第15話 山に棲まうもの

 草履。枯れ色のかすれた着物、年老いた細い脚……


「あなたは……」


 参道でみかけた妖だった。




 妖……だろうか。仙道かもしれない。人でないことは確かであるし、何者にも定義されない妖と神の境は曖昧だ。


「よく見ぃ。そなたの護り符が延命しているだけじゃろう」


 持っている杖で忍の右手辺りをこつんと突いた。

 ワックスコードの切れかかった護符があり、五芒の印は黒く焼けただれている。待っていたようにぷつ、と切れるとそれは静かにほどけて落ちた。


「仮死状態か……」


 ほっと息をつく。仮死状態と言っても冬眠に近い。生命活動を究極的に緩やかにし、この場合は瘴気による生命への侵攻を遅くしている。とはいえ、措置はすぐにでも必要だ。が、情けないことに動けない。


「この辺りには帰りたくても帰れない者たちが集まるようになっておった」


 老人が、朝もやの煙る木立を見上げながら静かに口を開いた。


「やがて神域でいつか道が開く日を待ち、神と、それからここに元からいた者たち、妖が共生するようになったんじゃ」


 まるで昔話をする口調そのままに、ずっとずっとむかしを思い出すような語りだった。


「陰鬱としながら、時に賑やかに、時に清廉とした不思議な場所じゃった」

「あなたは、帰らないんですか」


 このヒトは、神でもなければ土着の者でもない。仙人のような善性の奥に隠遁とした「あちら側」の気配を感じながらキミカズが聞くと老人はキミカズを見下ろして小さく笑った。


「帰ろうとするにはいささか長くここにいすぎた。そなたたちの言葉にあるじゃろう? 住めば都、という言葉が」


 谷あいの参道に朝陽が差し込み始める。

 木漏れ日を通して視界の端にきらきらと朝露が揺れていた。


「それにのう、あちらにはいない小鳥たちがなかなかに愛らしく……ほら、来たぞ」


 ぱらぱらと軽い羽音を立てて、何の警戒もしていないように数羽の鳥が老人の下にやってきた。それはキミカズや忍の傍にも降りて、横たわるその口元に雫を落とす


「この山の朝雫は、初水のようなもの。破邪の力もあるから気付けになるじゃろう。この子の運ぶものでは全く足りるものではないが、連れてかえって休ませれば直、気づく」


 まるで神仙のように妖はしわの刻まれた細い老人の顔でほっほっと笑った。


「器を神気で満たしてやることじゃ」

「……ありがとうございます」


 呼吸の落ち着いた忍を連れて、キミカズは上の境内へ戻る。朝が訪れ、どうしたものかとそわそわしていた斎木たちに揃って迎えられたが、顛末だけ話すとキミカズは国祖社には上がらずに、境内の北に足を運んだ。


『器を神気で満たす』


 キミカズはすでにそれを理解していた。

 邪気にあてられるのは毒を身の内に取り込んでしまったようなものだ。それには浄化という名の解毒が必要である。

 護られた朝の境内は清々しいほどの神気に満たされている。

 シートのかぶされた本殿脇、御姿岩がもっとも近く見上げられる場所に、忍を横たえる。

 汚れた水が一杯に入った複雑な形の器。きれいな水と入れ替える一番早い方法は、器そのものを湧き出る浄水に沈めることだ。

 岩に囲まれた天然の巨大な器そのものであるこの場所は、容易に彼女という小さな器を沈め、満たすだろう。

 ただ、目を覚ますのにどれくらいかかるのか、皆目見当はつかない。


「……これは……怒られるな」


 とんでもない危険に巻き込んでしまったこと。数少ない同世代の友人に無言で渋面される姿が容易に浮かんでしまう。もっともそんな顔をされるのは清明ではなく「キミカズ」の方だけだろう。

 そうでなくともリスクと犠牲を秤にかけて迷わず犠牲を選べた自分には少し、嫌気がさす。

 ふと。

 自嘲気味に笑みを浮かべるその背後に気配を感じ、キミカズは振り返った。

 小さな白狐がいる。しかも三頭。

 振り返るのを待っていたかのようにきちん、と足を揃えて座るその内の一頭がくいっと頭をもたげるようにして咥えた何かを差し出してきた。

 笹の葉だ。器用に三角形になるようにくるりと巻かれたその中には水が入っている。


「あぁ、水を汲んできてくれたのか」


 おそらく老人が言っていた気付けと同じものだろう。彼らが運んでくるそれに、どういう意味があるのかはわからない。

 唇を濡らすように水を飲ませてやる。


「ん……」


 こくりと喉を通ると意外なほどにあっさりと忍は目を覚ました。

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