参
「
「どうぞ」
コツコツ、と扉を叩いて音を鳴らしながら声を上げると、中からは穏やかな声が返ってきた。
その声の余韻が消えるのを待つかのように一拍間を開けてから扉を開けば、中からは柔らかな光がこぼれ落ちてくる。
「随分早く来たなと思ったら……お客さんが一緒だったんだね?」
部屋の突き当たりには、大きく窓が取られていた。その傍らで
柔和な顔立ちに浮かべられた穏やかな笑み。都の豪商の若旦那と言われても通用しそうな落ち着いた
だが眼鏡の向こうに隠された瞳には、底冷えするような鋭い光が湛えられていた。
「どこで拾ったの?」
彼こそが、この
蓮の主であり、古馴染であり、背中を預け合う相手でもある。
「昨日の帰り。場所は俺ん
「『忘れ
「ふぅん?」
『以上』と蓮が両手をヒラリと上げると、游稔は気のない声を上げた。だがそれがただのフリであることを見抜いているのか、
──殺気は見えない。游稔が今後の生殺与奪の権を握ってるって理解してて、緊張してるって感じだな。
とはいえ、蓮が読んだ通りの実力を
──ほんっと、なんか……チグハグなんだよな。
扉に背中を預けるように立ちながら、外衣の袖に隠した手の中に手甲の隠しから抜いた流葉飛刀を忍び込ませる。そうやって
──あいつはきっと、腕と実績のある暗殺者だ。逃げようと思えばいくらでも逃げれたはず。真正面から
その
だというのに
──気力がない? 意思がない? どっちもしっくり来ねぇな……
等身大の生き人形、と言うと、少し印象が食い違うような。
その違和感が、蓮には何だか気持ち悪い。
「君、所属は?」
そんなことを考える蓮の視線の先で、游稔は前置きなく『尋問』を開始した。
フゥ、と游稔が吐き出した煙が、朝日の中にユラユラと微かな影を描き出す。ただの煙草では
「どこからこの姻寧にやってきたの?」
「……
その声の行方を追うかのように耳を澄ませていた游稔は、それ以上続かない言葉にスッと瞳をすがめた。
「
『で、どこ?』と游稔は視線の圧を強める。
「蓮が『職業・暗殺者』って断言するような人間が、堅気の人間だとは思えない。僕の目から見ても、君は黒社会に属する人間であるように見える」
この部屋は今、扉側を蓮が、窓側を游稔が封鎖した密室だ。
「答える気がないなら、やり方を変えるけども」
游稔の言葉に、頭から被せられた外衣を握る
だが次の瞬間、
「覚えていない、と言ったら……信じるか?」
微かに見える
「名前は
その沈黙を己に与えられた猶予と取ったのだろう。まろぶように言葉を紡ぎ出した
「僕は、あの雨の中、何かから逃げていた」
「何から逃げていたの?」
「分からない」
淡々と問い続ける游稔に、
「言い逃れをするつもりはない。……本当に、それ以上のことを、覚えていないんだ」
──まぁ、普通に聞いてたら、その場しのぎの言い逃れにしか聞こえねぇよな。
ましてや
……
「はぁーあ、まるでどっかの誰かさんに再会した気分だ」
同じことを游稔も思ったのだろう。
張り詰めていた緊張が不意にバッサリと断ち切られる。
「え?」
「ほぼほぼ記憶を全損させてた俺よりはマシだろ」
「は?」
突然砕けた雰囲気を醸し始めた游稔の発言に気が抜けた声を上げた
「これだけ強く『忘れ茉莉花』の匂いがするんだ。君、相当な深度までやられちゃってるよ」
軽く肩を
「『忘れ茉莉花』は、使用者の身体能力の
忘れ茉莉花。発祥地である北部での読み方を取るならば『
それは北部の黒社会が蔓延させているという、麻薬の中でも一際危険で、一際厄介な代物だ。
見かけは香に似ていて、実際に火で
北部の黒社会の息がかかった妓楼には、忘れ茉莉花を吸うためだけの密室が用意されているという話だ。忘れ茉莉花の成分を充満させた部屋に人を押し込めれば簡単に中毒者にできるのだ。簡単に中毒者を増やせるお手軽な麻薬と言えなくもない。
人々が自主的に忘れ茉莉花に手を出すきっかけは、大抵が疲労回復や催淫作用を欲してのことだという。
確かに初期の軽微な摂取であれば、疲れが抜けない体が嘘のように軽くなり、不眠不休で動くようになる。痛覚が麻痺する代わりに快楽を強く拾うようにもなるから、刺激的な夜を過ごすことにも役立つだろう。妓楼に『
だがそれもほんのひと時だけだ。
忘れ茉莉花の効果が切れた体は、反動として激しい痛みを訴えだす。関節という関節から体が引きちぎれるのではないかという痛みを拾う禁断症状に、大抵の人間は耐えきれない。痛みを忘れるために、またその痛みを感じることを恐れて、人は再び忘れ茉莉花の香りを浴びにいく。
そうなってしまえば、あとは転がり落ちていくだけだ。
『忘れ茉莉花』という名前は、『時間を忘れさせる』という意味と同時に、『快楽と引き換えにするかのように記憶を失っていく』という副作用からも来ている名前だ。
その名が示す通り、茉莉花のような
そんな重度の依存者の体臭は、まるで内部で忘れ茉莉花を焚き続けているかのように甘ったるくなる。
「北部では、その強烈な依存性と、長期使用による記憶の欠落を目当てに、奴隷調教の一環として忘れ茉莉花が使われることもあるけども」
『君もそうやって
その言葉に、
「どうして、『
「そりゃあ、僕達も被害者だからね」
実にアッサリと答えた游稔は、煙管の先で蓮を示す。
「そこにいる蓮も、そして僕も」
反射的に煙管の動きを追っていた
「不本意に忘れ茉莉花漬けにされた過去がある。だから僕は忘れ茉莉花が嫌いなんだ」
「そん、な」
「それとも君は、自ら積極的に忘れ茉莉花を求めた人間なのかな? そうだと言うならば、今すぐここで殺すしかないけども」
そう
──まぁ、本当に忘れてるってなら、自分がどうしてヤク漬けになったかっていう経緯も覚えてねぇもんな。
その辺りを踏まえて考えれば、
──試しはこんなもんでいいんじゃないか?
