15. 君を想う


保谷の居場所が分かったと、佐野組長から連絡が入った時、俺は躊躇なく引き金を引くつもりで銃を握り、廃墟となったビルに入って行った。ビルの中は異様な静けさだった。一階の奥、コンクリートの冷たい床に座り、壁に寄りかかったまま、ほくそ笑んでいる保谷を見つけた時、俺はこの世界の儚さと酷さを痛感し、同時に、復讐を果たした時、人はこうも目的を失ってしまうのかと、生きる事に対しての疲労を、確かに感じていた。


俺は保谷の正面に腰を下ろした。保谷のこめかみは、見事に一発の銃弾が脳天を弾いて、反対側へと貫通した痕が綺麗に残っていた。なんとも勝ち誇ったような顔をしていたのを、今でも思い出す。右手に銃を握り、左手には写真が握られていた。その固く握り締められていた写真を静かに手の中から外し、ゆっくりと開く。そこには若い頃の保谷と、肩を組んで歯を剥き出して笑っている菊島の姿があった。俺は保谷の顔をじっと見つめた。瞬間、息絶えた目の前の男に、言われたような気がした。



『復讐を果たせず残念だったな。お前は復讐も果たせず、一生苦しみ続けろ』



笑われた気がした。本来であれば、俺はほくそ笑むその顔に苛立つべきだったのだろう。苛立って、冷たくなったその体に銃弾を全て撃ち込んで、復讐心をぶつける事だってできたのだろう。でも、しなかった。なんだか一気に、何もかもが終いになって、肩の力が抜けて、重荷が全てなくなって、あまりにも呆気なくて。だからこのまま俺は、アキの元へ行こうと考えていたのに、保谷の勝ち誇った表情を見ながら、ぽつりと語りかけていた。


あなたは勝ち逃げしたと思ってるかもしれませんが、大間違いです。あなたへの復讐は果たせました。だって俺はきっともう苦しまないでしょうから。これで全て終いなんです。俺はただひとりで、生きるだけ。あなたのように、死ぬ最期の瞬間、誰かを強く思いながら、ひとりで生きていくだけですから。あなたは地獄でずっと苦しめば良い。そこに菊島さんがいるのなら、随分と幸せな地獄かもしれませんけどね。


保谷の手に写真を戻し、立ち上がる。


俺がやるべき事は呆気なく幕を閉じた。保谷に背中を向けてビルを後にしながら、胸元から皺くちゃになったタバコの箱を取り出し、中から一本取り出して火を点ける。


もう一度、触れる事が出来れば、話す事が出来れば、笑い合える事が出来れば。保谷は最期の瞬間、そう思っていたのだろうか。いや、ようやく会えるなと、待たせたなと、清々しい気持ちだったのかもしれない。


きっと俺も最期は、同じように誰かを思うのかもしれない。


ぐっと強く拳を握った。そう思ってしまった自分に心底腹が立っていた。薄情な人間なんだと、己を嫌悪した。それでも思い出してしまう。隣に座りながらうたた寝してしまう彼の姿や、甘えて下さいと微笑む彼の笑み、素直に感情を剥き出す様も、若さ故に危険を顧みない態度も、今となっては全てが全て懐かしく、愛おしい。


自分の傲慢で破滅的な欲望を叶える事は許されないが、遠くから彼の幸せを願う事くらいは許されるだろうか。


あの日、夢うつつに魘されながら聞いた言葉が心の中にずっとあった。


『もうそれ以上、苦しみを背負わないで』


遥真君が言った言葉だ。確かに彼が言った言葉だった。だが、寝ぼけていたのだろう。俺にはその声が、その言葉が、アキが言ったように聞こえて仕方がなかったのだ。アキの夢を見ていたせい、ただそれだけなのだろうが、瞬間、胸に詰まっていた何かが、すっと取れた気がした。アキに、いつまでもそんな顔しないでよ、そう言われた気がしてしまったのだ。


同時に早く決着を付けなければと、その時思った。そして早く、遥真君から離れる必要がある、と。


彼は俺なんかと関わるべきじゃなかった。それだけは確かだった。盲目的に突っ走って、将来後悔する、典型的な阿呆なのだ。


でも、彼の側は確かに心地が良かった。それが、怖かった。俺は前科持ちな上にヤクザだ。犯罪に手を染め、沈む所まで沈んだ。だから何があっても二度と彼と交わってはいけない。どんなに脳が、体が、彼を求めて欲したとしても、彼には真っ当に幸せな道を歩んでほしい。


なのに記憶とは残酷で、その強い思いとは裏腹、体は思い出してしまうのだ。あのあまりにも過激で茹だるような熱を抱いた日を。流されるようにまぐわってしまったが、まぐわうべきじゃなかった。罪の意識だけが色濃くなるだけだった。最後の願いを聞いてやったんだから、という理由付けにはなったろうが、あの交わりは俺という人間をどろどろと溶かしてしまった。思い出しては唇を噛み締め、拳を握る。


二度と関わりを持たない男との情事など、忘れてしまえたらどれほど楽か…。


だから、彼がいる街に戻る度に体は強張った。彼に会ってしまえば、俺の覚悟は揺らいでしまうのではないか。側にいる事で、彼を不幸にすると分かっているのに、傲慢にも彼を欲してしまうのではないか。あってはならないと、何度も何度も言い聞かせる。


彼の事を忘れる事が出来れば、俺はアキの元に行くだけなのに。そうすれば何もかもが平穏だと言うのに。


時の流れは、針山のようだった。


[newpage]

………

……


直参となり、本家若頭にも就任した佐野組長は、俺を佐野組事務所に呼び出した。中へ入ると組長室の鍵を閉められる。たったふたりだけの空間が異様だった。何か、しくじったろうか。そう勘繰っていると、佐野組長は俺に座るよう命じ、俺はシングルソファに腰を下ろす。佐野組長は対面に座ると、俺の左足を顎で指した。



「いい加減、足の事を俺にも言ったらどう?」



あぁ、だからか、とわざわざ鍵まで閉めた理由をそこで知る。歩行障害の事を俺はひたすらに隠していたのだ。あのボロアパートを離れてから、俺は組長に願い出て、地方の傘下組織の手伝いとして地方にいた。


だから佐野組長が俺の足の異常を知る事はないだろうと、隠し通せるだろうと思って今まで隠していたが、どこからか漏れてしまったのだろう。最初に異変に気付いたのは目敏い風橋だったから、そこから漏れた可能性は高いが、もしかしたらアサノさんから漏れた可能性もある。とどのつまり、いつかはバレる事だった。これ以上は隠し通す事は出来ないと、俺は左足に異変が起きている事を認めた上で、大した事はないと断言した。



「へぇ。医者の見立てとは随分と違うものなんだね」



「医者…、アサノさん、ですか」



「一応、あいつの信頼を守る為にも言っておくけど、あいつが俺に言ってきたわけじゃないよ。俺があいつに白状するように促したの。お前、前に風橋の前でふらついたんだよね? その時、風橋が咄嗟に体を支えたみたいだけど、あの時にはもう俺のところに報告は入っててね。風橋はもしかしたら、あの刺傷が原因じゃないかと報告して来たから、あいつには俺から聞いたの。何か知ってるんじゃないの? って。ふふ、あいつ、嘘が苦手だからね」



「そう、でしたか…」



「地方に行っても診療所には定期的に行ってたみたいじゃない。こっちにいるのに俺にも挨拶なしとは、偉くなったもんだよね」



「すみません。…言いたくはなかったので」



「どうして?」



「使い物にならないと判断されれば、切られる理由になるかと思ったんで」



「へぇ、そう。お前はここにいたいの?」



「はい」



「そうなんだ。まぁ、お前は頭使えるから、どうとでもなるでしょう? 足が不自由になったって、俺はお前にいてもらいたいと思ってるよ」



「はい」



こくりと頷くと、佐野組長は何かをまるで察したように首を傾けて少し考えた後、今日の本題へと話しを変えた。



「頭が使えるお前を呼び戻したのはね、今、大きな仕事を抱えてて、それがちょっと厄介な事になってるからなの。西ノ森町、覚えてるでしょう?」



「はい。風の噂で聞いてました。あのアパートももう取り壊された、と」



「そ。あそこらへんの治安は最悪だから、隠れ蓑には持ってこいだったんだけど、まぁ、背に腹はかえられないよね。とんでもない金になる見込みなの。あんな街から外れた治安の悪いエリアが数十億よ。土地開発となれば良い値がつくから、どいつもこいつも欲しがるってわけだ。で、そんな中ね、うちと繋がりがあるゼネコンが土地開発に一枚噛む事になったんだけど、まぁー面倒になってさ。あの土地の買い占めはほぼ完了してるみたいなんだけど、一部だけまだ手放さない所有者がいるって、そいつが手放さないとそのエリア一帯のエリアの価格はかなり下がるらしいの。ね? 頭抱えるでしょう?」



「つまり自分にその所有者を説得しろ、と」



「そう。話しが早くて助かるよ。詳しい話は外にいる槇本から聞いてくれ」



「分かりました」



「槇本でもお手上げだって言うから、相当シンドイ件になると思う。売ってくれ、って良い値段で交渉してるのに売ってくれないなら、まぁ、やるべき事はひとつになってしまうからサ、頑張ってね」



「はい」



お前が失敗すれば、その所有者を殺す、という事だ。重い仕事だが、足は使わない。頭だけでどうにかなるならマシな仕事か。そう思いながら組長室を後にして、雑談していた槇本を捕まえる。槇本はざっくりと事の経緯を話した。



「あの土地の所有者って、数年前に変わってたみたいで、前の所有者は高遠 政志って人だったんすけどね、調べたらその人亡くなってまして。新しい所有者に変わってたんです。で、調べてンすけど、その新しい所有者に関して情報が出て来なかったンすよ。それでひとまずあのコインランドリーの土地は後回しになったんです。だからその場所以外、今じゃほとんど更地なんですけど、やっぱりその一角を持つ所有者が分からないから、どうにかしてくれって、久田社長からオヤジに直々に連絡入ったって経緯なんです。もともとは、その一角を無視しても良い値になるって事で工事進めたくせに、結局その土地もって。で、久田社長、あ、岩ノ木建設会社の現社長がね、大手ゼネコン絡んでるし、さっさと片を付けたいって事で、かなりの金を注ぎ込んでくれたんすよ。こっちもヤル気だして頑張りまして、その甲斐あって、一週間前にようやく所有者が判明したんです。よっしゃーって思ってた矢先っす。その所有者、まさかの金で靡かないヤツだったんすよ…。こっちから提示してる買収価格、とんでもないンすよ? 何度も丁寧にオネガイしてるんすけど、門前払いです」



「へぇ。相当苦戦してるんだ」



「はい。だからもう兄貴しかいないンすよね」



「その所有者の居場所、教えてくれる? 下見に行ってくる」



「あ、今夜行く予定です。オヤジも様子見たいって言うんで、その時に一緒に行きましょう。そいつの自宅とかまだ掴めてないんで、職場ですけど」



「職場…? その人、堅気なんだよね? ヤクザが3人乗り込むのはどうかと思うけど」



「まぁ、俺も兄貴もオヤジもパッと見は極道ぽくないじゃないすか。オヤジはちょっと不気味な感じありますけど。でもでも、ザ・ヤクザって感じじゃない」



「けど俺はあまり乗り気にはなれないな。行くならひとりの方が…」



「あ、そもそも、職場つってもクラブです。踊る方の。そいつ、六丁目にあるデリリオってデカいクラブのバーテンなんすよ。だからスーツ男3人で押しかけても目立たないすよ」



土地の所有者と言うから、勝手にいい歳したおっさんだと思っていた。だが、デリリオのバーテンダーとなると確実に俺よりは年下だろう。20代前半って事も有り得る。そんなガキのような相手に、槇本が苦戦し、佐野組長が俺を呼び戻した。一体何者なんだ、そいつ。


