第72話 賭け試合

 日本橋に到着すると、そこにはまたしても人集りができていた。

 町人の人垣の向こうには白い幟が立っており、「天下無双、二天廻厭かいえん流 宮本武蔵」の文字が見える、


「ふざけおって……!」

「まあまあ、ちょっと待ちなよ。何をしているのか少し様子を見てみよう。まだ手の内がすべて見えたわけじゃないんだ」


 いきり立つ真琴を沖田が引き止める。

 これまで坂本龍馬一派は奇襲や暗躍に徹底してきた。こんな堂々と仕掛けてきたのは初めてのことである。何を狙っているのか掴んでおきたい。

 野次馬を騒がせないよう人混みをかきわけていくと、幟がもう一本増えていることに気がついた。


『挑戦料一分いちぶ 一本で一両進呈』


 毛皮を羽織り、床几に座った赤坊主――宮本武蔵の横には気を失っているらしい浪人者が折り重なって倒れている。


「どうしたどうした! 次の挑戦者はおらぬのか! 拙者は天下無双の宮本武蔵! 我より一本取れば末代までの誉れぞ! それとも将軍のお膝元には腰抜けのサムライもどきしかおらぬのかッ!!」


 武蔵は瓢箪をあおり、ぐびぐびと喉を鳴らす。

 酒を飲んでいるのだろう。髪だけでなく頬までも赤く染まっている。


「何をしているのだ、やつは」

「どうやら賭け試合だね」

「なぜそんな戯れを……」

「おお、賭け事デスカ! ギャンブルならわたくしも得意デス!」


 およそ聖職者らしからぬことをいうアーシアには気がつかなかったふりをしつつ、沖田は周囲を観察する。

 武蔵が陣取っているのは日本橋のたもとの火除地だ。辺りには蕎麦や寿司の屋台が出ており、武蔵はそれを背負うようにして日本橋に向けて身体を向けている。

 見物人にも注意を向けるが、ごく普通の町人ばかりで剣呑な気配を放っている者は見当たらない。


(瘴気の気配はどう?)

(あのムサシという男以外からは感じマセン)


 念のためアーシアにも確認するが、やはり伏兵は潜んでいないようだった。


「どうしたどうした! 儂に勝ったら一両ぞ! 挑戦料はたったの一分! ははあん、そうか、しみったれの徳川幕府は飼い犬に満足な俸禄も与えていないと見える。ようし、それなら儂が腹の太いところを見せてやろう。次の者からは一朱にまけてやるぞ!」

「あやつ、言いたい放題……!」


 武蔵の放言に真琴の堪忍袋の緒が切れた。

 もはや引き止められても決して引くものかと人垣を割って進もうとする。


「止めてくれるなよ、総司殿! ……あれ、総司?」


 と、その覚悟を告げたつもりが肝心の沖田がいない。

 どこに行ったと首を巡らすと、


「どうも、今度は俺が挑戦していいかな」

「あっ!」


 沖田はいつの間にか人垣を抜けて武蔵の前に進み出ていた。

 ちらりを真琴を振り返り、片目をつむる。

 どうやら黙って見ていろと言いたいらしい。


「ソージ様に何か考えがあるみたいデス。ここはお任せしマショウ! はい、お団子デス!」

「う、うむ……」


 さらにはいつの間に買ってきたのか、アーシアからどこぞの屋台で買ってきたのだろう団子を渡させてすっかり気勢を削がれてしまう。出会ってまだ半日だが、沖田といい、この少女といいどうにもとらえどころがない。


「ほう、貴様は……」

「ひさしぶりってほどでもないね。横浜ではどうも」

「くくく、さっそく大物がかかるとは」


 武蔵が床几からすっくと立ち上がり、唇を歪めて凶相を浮かべる。それはまるで牙を剥く人食い虎のようだった。


「遊びの前に聞いておきたいんだけど、こんなところで何してんの? 一応、あんたらは目立たないようにしてたと思うんだけど」

「ふはははは! 何を間の抜けたことをッ! 武士もののふが目立たずしてどうするッ! 綺羅びやかな鎧を仕立て、羅紗で仕上げた母衣ほろを背負い、兜飾りと旗指し物にかぶくのが古来より武士のならいであるぞ!」

「やあやあ我こそは、ってやつか。言われてみたら確かにそうかも」

「ほう、少しは話がわかるか」


 武蔵の凶相がすっと引き、意外そうに目を丸くする。

 何か反論されると思っていたのだろう。


「まあでも、それって戦場いくさばでの話だよね?」

「何ィ?」


 武蔵の顔が再びゆがみ、片眉が吊り上がる。


「あんたの言う通り、一分一朱は小銭に過ぎない。なんなら一両だって半月分の米代だ。どうせ挑んできたのも小銭目当ての二流三流だろう? そんなのをいくらやっつけたって手柄どころか恥にしかならないだろうに」


 一両と聞くと令和現代の我々はよほどの大金だと思ってしまいがちだが、幕末の頃はインフレが進んで、現代の価値に直せば数千円程度にまで下落していた。一両目当てに野試合をするものなど貧乏浪人以外に考えられないのだ。


「な、な、何を申すかッ! 雑兵首でも首は首! 実戦では剣槍を交じえることすらなく帰る者がいかに多かったことか知らぬのかッ!」


 武蔵は顔を真っ赤にし、地団駄を踏む。

 まるで我儘が通らない駄々っ子のようだ。

 取り乱す武蔵に対し、沖田は薄っすらとした微笑を返す。


「なるほど、挑発に乗ったフリね。豪放磊落なのも見せかけかい?」

「む、なんだつまらん。もう少し付き合え。その方が野次馬が沸く」


 武蔵はすっと真顔に戻り、集まった野次馬を見渡した。

 そして、野次馬たちのぽかんとした表情につまらなそうにため息をつく。


「なぜわかった? 儂の演技を見破った者はあまり記憶にないのじゃがの」

「あんたみたいのは本当に怒ったら口の前に手が出るでしょ」

「くくく、それはそうだ」


 武蔵はおかしそうに頬をゆるませる。


「でも軽口には付き合ってくれそうだ。小銭稼ぎが目的ってわけじゃないんでしょ。あと二天廻厭かいえん流ってのも何なのか気になるな。あんたの流儀は二天一流だっただろ?」

「本当に遠慮のないやつじゃの。よかろう、語って進ぜよう。しかし――」


 武蔵は双眸をぎょろりと剥いて、沖田の頭の先からつま先までをじっくりとねめつける。そして瓢箪の酒を飲み干し、舌なめずりをした。

 いよいよ立合いが始まるのか、野次馬たちが固唾を呑む。


「儂は口が乾きやすいタチでの。湿らせなければこれ以上は舌が回りそうにない」


 が、野次馬の予想に反して、武蔵がしたのは空の瓢箪を沖田に放ることだった。

 沖田は瓢箪を掴むと、野次馬に紛れていた弥次郎に向かって投げた。


「こちらの御仁は酒をご所望だそうだ。なるべく上等なのを買ってきて。あ、それと適当に肴も。俺は甘納豆がいいな」

「へ、へい!」


 わけもわからぬまま弥次郎は近場の酒屋へと駆け出した。

 一体何が始まっているのか、真琴は一連のやり取りを口を半開きにして眺めていることしかできなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

クトゥルフ時代劇 新選組討魔録 瘴気領域@漫画化してます @wantan_tabetai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る