ネット小説は脳に効く。

小稲荷一照

かわいいこにはたびをさせよ

 基本的に、ボクは読書は得意ではない。

 と思っている。

 年間たぶん五十万位は色々書籍類を買っていて、漫画や小説がたぶんそのうち半分くらいのはずだから、そんな感じ。

 といって、ラノベはだいぶ減っている。


 理由はたぶん、ボクの理解力が現在のラノベのメインストリームの表現トレンドについていけないから。

 マンガになれば読めるものも多いけど、アニメになっててもダメなものは結構あるのが驚きで、たぶんこれは脚本からの絵起こしがボクと解釈違いだったのだろうと思っている。

 とらドラ!とか、涼宮ハルヒの憂鬱とか、実は当初乗り切れなくて困ってたんだけど、一回アニメになっているのをみたら楽しく読めたし、そういう感じの着火剤があれば、いいはずなんだけど、ダメな奴は結構ダメなんだ。




 なぜ、こういうことがおこるか、といえば、それは当然に作者と読者は別の人間であるんだから、人生も知識もそもそもプロトコルレベルでの全てを前提条件として共有できているはずもない。ということなんだ。


 しかし一方で驚くべきことに日本文明そして文化という強力かつ広大なプロトコルはなにも共有していないはずの作者と読者をある程度の常識で結びつけている。

 基盤となっているものは義務教育を始めとする学校教育やテレビゲームなどの娯楽メディアの影響が大きい。

 おかげでよく知らない人間が考えている空想話が、それなりに面白おかしく楽しめるんだけど、文明プロトコルの複雑さのせいで、ついてゆけなくもなる。

 そのせいで作者と読者の間で余計な誤解が発生している。




 ゲームなんかでも繰り返し起こってきたことでジャンルとファンの先鋭化とともに崩壊してゆく風景はこの後も幾度も繰り返される。

 それで、その処方箋はなにか、と問われると、「書を捨てよ、旅に出よ」という、あれに尽きる。


 よく「殺人事件を扱う作家は人を殺さないと作品が書けないんですかね」というのは、よく擦られるところだけど、悪いが大抵のミステリー作家は知り合いを数万回か数億回は殺す計画を考えているだろうし、新聞一束あれば当然殺人ネタなんていくらでも大喜利が出来るものだろう。


 それが常識かどうかって言われるとそれは知らないけど、

たとえば、ボクは出来る。キミたちは出来るか?

という話になるし、

例えば、ボクはあの風景が好きだが、キミたちはみたことがあるかね。

 とかそういう話だ。




 そろそろ気がついたろう。

 作者の書いている小説の内容というのは、多かれ少なかれ酔っ払いの老人の戯言と大差がない。




 じゃあ、なんでそんなモノが楽しいんだ?


 その答は次にしたいと思うが、結論だけ先に書く。

 それはキミたちが、教養的知性的にかなり高度な、「勝ち組」に属するグループだからだ。

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