弐
天衝連山を超えて行き来しようと思えば、この姻寧を通るか、高く険しい山を登るしかない。物流の面で見ても、軍事の面で見ても、また藩烏国内から見ても、藩烏に攻め入ろうとする国外から見ても、姻寧は近隣国屈指の要所としてはるか昔から知られてきた。
要所を治める人間には、権力が
時代によって王侯貴族、武将、
「
朝日よりも早く動き出した街の中を、汚れ物が入った
表通りに面した一等地にデンと構えられた低層造りの屋敷。自分の名前と役職を叫んだ相手が、その屋敷の門を守っていたいかにもガラの悪そうな男だということを認識した蓮は、足を止めないままヒラリと片手を上げて男に答える。
「
剃り上げられた頭に狼の入墨を入れた大男は、見かけによらない丁寧な言葉使いと朗らかな表情で蓮に言葉をかける。
そんな顔馴染に、蓮は微かに笑みを浮かべながら口を開いた。
「ちょっと野暮用でな。
「はい。
そこまで朗らかに続けてから、門番の男はヒョイッと蓮の傍らへ視線を落とした。蓮がその視線の先を追えば、蓮の影に隠れるように立つ
「そちらのお連れさんは?」
『もうちょいまともな服を探してやる』とは言ったものの、そもそも蓮と
結果、今の
──まぁ、この街なら多少妙チキリンな格好してても目立つことはねぇし。ガッツリ『
そもそも商会のそれなりの地位にいる蓮にしたって、仕事着は袖が落とされた上衣に肘下から甲までを覆う手甲、下は幅をダブつかせた袴、足元は革の
その上に肩から滑り落とすようにして双狼黒蓮紋入りの外衣を羽織る様も、首筋より上で適当に切られた黒髪も、それだけで
とはいえ、『そんな街だから』という理由だけで、まともな格好をさせないまま客人を連れ歩くのは褒められたことではない。
「俺の仕事の関係者だ。中での監視は俺が請け負う」
不審者の排除は門番の仕事のひとつだ。任に忠実であろうとする男に
「良い一日を、
「ああ、お前もな」
それだけのやり取りで門の内に入ることを許された蓮は、街の中を歩いていた時と変わらない足取りで敷地の中へと足を進めていく。対する
──それでも逃げ出すような真似はしない、か。……思ってたよりも従順で助かる。
『ま、逃がすようなヘマをするつもりはねぇけども』と内心で続けながら、蓮は前庭に対して広く開け放たれた表戸の内へと踏み込んでいく。
その中ではまだ早朝と呼んでも良い時間であるにも関わらず、様々な国の装束に身を包んだ老若男女がガヤガヤと騒がしく立ち回っていた。
お仕着せである黒衣を纏った人間を相手に持参した品を見せながら話をする商人。
そんな人々を見下ろすかのように、広間の奥壁には『双狼黒蓮』を染め抜いた幕が掲げられていた。
──相っ変わらず
活気と騒音が紙一重となったその空気に、蓮は足を止めないまま顔をしかめる。
ここが蓮の職場であり、姻寧における王城。
「
さっさと通り抜けるに限る。そんな内心を噛み締めながら改めて盥を抱え直した蓮の耳に、細いくせに不思議と聞き逃さない声がスルリと忍び込んだ。
「『主に仕える身』じゃなかったの?」
チラリと背後を振り向けば、
「愛称みたいなもんでな。
北部の言葉では、『
「……そこだけ、南の読み方じゃないんだ」
蓮の説明に
──鋭いな。
この姻寧で主に使われているのは、南部の言語である共通語だ。北部
そんな中、霜天商会に関わる固有名詞には、北部訛りを取っているものも多い。特に役職名に顕著だ。
──まぁ、必要ならば游稔が明かすか。
説明を己の上役に勝手にぶん投げた蓮は、勝手知ったる建物の中を奥へ奥へと進んでいった。
表間には商会の関係者が所狭しと詰めて、行き交う人間に目を光らせている。開放的な造りを取っているようでいて、警備は案外固い。その態勢を作り上げたのは、何を隠そう蓮自身だ。
そんな己の支配領域とも言える点をひとつひとつ確かめるように視線を配りながら、蓮は表間から奥へと踏み込んでいく。
「蓮
すると次に自分の名前を呼んだのは、華やかな女の声だった。