素性が分かることはなかったが、
忘れ茉莉花と使用者を取り締まっている
使用者に危険性が見えればその限りではないが、周囲に危害を加える様子が見えず、本人に更生の意思があり、忘れ茉莉花を強制摂取させられた立場であったと分かる人間であれば、基本的には保護してそれなりの処置を施してやる。そうやって救われた人間が、霜天商会には多く籍を置いていた。
「……殺されるのは、困る」
『とりあえず保護でいいんじゃねぇか?』と蓮が目線で訴えようとした瞬間。
キュッと、外衣を握りしめる
「この地獄に
その言葉に蓮は思わず息を呑む。
同時に耳の奥に
『あい、たい』
昨晩、
きっと
「……ふぅん?」
その視線を逸らさないまま煙管を口元に運んだ游稔は、どこか面白くなさそうに呟いた。
「ほんっと、誰かさんにそっくりだねぇ?」
──るっせ。
その『誰かさん』が誰であるのかを理解している蓮は、思わず内心で毒づいた。ついでに片袖を振って『もういいだろ』と無言のまま訴える。
蓮は
「とりあえず、君は着替えるといい。その格好のままっていうのもあれだしね」
一度
艶やかな黒髪を素っ気なく纏め上げ、男物の黒衣に身を包んだ女だった。飾り気が一切ないにも関わらず……いや、逆に飾り気が一切ないからこそ、その蠱惑的な美貌と肉感的な体つきが際立つような、儚さと夜の艶が魅惑的に同居した美女だ。
そんな目を
──そういえば
「お呼びでしょうか、
蓮とともに組織内で『
紅を乗せていないはずなのに深く
「この子を着替えさせてあげて。服装選びは君に任せる」
突然気配もなく現れた芙蓉に、
そんな
「
それからようやく
──この場で頼るなら俺って思ってんのか。
『俺も十分敵側じゃないか?』とそんな
「取って食われやしねぇよ。お前の着丈にあった衣を用意してくれるってだけだ。俺はここで游稔と野暮用があるから、一緒には行けない」
そこまで言ってからふとあることに気付いた蓮は、芙蓉に視線を合わせると言葉を足した。
「芙蓉、
「……承知」
チラリと蓮を見やった芙蓉は無表情のまま言葉少なく答える。不機嫌であるわけではなく、これが芙蓉における『普通』だ。
「……また、会えるよね?」
蓮と芙蓉のやり取りで、
芙蓉に向かって身を翻した
「お前の処遇がどういう風に決まろうと、説明のために必ず俺達とは顔を合わせることになると思うぜ」
「……うん」
蓮の言葉が嘘ではないと分かったのだろう。
蓮と游稔だけが残された部屋に、一瞬静寂が
「随分と
「るっせ」
その音が十分遠ざかったことを確認してから、蓮は游稔が立つ窓辺へ歩み寄る。相変わらず煙管を吹かしている游稔の顔には、蓮や芙蓉にしか見せない砕けた雰囲気が漂っていた。
「で? お前が俺を呼びつけた用件は?」
「呼びつけたわけじゃないんだけども」
「訂正。お前が俺を待ってた用件は?」
窓枠に腰掛ける游稔の傍らに腕を組んで立つ。いつもの密談の体勢になった蓮を流し見た游稔は、不意に表情を改めた。
「ちょっと気になる情報が朝一で入ってさ」
フゥ、と細く煙を吐き出した游稔は、蓮を見上げてようやく本題を切り出す。
「『
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます