第2話

凛音は小さな荷物をまとめて新しい住まいへと向かう。夫の屋敷を出たあと、彼女が静かに暮らせる場所を探していたのだが、宗也が紹介してくれた城下町の端にある茶屋風の一軒家が、凛音にはぴったりだと思われた。藩内の人々の目が届かない、少し隠れた場所であることも、彼女にとっては好ましかった。


「ここなら、穏やかに過ごせそうね……」


凛音は一人、小さな家の中を見渡し、静かに微笑んだ。室内は簡素だが、彼女が求めていた静けさがあった。障子越しに差し込む柔らかな光と、風に揺れる庭の竹が、彼女に心の安らぎを与えてくれる。


「本当にここでよかったのだろうか……?」


再び、心にわずかな迷いがよぎる。しかし、もう振り返るつもりはなかった。凛音は深く息を吸い込み、未来への一歩を踏み出すことを決意した。


そこへ、軽い足音と共に玄関の戸がそっと開かれた。入ってきたのは宗也だった。


「凛音殿、ここはどうですか? 気に入っていただければよいのですが……」


宗也は穏やかな笑みを浮かべながら、部屋に入ってきた。彼は凛音のために、この家を手配してくれたのだ。


「ええ、とても素敵です。ありがとうございます、宗也様。」


凛音は心からの感謝を述べた。彼女にとって、宗也の存在は今やかけがえのないものになりつつあった。だが、彼に対する気持ちがこれからどうなるのか、自分でもまだはっきりとはわからなかった。


宗也は部屋の中を見渡しながら、ふと真剣な表情を浮かべた。


「凛音殿、これからどうするか、お考えは決まりましたか?」


その質問に、凛音は少し驚いたが、同時に自分の気持ちを見つめ直す機会と捉えた。彼女は少し考え込み、そしてゆっくりと答えた。


「まだはっきりとは決まっていません。ただ……私はこれからは、自分自身の心に従って生きていこうと思います。義務や他人の期待に縛られることなく、自分の道を見つけたいのです。」


宗也はその言葉を静かに聞きながら、再び頷いた。


「それが一番です。あなたは、今までずっと他人のために生きてきたのですから、これからは自分のために生きるべきです。」


宗也の言葉には、深い理解と敬意が込められていた。彼は決して凛音に無理強いをすることなく、彼女の選択を尊重し続けていた。それが、彼女にとってどれほど大きな支えになっているか、凛音自身も感じていた。


「ありがとうございます、宗也様。あなたのおかげで、私はここまで来ることができました。」


凛音は、宗也に向かって深く頭を下げた。しかし、彼女の心の中にはまだ整理しきれない感情が渦巻いていた。彼への感謝だけではない、もっと深い思いが芽生えつつあることを、彼女自身が薄々感じ始めていた。


しかし、その感情を今すぐに形にすることはできない。夫との関係を断ち切ったばかりで、新しい人生を歩み始めたばかりの彼女には、まだ時間が必要だった。


「凛音殿、私はいつでもあなたの力になります。何かあれば、すぐに知らせてください。」


宗也は静かにそう告げると、ゆっくりと立ち上がった。彼の優しさに、凛音はもう一度感謝の気持ちを伝え、彼の背中を見送った。


彼が去った後、凛音はひとり静かな家に残った。その静寂の中で、彼女は再び自分の胸に手を置き、心の中で新たな感情を噛みしめていた。愛とは何か、自分にとってそれがどのような形で現れるのか――それを理解するには、もう少し時間が必要だろう。


彼女の新しい生活が始まったばかりであり、これからの道のりは長い。しかし、凛音は一歩ずつ進んでいく覚悟を決めていた。


新しい生活を始めた凛音は、日々の静けさと平穏に心を癒されつつあった。茶屋風の小さな家で過ごす時間は、これまでの武家の屋敷とは全く違い、心を解放してくれる場所だった。朝には庭に降りた露を眺め、風にそよぐ竹林の音を聞きながら、彼女は自分の時間を取り戻していた。


しかし、その静けさの中に時折、過去の記憶が忍び寄ってくる。特に晴貴との思い出が蘇るたびに、胸の中で痛みを感じることがあった。彼との結婚生活は決して幸福ではなかったが、それでも全てが悪かったわけではない。彼女にとっては、それもまた自分の人生の一部だった。


