最終話. 今を生きる
*
ミツキさんが生きていた。その事実だけで、心臓は落ち着きを失った。何事もなかったように背を向け、クラブを出て行くミツキさんを見送りながら考えていた。これは夢なのか、現実なのか。あまりにもミツキさんを想いすぎたせいで、夢と現実の境目が分からなくなっていた。
だが一分、また一分と、時間が経つにつれて、頬がゆるりと緩み、胸が高鳴ってどうしようもなくなった。
夢じゃないんだよな。ミツキさん、生きてたんだな…。
「ねー、なんか嬉しそー。何か良い事あったのー?」
常連の女性客がふたり、テキーラショットを頼んだ後、そう片眉を上げた。感情はあからさまに顔に出ていたのだろう。
「ありました」
肯定して頷くと、「分かりやすー」と揶揄われる。感情はそう簡単に顔には出ないと思っていたが、こればかりは仕方がない。だって、ミツキさんだ。あの、ミツキさんが俺の前に現れたんだ。しかもまた来るって言ってた。あの土地の交渉を、ミツキさんが任されたんだ。頬が緩んでどうしようもない。
でも、手放しで喜べる状況ではなかった。あの土地を手放さなければ、ミツキさんが何か責任を負わされてしまうのだろうから…。
高遠さん、俺はどうしたら良いだろう。ミツキさんが生きているという事実に舞い上がってるけど、浮かれ続けられるほど、状況は楽観できないよね?
仕事が終わり、俺は家に着くとそのままソファで項垂れた。ミツキさんとの再会で感極まるほど喜んだし、どうしようもないくらいに嬉しいが、土地を手放すという事を考えると厄介な事になったと頭を抱えずにはいられない。書類が保管されている棚の前に立つ。溜息をひとつ吐き、引き出しの中からA4サイズの茶封筒を取り出す。数センチの厚さがあり、中には契約書類が入っている。一式を眺めながら考える。
ミツキさんには、きちんとあの土地が俺にとってどういう土地か説明した方が良いのだろうか。いや、そうしたらミツキさんの罪悪感だけを助長する事になってしまうか。ならば言わずに交渉と称して、ミツキさんと少しでも多くの時間を過ごし、その中で何か打開策を見つける方が良いのだろうか。
…でも、打開策なんてあんのかよ。
ビールの空き缶だけが増えていく。アルコールに侵された脳みそを無理矢理に回転させるが、高遠さんが残した土地を所有したまま、ミツキさんが組に責任を取らされない方法の無さに深い溜息が漏れるだけだった。
ヤクザって、億という金を逃すような組員に、どんな責任を取らせるのだろう…。ぶるりと身震いがした。実際がどうかなんて微塵も分からないが、きっととても血生臭いだろう。いや、そうに決まってる。ミツキさんが殴られたり蹴られたり、それ以上の事をされるかもしれない。そう思うと項垂れると同時に、不安に駆られすぎて変な呻めき声が漏れた。
その時、ふと思う。待て。そもそもあの土地を残していた理由を考えれば、俺の取る選択肢は自ずと決まってるのでは…? ただ、引っ掛かるのはやはり高遠さんの事だった。無性に高遠さんに会いたくなった。高遠さんなら何と言うのだろう。そう思うと居ても立っても居られなくなり、翌朝、電車を乗り継いである寺へと足を運んだ。高遠さんはそこに眠っている。高遠さんの息子さんも、奥さんも、今は一緒だ。小さな仏花と線香を手に、高遠さんに手を合わせる。手を合わせながら瞳を閉じて、土地の事を訊ねるように問いかけた。
その時、ふわっと肌寒い風が頬を撫でた。締め切られた室内で風が吹くなんて…。高遠さんが来てくれたのかな、そう振り返ると透けた高遠さんが立っていた。わけではなく、かっちりとスーツに身を固めた男が、同じように仏花を片手に立っていた。驚いた。こんな偶然があるとは…。
「偶然だなぁ」
「杉浦さん…」
高遠さんが俺に土地を譲った際、この杉浦さんと俺が呼んでいる弁護士が全てをサポートしてくれた。未成年だった俺が、きちんとあの土地を所有できるように、土地の権利書を作成してくれたのもこの人だ。成人するまでお世話になりっぱなしだった。高遠さんが亡くなってからも、俺の事を気に掛けてくれていたが、こうして顔を合わせるのは一年ぶりだった。
「久しぶりだなぁ。来てたのか」
「はい、色々と相談をしに…」
「もしかして西ノ森町の、あの土地の事?」
そしてもちろん、この人の耳にもあの土地の事は入っていたのだろう。俺の顔を見るや否や、そう言って首を傾げている。
「はい」
頷くと、「悩むよなぁ…」と杉浦さんは顎を撫でた。
「高遠さんなら何て答えてくれるかな、って思って…」
口を歪めて悩みに悩んでいる俺に、杉浦さんは小さく笑って肩をすくめると、当たり前のように言った。
「そんなのひとつしかないだろ。僕の形見だと思わず、君の為に使ってくれ。…あいつはずっとそう言ってたろ? だから、君自身の為になる使い方をする事が、あいつの望みだろうし、あいつならそう答えると思うよ」
その時、あぁ、そうだったなと、ある事を思い出していた。
『…僕の形見だとか思わずに、好きなように使ってほしいんだ。君の為に使ってくれ』
高遠さんに土地を貰って欲しいと言われたあの日、高遠さんはそう微笑んでくれた事を。俺はそうか、と深呼吸をした。
俺の為になるように。
俺があのコインランドリーをここまで手放さなかった理由は、たったひとつ。ミツキさんに会う為だった。あの場所を維持していたら、いつかきっと会える気がしていた。また袖口に血を付けて、何食わぬ顔で洗濯をしに足を運ぶミツキさんに。
あの場所を今の今まで手放さなかったからこそ再会できたのだ。コインランドリーで再会、ではなかったが、コインランドリーの土地のお陰で、俺は再会を果たした。あの場所が、俺とミツキさんを繋げた。俺とミツキさんが出会った場所。かけがえの無い思い出ばかりが詰まった場所。手放したくはないけれど、やはり手放すとしたら、これが最も納得のいく理由なのだ。