俺が腕を組むと、まるで俺の考えていた疑問を悟ったように、槇本は溜息混じりに答えた。



「いけ好かないガキなんすよ。ヤクザなんて怖くねぇよ、って面と向かって言ってくるようなガキです。口の利き方を学ばせたいっすよ」



「物怖じしないガキなんだね」



「単純に生意気なんすよ」



「口調からして男、か?」



「男っす。いつも女を侍らしてます」



「へぇ。モテるんだな」



「顔立ちの良い、派手目で背の高いガキです。チップとか弾んでもらって、チヤホヤされて、すっげぇ鼻に付く感じです」



「何、僻んでるのか」



「そんなんじゃないすよ。折れてくれねぇから、いい加減腹立つなって思ってるだけで」



「ふーん」



「…まぁ、そんな事は良いんすよ。夜に行くんで、それまでに支度をお願いしますね。行く時は声を掛けますんで。兄貴、こっちに来るの久しぶりでしょ? だからそれまでは好きに過ごしてて下さい」



「あー、…うん。ありがとう」



久しぶりではないが、槇本は俺の足の事や診療所の事は何も知らなかった。だからそう礼だけを言って、槇本と一旦別れる。槇本は他の若衆を連れて外へと出て行き、暇を持て余していると集金を終えた風橋が事務所へと戻って来る。久々に顔を合わせると、風橋は「少し外へ出ませんか」と誘い、特にする事もない俺はデリリオへ行くまでの間、風橋と共に街へ出る事にした。



「どこへ行くんだ?」



問い掛けると、風橋は「まだ言いません」と車を走らせる。だが少し走らせると、見慣れた馴染みのある小道へと車は入って行った。なんでこんな所に連れて来たかったのかな…。あの頃が懐かしいですね、と言う柄でもないだろうに。



「随分と、変わったね」



外を見ながらぽつりと呟くと、風橋は「えぇ」と頷いた。



「藤さんがいない間に、ここら辺は変わりました。あれ以来、ここには来てないですよね」



「そうだな。けど、懐かしいと思える建物は全て取り壊されて更地になってるからね。感傷的にならずに済むから良かったよ」



「感傷的、ですか。……遥真君に死んだと伝えたって、本当だったんですか」



「アサノさんから聞いたの?」



「はい。藤さんが帰って来るって話を聞いた時、たまたまアサノさんのところにいたんです。遥真君と出くわす可能性あるって、ぽろっと漏らしたら、だとしたら遥真君はひどく驚くだろうね、って言うので、何故かと聞いたんです。そしたら、アサノさんが遥真君に藤さんの死を仄めかしたって言うんで、本当だとしたら、ちょっと世知辛いな、と」



「仄めかすんじゃなくて、直接的に死んだって言ってくれりゃぁ良かったんだけどね」



「…もう彼に会うつもりはありませんか」



風橋はそう静かに訊ねた。反射的に眉間に皺を寄せると、バックミラー越しに俺と視線を合わせた風橋は、「すみません、」と謝り、俺から視線を外して進行方向へと視線を戻す。



「でも良い青年、でしたね」



「……そうだね」



だからこそ、もう関わるべきではない。


風橋の言葉からは、どこか遥真君を気にする言葉が汲み取れた。アサノさんに何かを言われたのか、それとも風橋自身も、俺には組を抜けて、とか思っていたりするのだろうか。だから遥真君と過ごした日々を思い出させるような場所へ連れて来たのかもしれない。


だとしたら、風橋には悪いが、俺は二度と遥真君と会うつもりはない。


そう思っていると、寂れた古いコインランドリーが視界に入る。瞬間、何もかもが鮮明にフラッシュバックした。あの日々は、あっという間に過ぎていったなと、じっとそのコインランドリーを見つめてしまう。淡い蛍光灯は一部がチカチカと切れかけていて、壊れて動かない扇風機のせいで室内はきっと蒸し暑いだろう。彼と初めて話した日は確か大雨だった。彼は洗濯したばかりのジャージの上着を俺の洗濯籠に掛けてくれた。下心だったのかな。それとも興味だったのかな。何にせよ、彼とあの時、話していなければその後のイロイロも、何も起きてはなかったんだよな。


彼は、本当に俺と関係を築きたかったのだろうか。彼にとって俺は何だったのだろうか。彼は今、何を思い、誰の事を考えているのだろうか。


俺はコインランドリーから視線を下ろした。車は様変わりした西ノ森町を出て、大通りへと進み、事務所へと戻って行った。


深夜少し前。槇本の運転でデリリオへと向かう。入口には入場待ちの列が見えた。セキュリティの男は佐野組長を見ると深く頭を下げ、佐野組長は「金を落としに来たよ」とだけ伝える。セキュリティはすぐにドアを開けて中へと通した。もちろんのように、VIPの部屋を用意しようとしたが、組長は少し飲んだらすぐに帰るからと部屋には行かず、バーエリアへと向かった。このデリリオというクラブは、鷹村組のフロント会社が運営している。鷹村組の持ち物であり、そこの鷹村組長は佐野組長をかなり慕っており、代紋違いの兄弟分、といった印象があった。


そんな店に目的の男がいるのだ。このクラブが敵対組織の持ち物じゃなくて心底ほっとしてしまう。



「お前でダメなら、面倒な方法を取る事になるからね」



「はい」



佐野組長の圧に胃がきりりと痛む。どうしたって落とさなきゃならない。それは組の為にも、そしてその所有者の為にも。


バーエリアはひとつの部屋になり、四方にダンスエリアと繋がるドアで仕切られているが、ダンスエリアからの音が漏れ、加えて人々の話し声で室内はかなり騒がしい。


今日はひとまず男に近付いて様子を伺い、雰囲気を知れたらそれで良い。情報をなるべく落とさせて、帰ったらすぐに調べようと考えながら、槇本に案内されるがまま男のいるカウンターへと足を進めた。


槇本が言うように、男が接客するカウンターは女性客で賑わっていた。ただまぁ、侍らせているわけではないが。女性客は注文したドリンクを手に入れても、カウンターで飲みながら、そのバーテンと話しているようだった。もちろん、このバーエリアにはソファやボックスシートがあり、ゆっくりと座れる場所はいくつもある。が、彼女達の目的はそのバーテンなのだろう。


