花影の誓い
犬ティカ
第1話
江戸中期、加賀藩の城下町、金沢。春の日差しが、まだ冷たい風に揺れる梅の花に柔らかく降り注いでいた。
桜庭凛音は、屋敷の裏庭に面した縁側に静かに腰掛け、手元の茶碗をじっと見つめていた。彼女の指は、茶碗の縁を優しく撫でている。その姿は、まるで時の流れに取り残されたかのようだった。
「これでいい……」
彼女は、微かにそう呟いた。目の前の風景は、彼女が去ろうとしている屋敷の最後の記憶として、深く心に刻まれるだろう。もう二度とこの場所に戻ることはない。浅見晴貴との結婚生活は、名ばかりのものとなり、愛情というものが遠のいて久しい。彼女は心のどこかで、既に彼を失っていたのかもしれない。
静かな時間が過ぎ、凛音は立ち上がった。風が彼女の黒髪を軽く揺らし、その瞬間、彼女の決意は一層固くなった。数日前に整えた引っ越しの支度はすでに済んでおり、あとはこの家を後にするだけだった。
ふと、背後に人の気配を感じた。振り返ると、女中の梅が立っていた。梅は心配そうな顔をして、凛音に声をかけた。
「奥様、本当にお出かけになるのですか? ご主人様にお知らせせずに……」
凛音は微笑んで首を横に振った。晴貴に伝えるつもりはなかった。彼が自分に関心を寄せることはもうないと、彼女自身が一番よく知っているからだ。
「いいのよ、梅。あの方には、伝えなくてもわかっているでしょう。これが最善なのよ。」
梅は一瞬戸惑ったが、やがて頷き、深々と頭を下げた。彼女は凛音の決意が固いことを悟り、もう何も言うことはできなかった。
凛音はそのまま屋敷の門へと足を進めた。門が開くと、冷たい春の風が彼女を迎えた。彼女の胸の中には、何かが静かに解き放たれるような感覚があった。屋敷の外に一歩を踏み出すと、もう過去の重荷からは解放されていた。
城下町に出ると、賑やかな人々の声が耳に入ってくる。商人たちが売り物の声を張り上げ、子供たちが楽しそうに走り回るその光景は、まるで彼女とは別の世界の出来事のように感じられた。
そんな中で、彼女の視線はふと、一人の男性に向けられた。着物を羽織ったその男は、じっとこちらを見つめていた。彼の顔は懐かしく、どこか遠い記憶を呼び覚ますようだった。
「伊藤……宗也?」
凛音は思わずその名を口にした。彼はゆっくりと微笑みを浮かべ、凛音に近づいてきた。風がまた二人の間を吹き抜け、まるで過去の時を繋ぎ止めるかのように、彼らの再会を祝福しているかのようだった。
「お久しぶりです、凛音殿。」
その声は、かすかに昔の記憶を呼び起こす。懐かしさと共に、胸の奥にずっとしまっていた感情が、静かに波立つのを感じた。伊藤宗也――かつての幼馴染であり、私が最も信頼していた友。だが、今は目付という重い責務を負う立場にあり、凛音が夫・晴貴のもとで苦しむ姿を知りながらも、何も言わずに見守っていた彼。
「宗也様……」
その名を口に出すと、心にかすかな痛みが走った。いつから彼のことを「様」と呼ぶようになったのだろうか。かつては互いに呼び捨てで、何の隔たりも感じなかった二人。それが、今や遠い存在のように感じられる。
「お変わりありませんか? あの頃と比べると、少し疲れていらっしゃるように見えますが……」
宗也は、優しいまなざしで凛音を見つめた。その言葉に、凛音は微かに微笑んだ。確かに、夫の家を出る決意をした今、心は少し軽くなったが、長年の孤独と抑え込んだ感情が、彼女の中に深い疲れを残していた。
「ええ……少し、疲れているのかもしれませんね。」
凛音は、目をそらしながら静かに答えた。宗也の視線が、彼女の心の中まで見透かすようで、少し居心地が悪かった。宗也もまた、口を閉ざし、凛音の言葉を待つようにただ立っている。
その静寂の中で、凛音は自分の心に問いかけた。彼は何を思っているのだろう? そして、なぜ今この場所で再び彼に会ったのか。運命というものがあるとすれば、これは何かの兆しなのかもしれない。けれど、凛音はその答えをすぐには見つけられなかった。
「宗也様……私、もう夫の家には戻りません。一人で暮らすことを決めました。」
突然の告白に、宗也の表情がわずかに変わった。驚きと同時に、彼の中に何かが沸き起こるのがわかった。それは、彼自身が長年押し殺してきた感情だったのかもしれない。
「それは、浅見殿にはお伝えになられたのですか?」
「いいえ……伝えるつもりはありません。彼にとって、私はもう必要ない存在です。」
