エピローグ
その朝はいつもと変わらずやって来た。
斎木は事後処理に追われ、参道のあちこちに緊急的に黄色いテープが貼られることにはなったが、それでも神職たちの朝の勤めは変わらない。
境内の掃除が終わると
「神様も食事をする、というとなんだかぐっと近くなるね」
「供えられた食事はあとで一緒に食べるのも基本だしな。日本の神様は分けるのが好きっぽい」
参道は封鎖されてしまったから今日は観光気分で、とは言えないけれど早い朝食後にふたりで散歩をして回る。
「うーん、清々しい」
工事のために一方通行になっている双竜門から逆行できるのも、朝一番の特権だ。
朝もやは嘘のように晴れ、青すぎる空が鉾岩の上空に広がっていた。
双竜門まで来た忍が門を見上げた。肉球がとてもリアルな獅子たちが、左右から門をくぐる人間を見下ろしている。
「おはよう。昨日はおつかれさま」
何がどう、というわけではないのだが、忍は直感的に「あれ」がこの二体であることを理解したらしい。
この門はずっと昔からある文化財だが修繕されたばかりでぴかぴかだ。若返った、という表現はぴったりだろう。
「やっぱりわんこは右か?」
「絶対そうだよ。何か遊びたそうな顔してるもん」
実際、彫り物の表情はひとつずつ違う。特に右の獅子は今日も睨みつけるよりも好奇心いっぱいの目で見降ろしている。
それから忍は右手にある岩壁の前にしゃがみこんだ。
そこにはここへ来た時に浄銭を上げた3つの小さな岩社があった。
名もなく、立ち止まる人もいないであろうその真ん中に、手にしていた笹の葉を置く。
「ありがとうございます。助かりました」
そして忍は手を合わせた。
「……よくここってわかったな」
「むしろここしか心当たりがない」
ここに祀られているのはお稲荷さんだ。民間信仰の時代に近い岩の社はもしかしたら大きな本社より以前からあるものではないかとも思う。
白狐たちはすぐに姿を消していたが、キミカズも今ならばわかる。というか、今キミカズには朝のまったりとした時間を過ごすように小さな狐たちが思い思いにその傍で過ごしているのが見える。
「昨日」
もう「今日」の話だったか。随分と空気が変わったので大分前のことのように感じるが、あれは鬼を押し返したあの時。
「火の神様の力を通したって言っただろ?」
「うん」
「あの時、白い何かが三体、鬼に飛びついて助けてくれたんだ。何だと思う?」
もうわかっているが、聞いてみた。
「ここの神様じゃないの?」
狐火というと短絡的だが間違いない。あれは確実に本社に通した「道」とは違う場所からやって来た。
「そっか。じゃあ俺もお礼を言っておかないとな」
人の目線よりずっと低い場所にある、誰も気づかないような小さなお社。
あとで豪華な供え物でもしておくかと思うと狐たちの耳がぴこぴこと動いた。
世の中には人間には計り知れないことがある。
当然だろう。この世界に生きている者は人間だけではないのだから。
旧い賽の
岩室の天井は、もう少しで社を貫き穿つかのように岩が槍のごとく鋭く垂れ下がる姿を残していた。
まるで象徴のように。
道を塞ぐ神のいない今、それには何の意味もないのかもしれない。
あるいはいつかそれが貫かれたその時、何かが起こるのかもしれない。
いずれ、今の自分にはわからないことだ。
「人の都合でそこに置いたり動かしたり。こういうのを見ると人間ってちょっと勝手だなって思う」
帰りがけに新しい賽の神社に手を合わせ、ごめんなさいとなぜか忍が謝っている。
「多くの人にはわからないんだ。だから、伝え残すことが大事なんだろうね」
「口調が清明さんになってるよ」
「観光気分じゃないからかな」
そんなことを話しながら、二人は帰路を辿る。
茶店を過ぎ、千本杉の地滑りを越え。鞍掛岩を左手に、禊の橋を渡り。
随神門をくぐればもう大鳥居。その最後の境界をくぐる前に忍は振り返って足を止めた。
「この場所、こんなに普通だったかな」
「普通?」
「なんだか、今までたくさんいたものがみんないなくなっちゃったみたい。少し寂しい感じがする」
とてもよく晴れていて、とても清々しい参拝日和だ。
「寂しい」なんて言葉がまったく出てくるはずもないきれいな空が広がっている。
忍には、多くの妖たちがいて、それらが還っていったことは告げていない。
「……」
何も見えない彼女は一体どんな感覚でそれを感受していたのか。
きっと「気」のせい。程度の感覚だろう。
それを言葉にするのは難しい。
「次に来た時はもっと楽しく参拝できるといいな」
「次っていつ?」
「本殿の改修が終わった頃」
まだ2,3年先だろう。
その頃にはまた、この景色が懐かしくなった誰かがこちらに来ているかもしれない。
道は開いたままなのだから。
駅まで来ると空気は変わる。
残暑という季節でもないだろうに、やたらと夏の気配がした。
ナイロン素材は特性上、暑くなったらコンパクトに畳んでカバンにしまえるのも魅力的だ。
キミカズはまだ暑い街の空気を感じながら、パーカーを脱ぐと静かにそれをバックパックへと詰め込んだ。
賽の神と道封じ 梓馬みやこ @miyako_azuma
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