遠目からでも背が高く、体格が良い事は分かった。しかし顔はよく見えず、槇本の後に続きながら進んで行く。槇本はカウンターに近付くと、「どーも」と白い歯を剥き出した。



「また来たンすか。何度来ても同じだって言ってますよね」



バーテンはグラスを拭きながら視線を合わそうともせず、うざったそうに答える。



「そう怒らないで下さいよ。新しい交渉人を連れて来たからさ、紹介しようと思いまして」



「だから誰が来ても…」



槇本に肩を並べるように一歩近付くと、グラスを拭いていたバーテンが怠そうに顔を上げた。瞬間、心臓がぴたりと止まった。時間も止まった。何もかもが、一瞬にして止まった。数秒後、ドッドッと騒がしい鼓動音が耳元で響き渡る。目を見開いたまま硬直しているが、それは相手も同じだった。いや、彼の方が強く動揺したらしい。グラスがするりと彼の手から滑り落ち、騒がしい室内の中でも目立った破砕音を響かせる。その音で俺は我に返り、自分を落ち着かせるように一度深く呼吸を整えた。男は状況を理解しつつ、複雑そうに眉間に深い皺を寄せた。



「……あれ、知り合い、ですか?」



まさかな、と槇本は半笑いで俺と彼を交互に見る。だが、殺しをも念頭に置いてる佐野組長がいる前で、口が裂けても知り合いだとは言えない。言ってはならない。彼を巻き込みたくない一心だった。



「いや、知らない」



槇本は俺の返事を聞くと、彼の顔を見上げる。彼もまた「俺も知りません」と割れたグラスを回収しながら否定をした。これで良い。


だが参ったな……。事は相当厄介だ。俺はひと呼吸置いて、彼と向き合った。



「初めまして。今日から、西ノ森町土地開発の交渉担当になった藤と申します。あの土地に関して、話しだけでもさせてもらえませんか。少しで構いません。時間を頂戴する事は出来ないでしょうか」



男は深く息を吸って、深く吐くと、一口だけ水を飲んで俺と視線を合わせた。その瞳に心臓がまたひくりと跳ねる。動揺を表に一切出すわけにはいかない。後ろには佐野組長がじっと俺を見ている中で、下手な事はできないのだ。



「……遥真って言います。[[rb:尾上 > オノエ]] 遥真。来るならひとりで来てくれません? ズラズラと複数人でこんな所に来られても困るんですよ。こっちは仕事してるんで。来るならひとりでお願いします」



ひとりで来るのなら話してやっても良い、と言われてるのだろう。フルネームを教えた、つまり、自分の事を探って、ひとりで会いに来い、そう言われた気がしてならなかった。話す余地があるのはこちらとしては有難い。だが、俺がこれ以上彼に関わる事は避けたいものだ。



「そうですね。分かりました。また出直します」



端的に伝えると、隣で槇本がもう終いですか、と目で訴えてくる。それを無視して立ち去ろうとすると、遥真君が咄嗟に声を掛けた。



「また、来てくれる…、来るんすか」



「はい」



「そう、すか」



「それじゃ、また」



「また」



遥真君に背中を向けて槇本に指示を出し、カウンターから離れる。佐野組長と視線を合わせると、佐野組長は無表情のまま熱のない視線で遥真君と俺とを交互に見た後、その場を去った。何かを悟られていなきゃ良いが…。



「どうするの?」



店を出て車に乗り込むと、組長はそう小首を傾げた。



「一旦、自分に預けてもらえますか…」



「もちろん。そのつもりだったけど、時間はあまりないよ。分かってる?」



「はい。帰ったら彼について探ります」



「分かった。いい結果を期待してるよ」



「はい。槇本、帰ったら少し手伝ってほしい事がある」



「もちろんっすよ! 何でも言ってください」



車窓を流れる風景を眺めながら、俺は淡々と遥真君のことを考えていた。俺が交渉役になってしまえば、佐野組長に俺と彼が知り合いだと気付かれる危険性がある。だから交渉役を槇本に戻すのが最善だろうと思った。それが遥真君を守る道なのだ。俺が彼に近付いて良い事は1ミリもない。


槇本にはあのコインランドリーの前所有者に関して調べるよう指示を出し、遥真君に関しては自分が調べると伝え、なるべく彼については探らせないように距離を取らせる。


だが調べれば調べるほど、土地を奪う事に躊躇が生まれる。あの土地が彼にとって手放せないものだという事が浮き彫りになっていったからだ。いわゆる、形見だった。


槇本が調べた高遠という人物について読みながら、遥真君が何を考え、どう接していたのかを考える。そこから読み取れるものは親子愛であり、彼にとって高遠という人間は父親以上に父親だった、という事だ。父親のような人が残した土地だ。彼の身の上を少なからず知っている俺としては、彼から土地を取り上げる事が、彼を心底苦しめる事だと理解してしまった。大金を積まれても売らない理由は、そこにあるのだろう。


しかし、あの土地を手放さないと彼は消される。俺は深い溜息を吐き、ある事を決意した。


槇本が交渉材料を片手に、再び遥真君に買収価格を提示し戻ると、疲れ果てたように俺に報告をする。



「兄貴が言った通り、高遠という男の形見としてあの土地を所有してる事が分かったと伝えてみました。その人との絆が深い事を強調して交渉挑みましたが、全然ダメです。てか、すげぇ怒られました。藤って人が来るんじゃないのかって。交渉役は変わったんじゃないのかって。だから、言われた通り言ったンすよ? 別件で忙しくなってー、とか、地方に急に行かなきゃならなくなってーとか。でも信じてないみたいなンすよ。兄貴がやっぱ行かないと進まないと思います。……兄貴は彼の事、何か知ってンすか。直接交渉は、なんでしないンすか」



