインが走っていることが発見される無敵の拳である。

「〝九芒星勁膝栗毛くぼうせいけいひざくりげ〟ーッ!」

 八雲の放った拳から放たれた浄化の光が、九芒星を描くレイラインに乗り、公園一帯を駆け巡って幽霊を焼き尽くしていく。

「ああ」

 袁さんが光の粒子になりながら笑う。

「そうか。私は、幽霊なのに幽霊を恐れていたんですね」

「理解が早くて助かります」

 円了は消えていく虎の生首を見送りながら、袁さんと向き合う。

「虎は完全に消えたわけではない。これからもおまえの苦労をずっと見ていた虎は増え続けるでしょう」

「でも、幽霊は払えた」

「そういうわけです。ひとまず僕たちはここを去ることはできそうだ」

 消えていく袁さんに背を向け、円了は普段通り八雲の前を歩いていく。

 八雲はそのあとを追う。レイラインの光に焼き尽くされた公園を背にして、また別の異界へと。

 ――散々苦しんだのだ

 ――もう楽になれ

 最後に虎が口にしていた言葉に、ふたりそろって苦笑しながら。

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