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「同性婚」制定へ
同性婚制度が導入されることが、十二日、政府関係者への取材から分かった。同性婚の導入には婚姻法の改正が必要となるが、政府与党内では既に大筋の合意が得られており、今国会内での成立を目指すとしている。
(中略)
この唐突にも思える決定の裏には、国際社会の情勢の変化がある。アメリカでは五年前より最高裁での違憲判決を受け全米で同性婚制度が導入されており、EU諸国でも同性婚やそれと同等のシヴィル・ユニオン制度を導入する国が続々と現れている。最も大きな影響があったと関係者が明かすのは去年国連で採択された「性指向による差別の撤廃宣言」だ。この宣言自体に拘束力は無いものの、国際社会の大きな流れに乗り遅れると、日本が先進国としての位置を保つのが難しくなるのは避けられない、と関係者は語った。いずれにせよ「寝耳に水」のこの法案、今後多くの場所で議論を招きそうだ。
——二月十三日 ××新聞 一面
*
目が覚めたとき、光は珍しく頭が鈍くなっていることに気がついた。昨日編集者につきあわされて飲まされたアルコールが、体の中に鉛のように沈んでしまっている。二日酔いは光には珍しいことだった。部屋から出ると、テレビの音もせず、リビングは静まり返っていた。もう由貴はいなくなっていた。仕事に向かったのだろう。真知子が珍しく、一心に新聞に眼を落としている。光が起きたことにも気付かないようだった。
「おはよう」
声をかけると、真知子はびくりと大きく震え、怯えたようにも見える目つきで光を見た。
「どうしたの」
真知子はしばらく宙に視線を泳がせたあと、新聞を机の上に置いた。
「……これ」
トップで掲載されている文字を指差す。その文字は大きく、視認性に長けていたので、光は立ったままその文字を読むことができた。
——「同性婚」制定へ。
光の呼吸が一瞬止まった。光が最初に思ったのは、何かの冗談に違いない、ということだった。真知子がわざわざ偽物の新聞を拵えたのでは無いかと思ったほどだ。光は意図的にゆっくりと歩くと、かがみ、その新聞を手に取った。指先に触れる安い紙のざらざらとした感触が気に障った。
「すごいね」
小さく呟く声が、光の耳に聞こえた。数秒経ってから、何を言っているのか光は理解した。「すごいね」。光はなんと応えたらいいのかわからなかった。記事を読み進めるうちに、最初に受けた衝撃は嘘のようになって、そしてこんなことがうまくいくはずがない、と思った。あのアメリカも最高裁判所の判決はほぼ半数は反対だったし、実際に全米で制定されるには長期の議論が必要だった。そんな世論の毛ほども存在しない日本が、突然こんなことが、できるはずがない。光はすっかり冷静になり、いつの間にか二日酔いもどこかへ飛んでしまって、新聞を机の上に乱暴に放った。
「こんなの、飛ばし記事だよ。日本でそんなこと、後十年は経たないと」
「……そう」
意味のわからない表情を浮かべている真知子を他所に、光はテレビの電源をつけた。ワイドショーのトップでも、このニュースが取り上げられているようだった。舌鋒鋭い関西出身の司会者が、大きな声で批判の声をあげている。
——結婚っていうのは、昔からある大事な伝統なんですよ。そりゃあ今、家族と一言に言っても色々な形があって、以前じゃ信じられないような年齢差のカップルだって普通になってたりはしますけど、だけどだからってこれは無いんじゃないですか。私は同性愛者を差別するつもりは全くないですがね、結婚は違うでしょう。そう思いませんか。あなたはどう思います?