疑われて当然だろう。それでも俺は、遥真君との関係をベラベラと話す事は出来なかった。



「言ったろう。何度も足を運ぶお前の方がまだ信用を残してるって。この前行って、直接目で見て思ったんだよ。今ここで変わってしまったら信頼作りは相当大変だなって」



デタラメの逃げの口実だ。槇本は馬鹿じゃない。何かを薄々は勘付いてるが、厄介な事には手を出したくないと思うような男で、深くは追求しないと決めたようだった。



「そっすか。…まぁ、指示出してくれるなら良いっすけど」



「指示は出す。だからもう少しだけ、指示通り動いてくれ」



「分かりました」



「ありがとう」



このまま遥真君には会わずに進めたい俺は、なるべく交渉時間を延ばしたかった。理由はひとつ。佐野組長にあの土地を諦めてもらうよう交渉するため。その為の交渉材料を探したかったのだ。だが、億単位の金に化ける話なんてそうそう無い。代わりの土地があればベストだが、そんなものは探したってなかった。ならば他に金になるような仕事は…。あるはずがなかった。土地開発という大口を手放す理由は、どこにもなかった。


そして時間だけが過ぎてゆく。一週間が経過して、槇本から報告が入る。ここ3日間、遥真君が出勤していない、と。異様な不安が襲った。どうしようかと考えながらも、彼の家を特定出来ていない俺は、頭を抱えながら情報屋に頼るしかなかった。不安は拭い去れないが、それでも仕事はしなければならず、あるバーでみかじめの回収をしながら一杯のウィスキーを飲んでいた。


ほぼ毎日出勤していたというのに、書き入れ時の金曜日と土曜日を含めて休んでいると言うのだ。異常事態と言えるだろう。



「何、悩み?」



マスターに首を傾げられ、「どうですかねぇ」と流しながらカランと氷を溶かす。



「相談なら乗るよ?」



「相談ってほどじゃありませんが、バーテンってさ、金曜と土曜が稼ぎ時ですよね?」



「そりゃそうだろ。華金なんて特に休んでられないよ」



「ですよね」



「何かよく分からないけど、せっかくこっちに戻って来たんだからさ、少しは羽を伸ばしなよ。しみったれた顔してると俺が困る」



「なんで?」



「なんでって、心配してんだよ、俺も」



「へぇ、マスターが俺をね。素直に礼を言います。ありがとう。でもまぁ、時間が解決するかと思います」



「そう?」



なら良いけど、そう少し雑談を交わすと、マスターは客に呼ばれ、「ちょいと失礼」とカウンターから離れて行った。


でもやはり、金曜と土曜の休みというのが気になった。体調を崩したのか、それとも土地絡みで良からぬ事が起きているのか。だとしたらうちではなく、他の組が? いや、まさか。佐野組長が仕切ってるこの件を、他の組が手を出すとは思えない。だとしたら、佐野組長が何か仕掛けたか。いやいや、それは無いだろうな。まだ佐野組長が動くタイミングではない。


そう考えていると、ふと「今日どう?」と2席離れた席に座ってた若い青年が、俺くらいの年の男に声を掛けられているのを見る。「大丈夫です」と返答した若い男の声が少しだけ遥真君に似ていた。ふたりは会話を交わし、その会話の中には隠語が含まれていた。隠語を使っているが、どうやら若い青年は男娼らしい。この子も未成年だったりするだろうか。それにしても、このバーで売り買いの話をするなんて、怖いもの知らずらしい。バックにうちが付いてるとは知らないのだろう。ふたりは少し話すと直ぐに店を出て行った。


大雨の日に、コインランドリーで遥真君は携帯片手に外で電話をしていた時の事をふと思い出す。あの時、俺は彼が男娼だと知った。ドアの隙間から会話がダダ漏れていた事を、彼はきっと今だに気付いていないだろう。後々、彼に「売るなら人を選べよ」と忠告したが、心底驚いた目をしてた事が懐かしい。ウィスキーをまた一口飲み、彼の行方を考える。携帯を開いて情報屋からの連絡を待つが、連絡は入っていない。そう簡単に人の行方が分かったら苦労しないか。



「……こんばんは。お兄さんさ、今夜暇だったりしません?」



その時、突然そう声を掛けられる。ここの治安はだいぶ終わっているらしい。ヤクザ相手に売り込みとは、とんだ阿呆がいるものだ。一度痛い目に遭わせてやろうかと考えつつも、マスターに迷惑がかかっても嫌だなと、結局は穏便に断ろうと顔を上げた瞬間だった。視界に飛び込んできたのは、忘れたくても忘れられなかった男の顔。思い出の中でしか動かなかったはずの顔が、今、目の前にいる。喉が詰まり、言葉を吐く事が出来なかった。



「俺、どっちも上手いよ。お兄さんは好みだから、安くします。だからさ、ホテル行かない?」



見開いたままの瞳は閉じそうになく、硬直したら体も動かない。彼はそんな俺を見て、クスッとおかしそうに笑った。



「なんてね。しばらくミツキさんの事、見てたんですよ。全然気付かないもんですね。ここ、売りの穴場なんです。まさかこんな所にあんたがいるとは、思いもしませんでした」



動揺に恐怖心を抱き、そのまま勢いよく席を立つ。外へと逃げようとするが、勢いをつけてしまえば左足がもつれる事は分かっていた。なのに、あまりにも動揺してしまったのだろう。左足の事を忘れていたのだ。案の定、ふらりと体はバランスを崩してしまった。遥真君は咄嗟に俺の体を支えると、驚いたその瞳が俺をじっと捉えた。



「え、だ、大丈夫っすか」



「…悪い。大丈夫だから」



離してくれないか、という意味を込めて掴まれた腕を押し返すが、遥真君はその握る力をより一層強めるようだった。離さない、と言い返されている気分だ。



「いや、大丈夫じゃないでしょう。酒で酔ってるわけじゃないし、今のふらつき、ちょっとおかしいですよ」



来店と同時に見られていたのだろうか。酒で足元がふらついた事を否定され、俺は息を整えながら説明する。



「驚いて急に立ち上がったからだ。少しバランスを崩しただけで、本当に何もない」



淡々と返すと、遥真君は眉根を顰めながらも一旦は飲み込むように腕を離した。



「…そう、ですか。まぁ、良いです。ひとまず、話しませんか」



それはできない、そう言って逃げるには、身体的に無理があった。走って逃げる事は不可能で、ゆっくり歩く事が精一杯な今の体に、遥真君を巻く事は絶対に出来ない。俺は頭を掻きながら、「ひとまず外に出よう」そう誘って店外に出る。夜の繁華街の外れを歩いていた。近くに広い公園があり、俺はゆっくりと歩きながらその公園へと向かっていた。人目に付かない場所に一刻も早く逃げたい、そう思っていた矢先、遥真君に再度、腕を掴まれる。