凛音の言葉には、かすかな哀しみと、しかし確固たる決意が含まれていた。長い間、家の名誉と夫婦の義務に縛られてきた彼女は、ようやく自分の心に素直になろうとしていた。
宗也は凛音の顔をじっと見つめ、しばらくの間沈黙した。彼の心にも、さまざまな感情が渦巻いているのが見て取れた。しかし、彼はそれを表に出すことはなかった。ただ一つ、彼が言えることがあった。
「もしお力になれることがあれば、どうかおっしゃってください。私は……あなたが幸せであることを、何よりも願っています。」
その言葉は、凛音の胸に深く響いた。彼が彼女をどれほど気にかけてくれているか、その言葉から感じ取ることができた。しかし、同時に凛音は、彼との間に超えられない壁があることも知っていた。宗也は、ただの幼馴染ではなく、藩の目付としての立場を持つ。彼との関係は、今後も決して自由にはなれないのだろう。
「ありがとうございます、宗也様。」
凛音は静かに頭を下げ、彼に礼を述べた。二人の間には、再び静寂が訪れた。遠くで風が吹き抜け、城下町のざわめきが耳に届く。その音が、二人の心にわずかな寂しさを残しながら、過ぎ去っていった。
桜庭凛音と伊藤宗也の間に、長い沈黙が横たわっていた。互いに何かを言いかけては、言葉を飲み込む。遠くから、藩士たちの足音が微かに響いてくる。風が梅の花を揺らし、香りが二人の間を通り過ぎる。
「凛音殿……これからどうされるおつもりですか?」
宗也の声は穏やかであったが、その奥には抑えきれない不安が混じっていた。彼にとって、凛音が晴貴の元を去ったという事実は、彼女の運命が不確かな道に向かうことを意味していた。それをどうにかしたいという思いが、宗也の心に膨らんでいた。
「まだ決めていません。ただ、静かに暮らせる場所があれば、それで十分です。」
凛音はそう答えながら、遠くを見つめていた。彼女の瞳には、自由を求める強い意志が宿っている。しかし、その自由は一体どこにあるのか、彼女自身にも分かっていない。凛音が求める静寂と解放、それが本当にどこかに存在するのだろうか。
宗也はそれを感じ取り、ふっとため息をついた。彼の胸の内では、彼女を守りたいという衝動が渦巻いていたが、目付としての役割がそれを許さない。藩内での職務は厳しく、何よりも公の利益を優先せねばならない。しかし、凛音は彼にとって特別な存在だった。
「凛音殿、私は……」
宗也が言いかけたその時、不意に背後から甲高い声が響いた。
「おや、これは伊藤様ではありませんか? こんなところで何をしていらっしゃるのです?」
二人が振り返ると、そこには浅見晴貴が立っていた。彼の着物はきちんと整えられ、いつものように冷静で落ち着いた表情を浮かべている。だが、その目は鋭く、宗也と凛音をじっと見据えていた。まるで、彼の心の中に潜む何かが二人の間に割り込んできたような、冷たい空気が流れた。
「浅見様……」
宗也は表情を変えずに一礼したが、その内心では緊張が走った。晴貴の出現は、予期せぬものだった。彼がここにいるということは、凛音の行動を把握していたのか、それとも偶然か――宗也はその意図を探ろうと、晴貴の動きを見守っていた。
「凛音、お前もここにいたのか。」
晴貴は凛音に向かって冷静に声をかけたが、その声にはかすかな苛立ちが含まれていた。彼は凛音が自分の屋敷を去ったことを知っているはずだが、それを咎めるでもなく、ただ冷たい視線を向けているだけだった。
凛音は一瞬戸惑い、唇を噛んだ。彼女の心は揺れ動いていた。ここで何を言うべきか――彼女はもう夫に何も言うべき言葉を持っていないように感じていた。
「……私は、あなたのもとを離れることを決めました。もう、戻りません。」
その言葉は静かだが、決意に満ちていた。凛音は晴貴の目を見つめ、まっすぐに言い放った。彼女の心にはもう迷いはなかった。彼女が求めるものは、彼のそばにはない。それを認めることが、彼女にとって最後の解放だった。
晴貴はしばらく黙って凛音を見つめた。その冷たい表情は、彼が何を考えているのかを読み取ることを許さなかった。だが、その目の奥には、わずかな動揺が感じられた。それは彼自身も気づいていない感情かもしれない。
「そうか……それが、お前の答えなのだな。」
晴貴はそう呟き、ゆっくりと視線を外した。彼の言葉には、抗うことのない諦めが含まれていた。彼もまた、凛音が戻ることはないと、心のどこかで理解していたのだろう。
宗也はその場で黙って二人のやり取りを見守っていた。彼の中で、凛音に対する感情と、彼女を守りたいという思いが複雑に絡み合っていた。しかし、目付として、彼には直接的に何かを言う立場ではなかった。