そんなある日、茶屋の戸が軽く叩かれた。


「失礼します、凛音殿。」


戸を開けると、そこには宗也が立っていた。彼は数日ぶりに凛音を訪ねてきたようだった。手には小さな包みを抱えている。


「これ、少しばかりの手土産です。お気に召すか分かりませんが、ぜひ召し上がってください。」


宗也は包みを渡し、凛音に微笑んだ。その姿を見て、凛音はふっと心が安らぐのを感じた。彼はいつも穏やかで、決して彼女に負担をかけることはなかった。


「ありがとうございます、宗也様。こんなにお気遣いいただいて……」


凛音は包みを受け取り、丁寧に開けると、中には季節の和菓子が美しく並んでいた。彼女はその気遣いに感謝しながら、宗也を招き入れた。


「少し、話をしてもよろしいでしょうか?」


宗也は畳の上に腰を下ろし、凛音の顔をじっと見つめた。その瞳には、何かしらの覚悟のようなものが感じられた。


「もちろんです。どうぞ、お話ください。」


凛音はお茶を用意しながら、彼の言葉を待った。宗也がこうして真剣な表情をするのは珍しいことであり、彼が何を話そうとしているのか、少し不安もあった。


「実は……浅見晴貴殿が、あなたの居所を探しているのです。」


その言葉を聞いた瞬間、凛音の心臓が跳ね上がった。彼女が夫の屋敷を出た後、晴貴が彼女を追うことはないだろうと思っていたが、そうではなかったのだ。


「晴貴が、私を……?」


「ええ、最近、藩内でも晴貴殿があなたの行方を気にしているという話が広まっています。彼があなたを探している理由は分かりませんが、何かしら思うところがあるようです。」


宗也は言葉を選びながら、慎重に話していた。凛音の心に再び動揺が走るのを感じ、彼はそれに配慮しているようだった。


凛音はしばらくの間、黙っていた。晴貴が自分を探している――その事実が、彼女にとっては驚きであり、同時に不安でもあった。彼が何を求めているのか、何を伝えたいのか、それは全く予想がつかなかった。


「……私は、晴貴に何を伝えればよいのでしょうか?」


凛音は宗也にそう尋ねたが、彼もまた即答はしなかった。二人の間に再び沈黙が訪れ、竹林の葉音だけがかすかに聞こえていた。


「凛音殿、あなた自身が決めることです。晴貴殿に会うか会わないか、それもすべてあなたの選択です。ただ、彼が何を思っているにせよ、あなたの意思が何よりも大切です。」


宗也の言葉には、彼女の自由を尊重する姿勢が変わらず込められていた。それは凛音にとって、大きな支えとなる一方で、彼女に重大な決断を迫っていることも感じた。


「……そうですね。考えてみます。」


凛音は静かに答えた。彼女にとって、これは再び自分自身と向き合う試練だった。過去との決別を決めた今、再びその過去が彼女を追いかけてくる。だが、凛音はもう二度と過去に戻るつもりはなかった。


「もし晴貴がここに来たとしても、私は……もう彼に戻るつもりはありません。」


その言葉を口にすることで、凛音は自分自身に再び誓った。自分の未来を生きると決めた今、彼女はもう後戻りできない。そしてその道の先に何が待っているのか、彼女はこれから確かめていくのだ。


宗也は彼女の決意を感じ取り、静かに微笑んだ。彼はそれ以上何も言わず、ただ彼女の隣に座り続けた。その存在が、凛音にとってどれほど安心感を与えているかを、宗也自身も理解しているかのようだった。


数日が経ち、金沢の城下町には冬の寒さが徐々に近づいていた。凛音は、家の前の庭で落ち葉を掃きながら、これまでの出来事を頭の中で整理していた。宗也から聞いた「晴貴が自分を探している」という話が、ずっと彼女の心の中で重くのしかかっている。彼が何を考え、何を求めているのか――それを知ることが恐ろしくもあった。


彼女はもう、過去に戻るつもりはない。だが、過去は容易に彼女を手放してはくれないのだろうか。そんな思いが頭を巡り、凛音は一瞬立ち止まり、空を見上げた。


灰色の空から冷たい風が吹きつけ、彼女の髪をそっと揺らした。


そのとき、またもや家の戸が叩かれた。凛音は驚き、箒を脇に置いて戸口へ向かう。戸を開けると、そこに立っていたのは宗也ではなかった。


「……晴貴?」


そこにいたのは、夫の浅見晴貴だった。彼はいつもの冷静な表情を崩さず、じっと凛音を見つめている。彼がここにいることは予想していなかったため、凛音はしばらくその場に立ち尽くした。