「ミツキさん、……大丈夫じゃ、ないですよね」



目敏いやつほど面倒なものはない。ただでさえ、遠ざけたいと言うのに、どうして彼は放っておいてくれないのだろう。彼にとって俺は、大切な土地を奪おうとする悪党のひとりだろうに。



「大丈夫だと何度言ったら良いのかな。何もないから…」



「俺、もう大人ですよ。今は真っ当に働いてます。頼ってくれても良いんじゃないの?」



「だから…」



「左足、庇ってるように見えます。歩きづらそうに見えるんです。短期間でしたが、俺はあんたを見てきたつもりだし、あんたと一緒に生活もした。考えたくないけどさ、あの時、左を刺されてましたよね? 何か関係してたりしますか。ちゃんと病院には行ってますか」



そこまで読むとは、腹が立つほど勘が良い。



「…何もないから、心配しなくて良い」



遥真君はその言葉に怪訝な顔を見せ、そして俯くと少し考えてから、再び顔を上げた。



「あんたは死んだと思ってた。だから、もう二度と会えるはずがないって、ずっとそう思ってた。こうして再会できたのに、あんたはまた姿をくらませて、しかも何かを隠していて。なのに心配するなって方がおかしいですよ。心配くらいさせて下さいよ」



「じゃあ言うけど、俺が君の前に現れたのは仕事だからだ。土地を手に入れる為であって、君と親しくなる気は最初からない。だから君は俺を心配するだけ無駄なんだ。分かったら、その腕を離してくれないかな」



冷淡に響くよう、無感情に言葉を吐き出す。遥真君は「そうですか」と返した後、言葉を続ける。



「だとしても、俺の心配を否定する理由にはならないし、俺があんたに抱く感情が変わるわけでもない。俺はあんたを追い続けますよ。あんたが生きてたって知った今、逃すわけにはいきませんから。正直、あんたが生きてたって事実だけで十分だと思いました。あんたが俺の前から姿を消した理由が、理解できないわけじゃないから、その考えを尊重する事も考えました。でも、…やっぱり欲を掻いてしまうんです。俺は、今も、昔も、あんたの側にいたくて、あんたの事を知りたくて、どうしようもない。もう離れるって選択肢は、俺にはありません。だから覚悟して下さい。俺はきっともう、二度とあんたを離さないから」



やけに真っ直ぐな瞳は、あの時と何ひとつ変わってはいない。直向きで、熱を惜しみなく俺に与える。若さ故の愚かさとは、何と恐ろしいものだろうか。



「…遥真君、」



俺は君の側にはいれないと口を開くが、遥真君は否定の言葉は聞きたくないと言うように言葉を重ねた。



「あの土地の事、調べたんすよね」



「調べたよ。君にとっては形見、そういう土地なんだろう。知った上で売ってほしいと交渉してるんだ。良い買収金額を提示してるはずだよ。悪い話じゃないだろ」



「金の問題じゃないと分かった上で言ってンすね」



「あぁ。俺が知らないなら、…なんて思った? 悪いが、君にとってあの土地がどれほど大切か分かった上で手放せと言ってんだよ。売らないなら痛い目を見る事になるだろうから、早いところ手放した方が身のためだ。俺はね、君が思っている以上にヤクザをやってるつもりだよ」



「……売らないなら俺の事、殺しますか」



「あぁ、殺すよ。前にもそう答えたと思うけど」



遥真君は少しの間を置くと、何かを感じ取ったように首を傾けて瞳をじっと見つめた。



「ミツキさんさ、俺の事、どう思ってます?」



質問の意図が読めなかった。どう思ってる、なんて聞いて、好意的な言葉を俺が述べると思ってるのだろうか。ここまで否定的な言葉を紡ぐ俺に、そんな期待はしていないはずだが…。彼のその疑問に眉根が寄った。



「どうも思ってない。君とは昔、同じコインランドリーを使って、同じボロアパートに住んでたというだけで、」



「どうも思ってない、…それ、本気で言ってます?」



「何が言いたいんだよ」



「俺はただ、あんたの本心を知りたかったんです。やっぱり顔を見ながら質問すると、分かる事って何倍にも増えるもんですね」



「…何?」



「あんたの嘘、何故かな、分かっちゃうんですよね。それに、俺の事はどうも思ってないのなら、どうしてあんなにも動揺したんすか」



遥真君の追い詰めるような物言いに、俺はぐっと拳を握った。



「それにどうして、俺に会わないように避けるんすか」



納得させるような言い訳を頭の中で考えるが、咄嗟には浮かばない。動揺したのも、避けるのも、遥真君を意識しての事なのだから、嘘なんてものは瞬時に思い浮かばないものだった。



「自分と関係を待てば、俺に危害が加わると思いましたか。不安になりましたか。…どうでも良いけど、あんたに邪険に扱われてる気がしないんです。むしろ、大切に思われてる気がしてならないんだよ」



「違う…」



「本当に? 違うかな」



「違う」



「怖いですか」



「いい加減にしてくれないか」



腕を離せと身を引くが、俺が身を引けば引くほど、絶対に離すもんかと、握る力はより一層強くなる。



「ミツキさん、ヤクザならもう少し嘘つくの上手くなったらどうです?」



煽るような言葉と瞳に血が上る。本来俺は嘘をつく事が上手かったはずなのに、遥真君には嘘すらまともにつけない自分が腹立たしく思えた。図ったように、急所を突かれたのが、なおさら癪だった。言葉を返せず無言でいる俺に、遥真君は嬉しそうに相好を崩す。