だが手放すのならば、"タダ"では手放したくはない。俺は意を決した。こくりと心に決めて、杉浦さんに感謝を述べる。
「ありがとうございます。俺、分かりました。やってみます」
何の事かさっぱり分からないだろうが、杉浦さんはふふっと笑いながら背中を押してくれる。
「うん、後悔のないように」
そうだな、まずはミツキさんとふたりきりで会って話そう。話しはそれからだ。
俺は胸をときめかせていた。明日、ミツキさんはひとりで来るだろうか。もし、あの若いやつを連れてきても、怒鳴って帰せば良いよな。ミツキさんとふたりきりなら交渉に乗るって、俺が強く出たって、ミツキさんはきっと飲み込むしかないんだから。
そう心底思っては胸を高鳴らせていたのに、翌日、俺の目の前に現れた交渉役はミツキさんではなく、あのチンピラだけだった。さすがにブチ切れそうだ。高校時代は割と手が早かった方なのだから、ここまで抑えてきた俺を褒めて欲しい。
「……って事なので、俺が交渉役を続投します。今日、仕事終わりに時間貰えませんかね。買収価格は破格の値段だと思いますよ? 上に相談して、金額上げる事も検討してるんで」
マジで、ふざけんな。ミツキさんが来るんじゃねぇのかよ。握っていたグラスをそのチンピラの顔面に投げ付けてやろうかと思った。しかし暴れて店に迷惑がかかる事は避けたかった俺は、チンピラを睨みながら暴れる事なく、ただ言葉で確認するだけだった。
「昨日の藤って人、来ないンですか」
「だから来れなくなったって、今言ったでしょう」
「…であれば、あの土地、渡す気はないんで帰って下さい」
「まぁ、そう言わないで下さいよ。うち以上に高い値を付けて買ってくれるところないですよ?」
「売らねぇって言ってるよな? 良いから、帰って下さい」
「高遠って人からあの土地を譲り受けたんですよね?」
驚いた。そんなところまで調べ上げたのか…。ぎょっとして、グラスを拭いていた手も止まる。
「とても親しい間柄だったんですね。父のような存在だったとか。そんな方から譲り受けた土地を手放すのは、身を切るようで苦しい決断かとは思います。でも、今を逃せば後悔しますよ? 今はあの土地を手放す良いチャンスでもあるんです。もし、この開発が頓挫してしまえば、土地の価値は下がる一方。コインランドリーの利用者だってもう誰もいないでしょう? であれば、借金だけが…」
「何を言っても無駄です。俺は手放す気はありませんから」
舌打ちを鳴らしそうになって堪える。今までの交渉とかなり異なる手法で落とそうとしてきてる事は分かった。つまり、裏にミツキさんがいる事は明白だった。なのにミツキさんは、一向に姿を現してはくれない。その現実が歯痒くて、苛立ちを覚えるが、あの手この手でミツキさんのいない交渉は続き、ミツキさんが来る事はなかった。そんなある日の事だった。
「…ね、バーテンさん、今のって、もしかしてヤクザだよね? 大丈夫っすか?」
チンピラとの交渉という名の口論を聞いていたひとりの男性客が、空のグラスを片手に話し掛けて来たのだ。明るい茶髪はサイドを軽く刈り上げ、全体的にパーマがかっていて、ウェットなワックスで固め、かなり派手で遊び人って感じの人だった。
「大丈夫です。最近、よく来るんですよね。迷惑かけてしまって、すみません。何か飲まれますか?」
「えー、最近よく来るの? 大変そうだなぁ。あ、オーダーは…モヒートにしようかなー? ミント多めで!」
男はそう言いながらカウンターの前に立ち、「かしこまりました」とモヒートを作り出す俺を見ながら、男は言葉を続けた。
「いや、実はさ、さっきの会話聞こえちゃったんだけど、もしかして西ノ森町の土地開発の事じゃないかなーって気になってさ」
土地の名前は出ていないはずだが、何故分かったのだろうかと首を傾げながら、「そうなんすよ」と肯定すると、彼は顔を輝かせた。
「やっぱり! 俺さ、二丁目の外れにある小さい三階建のアパートに住んでたの」
なるほど、あのエリアの住人だったか。
「二丁目の外れって、もしかして蔦がめっちゃすごいとこっすか」
「そうそう! でもほら、立ち退きに遭ってさ、君も同志かなぁーと」
「そうなんよ! 三丁目の二階建てに住んでたンすけど、大家が土地を売っちまって、追い出されましたよ」
「俺も俺も。まっじで最悪だよなぁ。だから、もしかしたらあのエリアの件でヤクザに絡まれてんのかなーって、思ってサ」
「実は俺、ある一角の土地持ってて、それで毎日チンピラに交渉という名の脅しを受けてます」
呆れ顔で訴えると、男は「げぇー、だりぃー」と男は顔を顰めた。
「俺実はね、元そっちなの。今は足洗って堅気だから、安心してほしいんだけど、あいつらのしつこさとか、よーく分かってるし、さっきのやつの組とか知ってるからさ、君が不憫でならなくて」
「え、さっきのやつの組、ですか…」
もしかしてミツキさんに繋がる情報が得られるのでは、と考えながらモヒートを差し出すと、「ありがと」と屈託のない笑みを浮かべて礼を言われる。
この人、元はこの辺のヤクザだったりするだろうか。ミツキさんについて何か知ってたりするだろうか。
「あの、組の名前とか、分かりますか」
「うん、知ってるよ。佐野組ってとこが仕切ってる。ま、フロント立てて、〇〇興業とか建設会社とか言ってるとは思うけど、実態はゴリゴリのヤクザだから」
「佐野組…ですか」
つまりミツキさんはその組に所属してる、という事らしい。
「そ、佐野組。天久会、って聞いた事ない? 堅気さんだと知らないかな。かなり大きい老舗組織なんだけど」
「天久会、聞いた事あります」
有名どころの名前が出てきた。その系列にミツキさんがいるとは…。あの人は俺が思っている以上に、裏の世界にどっぷりと浸かっているらしい。
