水
みかみ
一話読み切り
何をしているんだ? と訊ねた俺に、あいつは、背中越しにこう答えた。
「水をやってるだけさ」
それは高校一年の夏休み。
蝉の大合唱が、強化練習真っ最中の野球部の声と溶け合う午後のことだった。あいつは校庭脇の、手洗い場の隅に、一人蹲っていた。広げた掌に、一匹の蟷螂を横たえて。その死ぬ寸前の蟷螂の口元に、濡れた人差し指を押しあてていたのだ。
「お前、二組の中西だろ。こんなとこにいると、ボールに当たんぞ」
こぼれ球を追って来た俺は、不用心な同級生に忠告してやった。しかし中西は俺に背を向けたまま、「ふうん」と呑気に返事をするだけだった。
綺麗に刈り込まれた襟足。白いカッターシャツに汗を滲ませた、痩せた背中。すじばった白い首すじと細い腕。あいつの体は、毎日炎天下で汗と泥にまみれている俺とは別世界を生きているように見えた。
「そいつ、瀕死だぜ。なんで水なんてやってんだよ」
「水をあげると、元気になるんだよ。どの虫もそうだった。飲んでから、ぐっと体を起こすんだ」
「生き返るってことか?」
「ううん」
あいつは蟷螂に水を飲ませつつ、首を横に振った。
「元気になるのは一瞬さ。よく次の日に、近くで転がってるのを見つけるよ」
そして腰をひねり、俺を見上げて目を細めたあいつは、こう続けた。
「でもそれが面白い」
「面白いって、お前……」
朔の月のように細まった目の中にある、ギラギラとした瞳。その瞳を見た瞬間、うだるような暑さが吹っ飛び、背中を伝った寒気に体が震えた。
「あ」
あいつが、嬉しげな声を上げた。立ったのだ。蟷螂が。両の鎌で体を支えるようにして、三角形の顔で空を仰いだ。
あいつは掌を地面にそっと置いた。蟷螂はのそのそと前進し、あいつの掌から降りるとやがて、雑草が生い茂る花壇の中へと消えていった。
「いつまで生きてるかな。明日また、ここら辺を探してみなきゃ」
なんて楽しげで、無邪気で、残忍な独り言だろうと俺は思った。
死にゆく生き物に水をやる。その行為自体は慈悲深い。けれど、あいつの心に慈悲は欠片もなかったのだ。
あいつの、蟷螂に水を与えている姿は、命を弄んでいるように見えてならなかった。
「澤村ーっ! なにやっとる!」
監督の怒鳴り声が、その場から離れるきっかけをくれた。
俺はそこから逃げるように練習場に戻り、以後はもう、あいつと言葉を交わすことは無かった。
★
「薄気味悪いとは違う。精神性が理解できなかった。いや、理解したくなかったんだ。あいつの心は化け物に違いないと……。俺はあいつが心底怖かった」
「そう。そんな事があったのねえ、中西さんと」
髪を整える間の昔語りを終えるなり、俺の髪を梳きながら妻がのんびりと相槌をうった。「よし」と櫛をサイドテーブルに置き、引き出しから手鏡を取り出すと、それを俺の顔の前に持ってくる。
「はい。これでどう?」
ぽっちゃりとした頬をくいと持ち上げ、仕上がり具合を訊ねてくる。
丸い鏡面に映っているのは、綺麗に髭を剃り白髪をなでつけた、血色の悪い痩せた老人だ。気分の悪そうな顔で、昇降ベッドに背中を預けている。
「ああ、完璧だ。ありがとう」
「面会、嫌なら断るわよ?」
珍しく、妻が気遣わしげに覗きこんできた。俺はそんなに嫌そうな顔で話していたのだろうかと思うと、自嘲的な笑いがこみあげる。
「いや、いいさ。見舞いに来てくれるというなら、会おうじゃないか」
あいつの訪問を断るのは、敵前逃亡をするようで決まりが悪い。
先週、妻が高校の同窓会に行ってきた。そこで、中西と再会したのだ。中西は都内の癌センターに俺が入院中だと聞くと、見舞わせてくれと言ってきた。
正直なところ、妻以外の誰かに会うのはもう御免だった。食えない差し入れに礼を言うのも、昔話に花を咲かせるのも、気の毒そうな視線を向けられるのにも疲れた。今は残り少ない時間を、出来る限り妻とゆっくり過ごしたい。
今や、楽しみは妻との会話だけだ。栄養摂取は点滴に頼ってばかり。大好きだった珈琲も、不快な苦みしか感じなくなってからは口にしていない。
俺が珈琲を不味いと言ってからは、妻も俺の前では飲まなくなった。けれど時たま珈琲の香りを漂わせているので、病室に来る前に一杯やってきているのかもしれない。
妻は砂糖とミルクをたっぷり入れて。俺はブラックで。それが毎日の、食後の楽しみだったというのに。
サイドテーブルに置いてある妻のスマホがブルッと震える。
「いらしたみたいね」
サーモンピンクのケースに入ったそれを手に取り、画面を確認した妻が、「あらあら、迷ってるんですって。ちょっと迎えに行ってくるわ」と大きな尻を持ち上げ、病室から出ていく。
妻が扉を閉めると、俺一人の部屋は静かになった。
目を閉じ、開けられた窓から聞こえてくる微かな葉擦れの音に耳をすませる。
暫くすると、す、と扉が開く気配がした。妻が帰って来たのかと思い、目を開ける。
「やあ久しぶり、澤村君。君は髪があるんだねえ」