「やっぱり俺はあんたに大切に思われてんだ。良かった」



「違うって言ってるだろ」



「俺はあれからずっとあんたの事しか考えてませんでした。異常なくらい、あんたの事しか頭になかった。何度も何度も忘れようと努力したけど、無理だった。そんなあんたが今、目の前にいて、今だに動揺しては否定する。だから少し、強引な手を使います」



「…あ?」



怪訝に聞き直した瞬間、遥真君は掴んでいた腕を引き寄せると、何の躊躇もなく喰むように唇を重ねた。逃さないと意思表示するように腰を抱かれ、歯列を割って舌を這わせる。背中がぞくりと粟立つのと同時に、あの日を思い出して、体が勝手に熱を帯びる。下腹部の淡い疼きと、頬の熱さに、俺はまたひどく動揺した。目一杯胸を押し返し、殴ってやろうかと睨みつけながら唇を拭うと、彼は優越感に浸ったように口角を上げた。



「最初に謝っておきます。ごめんなさい。あんたを手に入れる為なら、俺はきっと何だってする。……強引だけど、あんたにはそれくらいしないと意味ないだろうから。次に会う時、あんたはどうしたって逃げられませんから」



「…何するつもりなの」



「さぁ、何でしょう」



「何か勘違いしてるようだから言うけど、俺は君に絆される事はないし、俺は今の人生に満足してる。だから何かするつもりなら無駄だって言っておくよ」



「俺の事は嫌いですか? こうやって話すのも嫌?」



「あぁ、嫌だね。君の事も嫌いだよ」



遥真君はふっと吹き出した。



「へぇ。本当に分かりやすい。嫌いな人にキスされて、そんなならないですもんね」



「殴ってやろうか」



「ふふ、うん。次会った時、殴られるよ。……ミツキさん、俺は本当にあんたの事、今でもまだ変わらず本気だから。じゃ、近いうちに。また」



遥真君はそう言うと蹄を返して、繁華街の方へと消えていった。


彼が何をするつもりなのか、全く分からない。強引な手って何だ。先に謝るって何だ。訳が分からなかった。でももしかしたら土地を手放さない為に、何か行動に出てしまうかもしれない、そう思った。最悪、組を調べあげて、上と直接話しをしたいなどと言い出しかねない。


だとするなら、時間切れだ。彼が何か行動に移す前に、俺はやらなきゃならない。そうだな。佐野組長に頭を下げるしかない。今ここで行動を起こさなければ俺はきっと後悔する。交渉材料が揃わなかった今、俺はただただあの人に懇願するしかないのだ。


しとしとと、静かに雨が降り始めた午後、俺は組長室を訪ねていた。佐野組長は何か複数の書類に目を通していたが、俺が部屋に入るとその書類から視線を外した。部屋には本堂若頭もいた。何やら話していたらしい。



「丁度良いところに来たね、藤」



佐野組長は本堂若頭を外させず、本堂若頭も含めて話しを始めるようだった。俺は遥真君の土地から手を引いてほしいと言い出せず、「何でしょうか」と眉間に皺を寄せながら訊ねた。



「本堂が久田社長にナシをつけて、あの土地の買収価格を上げたんだ。でもこれがラスト。もうこれ以上は引っ張れないと思うからさ、その金持って、交渉に行って来い。ダメだったらその時は、お前が始末をつけなさい」



…時間切れだ。拳を固く結んだ。



「その事でお話が」



「ん?」



俺は頭を深く下げる。



「どうか、勘弁してもらえませんでしょうか。…あの土地を取り上げる事は、どうか」



頭を下げたままの姿勢で、声が震えないように言葉を整えようと必死になるが、声は微かに掠れていた。佐野組長の反応は分からない。それでも、今は頭を上げられなかった。


シンと静まり返った室内、数秒の間を置いて、ツカツカと革靴の音を響かせて男が近寄った。男は俺の前髪を鷲掴むと、冷淡な瞳を俺に向けた。一瞬だった。問答無用で頬を殴られ、その勢いで体が床に叩きつけられる。殴ったのは本堂若頭だった。それを表情ひとつ変えずに見下ろす佐野組長が、本堂若頭越しに見えた。



「お前、脳みそ腐ったのか」



本堂若頭の低い声を聞く。言い終えた直後、もう一発、頬を殴られる。メガネはどこかへ飛び、視界がぼやけていた。ついでに鼻の中を切ったのだろうか、折れていない事を願うが、血が溢れ出してシャツを汚し、殴った本堂若頭の拳も汚す。



「億の金を流せと、そう言ってんのか。まさかな、違うよな? お前、賢いもんな」



そしてもう一発。今度は左瞼を切ったらしい。左の視界が赤く染まり、何も見えなくなった。



「お前の仕事は所有者と話しを付ける事だったんじゃねぇのか。それでも売らねぇなら、消すって話しだったんじゃねぇのか。お前、最初から分かってたろう。今更、何言ってんの」



「……あの土地は彼にとって形見なんです。彼にはあの土地しかありません。だからあの土地だけは…」



「藤、」



その時、佐野組長はやけに冷めた瞳で俺を見下ろすと、淡々と言葉を発した。



「形見だから可哀想だと、そう言ってるんだね。お前が情に流されて上に楯突くなんて、心底意外だよ。でもだからと言ってあの土地は見逃せない。あの一角を手に入れる、それが条件なの。その為に随分と金を使った。今更、可哀想だから土地は奪えません、なんて言えるわけがないよね。俺達の仕事を、理解してると思ったんだけど、そうじゃなかったのかな」



「……佐野組長、」



「あのバーテンの事、お前、知ってたろう」



佐野組長の声色がひとつ低く変わる。背筋が途端に凍り付いた。



「俺が気付いていないとでも思った? お前が入る事でどう風向きが変わるか見たかったんだけどね、とんだ収穫だったね。本堂、手を離しなさい」



本堂若頭は言われた通り手を離し、胸倉を掴まれていた俺の体は力無くその場に倒れ込む。咳き込みながら体勢を整え、佐野組長にもう一度頭を下げて頼み込もうと口を開くが、佐野組長はそれを制するように命令を下す。