「そ、佐野組はその直参。今の天久会があるのは佐野組のお陰って言われてんの。佐野組は金持ち組織だからねぇ、土地開発に絡んでるって聞いても驚かないよな。…でも、あの西ノ森町の交渉役って最近変わったって聞いたんだよなぁ」
その言葉に俺はひくりと反応した。
「え、お兄さん、何か知ってます? もしかして、その佐野組の事とか、新しい交渉役とか、詳しい事、何か知ってますか」
「んー詳しい事は分からないけど、チラッとは耳に入るよね。ほら、新しい交渉役って、今回の件が難航してるからって理由で駆り出されたらしいんだけど、その人、元警察官らしいからさ。すげぇ頭キレるんだってよ。頭が良いって得だよなぁ。まぁ、だから駆り出されたんだけど」
ミツキさんの事だ。間違いなく、ミツキさんの事に決まってる。男は話を続けた。
「俺がまだ極道やってた時に、俺と兄貴でバーで飲んでたら、そのヤクザが来た事あんのよ。そいつよくそこで飲んでるらしくてさ。で、兄貴が、『あいつ、元警官なんだってよ』って言ってたから、強ち嘘じゃなさそうだなーって、その人の雰囲気を見て思ったんだよなぁ。ちょっと取っ付きにくそうってか、雰囲気が根っからの極道者じゃない感じがさ。それが交渉役になるんだから怖いなぁーって、思ってたんだけど、全然違うチンピラが西ノ森の交渉してるし、バーテンさん絡まれてるしさ、どーなってんのって思ってね。ま、それで声掛けたんだけど、俺が知ってんのはそれくらいかなー」
それくらい、と言われたが俺にとっては十分な情報量だった。
「そうだったんですね」
でも俺はまだ知りたい事がある。ミツキさんがよく飲んでいるというそのバーについてだ。もしかしたら、今でもまだ、そう思った。
「あの、その新しい交渉役がよく飲んでたバーってどこのバーなんですか?」
情報は多いに越した事はない、そう思って訊ねると、男は、んーと唸った後、記憶の隅にあったであろうバーの名前を絞り出した。
「ラタンデュ、だったかな」
「ラタンデュ…」
それが本当なら、そのバーが行きつけだとは信じ難い、が、ミツキさんはきっと知らないで飲んでいるのだろう。あの場所が穴場になったのは最近だし、ミツキさんの事だから単純に酒が好きで通ってそうだな…。そう考えていると、男は情報を付け加える。
「青坂エリアの外れにあるバーでさ、隠れ家みたいなとこ。ウィスキーバーで、店内がちょっと薄暗くて洒落てたイメージだったなぁ。…けど、何、その新しい交渉役のヤクザに、直接ナシつけるの? 怖いもの知らずだねぇー」
「い、いや、そういうわけじゃ…」
「その元警官ヤクザ、今もバーに顔を出してるって話だし、行く価値はあるかもよ? ほら、みかじめ取りに定期的にいるみたいだから。あそこのケツモチ、佐野組だからね、その人が担当になってんじゃないかな?」
ヨシッ、来た。その言葉に心の中で大きなガッツポーズを決める。ようやく、ミツキさんに会える。ふたりで話すチャンスだ。
「ほ、本当っすか」
「ま、話すならチンピラヤクザより、頭のキレる元警官ヤクザの方が良いよねぇ。話し通じるし。あ、そういやぁ、佐野組の集金って、日曜日に行ってるイメージあるわ。日曜日に行けば、いるんじゃねぇの?」
佐野組、ラタンデュ、日曜日、ミツキさん。ここまで情報があれば、もう逃さない。俺はひとり頷き、その元ヤクザのお兄さんが去った後、すぐに佐野組を調べた。しっかり調べて、ミツキさんを捕まえて、逃がさないようにしなければ。
俺は西ノ森町の土地開発の事と、佐野組という組織について調べた。土地開発に関しては、ある程度の情報がすんなりと手に入ったが、佐野組に関して調べて分かる事は、本当に大雑把な事だった。数日間も仕事を休んで、足を使って情報を探り、ネットを駆使したが、収穫は僅かなもの。
例えば佐野組は思っていた以上に大きい組織で、今の佐野組組長が天久会のナンバー2である事。そしてその佐野組事務所の住所や組員数、幹部の名前など、一応は頭に叩き込んだ。特に組長についてはまぁまぁな情報の収穫だった。地位が地位なだけに出回る情報も多いのだろう。佐野組長という男はかなりやり手で策士で、金儲けが上手いらしく、数年前に本家の跡目争いで、今の会長を組織のトップに座らせた功労者だと、週刊実話パンチングという胡散くさい雑誌に書いてあった。
しかしただの組員の情報なんて分かるはずもなく、ミツキさんに繋がるものはなかった。
とは言え足を使って分かった事もある。あの洒落たイカついお兄さんが言ってた通り、ラタンデュは佐野組がケツモチをしており、週に一回、集金が来るという事。ラタンデュの周りの店から話しを聞くと、開店直後か閉店直後に、組員が集金に顔を出す事が多いと聞いた。その情報を元に、俺はラタンデュへと足を運ぶ。
そうして開店と同時にバーで張り込む事30分ほど。背の高い、高級スーツを身に纏った男が店内に入って来る。その横顔を見た瞬間、はっと心臓が止まりかけた。いや、数秒止まっていたかもしれない。真っ黒な艶やかな黒髪に、細いフレームの黒縁メガネ、笑う事のなさそうな冷淡な唇と、鋭い瞳。ミツキさんだ。紛れものなく、ミツキさんだ。途端に心臓が騒がしく鳴り響いた。
ミツキさんはマスターと軽く話しながらウィスキーを頼み、カウンターの端の席に腰を下ろした。俺は少し離れたテーブル席にいた為、ミツキさんとマスターの会話は聞こえなかった。
しばらく様子を見ていた。ミツキさんの近くに座っていた若い男と、40代くらいの男が、やけに近い距離で何かを話しているが、その接し方でその人間が何をしようとしているのか、すぐに分かった。高校の時、その世界にどっぷりと浸かっていた俺にとって、彼らが何なのか見分ける事は容易いし、驚くような光景ではなかった。この場所が穴場というのは、そういう事。
