初恋フラペチーノ〜あの桜の木の下で〜
Y.Itoda
短編
都内の大学に通う一太は、その日もいつも通りの忙しい授業を終えた後、ふとした気分転換にスターバックスに立ち寄った。
課題に追われ、勉強に集中する日々の中で、カフェでのひとときは数少ない癒しの時間だった。店内の香ばしいコーヒーの香りと、心地よい音楽に包まれた空間は、一太の緊張をほどいてくれる場所だ。
カウンターに向かい、ドリンクを注文する。その瞬間だった。一太は思わず目を見張った。
なんと、そこにいたのは、かつての片思いの相手、咲希だった。
一目惚れ、いや、
二度目惚れ、か。
彼女は高校時代のまま、いや、それ以上に輝いて見えた。笑顔を浮かべながらカウンターに立つ姿が眩しく、一太の胸が一気に高鳴った。
その出立ちは制服姿の高校生から、大人びたカフェ店員に変わっていたが、その柔らかい雰囲気や優しげな瞳は昔のままだった。
一太は反射的に顔をそむけた。心には、当時の自分の姿が鮮明に浮かんできた。高校時代、一太は根暗で眼鏡をかけ、友達も少なく、勉強ばかりしていた。当然、一度も彼女に自分の気持ちを伝えたことはなかったし、話した回数もほんの数回。自分のような人間が彼女にふさわしくないと思い込んでいた。
その後、一太は自分の姿を変えることを決心した。
大学に入る前にコンタクトレンズを使い始め、髪型も整え、服装にも気を遣うようになった。
その努力の成果で、外見は見違えるほど垢抜けた。しかし、内面の内気さは相変わらずだった。自分から声をかけることができないという不安が、一太の足をすくませていた。
「いらっしゃいませ、今日は何にしますか?」
それはまるで、雨上がりに一粒の雨のしずくがしたたり落ちる、マスカットだった。
明るい声が耳に届く。咲希の顔を見上げることができず、一太はぎこちなく注文を済ませ、カウンターの隅で待つことにした。彼女が自分に気づくはずがないという思いが、一太をわずかに安心させていた。
ドリンクを受け取った後も、一太は店の片隅に座り、そっと咲希を見守ることにした。一太の胸の中で、懐かしさと切なさが入り混じった感情が渦巻いていた。かつての自分が、あの時の自分がもう少し勇気を出していたらどうなっていただろうか、と一太は考えずにはいられなかった。
その日から、一太はスタバに通うことを決めた。彼女に会いたいという気持ちと、話しかける勇気が出ないという葛藤に押しつぶされそうになりながらも、毎週、毎月とスタバに足を運び続けた。
咲希が仕事をしている姿を遠くから眺め、忙しそうに動き回るたびに、一太の心には切なさが募る。
咲希が他の客と笑顔で会話する姿を見て、一太は自分の中の無力感を再確認していた。
「僕なんて、話しかける資格すらないのかもしれない」
——そんな考えが一太の心に暗い影を落とした。それでも、毎回スタバに向かう足を止めることはできなかった。彼女の笑顔が、唯一の救いであり、希望だった。
咲希はその間、一太の存在に気づいていなかった。一太はイメチェン後の姿に自信がなかったし、咲希に自分の正体を知られたらどう思われるのだろう、という不安が彼を常に縛り付けていた。
しかし、店内にいる一太の姿は、次第に咲希の意識の片隅に少しずつ残るようになっていた。毎回見かける一太に対して、ふと「この人、よく来るな」と気になり始めていたが、それ以上の感情にはまだ至っていなかった。
---
それから、一太の日常は変わった。
講義が終わるたび、足は自然とスターバックスへ向かうようになっていて、授業で難しいテーマを扱った日も、友人たちと雑談して気持ちが軽くなった日も、スタバに行くことは大事なルーティンとなっていた。
彼女に会いたい——そう思う一方で、一太にとってそれは無言の痛みでもあった。