「久しいな、凛音。」


晴貴の言葉は静かだったが、凛音にはその奥に秘めた何かが感じ取れた。彼はここに来るまでに、何を考え、何を思っていたのだろう。凛音は言葉を探しながらも、結局何も言えなかった。


「入っても良いか?」


彼の言葉に凛音は一瞬迷ったが、静かに頷いた。二人は無言のまま、家の中へと入っていった。


室内に入り、凛音は晴貴に茶を用意しようとしたが、彼はそれを断った。凛音は少し戸惑いながらも、彼の前に座り、彼が話すのを待った。


しばらくの沈黙の後、晴貴が口を開いた。


「凛音、私はお前を探していた。お前がいなくなって初めて、私には何も残っていないことに気づいたんだ。」


彼の言葉は、今までの冷たい態度からは考えられないほど、柔らかかった。だが、その柔らかさが、凛音にはどこか遠い存在のように感じられた。


「私がいなくなって、ですか……」


凛音は静かに応えた。彼女の心には複雑な思いがあった。晴貴が自分を探しているということ、それ自体が予想外だったからだ。だが、彼の言葉が本当の気持ちなのか、それとも何か別の意図があるのか、彼女にはまだ判断がつかなかった。


「私は……お前に、もっと早く気づくべきだった。お前がどれほど孤独だったのか、そして私がどれほどお前を大切にしていなかったのか。」


晴貴はそう言うと、静かに息を吐き、彼女の目を見た。その瞳には、今まで見たことのない何かが映っていた。かつての無関心な瞳ではなく、何かを取り戻したいという強い意志が感じられた。


「……私は、もう戻るつもりはありません。」


凛音は決意を込めてそう言った。彼の言葉が本心だとしても、彼女の心はすでに前を向いている。晴貴に戻ることは、もう彼女にとって選択肢ではなかった。


「そうか……それでも、お前にこれだけは伝えておきたかった。私が間違っていたこと、そしてお前を大切にしなかったことを後悔している。」


その言葉に、凛音は一瞬目を伏せた。過去の苦しみが再び心に蘇り、涙がこぼれそうになったが、彼女はそれを堪えた。


「晴貴、あなたの気持ちは分かりました。でも、もう戻ることはできません。私は、自分自身のために生きることを決めたのです。」


凛音の言葉は、静かでありながら揺るぎないものだった。彼女が晴貴との過去を完全に断ち切ったことを示していた。晴貴もまた、その決意を感じ取ったようだった。


「……分かった。お前がそう言うなら、もうこれ以上は言わない。」


晴貴は立ち上がり、静かに頭を下げた。その姿にはかつての高圧的な態度はなく、彼なりの誠意が見て取れた。彼はすでに凛音の答えを知り、何も言わずに帰る決意を固めていたのだろう。


「ありがとう、晴貴。あなたのこと、許していないわけではありません。でも、私は前に進むしかないのです。」


凛音も立ち上がり、彼に向けて最後の言葉を告げた。彼女の心には、晴貴への未練や恨みはもう残っていなかった。ただ、別々の道を進むという覚悟だけがあった。


晴貴は黙って一礼し、家を後にした。その背中が遠ざかるのを見ながら、凛音はようやく、完全に過去との決別を果たしたことを感じた。


晴貴が去った後、凛音は静かに息をつき、庭に出た。冷たい風が再び彼女の髪を揺らし、空は夕暮れに染まり始めていた。


「これで……良かったのよね。」


彼女は空を見上げ、そう呟いた。晴貴との別れは、長い時間をかけて彼女の心を解放するものであった。そして今、彼女はようやく自分の未来に向き合うことができる。


その時、遠くから足音が聞こえた。振り返ると、そこには宗也が立っていた。


「凛音殿……」


宗也は彼女の顔を見るなり、何も言わずにそっと彼女に近づいた。凛音は彼の優しい眼差しに応え、微笑みを浮かべた。


「宗也様……私は、これからどうしたら良いのでしょう。」


彼女の問いに、宗也は静かに答えた。


「これからは、あなた自身の幸せを追い求めるのです。あなたが選ぶ道がどこであれ、私はいつもあなたのそばにいます。」


その言葉は、凛音の心に深く響いた。彼女はようやく、自分の人生を自由に生きる準備が整ったのだ。そして、宗也の存在が、その新しい道を支えてくれるのだろう。

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花影の誓い @inutika

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