だが、ミツキさんは違う。やはりこの場所がどういう場所か、全く知らないようだった。怪訝な顔をして、横目で彼らを見ているミツキさんを見て、少し揶揄いたくなった。
俺は意を決して、そっと近付いた。敢えて売りをするように声を掛けると、ミツキさんはウィスキーを握りながら、呆れた様子を醸し出した。俺にはまだ気付いていないらしい。しかし、誰に声掛けてんだ、と苛立ちを含めながら振り返ったその顔は、一瞬にして硬直する。怒りの熱が引き、代わりに冷えた戸惑いが滲んだ。
ミツキさんは途端に焦りを見せ、カウンター席から即座に立ち上がって店を出ようとした。だがその瞬間、ふらりとその体は傾いた。違和感を覚える。ミツキさんのふらつき、バランスを取れずに、あわや倒れそうになった事に、嫌な感覚を感じた。本人は大丈夫だと言って聞かないが、そんなわけがない。その違和感は、一緒に歩いていれば確信に変わった。
まさかなと、ある事が頭に過る。刺傷が腹部の場合、足に後遺症が残る事がある、とどこかで聞いた事があったのだ。ミツキさんは左足を庇うように歩いているし、歩行速度は明らかに前と違う。慎重に一歩一歩を踏み出しているように感じるのだ。
どうしたって左腹部を刺された傷が原因のように感じて仕方がなかった。それでも大丈夫だと、何もないと、ミツキさんは否定をする。俺も医者じゃないから、それ以上は詰められなかった。
諦めて、俺はミツキさんに向き直る。足の事を今追求したって、平行線になってしまうからだ。俺には一分一秒が大切だから、このチャンスは逃せず、足のことを探るより、今はある事を伝えたかった。
それはこの人に対する宣戦布告である。
だから口早に思いの丈をぶつけた。長年抱えてきた思いと、これから行う傲慢な行為に対する謝罪。ミツキさんの唇を奪い、俺の決意は揺るぎないものに変わった。この人の中には、俺がいる。まだ、ちゃんと残ってる。そう確信してしまうと、もう後には引けなかった。俺の行動はきっと、ミツキさんの逆鱗に触れるだろう事は分かっていたし、殴られるだろうとも思った。それでも俺は、ミツキさんに今を生きてほしいのだ。あの世界と決別して、堅気となって、今を見つめてほしい。だって、そうすりゃぁ裏の人間だからと、俺を突っぱねる理由をひとつ消す事ができるのだから。俺はきっととても強欲なんだろう。
俺はひとりになると携帯を手に取り、息を整えて覚悟を決め、佐野組事務所へと電話を掛けた。
「尾上 遥真という者です。佐野組長、いらっしゃいますか」
………
……
…
「どうも、はじめまして」
佐野組の事務職近くにある喫茶店、秋桜。店内には誰もおらず、白髪混じりのマスターがカウンターの中にある椅子に腰を掛け、コーヒー片手に新聞を読んでいた。
案内された店の奥にあるボックス席は、ビロード生地のソファで肌触りが良い。数分後、ぞろぞろと強面のスーツの男が数人、近くの席に腰を下ろした。それからコーヒーを先に飲んでいた俺の目の前に、佐野組長が現れ、対面に座って挨拶を交わす。黒スーツに黒いシャツ、だからこそ目立つような不気味なまでに青白い肌。もっと厳つい男が出てくるかと思っていたから、心底意外だった。
それにこの人、あの日、ミツキさんとチンピラヤクザと共にクラブに来ていたもうひとりの男だ。組長直々に来ていたとは、これまた意外だ。となると、やはりミツキさんがいたから、この人もあの場にいた、という事になるのだろう。
「尾上 遥真です」
「どうも、初めまして。西ノ森町のあの土地、手放す気になった?」
「その事で、条件があります」
「ほう。何?」
「フジ ミツキ、彼を組から足抜けさせて下さい」
鞄に入れていたクリアファイルから一枚の紙を出す。それをテーブルの上に置くと、佐野組長はそれを見下ろしながら長い足を組んだ。
「出来ないと言ったら?」
「あの土地は、あなたには売りません。他に欲しがる人はたくさんいますから」
「へぇ。強気だね」
「あの土地の価格は億単位にまで膨れ上がりました。俺が手放さなければ、相当困った事になりますよね。大手ゼネコンが絡んでるとの事ですし、早く買収したい、そうでしょう? ミツキさんの足抜けを許可して頂ければ、俺は一銭もいりません。交渉代としてあなたの組には相当な金額が支払われる予定ですよね。あなたを動かしている建設会社もタダで土地が手に入るんです。億という金が、タダで手に入る。その金を組に流す事だって、ビジネスに長けてるあなたなら考えているはずです。どうです? 飲めませんか」
佐野組長は表情ひとつ変えず、静かに質問をする。
「あの土地、君にとっては大切な土地なんじゃないの」
「はい。俺にとって父のような人の形見ですから」
「それを一銭の金にも変えず手放すの」
「はい。ミツキさんを堅気にできるわけですから、俺にとっては億という金より価値があります」
「藤の為に大切な土地を手放すんだね」
「はい」
「へぇ、即答だね」
佐野組長は足を組み直した。
「だからミツキさんの足抜けを許可して下さい」
ミツキさんが組にとってどれほど重要で、どの地位にいるか、この組長にとってどれほどの価値があるのかは分からない。もしかしたら、飲めない条件だと、突っぱねられる可能性も高い。それでも俺に出来る交渉手段はこれしかなかった。
佐野組長はコーヒーを飲むと、数秒の間を置いて、質問をひとつ投げかける。
「藤についてどこまで知っているかは分からないけど、あいつは結構訳ありよ。そんなあいつが今更、表で生きていけるだろうか。表に戻った途端、潰れてしまう事だって考えられるけど、君はそれでもあいつを堅気にしたいの?」