「……失礼します。」
そう言うと、晴貴は静かにその場を去っていった。彼の後ろ姿は、かつての威厳を保ちながらも、どこか寂しげに見えた。凛音はその背中を見送りながら、心の中でわずかな後悔を抱いていたが、すぐにそれを振り払った。彼女が選んだ道は、彼から解放されることだったのだから。
晴貴の背中が完全に見えなくなると、凛音は静かに息を吐き出した。心の奥に積もっていた重さが、少しずつ和らいでいくのを感じた。彼女は、ようやく自分の選択を言葉にできたことに安堵したが、同時に、これからの生活が本当に穏やかなものになるのか、まだ確信を持てていなかった。
隣に立つ宗也が、そんな彼女の様子を静かに見守っていた。彼は何も言わず、ただその存在を凛音に示していた。いつでもそばにいるということ、それを彼女に伝えようとするかのようだった。
「宗也様……私は本当に、この選択で良かったのでしょうか?」
凛音は自分の問いに自信が持てず、つい宗也に問いかけてしまった。彼女の中には、夫との長年の関係を断ち切ったことへの後悔が微かに残っていたのだ。たとえ愛が薄れていたとしても、武家の妻としての義務を果たさなかったのではないかと、自分を責める声が心の奥でささやいていた。
宗也は凛音のその問いに対し、しばし沈黙した後、静かに口を開いた。
「凛音殿……あなたは、自分の心に正直であれば、それで良いのです。他人の期待や義務に縛られる必要はない。これからは、あなた自身のために生きてください。」
その言葉は、凛音の胸に深く響いた。彼女は自分の意思を尊重することが、今までどれほど難しかったかを思い返していた。常に周囲の期待に応えようとしてきた彼女にとって、宗也の言葉は、まるで解放の鍵のように感じられた。
「ありがとうございます、宗也様。そう……そうですね。これからは、私自身のために生きるべきです。」
凛音は、宗也の言葉に勇気づけられ、自分の未来を見据えた。これまでの人生は家や夫のために捧げてきたが、これからは自分の心が望むままに進むと決めたのだ。
「それにしても……宗也様は、どうしてここに?」
ふと、凛音は宗也がこの場所にいる理由を尋ねた。偶然なのか、それとも彼が何かを知っていてここに来たのか、彼女の中で疑問が生まれた。
宗也は微かに笑い、軽く肩をすくめた。
「実は、あなたが晴貴殿の屋敷を出るという噂を耳にしました。それで、少し心配になって探しに来たのです。偶然というよりも、私はあなたに会いたかったのかもしれません。」
その言葉に、凛音は驚いた。宗也が自分を探しに来たという事実は、彼女にとって予想外だったが、それ以上に彼の誠実さが心に響いた。彼はいつも、彼女のことを気にかけてくれていたのだ。
「そうだったのですね……ありがとうございます、宗也様。」
凛音は心から感謝の気持ちを伝えた。彼の存在が、彼女にとって大きな支えになっていることを改めて実感した。
その後、二人はしばらく言葉を交わすことなく、ただ金沢の城下町を歩いた。夕暮れの風が柔らかく吹き、街道沿いの灯籠に火がともり始めていた。通り過ぎる人々のざわめきが、静かな背景音となり、二人の間には心地よい静寂が広がっていた。
やがて、宗也がゆっくりと立ち止まり、凛音に向き直った。
「凛音殿、私はこれからもあなたをお守りしたいと思っています。しかし、あなたの選択がどんなものであれ、それを尊重します。これからはあなたの自由です。どうか、あなたの望む道を進んでください。」
宗也の言葉には、彼女への深い敬意と誠実な思いが込められていた。彼は凛音に対して、何も強いることなく、ただ彼女の幸せを願っていたのだ。
凛音は彼のまっすぐな瞳を見つめ、胸にこみ上げてくる感情を抑えた。彼女は今、ようやく自分自身の意思で未来を選ぶことができるようになったのだ。そして、彼の言葉がその背中を押してくれている。
「宗也様……ありがとうございます。」
そう言うと、凛音は微笑んだ。彼女の中にある迷いが、少しずつ晴れていくのを感じた。
「私はきっと、大丈夫です。これからは、私自身の道を歩んでみます。」
宗也は凛音の微笑みに応え、軽く頷いた。そして、二人は夕闇に包まれ始めた城下町の風景をしばらく眺めていた。彼らの未来はまだ不確かであったが、少なくとも今は、心の重荷が少し軽くなっているのを感じていた。
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