何度も店を訪れるたびに、心は期待と失望で揺れ動いていた。咲希の「いらっしゃいませ」という言葉を聞くたびに、一太は彼女に自分のことを覚えていて欲しいという思いが募る。
しかし、その期待に応えられることはなく、咲希の眼差しには一太の姿はただの「お客」としてしか映っていないのだから。
「何かお手伝いしましょうか?」
咲希の声が周囲の客に向けられ、楽しそうな会話が聞こえてくる。笑顔が眩しくて、一太は思わず視線を下げた。
咲希はいつも楽しげに他の客と話しているが、一太に対してはただ業務的な対応だけだ。一太が客として注文するたび、いつも同じ笑顔で対応するが、そこに個人的な関心や覚えがある様子はまったくなかった。
「もし、僕があの時、話しかけられていたら…」
一太はよくそう考えた。
高校時代にもっと勇気を出して、咲希と話す機会を作っていれば、今の自分はもう少し違っていたかもしれない。でもその考えが浮かぶたび、一太の胸には重い現実がのしかかってきた。変わったのは外見だけで、結局中身は何も変わっていないのだ、と。
一太は時折、大学の友人たちとスタバに訪れることもあった。その際、友人たちは「ここの店員さん、可愛いよな」と口にすることがあったが、一太はただ曖昧に笑っていた。
その「可愛い」という言葉が一太にとってはどこか不愉快であり、同時に自分の感情を隠し通すための言い訳に使うことができたからだ。
「ねえ、一太。よくここ来るよな。お気に入りのドリンクでもあるの?」
友人が冗談交じりに尋ねる。
一太は笑いながら、「まあね、ここ落ち着くし」と答えるが、その答えが虚しく感じられるのを自覚していた。
本当の理由を言うことなどできるはずもなく、心には咲希への想いと、その想いを誰にも知られたくない気持ちが複雑に絡み合っていた。
その頃から咲希も、一太の存在を少しずつ意識するようになっていた。
彼は決まった時間にほぼ毎回やってくる常連客であり、その様子がどこか独特であった。
一太が飲むドリンクもいつも同じもので、その規則正しさに気づいた咲希は、何度か「この人、何を考えているんだろう」と思ったことがあった。
しかしそれはほんの一瞬のことであり、忙しいシフトの中では、深く考える余裕もなく流されてしまう程度の関心だった。
ふと、思った。
ぼくがスタバに通うようになって、どれくらいの月日が経ったかな、と。
春から夏、秋、と、季節が変わるたびにスタバの雰囲気も少しずつ変わった。
季節ごとに限定の商品が登場し、夏にはアイスドリンクが多く注文され、秋にはパンプキン系のドリンクが並ぶ。冬にはホリデー仕様のカップに囲まれた店内が暖かく彩られる。
咲希の姿はその中でも変わらず、いつもカウンターの向こうで微笑んでいた。
一太は何度も「次こそは声をかけよう」と心に決めてスタバに入るが、そのたびに緊張が体を縛り付けた。
カウンターで目の前に咲希が立ち、「今日は何にしますか?」と尋ねる瞬間、一太は喉がカラカラに乾いてしまい、いつものドリンクをぎこちなく注文するだけが続く。咲希の表情は変わらず優しいままだが、それが一太にとっては逆に辛い。
彼女にとって自分は何の特別でもない、ただの客に過ぎない——その事実が一太の心を苦しめ続けた。
だが、一太にとって咲希の存在は、生活の中で唯一の希望だ。毎日の講義や課題に追われる大学生活の中で、咲希に会うことだけが一太にとっての支えであり、彼女の笑顔を見るためだけに、スタバへ通い続ける。
咲希がレジに立っているとき、一太はその姿をそっと見守るだけで、幸せだった。
いつか自分の気持ちを伝えられる日が来ることを願ってはいたが。
---
季節は再び春を迎えた。
暖かい風が街を包み、桜の花が街中に咲き誇る頃、一太は相変わらずスターバックスに通っていた。
この1年、咲希に話しかけることは一度もできなかったが、咲希に会うことだけが自分の中で確かな楽しみになっていた。
