幕間その1「酔いどれの夜に、明日への希望を紡ぐ ―― 二人の正義の守護者の酒宴」

 東京の繁華街の路地裏にあるひなびた居酒屋で、遠野蛍と柊葵が向かい合って座っていた。

 薄暗い照明の下、二人の表情はすでにほんのりと赤みを帯びている。

 蛍は大学で異常犯罪心理学を教える教授であり、葵は凶悪犯罪を専門とする刑事だ。

 二人は学生時代からの親友で、時折こうして仕事帰りに酒を酌み交わすのが常だった。

 蛍はぐいっと生ビールを飲み干すと、軽く息を吐いた。


「はぁ…… 今日の講義は本当に大変だったわ」


 葵は蛍のためにおかわりの生を注文しながら、興味深そうに尋ねた。


「どんな講義だったの?」


 蛍はおかわりの生を一口飲んだ後、深いため息をついた。その表情には、講義での苦労が如実に表れていた。


「最近の連続殺人事件について、学生たちと討論したのよ。でも、犯罪者の心理を理解することと、その行為を正当化することは違うって説明するのが難しくて」


 葵は興味深そうに身を乗り出した。


「具体的にはどんな感じだったの?」


 蛍は少し考え込むように目を閉じ、その日の講義を思い返した。


「ええとね、まず私が最近の連続殺人事件の概要を説明したの。被害者の特徴、犯行の手口、そして犯人の残したメッセージなどをね」


 蛍は一旦言葉を切り、もう一口だけビールを飲んだ。


「それで、学生たちに犯人の動機や心理状態について考えてもらったのよ。すると、ある学生が手を挙げて言ったの。『犯人は社会から疎外されて、孤独だったんじゃないでしょうか。だから、誰かに注目してもらいたくて……』って」


 葵は頷きながら聞いていた。


「なるほど。でも、それが正当化につながったわけね」


「そう。その学生の発言に、他の学生たちも同調し始めたの。『もしかしたら、犯人も被害者なのかもしれない』とか『社会にも責任があるんじゃないか』とかね」


 蛍は少し苦笑いを浮かべた。


「それで、私はこう説明したのよ。『確かに、犯人の背景を理解することは大切です。でも、それは犯罪行為を許容することとは全く別のことなんです』ってね」


 葵は真剣な表情で聞いていた。


「学生たちの反応は?」


「半分くらいの学生は理解してくれたみたいだけど、残りの学生たちはまだ納得していない様子だったわ。『でも先生、理解すれば許せるようになるんじゃないですか?』って質問してきた子もいて……」


 蛍は一瞬言葉に詰まり、少し悲しそうな表情を浮かべた。


「そこで私は、被害者の家族の気持ちについて話したの。どれほどの苦しみと悲しみを背負っているか、その痛みは犯人の背景を知ったところで消えるものではないってね」


 葵は静かに頷いた。


「そうよね。私たちが日々向き合っている現実よ」


「ええ。最後に私はこう締めくくったわ。『犯罪心理を理解することの目的は、似たような犯罪を防ぐことであり、決して犯罪を正当化することではありません。私たちの役割は、被害者を守り、社会の安全を確保すること。そのために犯罪者の心理を学ぶのです』って」