「はい。俺が支えます。何があっても、ミツキさんを堅気にした責任は俺が取ります。ミツキさんの過去も十字架も、一緒に背負う覚悟です。ミツキさんの過去に何があったとしても、未来で何があったとしても、俺はミツキさんの側にいて、ミツキさんの重荷を少しでも軽くしたい。だから、ミツキさんには堅気になって今を生きて欲しいと、そう思ってます」
佐野組長は俺の言葉を聞いた後、「へぇ」とぽつりと呟くと、書類に視線を落とした。
「億の金を突き返すくらいには、藤に対する想いってのは強いんだろうね。でもあいつは、君が思う以上に裏の人間だ。そうは見えないだろうけど、どっぷりこちらの世界に浸かった人間だ。そんなあいつを表に戻せると、本当に思ってる?」
「はい」
「元極道なんて側に置けば、君はきっと苦労するだろうに。億という金を捨てて、訳ありの男を捕まえる、君が思う以上に過酷だと思うけど、君は本当にそれを望んでるのかい?」
何を言いたいのだろうかと、少し考えた。そしてぽつりと思う。この人は、淡々とした口調で感情が読めないが、ミツキさんを心底心配しているのだろう、と。俺の年齢だって知っているだろうし、若い男がただ突っ走っているだけで、共倒れする可能性がある、そう思われているのかもしれないと思った。億という金を捨てる、その覚悟は理解しているだろうが、いっときの感情に翻弄されているだけだったら、そう考えていれば、ミツキさんを手放すわけにはいかないと、思っているのかもしれない。
「俺は、ミツキさんからしても、あなたからしても、きっと子供です。未熟な子供扱いだと理解してます。でも、ミツキさんに今を生きて欲しい気持ちは誰にも負けません。あの人の側にいれるなら、何だってします。それはミツキさんと別れた日から、月日が経っても変わりませんでした。変わらないどころか、想いは強くなる一方です。俺はこの先もずっと、ミツキさんの側にいたいんです。だから、ミツキさんの足抜けを、許可して下さい」
本音を漏らすと少し声が震える。どうしようもない想いが溢れそうになって、喉の奥でつっかえる。佐野組長の前ではどっしりと構えて交渉を進めるべきだと思っても、ミツキさんの事を聞かれると、感情が昂ってしまうようだった。佐野組長は数秒の沈黙を作り、何かを納得したように瞳を伏せた後、口を開く。
「分かった、良いよ。億という金を積まれちゃね、仕方がないよね」
「ほ、本当ですね?」
「男に二言はない」
そう佐野組長は用心棒か世話役か、付き人らしい強面のひとりに何か指示を出す。その人は、持っていた革の鞄から万年筆と印鑑を差し出した。あっという間だった。佐野組長は何の躊躇いもなく署名し、捺印を済ませたのだった。
その紙切れ一枚は、今、自分の命よりも大切なものになった。組長のサインと捺印が押された離脱書。つまり、足抜けをさせる公的書類。この紙切れで、俺はミツキさんを同じ世界に引き摺り出す。そしてミツキさんの言い訳をひとつ、潰す。俺とは住む世界が違うから、という言い訳を。
「あとはあいつのサインだね」
「ありがとうございます。土地に関する書類は、弁護士を通してお渡しします」
「弁護士を通して、か。かなり警戒してる?」
しないわけがないだろ。言いそうになったが、もちろんそんな口の利き方をすれば、近くにいるお付きの人に殺されそうだから、そうとは言わない。
しかしこの世界の人間は、欲しい物の為には殺しをも厭わないと分かっている。億という金は、人が殺される理由として十分だろう事も。だからこそ、この場に書類は持って来なかったし、受け渡しは慎重に進めたかった。
「一応は、しておく必要があるかと思いましたので。裏の人間と会うわけです、しない理由がありませんから」
「ふふ、ふははは」
不気味な男が不気味に笑った。目を細め、にやりと口角を上げると、口元を手で隠しながら肩を震わせた。何がそんなにおかしいのだ。あんたらヤクザは簡単に人を消すだろうが。
「そんな風に面と向かって正直に言われるとはね。そうだよね、警戒するよね。君は賢明だ。だって確かに、君がここで、あの土地は絶対に売らないと言ってきたら、俺は君を帰すわけにはいかなかったのだから。警戒して当然だよね。弁護士を通して受け渡しを進めた方が安全だ。最悪の結末にならなくて良かったね、お互いに」
「……そう、ですね」
言いながらひやりとする。売らなければ、やっぱりこの人は俺を消すつもりだったんだ。これだからヤクザは嫌いだ。
「まぁ、とはいえ一番肝を冷やしてたのは藤だろうけどさ」
「…ミツキさんが、ですか?」
「そう。話しがご破産になれば、あいつには君を消すよう命令していたからね」
「え……、そうなんですか?」
「そう。生憎、ヤクザ者なんでね。でもね、あいつは…」
その時だった。佐野組長が何かを言いかけた時、ドアベルがカランと鳴る。
「組長……! 待って下さい! 彼には、彼には…」
あまりにも驚いて、体は硬直してしまった。青褪めた顔で店内へ入って来たのはミツキさんだった。取り乱すミツキさんは見た事がなかったし、それにその顔はとんでもなく腫れ上がり、痛々しく色を変え、あまりにも別人のようだった。
ミツキさんは左足を庇いながら、こちらへと歩いて来る。佐野組長の近くでふらりと体が傾き、あ、と咄嗟に俺の体は動いていたが、間に合わず、ミツキさんはガタンと隣のテーブルに上体を叩きつけてしまった。
「ミツキさん! 大丈夫ですか!」
駆け寄って体を支えようと腰に腕を回すが、ミツキさんは俺なんか視界に入っていない。そのまま佐野組長に頭を深く下げたのだ。
「組長、遥真君の件、どうか手を引いてもらえませんか。彼を自由にしてやってくれませんか…。代わりに、俺を煮るなり焼くなり、好きにして構いません。土地開発の損失は、死ぬ迄、俺が補填します。だからお願いします、組長。彼からあの土地を奪わないでやってくれませんか」
