残光
壱
警戒を強める
──荷の流れに不審な点はない。不審な人物が見つかる様子もない。
己の執務室で書類に目を通していた
平和な日常は、本来ならば喜ぶべきことだ。だが今はその平穏が、どうにも
──街中でも、南北の門でも、それらしき人物の目撃情報は上がってこない。だがあんなことをしといて、それで終わりってわけはないよな……
荷馬車に火矢を撃ち込んだ女の目撃情報は、商会全体で共有されている。今は街の住人全員で見張っている状況に近い。
それでもそれらしき女の姿を見たという情報はひとつも上がってきていない。ならば商会内で情報が共有されるよりも早く、
──あれは明確に
霜天商会の本拠地である姻寧で勝手をした挙句、街中で忘れ
──街中に潜伏していると考えるならば、……手勢なり協力者なりがいるってことだ。
こちらが把握できていない敵意が、この姻寧に潜んでいる。そして恐らく、その根はすでに深くこの街に入り込んでしまっている。
その事実が分かっているのに対策の施しようがないということに、蓮の内心はサワサワと不快に波打っていた。
さらに言えば、蓮が抱えている懸念はその一件だけではない。
──あの日から十日経ったってことは、
だが
通常、重度の依存者ともなれば、忘れ茉莉花なしで三日以上を過ごすことはできない。体の端々に現れ始める禁断症状を素知らぬ顔でやり過ごすにしても、せいぜい五日が限界だろう。十日もそれらしき症状が出ないなど、どう考えてもありえるはずがない。
考えられるとしたら、
そもそも
蓮と別行動を取らせている時には、複数人の『
どう考えても
──どうなってる?
体の奥底で常に忘れ茉莉花が
だというのに、依存者を例外なく飲み込むはずである禁断症状だけが、
──あの症状が現れないなら、そりゃあ現れない方がいいっちゃいいんだが。
どれくらいの時期に症状が現れるか読めない、という点は懸念材料だ。
──予期せぬ場所で
姻寧で一番『暴』の腕が立つのは蓮だ。その蓮でさえ、常に確実に
安全に、確実に、己も
──だが今の様子じゃあなぁ……
『一度正面切って
コンコンッという微かな音に、蓮は顔を上げた。
今の音は、閉め切られた扉を外から叩かれた音だ。蓮の耳にさえ足音を拾わせない誰かさんは、蓮と別行動を取るようになってから『気配もなくいきなり姿を現すと蓮でさえひどく驚く』という学びと、それに対する気遣いを覚えたらしい。
「蓮、入ってもいい?」
その証拠に、高くも低くもない、微かな
「どうぞ」
誰かの変装を警戒するまでもなく、蓮に気配を覚らせずにこの部屋の扉の前に立てる人間など
蓮が気のない声で答えると、扉はすぐにスルリと開かれた。気だるく視線を投げれば、今日も白牡丹を思わせる装いの上に蓮の外衣を
「ただいま、蓮」
蓮の姿を確かめた
「おう。どうだったよ? 巡回は」
「
そんな蓮に構わず後ろ手で扉を閉めた
見た目は『トタトタ』という幼子のような動きなのに、耳が馬鹿になったのかと己を疑いたくなるほど
「蓮、ここで何してるの?」
そんな蓮の内心を察しているのかいないのか、
「蓮、字、読めるの?」
──まぁ、『意外』って思われても仕方がねぇ風体で、仕方がねぇ業務内容だけども。
字の読み書きは知識階級者の特権だ。
だがこの姻寧では……こと霜天商会に限っては、その限りではない。
「まぁな」
一度気のない声を上げた蓮は、手元の書類をさりげなく伏せてからさらに言葉を続けた。
「
忘れ茉莉花による後遺症で最も有名なのが記憶の欠落だが、それ以外にも忘れ茉莉花は記憶力の低下や健忘といった症状をもたらす場合も多い。忘れ茉莉花が奪っていくのは過去の記憶だけではないということだ。さらに言えば、現状、そういった症状に対する有効的な治療法は確立されていない。
そんな状態の人間でも問題なく仕事を回していけるように、霜天商会では直接商売に関わる『
最悪『記憶』を失っても『記録』を残すことができていれば、仕事への損失は最小限で済む。一人で業務を抱え込むのではなく、ひとつの業務に複数人の担当をつけるようにしているのも『記憶を共有させる』『不正を防ぐ』という対策の一環だ。