 蛍は話し終えると、大きく息を吐いた。葵は sympathetic な表情で蛍の肩に手を置いた。


「素晴らしい講義だったと思うわ、蛍。難しいテーマだけど、あなたなりの答えを示せたんじゃない?」


 蛍は少し安堵したように微笑んだ。蛍はいつの間にか日本酒を手にしている。


「ありがとう、葵。でも、学生たちの心に本当に届いたかどうかは分からないの。これからも、こういう難しい問題と向き合っていかなきゃいけないのよね」


 二人は互いに理解し合えるような目線を交わし、静かに杯を傾けた。犯罪心理を理解することの難しさと重要性を、改めて感じさせられる瞬間だった。


 蛍は眉間にしわを寄せながら答えた。葵は理解したように頷いた。


「分かるわ。私たちの仕事も同じようなものよね。犯罪者の動機を理解しつつ、それでも法を守らなければいけない」


 葵は自分の杯を傾け、一気に飲み干した。蛍は葵の杯に酒を注ぎ返す。


「ねえ葵、最近の事件はどう? 進展はあるの?」


 蛍が尋ねると、葵は少し表情を曇らせた。


「正直、難航してるわ。犯人の手口が巧妙で、証拠が少なくて……」


 葵は言葉を濁し、もう一杯酒を流し込んだ。蛍はそんな葵の様子を見て、慰めるように言った。


「大丈夫よ、葵なら必ず解決できるわ。あなたの直感と推理力は天下一品だもの」


 葵は蛍の言葉に少し照れくさそうに笑った。


「ありがとう、蛍。あなたの言葉を聞くと、元気が出るわ」


 酒が進むにつれ、二人の頬はさらに赤みを帯び、会話の内容も徐々に深みを増していった。居酒屋の喧騒が遠のき、二人の間には独特の知的空間が形成されていく。


「ねえ葵、最近の犯罪心理学で注目されている理論について聞いたことある?」


 蛍が切り出すと、葵は興味深そうに身を乗り出した。


「ええ、少しね。でも詳しくは知らないわ。どんな理論なの?」


「神経犯罪学っていうのよ。脳の機能と犯罪行動の関連を研究する分野なんだけど、最近急速に発展しているの」


 蛍は熱心に説明を始めた。その瞳には、研究者特有の輝きが宿っている。


「例えば、前頭前皮質の機能不全が、衝動的な犯罪行動と関連しているという研究結果が出ているわ。これが司法の場でどう扱われるか、倫理的な問題も含めて議論が続いているのよ」


