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 Re: お返事

 快い返事をいただけたこと、とても嬉しく思っています。ありがとう。

 法案も無事可決され、あとは施行される日を待つばかりです。

 こんな日が来る事を夢にも思っていなかった、というのが本音です。自分が死ぬまでにそんな法律が認められる日が来るとは思っていなかったし、自分にそんな相手が現れるとも思っていませんでした。何しろ僕は、ずっと独りで生きてきましたから。だからあなたからショーへの誘いがあったとき、僕はとても驚きました。そして何を考えているのだろうと思いました。正直、今でのあのときのあなたが考えていたことがよく分かりません(笑)そのうちにそんな話もできたら嬉しいと思っています。

 あなたの周りには常にいろんな人がいて、活気に溢れている。僕はそんなあなたを羨ましく思いますし、そういう関係を大切にしていって欲しいと思っています。僕の存在があなたの邪魔にならないことだけが、僕の祈りです。

 あなたは今どんな気持ちなのでしょう?

 少しでも自分に近い気持ちでいてくれたら嬉しいと思います。

黒木 純


          *


「あたし、この家を出ようと思う」

 「同性婚」の可決が報じられた翌日の昼食中、真知子は光にそう言った。昼のテレビ番組では急遽、『「同性婚」で変わる私たちの生活』という特集が組まれている。今日のテレビには黒木は出ていないようだった。

「すぐにってわけじゃないけど、少なくともあの法律が施行されるまでには」

 光は、少し返事に詰まると、

「そうなんだ」

 とだけ言った。

「やっぱり」

 彼女は聞かれていない理由を語りだした。

「光が黒木さんと結婚するなら、一緒に暮らしているのってなんだかおかしいと思うから」

 光はそれは本当におかしいことなのだろうか、と思った。それが多分、世間的にはおかしいことと言われることは理解できた。しかしそれがなぜ、おかしいことになるのだろう? 一緒に暮らしてはいけない理由は何だろう? 光はその疑問を口にすることはできなかった。

「あ」

 真知子が何かを思いつき、言った。

「あたしが出て行ったら、ここで黒木さんと二人で住めばいいんじゃない? 黒木さんって今一人暮らしなんでしょう?」

 そういう可能性があるということに、光は全く思い当たっていなかった。ここに黒木と二人で住む。そしてなぜかそれは、とても不自然なことに光には思えた。

「そうだね、黒木にも相談してみるよ」

 光はそう真知子に言った。

 その日から、再び由貴が家に頻繁に訪れるようになった。カレンダーを見ても、〆切の文字は見当たらなかった。光に手伝って、と頼んでくることも無かった。


 そしてあっという間に、引越の日はやってきた。

 喧しい音を立てながら、食器の中から真知子のものを選び出す。フォークも、スプーンも、コップも、半分だけが箱の中に消えて行く。

 由貴は黙々とその作業を手伝っている。

「共有で使ってたものは、全部置いていくね」

「え、いいよ、持って行きなよ」

「だって光くんはまだこの家に住むんだから」

 真知子は光の方を見ず、段ボールに漫画を詰めている。

 光は下唇を歯で噛んだ。

「でも、醤油とかは真知子がお金払ってただろ?」

「そうやって中途半端に持ってくと何がなくなったのかわからないでしょう? 私は心機一転で全部買い揃えれば済む話だから、いいのいいの」

 三人掛かりの作業はあっと言う間に進んで、業者が家具を運び出し、残りは段ボールだけになった。

「結構な量になったなあ」

 光は目の前に積まれた段ボールを見て、肩にかけたタオルで額を拭いた。

「ごめんね、結局、手伝ってもらっちゃって」

「いいよいいよ、力仕事は男がやる方が。トレーニング代わりにもなるし」

「引っ越しの度によくこんなに部屋に入ってたなって、感心するよね」

 部屋の中にはもう段ボールしか残されていない。

 よいしょ、と声を漏らしながら光は段ボールを抱え、下で待つトラックまで持って行く。二個、三個と箱が減って行く。そして、部屋はすっかりからっぽになった。

 真知子はがらんとした部屋の真ん中であぐらをかく光の正面に座って、

「今まで本当にありがとう」

 と言った。

「結局引っ越しも、ギリギリになっちゃったね。ホントにあたしって、何でもギリギリにならないとやらないんだな」

 真知子は笑って、

「でもそれは光も一緒」

 光は真知子の顔を見た。

「気付いてた? 今日丁度、二年なんだよ、共同生活」

 光は全く気付いていなかった。苦い笑顔が思わず漏れる。あの法律が可決してから施行されるまで、長くかかった。そうか、もう二年にもなるのだ、と光は思った。振り返ると、今まで黒木を含めて二年以上つき合った恋人はいなかった。