その日は特に忙しい講義の合間で、一太は疲れ切った頭を休めたくてスタバに足を運んだ。
店内に入ると、春の新作のポスターが目に入った。「桜フラペチーノ」——桜の淡いピンクがドリンク全体を彩り、まるで春そのものを閉じ込めたかのようだった。
一太はそんな華やかなものは自分には似合わないと感じつつも、どこか惹かれる気持ちを覚えていた。
カウンターに近づくと、そこには咲希が立っていた。咲希は一太の姿を見て、にこやかに「いらっしゃいませ、今日は何にしますか?」と声をかけた。
その声にはいつもと変わらない明るさがあったが、一太はその瞬間、彼女の目が一瞬こちらに留まったような気がした。ほんの僅かな時間だったが、心臓が大きく鼓動するのを感じ、一太は息を詰めた。
「おすすめありますか?」
と尋ねる声は、自分でも驚くほど震えていた。
咲希は少し考えるふりをしながら、ふっと微笑み、「春なんで、たまには、桜フラペチーノなんていかがですか?」と提案した。
その笑顔は柔らかく、どこか親しみのこもった表情に見えた。
一太はその瞬間、自分の中で何かが変わるのを感じた。今までのようにただ「いつもの」で済ませるのではなく、彼女との繋がりを感じられるものが欲しいと思ったのだ。
「はい、それください」
と、一太は即答した。
普段の自分なら選ばないような、甘く可愛らしいドリンクだったが、咲希の笑顔に後押しされ、気づけばそう言っていた。
彼女に笑ってもらえた、それだけで一太は心の中に小さな火が灯ったように感じた。
ドリンクができるのを待つ間、一太はカウンターの少し離れた場所でそわそわと立っていた。カフェの窓から見える桜並木が、風に揺れて花びらを舞い上げているのが見えた。店内の穏やかな音楽と、客たちの楽しげな会話が耳に流れる中で、一太の視線は時折咲希に向かっていた。
彼女が忙しく動き回る姿を見るたび、一太の胸は熱くなり、自分がただの一客であることの切なさを感じた。
やがて咲希が一太に向かって「桜フラペチーノ、お待たせしました」と微笑みながらドリンクを差し出した。
受け取ろうとした瞬間、一太はふと違和感を覚えた。桜の花びらが、いつの間にか自分の頭に一枚乗っていたのだ。手を伸ばした際、その花びらがフラペチーノの上にふわりと落ち、一太と咲希は同時に驚いた顔をした。
「わっ、ごめんなさい」
と一太が慌てて言うと、咲希はすぐに笑顔を浮かべ、「大丈夫です、これで桜フラペチーノの完成です」と冗談めかして言った。
その言葉に一太は一瞬戸惑ったが、次の瞬間、自分でも思いがけず笑ってしまった。自分のことで彼女が冗談を言い、二人で笑い合う——それはまさに一太が夢見ていた瞬間だった。
その瞬間、一太の心にある記憶が蘇った。
高校時代、桜の木の下で本を読んでいたときに、咲希が近づいてきて話しかけてきたことがあったのだ。
咲希は自分の好きな恋愛ファンタジー小説について話し始め、それが一太にとって特別な時間となった。咲希の話に共感し、笑い合ったあの時のことを、一太はずっと心の奥にしまい込んでいた。
一太は、今もなお咲希に対する気持ちが消えていないことを実感した。彼女に気づかれていない自分、でも少しでも繋がる瞬間を求める自分——その複雑な感情に一太は胸がいっぱいになった。
咲希もまた、何かを思い出すように一太を見つめていた。
「ねえ、ひょっとして…」
咲希が一太を見つめたまま、言葉を口にしようとする。
その視線に、一太の胸は期待と不安で揺れ動いていた。彼女が気づいてくれたのかもしれない、そんな希望が、一太の中で膨らむ。
一太は、自分の耳を疑った。
「ひょっとして、一太君?」
という咲希の言葉が、まるで夢のように聞こえた。一瞬、時間が止まったかのように感じた。咲希の瞳が、一太をじっと見つめていた。その視線はまっすぐで、一太の胸に小さな炎を灯した。