真っ直ぐに吐き出された言葉を聞いて、心臓がひくりと反応する。苦しくなって、息をするのも難しい。この人の愛おしさに、心臓はあっという間に限界を迎えてしまうのだ。ミツキさんは佐野組長に懇願し、佐野組長は吐き出された言葉を淡々と聞いていた。再度コーヒーを一口飲むと、ミツキさんをじっと見つめる。
「お前、来るのが遅いよね。もう話しはついたの。そんでお前はもううちの組員じゃないの」
「………え?」
突然言われて意味が分からないだろう。ミツキさんの眉が怪訝に寄せられる。
「だから俺とお前はもう関係ないんだよ。お前を煮るのも焼くのも俺じゃない。死ぬ迄、金を補填する先も、俺じゃないの」
「ど、どういう事ですか……」
「お前、殴られ損だったね」
殴られ損…。もしかして、殴られたのってまさか…。佐野組長はくすりと笑うと俺を見る。俺は少し気まずさを覚えながら、ソファの上に置いていた鞄から先ほどの離脱書を出して、ミツキさんに差し出した。ミツキさんは訝しげにそれを見て、それでも尚、混乱している。
「離脱……、待って下さい、どうして…」
「身請けだね。お前は買われたの。億という金でね。買ったのはそこにいる若者だ」
「まさか…」
ミツキさんは愕然と切長の瞳を見開いて、俺を見た。
「離脱書、佐野組長にはサインを頂きました。あとはミツキさんのサインと捺印が必要ですので、お願いします。そしたらそのまま警察署、行きましょう? 提出したら、ミツキさんはもう堅気です」
ミツキさんは混乱した頭を無理矢理に回転させようと、離脱書を何度も読み、佐野組長に視線を移す。
「組長、俺は組を辞める気はありません……、なのに、どうしてサインを…」
佐野組長は冷淡なまでに落ち着いた口調で言葉を返す。
「そのサインひとつで数十億という金、サインしないわけがないよね」
さも当たり前のように淡々と返される答えに、ミツキさんは動揺を隠せないようだった。
「しかし…」
「お前は自分の価値が数十億以上だと思ってるの? 反論するという事は、そういう事だよね」
「そ、れは…」
「だとしたらご立派だね。生憎、お前は億なんて価値はないんだよ。お前を手放して億という金が手に入るなら、俺は喜んでお前を手放すよ」
「……っ」
ミツキさんの表情は複雑そうに歪められる。拳を握ると、ひとつ呼吸を整え、言葉を飲み込んだ。ふらりと近くのソファに腰を下ろし、明らかに項垂れている。勝手に話を進められて離脱させられた事に、ミツキさんが俺を殴ってもおかしくはないが、どうやら殴る気力すら無くなってしまったらしい。
「あの土地は、君にとって大切なものだったんじゃないのか」
数秒の間を置いて、言葉と共にミツキさんは俺を見上げた。
「どこまで探って知ってたかは分からないですけど、あの土地は、確かに俺が父のように慕ってた人の形見です。高遠さんって言うんですけどね、その人。あの土地はもともとその人の土地で、その人が俺に残してくれた唯一の場所でした。でも、俺の為になるように、好きなように使ってほしい、そう言ってくれたんで。だから俺はあそこをコインランドリーのまま残していようと思ったんです」
「だったら何故、今になって、手放すんだ…」
ミツキさんの疑念に満ちた表情に、俺の口角は上がってしまう。
「そんなの、あんたと同じ世界にいる為でしょう。あのコインランドリーには、あんたとの思い出の場所がたくさんあってさ、俺にとっては、あんたの行方を探る唯一の場所だった。この先もずっとコインランドリーとして残しておけば、あんたがいつか、懐かしくなって、ふらっと来るんじゃないかって。あの場所だけが頼りだったんです。つまり、あんたの為に残していた場所なんです。……だからごめんね、ミツキさん。俺はね、こうして再会できた今、あんたをもう手放したくないし、手放す気はありません。だからさ、俺と住む世界が違うからって理由で俺を突き放さないで下さい。今を生きて下さい。同じ世界で生きましょう、ミツキさん」
俺の本音を、ミツキさんは眉を顰め、困ったように何かを考えながら聞いていた。ミツキさんは何も返さず、佐野組長は相変わらず無表情で、コーヒーをすずっと一口飲むと、「執着ってのは凄いね」と一言呟いた後、にやりと不気味に笑った。ミツキさんは溜息をひとつ吐き、佐野組長はそんなミツキさんを見た後、俺に視線を向けた。
「あまり語りたがらないこいつに代わってひとつ教えてあげようか。さっき言いそびれてしまった、こいつがどうして顔を腫らしてるか、その答え」
土地を渡さなければ俺を殺す。そう言われて、あの土地の事を知ったミツキさんが、殴られる理由…。まさかと思ったが、そうなんだろうな。
「組長…」
ミツキさんは言うなと止めようとするが、佐野組長は口角を上げ、俺を見つめて言葉を続ける。
「君の土地を奪わないでほしいと、さっきみたいに懇願したからだ。上に楯突くようじゃぁ、殴られて当然のこの世界で、堂々と楯を突いた。本人だってこうなると分かってたろう。それでも言わずにはいられなかった。そうだろ? 藤」
ミツキさんは眉をひくりと寄せるだけで、返事はしなかった。無言が多くの事を語り、佐野組長はそれを理解して、はらはらと笑いながら言葉を続ける。
「藤にとっての優先順位は明らかだったね。だから、良かったね、尾上君。君の願いは叶いそうだ」
胸がぎゅっと締め付けられ、つい目頭が熱くなった。俺なんかの為に、ぐだぐだになるまで殴られて、血まで流して…。心臓が痛い。鼓動が騒がしい。
ミツキさんは眉間に深く皺を寄せて、じっと俯いて何も返さずにいた。そんなミツキさんを見下ろしながら、佐野組長は立ち上がる。
「さて、と、行きますか。堅気さんに迷惑が掛かってしまうからね」
堅気さん、その言葉は俺にではなかった。ミツキさんはそこでようやく顔を上げると、拳を握ったまま腰を上げ、「佐野組長…」と何かを言いたそうにぽつりと呟いた。佐野組長はそれを汲んだように、ポンと肩に手を置くと、小さく笑いかけた。