眼鏡をかけた女性コメンテーターが応える。
——わたしはこの制度、大歓迎だと思いますよ。日本は同性愛差別が少ない国だなんて思っている人も多いですけど、でも実際今までこんなこと、議論にもならなかった訳じゃないですか。宗教で同性愛への反発が強いアメリカも、長い議論の後に全米で同性婚を認める方向に行ったわけで。今回こうやって議論になるってだけで、私はすごい進歩だと思うんですよ。
司会者は笑いながら、
——あなたはまるで、実際にはこれは実現しないと思ってるみたいな話し方ですね。
と言った。
——そうですね、私はこれには賛成ですが、実際にはもっと国民の理解を得ないとならないんじゃないですか。こういうことを政府だけが決めてしまうことには、私は危機感は覚えます。
——あなたはどうですか。
司会者は初老の映画監督に話を振る。彼は問いかけのなかばから割り込むように言った。
——こんなのはとんでもない話ですよ。あなたはね、同性愛者を差別するつもりはないなんて言いますけど、この際だから言いますけどね、あんなのは異常なことなんですよ。テレビなんかにああいう人たちが出て、そういうのももう普通なことになっていますけど、あんなのもおかしいことですよ。ああいう人たちが、テレビで普通にキスしていたりするでしょう? 気持ち悪いですよ、あんなもの。私はそういう人が出て来たらまずチャンネルをまわします。だからこんなのは言語道断ですよ。世界的な流れがどうとかじゃない、もっと根本的な問題ですよ。自然な人間というのはね、普通に異性を愛するものなんですよ。
言いながらどんどんとヒートアップする彼に、司会者の顔色がさっと青ざめ、慌てて口を挟もうとする。その瞬間、テレビが暗転し、光の顔が映った。振り返ると真知子がリモコンを右手に、昼食の皿を左手に持っていた。
そこでようやく光は、今日は自分が昼の当番だったことを思い出した。
「あ、……わりい、なんか……」
「気にしないで、たまたま目が早く覚めたから、作っただけなの。この間の毛布のお礼、言い忘れちゃってたし」
二人は置かれたカレーを黙々と食べた。光がリモコンに手を伸ばすと、あ、と真知子が言った。
「何? テレビ見たくない?」
「あ、ううん、違うの」
光はテレビをつけた。同性婚の特集は終わり、話題は小学校で起きた連続殺傷事件の話題に移っていた。男子児童の手によって、計七人が死傷するという凄惨な事件だった。犯人が中学生だったこともあり、連日センセーショナルに報道されている。
「酷い話だよな、この事件」
「二人、亡くなったんだ。なんか、気が沈むね。違うチャンネルにしようか」
真知子が机に置かれたリモコンを手に取った。まわした先のチャンネルでも、同性婚についての議論が流れている。テレビの全てがその二つの話題だけで構成されているようだ。
「いっか。消しちゃうね」
テレビ画面が再び暗くなり、そこには真知子と光の顔が並んで映っていた。光はその顔をぼんやり見つめた。あの議論はなんだったのだろう? あの人たちは何を言っていたんだろう? 光は世界が急速に離れて行くのを感じた。何か世界が、大きく違うものになって、そこに自分だけ取り残されているようだ。
カレンダーに何の印も無かった光は、居間で作業する真知子と由貴を尻目に、あの街に向かうことにした。はじめてあの街に行ったときのことを、光は電車に乗りながら考えていた。地元の熊本から高校を卒業すると同時に上京してきた光が、雑誌などで得た情報で膨らませていた想像と、実際のあの街の印象は幾分異なっていた。それは好意的な表現を用いるならば普通で、直截的に言えば地味だった。きらびやかなネオンも無ければ歩いている人も少ない。
「それはあんたが来る時間が悪かったのよ」
とママは言う。確かに光は上京したその日、まだ陽も落ちていない時間にあの街へと向かったのだった。その時間、まだ街は眠っている。とても、静かに。そこは新宿の喧噪から離れ、静謐な時間が流れていた。
「まあでも確かに、昔と比べると人は減ったわね」
ママは光に考案させたカクテルを飲みながら話す。
「昔はここでしか本当にそういう人間を見つけるのが難しかったけど、今はインターネットとか、いろいろあるでしょう? それにやっぱりなんだかんだ社会も変わって来ているし。あたしは今ここでこんな仕事してるけど、家族にはずっとサラリーマンって嘘ついてたのよ。まあ結局、嘘がバレて、当然そういう人間だってこともバレて、家族会議とかいろいろあって、大変だったんだから。今の子は、結構平気でカミングアウトとかするじゃない? 親もなんかはいそうですか、みたいな空気の時とかもあるみたい。それで大学で普通にそういう友達作って、彼氏作ったりしてるのよ。びっくりよね。そういうの見てると、それはあたしたちのお陰って言いたくなるわよ。あたしたちが色々苦労したから、あんたたちが良い思いできてんのよ、って」