その声音にビクリと
「わぁ! 本当に蓮
「
「ねぇねぇ蓮
表間から裏に抜けた廊下の先は二階まで吹き抜けになっており、二階部分には回廊のように廊下が巡らされている。
その手すりから身を乗り出すかのように、豊満な体の線も露わな衣装を
そんな女達の顔をひとしきり順繰りに眺めてから、蓮は溜め息とともに口を開く。
「お前らが相手をするような客じゃねぇぞ」
「あらぁ、ざーんねぇーん!」
キャラキャラと声を上げて明るく笑う彼女達は、この屋敷に仕える下女であり、同時に商会が抱える高級妓女でもある。
人と物が集まり、流れ行く要所には、必ず花街が発展する。商会の表と裏のあわいに位置する『仕事』を仕切るのが、ここにいる彼女達だ。
この場所で彼女達が相手にするのは、商会と取引を持つ商人や旅人達だ。表間で商談を成立させた人間が求めれば、彼女達がここで彼らに一晩の夢を饗する。
商会からの信用と、それなりの金子を用意できる人間のみを相手にしていることもあり、この黒城に詰める女達は姻寧の中で見ても粒揃いの美姫ばかりだ。
──まぁ、『双狼黒蓮』の旗の下にいる以上、ただの美姫ってわけじゃねぇんだけども。
「なぁ、
游稔曰く『最高に美しい毒花』達を見上げながら、蓮は問いを投げた。その声に女達は気を悪くした様子もなく無邪気に首を傾げる。
「芙蓉
「芙蓉姐様なら、この辺りにはいないわ」
「きっと
「そうか」
──俺と芙蓉を揃って呼びつけた?
『何かあったのか?』と一瞬思考が横に
蓮は腕に抱えたふたつの盥を示しながら、女達に言葉を投げた。
「悪い。誰でもいいんだが、洗濯を頼めないか?」
「洗濯?」
同時にスンッと、女達の鼻が動く。この距離から女達の瞳に宿った険に気付けるのは、恐らく蓮だけだろう。
──ちょうどここに集まった『毒花』達は、そっち向きの人間ばっかだしな。
「はーい! 蓮
彼女達は娼妓としても一流だが、『毒花』としても一流だ。そういう人間しか游稔はこの屋敷に置かない。
女達の顔から表情が消えたのは、本当に一瞬のことだった。蓮が瞬きをしたその瞬間に、女達は元通りの笑みを顔に浮かべている。
「そこに置いといて。すぐに回収に行くから!」
「蓮
「命じられるなら、もっと別の時間帯に、もっと別のことがいいんだけども」
「あー、はいはいはい。游稔に呼ばれてるんだったな、そーだったなぁー」
妓女ならではの艶が纏わりつく軽口をあしらった蓮は、廊の隅にふたつの盥を置くとヒラヒラと片手を振った。そのままつれなく歩き出せば、
吹き抜け部分を抜けると、廊下はまた薄暗く陰る。磨き抜かれた飴色の床材に蓮の長靴の
──暗殺者の身のこなし、だな。
そうでありながら、
──俺、きちんと『尋問』って単語出したよな? 普通こんなに大人しく従うものか?
『いや、助かるんだが』と内心で
まるで、人形を相手にしているような。……いや、『人形』と言うと、何か印象が食い違う。
──意思がないってわけじゃない。感情がないってわけでもない。……ただ、それが正しい反応だとも思えない。
常の仕事中に相手から向けられる殺意や嫌悪。そういった物が一切向けられないせいで調子が狂っている、というのが、現状で一番正しいのかもしれない。
──それだけ『忘れ
まあ、実際そうであったとしても、蓮にそこを心配してやる義理はないし、その事実が明るみになったところで以降の判断は主である游稔が降すことになるのだが。
そんなことを考えながら歩いている間に、周囲から人の気配は完全に消えていた。棟をいくつか抜けたためか、屋敷が帯びる雰囲気も公的な物から私的な物に変わっている。
「さて」
そんな景色の中に目的の扉を見つけた蓮は、足を止めると傍らを振り向いた。蓮が振り向いたせいで隣に並ぶ形になった
「我らが王とご対面と洒落込みますかね」
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