阳炎
壱
『面倒見てあげて』という言葉は、『仕事を教えてあげて』という意味を含む。しかし仕事を教えようにも、
そして荒事など、起きない方が絶対に良いに決まっている。
「あー、俺達の主な仕事は、
かと言って、正体不明の暗殺者を傍らに置いて、商会の極秘事項が飛び交う事務仕事を片付けるわけにもいかない。
結果、蓮は
「揉め事の種を見つけて早めに潰す。すでに揉め事に発展していたら、早期の解決を目指す。武力抗争がすでに勃発していたら、姻寧の民を守るために腕を振るう。……まぁ、本来の『
この『姻寧の民を守る』の中に『忘れ
「あと、表側から要請があれば、商会のメンツの護衛にもつく」
つらつらと説明しながら視線を落とすと、
──なんか……調子狂うな。
襟が高く首元が詰まった、白色の裾が長い上衣。差し色の朱色と、中衣の橙が、上衣の白にも
足元は男性物の革靴ではなく、良家の子女が履くような布靴だった。上の装束が白から朱までの色合いで揃えられているのに対し、下衣と布靴は黒で統一されている。
──綺麗な装束を用意してもらったんだから、俺の外衣は手放せばいいのに。
芙蓉に連れられて再び蓮と
芙蓉
──俺がお前にその外衣を被せたのは、様にならなかった格好を隠すためってのが理由の大半だったんだがな。
まあ、だが当人が珍しく……というよりも、ほぼ唯一見せた執着だ。蓮の方も、外衣の一枚を手放したくらいで困るような生活はしていない。
──逆にそれを理由に喧嘩を売ってくるような
とはいえ、ここまであからさまな庇護を与える形を取るなら、変な噂のひとつやふたつ、起こされる覚悟はしておいた方がいいかもしれない。
例えば、『蓮
──関係者は関係者でも、そういう関係者じゃねぇんだけどなぁ……
いくら
恋人同士が外衣や小物を交換して身に纏うという文化が北部にはあったはずだ。姻寧でも、そうやってさり気なく恋人からの独占欲を見せびらかしている人間は少なからずいる。
そういう輩が蓮の衣を被いた
──いや、こいつの顔面なら『少女』じゃなくて『少年』だって判明しても噂になりそうだな。
むしろ男だと知られた時の方こそ『蓮
「そういえばお前、何か得物は与えられたのか?」
そのためにはやはりさっさと
『荒事は起きないに限るが、起きたらとっととこいつを現場に投入しよう』と心に決めた蓮は、
「お前が元々持ってた暗器は、俺が全部取り上げちまったけども」
「芙蓉が、この服を選んでくれた時に、一緒に」
シパシパと目を
「お前が選んだのか?」
「これが一番手に馴染んだ」
蓮が続けて問うと、
「お前が元々仕込んでた暗器は、柳葉飛刀と鉄糸じゃなかったか?」
「その辺りは、功を立てれたら、追々だって」
「あー……」
柳葉飛刀は飛び道具で、鉄糸は特注武器だ。消耗が激しい物品、高価な物品は現状与えられない、というのが芙蓉の判断だったのだろう。もしくは選んだ装束では装備が難しいから、
──まぁ、もしくは、俺が手癖を把握するまでは、多少武力を削いどいた方が安全だと思ったのか。
どれくらいの時期に、何をどこまで与えるか。その判断も蓮が降すことになりそうだ。
──実力の把握と、敵意のなさと、……どれくらい使えるかが確認できて、もしも有能だと分かれば、早めに得物を返してやるのも一手……
「ねぇ、蓮」
街の中心を通る街道を外れ、裏道に入る角を曲がる。
土地が狭い姻寧では、建物が無秩序にひしめき合っているせいで、下手な横道に入れば慣れた者でも迷いかねない。そんな分かりにくい道を避けつつ、ひとまず街の中心街を見下ろせる高台に登るかと足を進めていた蓮は、クイッと袖を引っ張られる感触に足を止めた。
「どうして、僕を助けたの?」
蓮の外衣の袖を取った
その強さに、蓮は面食らったように目を瞬かせる。
「言っただろ。『助けたっつーか、拾っただけ』『職務上の問題』だって」
「じゃあ、游稔が言ってた『僕達も被害者』っていうのは、本当?」
──やっぱこいつ、鋭いな。
麻薬と呼ばれる
とはいえ、記憶というものは、人格を形成する