──ま、それ以外の面から見ても、読み書きは覚えといて損はないしな。
読み書きは学びの
逆に基礎基本的なことさえ理解できていれば、己で学びたいことを学ぶ自由が得られる。己の熱意を、才を、己で育てることができる。
読み書き計算はその『学びたいこと』に手を伸ばすために、商会側が最初に与える『武器』だ。その武器をいかに研ぐかは個人の裁量に
──この『無理やり』ってのが、案外重要なんだよな。
霜天商会に拾われた人間は皆、地獄から生き延びた者ばかりだ。地獄をやり過ごすのに必死で、最初は己が新たに置かれた環境にまで目を向けていられる余裕はない。
命を永らえられた奇跡と、真っ当に生きることができる居場所。さらにそこに生き直すための武器を与えられ、それを存分に研げる環境が用意されている。
その価値を理解できるようになるまで、無理やりにでもその場所に縛り付けておく強制力は案外必要なものではないかと、蓮は己の来し方を振り返ってはしみじみと実感している。
「俺の時は
つらつらと商会に拾われた頃のことを思い返しながら言葉を口にしていた蓮は、ふと口をつぐむと
そんな
「多少頼りなくてもいいなら、お前には俺が教えようか?」
「え?」
「あんまり他人と近すぎる距離に置かれると、お前、緊張して疲れるだろ?」
検問破りの馬車を制圧した一件で実力を示して以降、
だが『
「読み書きを教えるとなると、どうしても互いに懐に入る距離で接することになる。暗殺者として生きてきたお前に、その距離感はまだしんどいだろ」
本来ならば教師役には『
──まぁ、俺の時は、游稔が今の霜天商会を立てたばっかで、教師役ができるほど学がある人間が限られてたからって理由だったんだが。
「俺が相手なら、そこまでお前も緊張することはないだろ? 何せ毎晩同じ寝台で寝てるくらいだし」
「そっ……そう、だけど……」
蓮がさらにつらつらと言葉を続けると、
「どうした? 指摘されてそこまで驚くようなことか?」
常に表情が薄い
──何だ? まさか俺に対して無防備なのを自覚してなかったのか?
「や、そこ、じゃ、なくて」
蓮の表情に視線を泳がせた
「僕も、覚えて、いいの?」
「え?」
「字。……僕も、覚えて、いいの?」
そっと、囁くように言葉を落とした
「いいから言ってるんだろ?」
「で、でも」
だが
──この足音は……
聞き覚えのある足音に、蓮はとっさに廊下へ続く扉の方へ視線を流す。
「蓮、鼓条さんが呼んでる。僕、『
「鼓条が?」
一瞬『何かあったのか?』と警戒心が頭をもたげたが、この後の予定を思い出した瞬間、その警戒心は霧散する。
ちょうどその瞬間を
「蓮
華やかな声が名前を呼んだ瞬間、扉は無遠慮に開かれていた。その向こうから顔を出したのは、先日蓮が頼んだ『洗濯』を捌いてくれた
「選抜会の準備が整ったとのことで、『
クリッと丸い瞳を愛嬌たっぷりに
「選抜会は見せモンじゃねぇんだが」
「今更じゃないですかぁ、蓮
だが金櫻がその程度で怯むはずがない。キョルンッと愛嬌を振りまきながら、金櫻は黄色い声を上げ続ける。
そんな金櫻のはしゃいだ声を遮ったのは、
「選抜会?」
疑問が溶け込んだ呟きに視線を向ければ、
そんな
「行くぞ、
「え?」
「呼んでこいってことは、俺を連れてお前も一緒に来いってことだろ」
目を通していた書類を簡単に纏め、鍵がかかる引き出しにしまった蓮は、立ち尽くす
「僕、も」
対する
「僕も、着いていって、いいの?」
──何か、さっきと同じようなこと言ってんな、こいつ。
だが、問いに対する答えは決まっている。
「いいも悪いも、俺が『来い』って呼んでんだろ」
その答えを
その様に、なぜか酷く視線を奪われたような気がした。
「……うん」
蓮が思わず見入る先で、
「今、行くね」
そんな何気ない仕草に己の心臓が跳ねたことを、蓮は無理やり
誤魔化せるはずなどないとどこかで感じながらも、そうしなければならないのだと、なぜか強く思った。
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