それは、まるで心の奥にあった思い出に触れられたような感覚だった。
一太の心は激しく鼓動していた。この1年、何度も彼女に声をかけたいと思いながらも、それが叶わなかった。
しかし、今こうして咲希から自分に問いかけてくれている。一太は自分の中にある緊張と期待、恐れと希望が入り混じり、言葉に詰まってしまった。しかし、目の前にいるのは、かつて桜の木の下で話しかけてくれた咲希だった。彼女の笑顔が、あの時と同じように輝いている。
「え、あの…」
一太は何を言えばいいのかわからなかった。
言葉が出てこない中で、咲希は微笑みながら一太を見つめ続けていた。その視線に一太は勇気を奮い立たせるように、深く息を吸い込んだ。そして、もう一度目を合わせた。
「はい、そうです。柳一太です…久しぶりですね、葉宮咲希さん。」
一太は震える声で応えた。そして咲希のフルネームを口にした瞬間、咲希の表情がぱっと明るくなった。
「ああ、やっぱり!」と声を上げ、咲希の顔に嬉しそうな驚きが浮かんでいた。
「私、一太君のこと、覚えてるよ。高校の時、桜の木の下で話したことあったよね?」
咲希は懐かしそうに目を細めた。その言葉に、一太の胸は高鳴り、体中に温かさが広がった。まるであの時の風景が目の前に蘇るようだった。
あの日、恋愛ファンタジー小説を読んでいたときに、彼女が話しかけてきてくれたこと——
それは一太にとって、特別な思い出であり、咲希を好きになった瞬間だった。
咲希の声は優しさに満ちており、その瞬間、一太は自分がどれだけ彼女のことを忘れられなかったのかを改めて感じた。
目の前にいる咲希は、ただの高校時代の憧れではなく、一太にとっては現実であり、今ここにいる存在だった。
一太は心の中で覚悟を決めた。
このままではもう自分に嘘をつくことはできない。彼女に会うたびに何も言えずに過ごしてきた日々が、この瞬間に報われるのだと思った。
「葉宮さん、あの…」
一太は息を飲み込んでから、続けた。
そして、ありたけの勇気を絞る。
「もし、よければ…連絡先を交換してもらえませんか?」
声は震えていたが、その言葉には決意がこもっていた。
咲希は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに優しい笑顔に変わった。その笑顔に、一太の心の中にあった緊張が少しずつ溶けていくのを感じた。
「もちろんっ」
咲希はそう言ってスマホを取り出し、一太に向かって差し出した。
その手の動きは自然で、まるで昔からの友人に連絡を取るような軽やかさだった。
一太は、自分が今まさに新しい一歩を踏み出していることを感じていた。スマホを受け取る手が少し震えたが、それでも笑顔を浮かべながら、彼女の連絡先を登録した。
店の窓の外では、桜の花が風に揺れている。まるで二人の未来を祝福するかのように、一枚また一枚と花びらが舞い散り、街に優しく降り注いでいた。
一太はその景色を見ながら、自分の胸の中に新しい希望が芽生えているのを感じた。これから先、何が待っているのかはわからない。でも、今ここに咲希がいて、彼女との繋がりが始まったのだと思うと、一太の心は何よりも満たされていた。
「じゃあ、またっ」
咲希が軽やかにそう言って笑顔を見せた。
その笑顔は、一太にとってこの1年間で見たどんな瞬間よりも美しく、心に強く焼きついた。
一太は「はい」と答えるだけで精一杯だったが、その声には確かな自信が込められていた。
一太は、桜フラペチーノを手に、店を出た。
外の空気は暖かく、風が頬をそっと撫でた。一太は胸に広がる希望と共に、これから始まる新しい春を感じながら歩き出した。
初恋フラペチーノ〜あの桜の木の下で〜 Y.Itoda @jtmxtkp1
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