──俺の時は、どうだったかな。
蓮で言えば、游稔に拾われた直後くらいが今の
あの頃は環境の変化を理解できなかった上に禁断症状から来る激痛が酷くて、まともな意識を保っていることがまずできていなかったような気がする。つまり、あの頃のことはあまりよく覚えていない。
──こいつは、これからのことを、覚えていけるようになるんだろうか。
「……お前の質問にばかり答えるのは、公平とは言えねぇな」
一瞬横に逸れた思考を引き戻し、蓮は
「ましてやその問いへの答えは、商会の中核を
「じゃあ、どうしたら、教えてくれる?」
「まず、お前が俺の質問に答えろ」
端的に蓮が要求を突きつけると、一瞬間を置いてから
「お前が言ってた『この地獄に
だが問いを紡ぐ唇が動きを止めることはなかった。
「まさかそこまで忘れてるってことはねぇだろうな?」
蓮の質問が意外なものだったのだろうか。問いを受けた
「会いたい人がいる」
数回、息を整えるかのように呼吸を繰り返した
「具体的に誰だったのかは、忘れてる。だけど『その人に会うために、僕はこの地獄を受け入れた』という覚悟だけは、忘れずに心の中にある」
蓮の視線を『言葉の先を促されている』と認識したのだろう。
「だから、僕は、ここで死ぬわけにはいかない」
「会いたい相手が誰だったかも忘れてるくせに、それでもそれを理由にこの地獄を渡るってか?」
「会えば、きっと、分かる」
「だから、僕は、商会に逆らわない。やれと言われたことはやる。質問にも、素直に答える」
そんな
──縋る先である
一番確実にこの現状で命を繋ぎたいならば、従順に商会に従うのが一番生存率が高い選択肢だと言える。
同時に、腑に落ちたこともあった。
幼子を連想させるほど、従順で無垢な態度。元の性格や『忘れ茉莉花』の影響もあるのだろうが、
──ま、多分、演技なんかじゃねぇんだろうな、これは。
ただ、そんな状況でも、蓮には分かることもある。……いや、これはただ単に『信じたいこと』という、蓮の個人的な願望でもあるのかもしれないが。
「僕は答えた。游稔が言ってた……」
「本当だ」
その言葉を
「俺は游稔に拾われる以前の記憶が何もない。游稔が俺を見つけた時に喋ったことさえ、禁断症状が抜け切った後の俺は忘れてた。俺に残ったのは、この身に叩き込まれた戦闘技量と『知識』だけだった」
あえて
「游稔も游稔で後遺症を抱えているし、芙蓉も芙蓉であれでガタはあるしな。
『答えになったか?』と蓮は言外に問いかけた。
その声なき問いが聞こえたのだろう。コクリと喉を鳴らした
「蓮は」
ポツリとこぼれた言葉は、しばらく先が続かなかった。
「蓮は、どうしてこの地獄を、渡ろうと思ったの?」
茉莉花の煙が消えた後に残されるのは、いっそ死んだ方がマシだと思えるような激痛の嵐だ。思い出せない記憶の
それこそ、その地獄に耐えきれず、再び煙に溺れに行く者がいるくらいに。痛みを知らしめられた奴隷達が、その苦痛から逃れるために煙と主への絶対服従を受け入れるくらいに。半端に理性を残した罪人に忘れ茉莉花をかがせた後、あえて禁断症状を経験させ、自ら自害へ追い込ませるという残忍な処刑方法もあるという話だ。
更生の意思と見込みがある人間に手を差し伸べている霜天商会だが、霜天商会の手を取った全員が全員、無事に更生できるわけではない。おおよそ半分が更生の途中で死んでいく。
その大半の死因が、『禁断症状に耐えきれなかった』という言葉に集約される。
痛みに体が耐えきれずに心拍が止まる者。気を狂わせて最早人としては生きていけなくなった者。自死してしまう者。死を懇願する者。
地獄を渡るよりもなお、茉莉花の残り香を消す痛苦が勝る。
蓮が
記憶はなく、死は目前。仮に命を拾ったとして、その先にあるのは死よりもなおつらい激痛の嵐。
それを乗り越え、今ここにこうして立っていられる理由は何か。
「游稔が言ってただろ。『誰かさんにそっくりだ』って」
その問いに、蓮はゆっくりと
この仕草を、まるで祈るようだと表されたことがある。だが蓮には閉じた
