第12話 私の名前

「ポージィさんは優しすぎて、相手を傷付けるぐらいなら自分が全て被ればいいと思っているし、なんならそれを自分にとっての『逃げ』だと考えて相手に責任すら負わせようとしない。そんな風に考える人と、ただ寂しさだけで成立する関係にしてはいけないと思ったんです。ポージィさんには本当に気持ちをぶつけるべき相手がいらっしゃる。そしてそれは僕ではないんです。だから」


 安永さんの視線が、私の前に置かれたプリンに注がれる。


「このプリンは、僕からの応援のようなものです」


 私は改めてプリンを見る。

 奥さんが亡くなった後、納得がいくまでずっと作り続けていたと、安永さんは話していた。私なんかのために時間と気持ちを使ってくれたのだ。


「ポージィさんは、まだ間に合います」

 

 あなたの相手は、生きているから。

 そう続くような気がした。

 私はココットを左手に持つと、ぐちゃぐちゃになっていたプリンを一気に口の中へ搔き込む。舌に残るカラメルソースがほろ苦くて、「プリンは子どものおやつなんかじゃない」と思った。


「ご馳走様でした」


 器をテーブルに置き、両手を合わせる。

 午後六時。

 私と安永さんの時間も、もう終わり。


「ありがとうございました」


 伝えたいことや言いたいことは、たくさんあった。

 なのに、言葉にしようとするとまた泣いてしまいそうで、うまく表せない。

 だから私はひとつだけ、口にする。


「名前を」

「はい」

「名前を呼んでもらえませんか。ポージィじゃなくて、私の本当の名前を」


 安永さんは頷いて「教えてください」と言った。


「奈実、です」

「どんな漢字を使うんですか」

「奈良の奈に、実ると書きます」

「奈実さん。優しい響きのお名前だったんですね」


 知り合ってから一年。

 恐らく安永さんは、あえて私の名前を訊かなかったのだろう。

 ポージィという現実味の薄い名前のままでいれば、一緒に重ねた時間も全部ままごとのような想い出にすることが出来る。私が安永さんの名前を尋ねない理由がそうだったから、その気持ちはよく分かった。


 いつでも忘れることが出来るように。


 でも、今日が最後と思い知った今、欲が出た。

 

 私のことを、ずっと忘れないでいて欲しい。

 安永さんの脳のどこかに、くさびを打ち込むように私の本当の名前を刻みつけて欲しい。

 そして、いつ来るのかもわからない死の間際に、ふと思い出して欲しい。

 安永さんの人生にほんの少しだけ関わった女がいたことを。

 

「奈実さん」


 不思議だ。

 身体ごと、そっと撫でられているみたいだ。

 こんなに優しく名前を呼ばれたのはいつぶりだろう。

 この記憶があれば、きっと私はこの先も立ち向かって行ける。

 そんな風に感じるのは今だけだと頭では知っているけれど、心では分からないままでいる方が幸せなことだってあるのだ。


「安永さん、ありがとうございました」


 私は大きく息を吸い、声が震えないように笑って言った。


「さようなら。お元気で」


 私たちが最後に会った日の週末、この街から安永さんはいなくなった。

 私はいつものように料理を作り、掃除をし、ブログを更新する。

 どこかの街で暮らしている安永さんに向けた生存報告のように、日常を綴る。


 読まれなくてもいい。

 気付かれなくても構わない。

 

 私は記事の公開時刻を水曜日の午後六時にセットし、画面を閉じる。

 これから起きることもそのうち記事にするかもしれない。

 私の名前を呼ぶ安永さんの声を思い出しながら、私は深く息を吸い込んだ。

 

 この先、どこかで偶然会えたなら、その時は胸を張ってあなたの名前を尋ねたい。

 だから。


 私はリビングで新聞を読んでいた夫に声を掛ける。

 顔を上げてこちらを見る夫に向かって、私は言った。 


「私たちのこれからのこと、ちゃんと話そう」


 向き合わなければならないことから、私はもう逃げない。




 

 

 

 

 

 

 


 


 



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