「生きて、今度はしっかり救われなさい」
今の俺には、なぜ佐野組長が救われなさい、と言ったのか、その理由を知らない。ミツキさんの過去のアレコレに関して、まだまだ俺は知らないのだから。
でもこれからミツキさんと時間を共に過ごして、ミツキさんの過去やミツキさん自身の事を知れば、その救われなさい、の意味も分かるのだろうか。
ミツキさんは唇を噛み締め、去って行く佐野組長の背中を見つめた後、深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」
苦しそうに絞り出された声が、隣で微かに響く。この人はもう、どこかに消えることはない。死に急ぐ事も、もうない。俺はミツキさんの横顔を見つめながら、そう感じた。
喫茶店を出て、近くのだだっ広く、ひとけの無い公園でふたり、肩を並べてベンチに座る。近くにあった自動販売機でコーヒーをふたつ購入して、ひとつを手渡した。ミツキさんは、ありがとう、と礼を言って受け取り、蓋を開ける。一口飲むと、ゆっくりと背もたれに身を預けた。
「こんな風にヤクザ世界を去るなんてな…」
ぽつりと吐き出された言葉を聞いて、俺はミツキさんの表情を伺うように視線を移す。
「俺は、早くあんたにあの世界を去って欲しかった」
一語一句をしっかりと噛み締めるように伝えると、ミツキさんは「そうか」とわずかに眉を顰めて低く応えた。
「なぁ、遥真君」
「はい」
「君は俺を堅気に戻して、何を望んでる。億という途方もない金を蹴って、俺に足抜けさせて、君は何を考えてる」
そう聞かれ、ひとつひとつと言葉を選んだ。
「俺はあんたを同じ世界に引き摺り込みたかったんです。引き摺り込めば、俺にもチャンス、あるでしょう?」
「君は本気で俺と関係を築きたいのか」
「えぇ、今も昔も、本気です」
「若さは愚かだと思ったが、月日が経った今もか」
「何とでも言って下さい」
「 俺は君の人生にとって悪影響しか与えない。元ヤクザってだけで貼られるレッテルは多いだろうし、何より俺は前科者で多くの罪を重ねてきた。君は、そんな未来のない男と一緒にいる必要はないんだよ。君は若いし、もっと真っ当に生きられるだろう。今は良くても、いつかは後悔するのがオチ…」
まだそんな事を言うのか。俺は深い溜息を吐いて、ミツキさんの方に体を向ける。
「あんたが前科者だろうが、元ヤクザだろうが、何だって良いって言ってんの。…俺、あんたの事、色々と知ってるつもりです。元警察官だって事も、あんたがアキって呼んでた恋人の事も。あんたが直接殺したわけじゃないって事も知ってます。でも、あんたは罪の意識からずっと十字架を背負ってここまで来た。それも分かってます。あんたが過去ばかり見なくて済むように、今を生きようと思うように、俺はあんたの側にいたいんです。だから億という金を捨ててでも、あんたを手に入れようとしたんです。そんな俺が、後悔すると思うんすか」
真剣な眼差しで、訴えるように言葉を並べると、ミツキさんは驚いたように目を見開く。そしてそっと瞳を伏せたのだ。
「…だが、いつか後悔してもおかしくはないだろ」
「俺はずっとあんたの事が忘れられなかったんですよ。アサノさんには、あんたは死んだって聞かされて。それでもずっとあんたの面影を追い続けていて、それが今こうして公園でコーヒー飲んでるんです。俺が今、どれほど幸せで、嬉しいか、あんたには分かりませんか」
ミツキさんは何も言わなかった。だから俺は言葉を続ける。
「あんたが手に入るなら、何だって良いって思ってる。今はまだ俺の言葉を、信用出来ないかもしれないけど、俺はずっとそうだと思うよ。死ぬまでずっと、あんたの隣が良いって思い続ける自信がありますから」
「俺なんかの為に、って怒り散らしたいんだけどね…、君の言葉を聞くと、流されそうで怖いもんだよね」
怖がってくれる時点で、もう結論は出ているのに。この人の意地は、俺が若いからなのか、それとも自分が訳アリだからなのか。…いや、両方か。ならばひとつ、事実を伝えようと口を開く。
「ミツキさん、俺ね、あんたのせいで不能になったんです。あっちの仕事ができなくなったんです。あんたのせいです。だから、責任取って貰えますか」
ミツキさんは少し間を置くと、唖然としたように俺を見つめながら眉を顰めた。
「……不能って、…本当に言ってんの?」
「本当です。あんたが消えて、あんたに似た冷たそうなメガネ美人を見つけては口説いて、抱こうとした事がありました。でもいざそうなると、全く勃たないんですよ。終いにはその界隈で不能って噂流れて、自分でもそうなんだろうな、って。だからあれから、誰ともヤってません。……でも今、心底痛感してます。あんたが隣にいると、すごく心臓が煩くて、体は熱くて、きっと俺は今も昔も、あんただけが欲しいんだって。側にいたいのも、抱きたいのも、あんただけなんです。俺の健康の為にも覚悟して下さい」
そこまで言うと、ミツキさんは困ったように笑い、照れたようにまた視線を逸らした。
「俺の健康の為、か。ふふ、そうか。…それに抱きたいって、よくストレートに、こんな顔のやつに言えるな」
その笑みを見て、ようやく緊張の糸が解けたかなと、俺は口元を緩めた。
「パンチドランカーでボロボロなあんたも魅力的です」
ニッと笑うと、ミツキさんは「阿呆だな」とくすっと笑みを溢した。その笑みに胸を撫で下ろす。安堵が胸の内側をゆっくりと温めていった。
「あんたがここにいる。それだけで舞い上がって何も考えられません。だからさ、ミツキさん。何も言わずに、俺のものになってくれません?」
「キザなセリフだな」
「ふふ、あんたに言いたかったんです。俺は本気です。だから俺と一緒に、今を、生きてくれませんか」