「『会いたい人がいるから、死ねない』」
代わりに蓮は、かつての自分の全てを支えていた言葉を口にした。
「游稔に拾われた時に、俺は游稔にそう言ったらしい。だから生きると、そう俺が言ったと、俺は游稔に聞かされた」
蓮は閉じた時と同じ速度で瞼を押し上げる。再び開かれた視界の中心にいる
そんな
「その言葉を口にしたという記憶自体は、俺の中にはない。だが、その言葉を俺が口にした時に抱いたであろう覚悟は……『俺は何としてでも生き延びなきゃなんねぇ』っていう執着は、消えることなくここにある」
ここ、という言葉とともに、蓮は拳から伸ばした親指をトンッと己の胸元に置いた。その下では、あの地獄を渡る中でも奇跡的に動きを止めることがなかった心臓が、今でも力強く脈を打っている。
「だから、お前の言葉を、俺は信じてやってもいい」
蓮の記憶は、霜天商会とともにある。それ以前のことは一切思い出せない。游稔は雨の夜、打ち捨てられるように転がっていた蓮を拾ったというが、そのことさえも蓮の記憶には残っていない。
『会いたい人がいるから、死ねない』
だから生きる道を選んだ。
それが、蓮の過去の全て。
そうやって、白紙の上に新たに時を重ねてきた蓮だからこそ、分かることがある。
「その言葉に縋って地獄を行く人間にしか出せない声の響きが、眼差しの強さが、あんたにはあるからな」
だが
「……っ!?」
不意に破裂するように広がった不穏な空気の揺れに、蓮と
──何だ? 街道沿いで揉め事でも起きたか?
「
顔を跳ね上げたまま、蓮は感覚を研ぎ澄ませて街の様子探る。
その瞬間、こちらに向かってくる足音が聴覚に引っかかった。
「蓮
「
さらに続けて響いた声が部下のものであると分かった蓮は、声に答えながら角の先へ足を踏み出した。そんな蓮の後ろに
「
蓮の前に転がり込んできた祥逎は、肩で息をしながらも必死に表通りを指さす。随分走り回ったのか、息をつくのに必死で中々言葉が続かないらしい。
「何があった、祥逎。お前がいる
「検問破りですっ、
祥逎は蓮直轄の部下というわけではないが『
記憶をさらって今日の祥逎がどこにいるかを思い出していた蓮に、祥逎が悲鳴のような声を浴びせた。
「北陰門で荷の検査を拒んだ荷馬車が一台、無理やり門を突破して、街の中に押し入りましたっ! 今は街中を巡回していた連中で足止めを……っ!!」
検問を拒否した荷馬車が無理やり街中に押し入った。そのまま強引に南の正門である
「どこで止められた?」
驚きで一瞬呼吸が引き
蓮はあえて普段よりも落とした声音で祥逎に問いかける。その声にハッとしたように深く息を吸い込んだ祥逎は、先程よりも落ち着いた語調で蓮の問いに答えた。
「黒城よりは北陰門側です。『
「足留めに成功したとはいえ、随分中まで入られちまったな……」
霜天商会本部である黒城は、姻寧の中心部に置かれている。街中を半分突破されるよりも前に止められたことを僥倖と取るべきか、繁華な場所で止めてしまったことを災難と取るべきか、判断に困るところだ。
とはいえ、どう動くべきか迷っていられる時間もなければ、ここから取れる手段も多くはない。
「街の住民に扉を閉めるように伝令を。南陽門に詰めてる連中に、万が一到達されてしまった場合に備えるようにも伝えてくれ。黒城に報告は?」
「住民伝令には
祥逎が答え終わるよりも早く、重く銅鑼の音が響き始めた。黒城から響き始めた銅鑼は、やがて伝播するように街の至るところから鳴り始める。
銅鑼は霜天商会から発される『警戒令』だ。街中で大きな争い事が起こり、住民に警戒と避難を指示する時に姻寧の街には銅鑼の音が響き渡る。銅鑼の音を聞いた姻寧の住民は、扉という扉、窓という窓を閉め切って安全な場所に隠れてくれるはずだ。
──大きな被害が出ねぇといいが。
「祥逎、現場まで案内してくれ」
「はいっ!」
「行くぞ、
銅鑼が鳴り響く空を一度見上げてから、
目元に険を載せた
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