 真知子は優しく言った。

「でも、光のそんなところも、あたし好きだったよ」

 光は笑った。

「俺も真知子のなんでもギリギリになるところ、好きだった」

 真知子は一瞬驚いたように目を少しだけ大きく開いた。そして少し疲れた表情で笑った。

「二年間、とっても楽しかった」

「俺も、楽しかったよ」

 玄関の外から、真知子を呼ぶ由貴の声が聞こえる。トラックが出発するらしい。真知子はそれに一緒に乗って引越先へ移動する手はずになっていた。

「じゃあね」

 真知子は光に手を振った。光も手を振り返した。それを見て真知子は微笑むと、体を翻し玄関に向かい、シューズを履くと足早に階段を降りていった。

 光を振り返ることは無かった。


 光はゆっくりと玄関の扉を閉めると、すっかり静かになった部屋と対面した。光は転がっている靴が自分のものだけなこと、洗面所の歯ブラシが一本だけになっていること、食器棚から猫のイラストのマグカップがなくなっていること、机の上にいつも置き去りにされていたシャープペンシルが見当たらないこと、曜日の担当が書かれた紙が剥がされていること、テレビの横に置いてあったジャニーズのライブのDVDが消え去っていることを確認して回った。

 それなのに真知子の担当だった醤油や塩、砂糖などはしっかりと残っていた。

 光は真知子の部屋を開けた。

 何もない空間が広がっていた。剥き出しのフローリングにはパソコンラックの置いてあった場所にわずかな凹みが残っている。いつも作業をしていた小さなちゃぶ台も、よくかけてあげたあの毛布も、自慢のコレクションと言っていたアニメのフィギュアも無くなっていた。

 どうしてこんなに寂しいんだろう?

 光は目が小さく震えるのに気付いた。皺が寄るようにぴくぴくと、小刻みに瞼が痙攣している。光はゆっくりと扉を閉めた。

 リビングに行き、テレビをつけると、何事もなかったかのようにドラマの再放送をやっていた。世界は自分と無関係に動いている。光はしばらくぼんやりとそれを見つめていた。

 光のカレンダーには、今何の印もついていなかった。

 光はぼんやりと立ち上がると、自分の部屋に向かい、畳まれた段ボール箱を広げ始めた。

 真知子には言っていなかった。光もこの家を出て行くことになっていた。とりあえずしばらくは、小さな部屋を借りて、そこでのんびり暮らそうと思っていた。もしかするとそのうちに黒木の家に住む事になるかもしれないし、二人で別の家を探すかもしれない。それはまだわからないことだった。

 光は段ボールの中に、黒木の本と、黒木の作品が掲載された雑誌を詰めた。そして少しの漫画を詰めて、iPodを使うようになってからほとんど再生していないCDを詰め込んだ。

 光は台所に行くと、いらなくなった新聞紙に皿を包みながら一個ずつ詰め込んでいった。新聞紙は一時期同性婚の記事ばかりだと思っていたが、可決が決まってからはその記事は驚く程少なく、殺人事件や景気の悪化の話ばかりが載っていた。

 砂糖や塩、胡椒、そして光が自分では絶対に使わないだろうハーブ類をどうしようか逡巡し、結局荷物として持っていくことに決めた。

 それでも、荷物は驚く程少なかった。真知子の荷造りはあんなに時間がかかったのに、と光は思った。

 翌日、テレビや机、ベッドなどの家具を運び出し、段ボールの搬出を手伝うと、部屋の中には何もなくなった。

 それじゃあ荷物、持っていっちゃいますね。引越屋の言葉を背中で聞きながら、光は部屋の奥へと進んだ。カーテンの無くなった窓には明るい光が降り注いで、部屋に窓枠の形の影を作っている。

 光は、窓を抜けてビルの隙間から見える空を見つめていた。ビルには大きなスーパーの看板が出ていた。そんな看板が出ていることを光は初めて知った。視界に罫線を引いたように横切る電線に、雀が二羽むつまじく留まり、しばらくお互いに声を出しながら突き合ったあと、それに飽きたのか一羽が飛び立ち、もう一羽もそれを追いかけた。

 学校が終わるチャイムが小さく聞こえ、下校するはしゃいだ生徒達の声が踊った。豆腐屋の笛の音が聞こえ、いつの間にか空が赤く染まり、そして夜になった。

 光は何も無いフローリングの床に胎児のように丸まって寝転んで、呆然と宙を見つめていた。

 明日が法律の施行される日だ。光はポケットから携帯電話を取り出し、黒木から来たメールを開いた。真っ暗な部屋で、携帯電話の画面だけが青く明るい。

 ——明日、朝一番に区役所に行きましょう。駅で待ってます。

 光は携帯電話の画面を切ると、それを床に放り出した。ごとんと音を立てて携帯電話は床に落ちた。しばらくその携帯電話を見つめていた。

 画面が点灯し、バイブレーションが振動し、メールを受信した。真知子からだった。

 ——今まで本当にお世話になりました。新しい生活、頑張ります。光もお元気で。

 光は自分の心にすっかり穴が開いてしまったと思った。そして多分、この空白は黒木でも埋められないものなのだ、と思った。どうして自分は今日そんなことを考えるのだろう。

 思えば黒木に結婚を申し込まれてから、ずっとそんな気分だった。

 明日。光は壁を見た。カレンダーも、時計も無い。

 それでもやがて夜は終わって、明日はやってくる。

 光の頭の中に、急にある単語が閃いた。

 マリッジブルー。

 そうか、これがマリッジブルーというやつなんだ。そう思うと、光は急に面白くなって、一人で声をあげて笑った。光以外誰もいない部屋の中に、その笑い声は吸い込まれて消えた。

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