俺の前にいたのは妻ではなく、背中の曲がった老人だった。バリっとした白いシャツを着てはいるが、そいつも俺に負けず劣らず、骨と皮ばかりのガリガリだ。髪は綺麗になくなっている。
中西。
「緩和ケアを選んだからな。……迷っていたんじゃなかったのか?」
俺が虚言を指摘するなり、中西がくくくと喉を鳴らした。昔は儚げな空気を纏っていたこいつだが、今となっては妖怪にしか見えない。ピンポン玉みたいなギョロ目が、不気味さに拍車をかけている。
「そいつを飲ませに来たんだな」
俺は、中西の右手に握られている未開封のペットボトルを顎で示した。中身は水だ。
「ああ。奥さんがいると、君は素直になれないと思ってさ」
そう言ってまた、中西がくくくと笑う。伝わってくるのは興味だけ。およそ人間のものとは思えない顔つきだ。
「要らん」
「まあそう警戒するなよ」
ぺットボトルの蓋を開けながら、中西が俺に近づいてくる。
逃げ腰になっているつもりはないが、無意識に上体を引いたのだろう。後頭部が枕をぐっと押し潰した。
「俺は何人目だ」
「さあ? 覚えてないなあ。でもみんな、感謝してくれたんだよ」
飲み口が、俺に向けられる。
「君はどうする? 欲しければ飲ませてあげるよ」
「要らんと言っとるだろう。帰れ」
「強情だなあ」
言いながら、中西がペットボトルの飲み口を俺に近づける。
叩き落としてやろうと、俺は点滴の留置針が刺さっていない右手を上げた。
と、その時。珈琲の香りが鼻先をかすめた。缶やインスタントじゃない。二十年ほど前、旅行先で気まぐれに入った珈琲専門店で妻と飲んだ、あれの匂いだ。
『おいしいわねえ、あなた』
一口飲むなり、妻の顔がほころんだ記憶が蘇る。
香りの元を探ると、ペットボトルの水に辿りついた。
飲みたい。と本能が叫ぶ。
しかし同時に、これは珈琲ではなく水だ、と冷静な部分が待ったをかける。止めておけ、これは中西が持参してきた得体の知れない代物じゃないかと。
けれど、叩き落とすのはあまりに惜しい。
「さあ」
中西が飲み口を、俺の唇につけた。ペットボトルがゆっくりと傾けられる。間もなく、冷たい液体が、するりと俺の口に流れ込んできた。
中西が目を細める。その奥にあるのは、あの時と同じギラギラとした瞳だ。
むかっ腹が立った。俺は虫と同じか。生き物の生死を面白がるな。この、化け物め。
だが、俺の乾いた唇と舌を濡らして喉へと流れ込んでくるその水は、妻と交わした初めての口づけよりも、甘かった。
★
ゆっくり三口ほど呑み下した頃。中西はペットボトルを引き上げ、蓋を閉めた。
「顔色が良くなったみたいだな。じゃあ、また明日」
満足げな笑顔を残し、病室を出て行く。
「二度と来るな!」
痩せた背中に言い放った。その声の力強さに、本当に自分が発したものなのかと驚く。
俺に振り向いた中西はゆっくり首を横に振ると、「唯一の楽しみを奪わないでくれよ」と薄い眉をハの字に下げて笑ってから、扉を閉めて廊下に消えた。
再び独りになった俺は、信じられない思いで両手の開閉を繰り返す。体が温かかった。体に力がみなぎってくるのが分る。全身の痛みも、少し和らいだ気がする。
握り締める拳の硬さ。脚を動かした時の、腰の据わり具合。終始苦かった口の中は、さっぱりとしている。
水を飲んだからだ。そうに違いない。
やはり中西は、怖いやつだ。摩訶不思議な水を持っていることからして、化け物で間違いのかもしれない。
だが今となってはそんな事、もうどうでもいい。
どっこいしょと脚をずらし、ベッドの端に腰をかけた。背もたれに頼らず座ったのは、一月ぶりだ。
車椅子は、すぐ傍にある。アームレストを掴んで車体を前後に揺らし、ブレーキがかかっている事を確かめた。
「よい……しょ」
両脚で踏ん張りつつ、体を回転させ座面にゆっくりと尻を下ろす。
まさかもう一度、自分一人で車椅子に移乗できるとは思っていなかった。あの時の蟷螂は己の脚で歩いていったというのに、情けない話だとは思うが。
「陽子!」
妻の名を呼ぶ。
俺があの蟷螂と同じだとしたら、こうしていられる時間はあと幾ばくもない。
最後にやりたい事は、決まっているんだ。
陽子、陽子。
何度目かの呼びかけの後、妻が慌てた様子で病室の扉を開ける。
「どうしたの? 中西さんは?」
そして、車椅子を自走する俺の姿を見た彼女は、目を丸くした。
「まあ、あなた!」
叫んでから、うっと涙ぐむ。
「なあ、おまえ」
両手で口を押さえ涙を流す妻に、俺は微笑みかけた。もうずっと笑っていなかったから、カチコチになっていたのだろう。口周りの筋肉が痛い。
なあ陽子。
「下の食堂に、珈琲を飲みに行かないか」
おそらく我が人生で最後になる珈琲を、共に味わおう。
~完~
水 みかみ @mikamisan
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