ミツキさんはふふっと静かに笑うと、鋭さのない、甘さを含んだ瞳で俺を見た。
「そう、だな。…君のものになってやろうか」
心臓がきゅっと鷲掴みにされて、途端にあたふたと頭が真っ白になった。君のものになってやろうか、という甘ったるい言葉の破壊力たるや。このまま俺は幸せに脳が破壊されて死ぬんじゃないかと思った。
「ミ、ミツキさん、」
頭は真っ白になってしまったが、それでも、ミツキさんが急に気が変わったと言わないよう、両手を包み込み、言葉を紡ぐ。
「俺は絶対にあんたを幸せにしますから」
「そうだな。君が望むまで、側にいさせてもらおうかな。宜しくね、遥真君」
そう微笑まれてしまったら、感情が爆発しないわけがなかった。感極まって抱きつき、これでもかと言うほど抱き締める。ミツキさんはおい、と反射的に焦ったように声を出すが、すぐに受け入れたように背中をポンと優しく叩いた。
「この先ずっと、俺はあんただけがいれば良い。重すぎるって言われるかもしれないけど、俺にとってあんたはそういう存在だって事、分かってて下さい。あんたが俺の側にいてくれる事に対して、後悔なんて、一生絶対にしないんで」
ミツキさんの表情はゆるりと緩んだ。体をそっと離すと、「分かったよ」と目尻を下げて頷いた。その表情を前に、胸の奥底がじんわりと熱を帯び、言葉にし難いほどの幸福が静かに脳を支配していった。
でも幸せに流されてはいけない。ミツキさんにはやってもらわなければならない事がある。そうミツキさんを見つめながら、そっとカバンから離脱書を取り出して、ペンも渡す。
「じゃぁ、ついでにサインして、捺印して下さい」
ミツキさんは明らかに、今かよ、と顔に出す。
「…この流れで離脱書にサインとか言うなよ」
言葉にも出した。
「雰囲気あるでしょ?」
首を傾けると、ミツキさんはおかしそうに肩を震わせる。だってミツキさんには一刻も早く足抜けしてもらいたいのだ。
「何の雰囲気なんだろうな、コレは」
「組の連中があんたを連れ戻そうとしても、連れ戻せないように、早く足抜けしてほしいんです」
「…そうだな、分かったよ」
「サインしたら、そのまま警察署に行きましょう。届け出るまで、地獄の果てだろうが、あんたが嫌がろうが、どこにでもついて行きますから。逃げないで下さいよ」
そう言うと、ミツキさんは腕時計を確認した。
「警察署、もう閉まってるんじゃないの?」
え。…そうか、もう、そんな時間だったか。俺は口を尖らせる。
「確かに。なら、明日ですね」
「明日だな。…で、届け出るまでついて来るんだったか?」
その言葉に笑みが溢れないわけがないだろう。にやりと笑いながら頷いた。
「じゃぁー、今夜はミツキさんン家に泊めて下さい。あんたが今まで何をして、何を見て、どう過ごしてきたのか気になるから」
「本当に、ちょっと怖いくらい俺に執着してるよね、君って」
「怖い…? マジ? で、でも知りたいものは知りたいでしょう」
「そうだな?」
「…なんか、ミツキさんが淡白なだけな気がしますけど」
「そうか?」
「そうです。でもまぁ、確かにあんたに対する執着がだいぶ強いのは否定できませんけど。でもある程度は許して下さいよ。だって、今までが今まででしたから」
「そうだな」
「だから生きてて、尚且つこんな風に隣にいるなら、あんたが離れないように執着してしまうのも納得でしょう? 許して下さい、ね?」
「…ね? って」
「本当になんかもう幸せすぎて頭がふわふわしてきます」
「君の物好きはいい加減、恐ろしいよ」
ふっと、笑われる。俺はそんなミツキさんを見ながら、そうだ、と重要な事をひとつ思い出す。さすがにもう教えてくれるだろう。
「ミツキさん、足の事、聞いても良いですか。本当の事、教えて欲しいんすけど」
ミツキさんは左足を見下ろした。
「あー、…これね。まぁ、これも解決なのかな」
「解決?」
「明日警察署行ったら、その足で病院にも行ってくるよ。そこの大病院、専門医がいるらしいからさ。…ついて来るか?」
ミツキさんが、俺を隣に置いてくれる。側にいる事を、ちゃんと許可してくれる。ミツキさんの言葉は、きっとミツキさんが思っている数百倍は俺を喜ばせた。
「うん! 一緒に行きます! 俺ね、車の免許も取得しましたから」
「へぇ。車は何乗ってんの?」
「いや、持ってないです」
「え?」
「買ってません。だって車乗らないから」
「じゃぁなんで取ったの」
「んー? いざという時の為、でしょうか。明日、車借りるから病院行ったら、そのままどこかへ行きませんか。行きたいところ、ありません?」
「行きたいところ、か。……そうだな、海、かな」
「海ねぇ。良いですね、うん、行こう。海! 秋風が気持ち良さそうっすねぇ!」
「そうだな。…もう秋、なんだなぁ」
「暑いけど、もう秋なんすよね。早いですね、時が経つのは」
「そうだな。……なぁ、遥真君」
「ん?」
「長生き、しろよ。うんと長く生きろよ」
ミツキさんが優しく微笑む。それだけで、俺は何もかもがどうしようもなく幸せになる気がした。だってこうしてふたりで笑い合える日が来るとは思ってもみなかったのだから。ミツキさんと同等に、この人の隣を陣取れる日がくるとは、夢の中だけだけだと思っていたのだから。
今日も、明日も、明後日も、俺はただただ、この人の隣にいたい。俺は、この人の過去も、未来も、一緒に支えられるような人間になりたい。
ミツキさんに、君の隣で良かったと、いつか笑ってもらえるように……。
コインランドリー
END
関連作品『コインランドリー 君の隣』
18禁描写を含むのでPixivでのみ公開しております!
コインランドリー Rin @Rin-Lily-Rin
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