「藤、お前はこの件から外れなさい。お前にとっては最悪の結末になるかもしれないんだ。彼と会う事も許可出来ない。本堂、お前が藤の代わりを頼む」



「分かりました」



「藤にあの青年は殺せない。風橋に言って藤を家に送らせて。藤、明日から違う仕事を与えるから、今日は家で頭を冷やしなさい。良いね?」



どうにもできないのだろうか。不甲斐なさに唇を噛み締め、何も答えずにいると、本堂若頭は「聞いてンか」とドスの効いた低い声で脅すように言った。



「………分かりました」



どうにもできない事くらい、本当は分かっていたはずだ。後悔したくないという、ただの自己満足だと、心底分かりきった事だった。交渉材料もなく、億単位の仕事をご破産にしろなんて、誰が飲むか。


彼に何かあった時、俺はきっと正気じゃいられない。だから俺はただ遥真君を守りたかっただけだ。彼が何かする前に、先手を打ちたかっただけだ。


……もう、繰り返したくはなかった。大切な人を失うなんて経験を、もう二度と。


風橋は血だらけの俺を家ではなく、アサノさんの所に運んだ。骨は折れてないだろうし、そのまま家で良かったのに、世話焼きの悪いところだ。



「鼻は折れてないよ」



「そうですか」



「少し休んで行きなよ。風橋君は帰したから」



「…すみません」



硬い診察台の上に体を横たえると、アサノさんは頬に保冷剤が包まれているだろうタオルを押し当てた。ひやりと冷却されて、痛みは少しだけマシになる。



「君が殴られるような事をするなんてね」



「……たまには上に歯向かいたくもなりますよ」



「遥真君が関わってるのか?」



「…何故です?」



「君を殴ったの、本堂の若頭だって風橋君から聞いたから。若頭が君を殴るような事、つまり、君は組長に楯突いた。そして君が楯突くような事は何かと考えた時、ひとつしか思い浮かばなかった」



深い溜息が肺の奥底から漏れた。



「どうするの、これから」



「さぁ、ね。どうしたら良いンでしょう。分かりませんよ」



アサノさんは数秒の沈黙を開けた後、目の前に椅子を寄せて腰を下ろした。



「ねぇ、藤君。組、辞めたら? 飛んでしまいなよ」



「本当、仮にもアサノさんは佐野組のお抱えなのに、平気で飛べと言いますね」



「それが最善の策だと思うからね。このままだといつかきっと、君はひとりで潰れてしまう。そんなの誰も望んじゃいないんだ。君には君自身をもう少し大切にしてもらいたいものだね」



ぼうっと痛みを感じていた。



「大切に、ですか」



俺ができる事は何だったのだろう。何の価値もない命だが、この命に代えてでも、守るべきものを守り通す、それが今の俺ができる唯一の事だと言うのに、遥真君も守る事は出来ないのか…。組を飛んだところでどうなる。何をする。彼を連れてどこかへ? 夢物語を語ってる暇はないんだ。組の人間から一生逃げ切れるわけがない。



「……もう、失いたくは、ないんです」



ぽつりと漏れた言葉を聞いて、アサノさんはそっと手を伸ばし、優しく髪を撫でた。



「分かってる。…今はひとまず休もうか。口、開けてごらん」



言われるがまま口を開ける。鎮痛剤か、睡眠薬か、何かよく分からないカプセルを飲み込んだ。冷たい水が胃を満たし、しばらくすると、すぅっと全身から力が抜けていった。すっかり眠っていたようで、気付くと3時間が経過していた。携帯で時刻を確認し、診察台から起き上がり狭い待合室に出る。アサノさんは硬い椅子の上で文庫本を開いていた。目が合うと読んでいたページに革の栞を差し込み、本を閉じた。



「痛みは?」



「だいぶ落ち着きました。ありがとうございます」



「もう帰るかい?」



「そうですね、帰ります。明日、佐野組長には頭下げなきゃならないんで」



「足抜けする気はないんだね」



「抜けたところで、遥真君を自由にする事は出来ませんから」



「……藤君、」



「はい」



「無茶しちゃならないよ」



まるで俺が何を考えているか、分かっているようだった。基本無表情なアサノさんの、珍しく心配そうに歪められた顔を見つめながら、俺はこくりと頷く。



「大丈夫です。俺はまだまだ、この世界で生きるつもりなんで」



………

……

….


翌日、顔の腫れはかなり酷くなっていたが、遥真君の件が気になり、早々に家を出ようと支度をしていた時だった。騒がしい携帯の着信音が部屋中に響いた。携帯を覗くと風橋と名前が表示されている。



「もしもし」



「藤さん、大変な事になりました」



風橋は息を切らしていた。焦るような口調に、嫌な予感がした。



「どうした」



「遥真君が、佐野組長を呼び出したみたいなんです。喫茶店の秋桜に入って行ったんですけど、佐野組長の用心棒もいますし、何かあってからでは遅いかと思い…」



遥真君が言った強引な事、そして謝罪、それはやはりあの土地は手放せないと佐野組長に伝え、俺と対立するから、だったのだろう。静かに深く息を吸い、深く吐く。自分を落ち着かせ、風橋に確認をする。



「遥真君は秋桜にいるんだな?」



「はい。…あの、今、藤さんのマンションに向かってます。もうすぐ着きますんで、出られますか」



「分かった」



緊張に鼓動は忙しなく鳴り続け、生きた心地がしなかった。佐野組長が遥真君を消す、そう判断を下してしまえば全ては終いだ……。


頼むから、間に合ってくれ。頼む。


一分一秒が永遠のように感じた。アキを探したあの時がフラッシュバックして手が震える。最悪な結末を想像しては、カタカタと抑え切れないほど震え、息が荒くなっていった。


俺はもう、失いたくはないのだ。もう二度と、大切な人を…。俺はどうなっても良い。この命、くれてやるから。だから、頼む。どうか、彼だけは…。そう冷たくなっていく手を握り締め、爪を食い込ませ、祈る事しか出来なかった。

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