 葵は真剣な表情で聞き入っていた。


「なるほど。それって、現場での取り調べにも影響してくるかもしれないわね」


「そうなのよ。でも、それと同時に、こういった生物学的要因を強調しすぎると、個人の責任が軽視される危険性もあるのよね」


 二人は互いの意見を交換しながら、この新しい理論の可能性と課題について議論を深めていった。


 話題は自然と法執行の現場での課題へと移っていく。


「葵、最近の捜査で特に困っていることはある?」


 蛍の質問に、葵は少し表情を曇らせた。


「そうねえ……最近特に問題になっているのは、サイバー犯罪の増加よ。技術の進歩が速すぎて、法律や捜査手法が追いつかないの」


「ああ、それは大きな課題ね。私の研究室でも、オンライン上での犯罪者の心理分析を進めているわ」


 葵は興味深そうに聞き入った。


「具体的にはどんなことを?」


「例えば、SNS上での犯罪予告の信憑性を判断するための言語分析手法を開発しているのよ。これが実用化されれば、警察の初動対応に役立つと思うの」


「それは素晴らしいわ! ぜひ完成したら教えてね」


 二人の会話は、専門性の高い内容で盛り上がっていく。法医学の最新技術、証拠収集の新手法、被害者心理のケアなど、話題は尽きることがない。


 時折、専門用語が飛び交い、周囲の客には何を話しているのか理解できないほどだ。しかし、二人にとっては、この知的な対話こそが最高の酒の肴となっていた。


「こうして話していると、私たちの仕事の重要性を改めて感じるわね」


 葵がしみじみと言うと、蛍も同意するように頷いた。


「そうね。一人では解決できない問題でも、こうして知恵を出し合えば、必ず道は開けるはずよ」


 二人は互いに微笑みかけ、再び杯を重ねた。専門家同士だからこそ分かり合える悩みや喜び、そして使命感。それらを共有できる時間は、何物にも代えがたい価値があった。


「でもね、蛍。時々思うの。私たちがこんなに努力しても、犯罪はなくならない。それでも意味があるのかって」


 葵の言葉に、蛍は真剣な表情で答えた。


「もちろん意味があるわ。一つ一つの事件を解決し、一人でも多くの被害者を救うことができれば、それだけで価値があるのよ」


 蛍の言葉に、葵は目を潤ませた。


「そうよね。私たちにできることをやり続けるしかないのよね」


 二人は再び杯を合わせ、互いの決意を確認し合った。


 酒がすっかり回った頃、話題は少し軽いものに移っていった。


「ねえ葵、最近恋愛の方はどう?」


 蛍のいたずらっぽい質問に、葵は思わず吹き出した。


「まさか蛍から、そんな質問が出るとは思わなかったわ。相変わらず、仕事一筋よ」


「それじゃあ、ダメじゃない。たまには息抜きも必要よ」


 二人は楽しそうに笑い合った。この瞬間、重圧の多い仕事を忘れ、ただの親友同士として時間を過ごしているのだ。


 すっかり酔いが回り始めた頃、葵と蛍の前には新たな一品が運ばれてきた。それは、季節の旬を捉えた鮮魚の刺身盛り合わせだった。


「わぁ、これは贅沢ね」


 蛍の目が輝いた。皿の上には、真鯛、平目、鰹、そして車海老が、まるで絵画のように美しく盛り付けられていた。


「ここの刺身は本当に素晴らしいのよ」


 葵が言うと、さっそく箸を伸ばした。まずは真鯛を口に運ぶ。


「んっ…… この甘みと歯ごたえ、最高だわ」


 葵の感想に、蛍も負けじと平目を味わった。


「ああ、なんて繊細な味わいなんでしょう。舌の上でとろけていくわ」


 二人は刺身を堪能しながら、それに合わせる日本酒を選び始めた。


「この刺身には、辛口の純米酒が合うわね」


 葵がそう言うと、蛍も同意した。


「そうね。冷やで飲みましょう」


 注文した日本酒が運ばれてくると、二人は小さな酒器に注ぎ合った。


「かんぱーい」


 軽やかな音と共に、二人は酒を口に含んだ。


「ふぅ…… この酒の切れ味、素晴らしいわ」


 葵がうっとりとした表情で言う。蛍も同意するように頷いた。


「ええ、刺身の味を引き立てつつ、それでいて主張し過ぎない。絶妙なバランスね」


 酒と肴を楽しむうちに、二人の会話も弾んでいく。仕事の話題は忘れ、純粋に美味しいものを堪能する喜びに浸っていた。


「次は、やはり焼き物が欲しいわね」


 蛍が言うと、葵も同意した。


「そうね。今の時期なら、秋刀魚の塩焼きなんてどうかしら」


 注文した秋刀魚が運ばれてくると、香ばしい匂いが二人の鼻をくすぐった。


「ああ、この香り。もう食欲をそそられるわ」


 蛍が箸を伸ばすと、ふっくらと焼き上がった身が、簡単にほぐれた。


「ん…… 脂がのっていて、でもさっぱりとした後味。秋の味覚ね」


 葵も一口食べると、満足げな表情を浮かべた。


「こりゃあ、熱燗が欲しくなるわね」


 二人は顔を見合わせ、くすりと笑った。仕事のストレスも忘れ、ただ純粋に美味しい酒と肴を楽しむ。そんな時間が、明日への活力を与えてくれるのだった。


 夜も更けてきた頃、二人はようやく店を出ることにした。外に出ると、涼しい夜風が二人の頬を撫でた。


「葵、今日はありがとう。こうして話せて、本当に良かったわ」


「こちらこそ、蛍。あなたと話すと、いつも新しい視点が得られるの」


 二人は互いに微笑みかけ、別れの挨拶を交わした。それぞれのタクシーに乗り込む前、葵が蛍に声をかけた。


「蛍、また近いうちに会いましょう」


「ええ、楽しみにしてるわ」


 タクシーの窓から手を振る二人。それぞれの胸の中に、明日への新たな決意と希望が芽生えていた。厳しい現実と向き合う仕事だからこそ、こうして心を許せる友人の存在が、何より大切なのだと、二人は改めて実感していた。


 タクシーが走り去った後も、二人の心の中では、今夜の会話が余韻となって響いていた。それは、明日への活力となり、それぞれの持ち場で正義を守り続ける力となるのだった。

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遠野蛍教授による異常犯罪心理学集中講義 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

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