ママはグラスの中身をぐいっと飲み干すと、
「こんなそこらへんのおっさんみたいなことは、絶対言ってやるもんかって思ってたんだけど。ダメね、あたし」
バーの中には十人程の人がいて、各々二三人のグループを作って会話をしていた。
「結婚しちゃいなよぉ」という声が聞こえる。
「あんたたちもう五年もつきあってるんでしょ? 結婚しちゃえばいいじゃない」
その声色はどこか嘲るような雰囲気が混ざっている。もう一つのチームが会話に合流し、「結婚! 結婚!」と囃し立てる。そして皆で喉で笑った。「俺らが結婚、ありえねえ」「誓いのキスしろ、キス!」
煽られてキスをするカップルを横目に、マスターが訊ねる。
「どう思う? あんたは、あの話」
「ああ、同性婚ですか。まあ、無理だと思いますよ」
「そうよねえ、皆全然本気にしていないもの」
光はマスターの言葉に頷いた。
「ほんとだよな、でも、テレビ見ててもそればっか。大騒ぎになってるぜ」
グループから外れた一人の男が、光の横に腰掛けながら言った。マサシという常連の男だ。
「頼むから放っておいてくれって感じだよなあ。どうせ可決なんてされるわけないんだから。さっきの話だけど、それにしても最近は人が減ったよ。不景気ってのもあるし、今更こんな場所に集まる理由も無いんだろうな。最近はどこも観光バーばっかりになっちゃって、どこ行っても女を見なくちゃならない。俺は男探しに来てるんだっつうの。それで女を締め出したら今度はそれを「差別だ!」とか、騒ぐだろ? メチャクチャだよな。その点この店は女人禁制だから、居心地もいいし。マスター、もう一杯ね」
ママは後ろのボトルから酒を選んでいる。男は光の方に腕を回し、耳元に口を寄せた。短く切り揃えた髭がちくちくと耳朶にあたる。
「それにしても光ちゃんさあ、そろそろ一発やらせてくれよ」
マサシは大きな掌を光の太腿に乗せ、ゆっくりと動かす。
「ダメです、俺には相手がいるんで」
徐々に内側へと進んで行くその手首を、光は掴んで引き剥がした。マサシは不満そうに口を尖らせる。
「ちぇえ、なんだよ、相変わらず身持ちが硬いなあ。あんなん、やってるんだから、いいだろ?」
「ダメです」
光はがっちりと手首を掴んで動きを止める。腕に筋が浮かんでいる。丁度そのタイミングで新しいカクテルがテーブルに置かれた。マサシは舌打ちをしながらそれを受け取って立ち上がると、他のグループの会話へと戻っていく。
「いいじゃない、ちょっとくらい」
ママが光に言う。
「ダメです」
「ほんっとにあんたって真面目よね。そんなに言うなら、あれもやめればいいのに。それだったらマサシも納得するでしょ」
「それとこれとは話が別ですから。なんで皆が俺があれをしてるからってそういう風に俺を思いたがるのかわかりませんよ」
「そんなにこだわるなら、彼と結婚しちゃえばいいのよ。相手、いるんでしょう? そうしたらもう言われなくなるわよ」
光はグラスを弄る手を止め、眼をあげてママを見た。
「そうでしょう?」
ママは洗ったグラスの内側をタオルで拭い、視線をそこに落としている。薄暗い間接照明の店内では、表情を伺うことはできない。光の鼻から短い息が漏れた。
「だけど、あんなのは」
「あたしは可決されると思うわ」
はっきりと、決然とした声だった。
「多分だけど、ああやって新聞の一面に載るっていうのは、もうかなりの状態まで来ている証拠だと思うもの。日本の新聞って、あれで結構いい加減じゃないのよ。それに」
ママはそこで一度小さく息を吸い、コップを置いた。乾いた音が響いた。
「あたしはあの法案が、可決されて欲しいと思ってる。あたしたちはずっと日陰者だったし、多分ずっとそうなんだろうって思っていたの。あれはあたしたちが、公に「存在しても良い」って認められるってことなのよ。誰だってそういう風に認めてもらいたいものでしょう? それが普通の、当たり前のことでしょう? 多分あたしたちは自分たちを卑下することに慣れすぎているのよ。あたしは普通になりたいだけ。それって悪いことかしら?」
いつの間にか店の中は静まり返って、ママの冷静な、しかし引き攣った声だけが大きく聞こえた。
始発に乗って家に着くと、ダイニングテーブルの上に小さな紙袋が置かれていた。その下にメモ用紙が挟まっている。光はそれを手に取った。
『ハッピーバレンタイン。義理チョコです。いつもありがとう マチコ』
光はカレンダーを見た。今日は二月十四日だった。
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