「性」の色、鮮やかに 「夜の汚泥」 黒木純・著

 同性愛者の大学生の日常を描いたデビュー作「谺」、セックス依存症の女性を描いた第二作「果実」と、一貫して性をテーマに執筆を続ける著者の第三作。今回の主人公はタイトルにある通り「夜」の世界に生きる男娼だ。その男チヒロは毎晩、老若男女様々な性別・年齢の人間を客として迎える。客は様々な事情を抱え一夜限りで彼を「買う」。そしてチヒロはセックスを通してその様々な客の人生の一部に触れる。しかし実際には、私たちが最も裸になるその瞬間でさえ、私たちの周りには脱ぐ事のできない服がある。チヒロはそんな服をいとも容易く脱がせてしまう。最も印象深かったのはキャリアウーマンの女性のエピソードだ。彼女は装身具を身につけることで「男」となり、チヒロを「女」のように犯す。「男らしさ」「女らしさ」の崩壊が叫ばれる昨今、彼女はそんな行為のあとにこう漏らす。「あの時私が何を考えているか、あなたにわかる? 私はずっと、『私は女』って言い聞かせているのよ。それも、必死に」。作者はセックスというその中心から、「らしさとは何か」とまざまざと私たちに突きつける。

(野田曜一・評論家)

——二月十二日 ××新聞 書評欄


          *


 本屋の自動ドアをくぐると、暖気が光に襲いかかった。厚手のダウンジャケットを着た光は、すぐにインナーシャツに汗をかいてしまう。光は本屋に行くたびに、なぜこんなにエアコンを強くかけるのだろうと感じる。

 本が出ていることは知らなかった。書評が載っていたということは、さほど前ではないだろう。そんなことも、光は以前は知らなかった。そもそも、新聞の書評欄などまともに読んだ事もなかったのだ。いつものように淡い期待を描いて、平積みになっている「新刊・話題書」のコーナーを見る。光でも知っている有名なミステリー作家の作品が、流行りのイラストレーターの絵を使った表紙で並んでいる。七冊ずつ積まれたものが、三列。光の知らない作家の新刊は、五冊だけ積まれていた。

 光は息を小さく吐くと、続いて「日本文学」の棚へ向かう。ここにも新しい本が平積みにされている。すべて二、三冊だが、ここにも光の探しているものは無かった。

 光は著者名を指差しながら、「く、く」と呟き、棚にさされた本を一冊ずつ確認する。

「あった」

 光は背表紙に人差し指をひっかけて、本棚から一冊本を抜く。新しいその本——『夜の汚泥』は、白から黒へのグラデーションの表紙で、白地のところに黒字でタイトル、黒地のところに白字で著者名が書かれているだけのシンプルなものだった。帯には『「裸」にならなければ語る事のできない言葉たち——気鋭の作家の第三作』と書かれている。その著者の本はそれしかなかった。いつも光が買っているからだ。それ以降入荷されるそぶりはない。

 続いて雑誌コーナーへと歩く。普段買っているファッション雑誌の脇を通り、「文芸誌」のコーナーへ向かう。今月分の確認がまだだったことを思い出したのだ。立ち読みをしている人間は誰もいない。いくつか手に取って目次をぱらぱら捲っていると、彼のエッセイが載っていた。——「新しいセックス」という題だった。ちらりと中身を確認すると、光はその雑誌と本をレジカウンターへ持って行った。


 家ではまだカーテンがかかったままだった。

「ただいま」

 扉の前から呼びかけても返事は無い。光はドアを開け部屋の中へ入った。数時間前と同じ、ちゃぶ台に突っ伏した姿勢で真知子は眠り込んでいる。

「おはよう」

 もう一度声をかける。真知子は緩慢に顔を起こした。頬の部分に腕の形の痣が残っている。眼を擦りながら小さく吐息を漏らすと、一度大きく伸びをして「おはよう」、と返事した。真知子は、

「あ、ごめん、今日の昼当番あたしだったよね」

 と慌てて言い、眠りから完全に覚めたのか機敏に立ち上がると、洗面所へ向かう。

「材料買って来たから、焼きそば!」

 その背中に光は呼びかけた。

 真知子は顔を洗うと眼鏡をかけ、焼きそばを作り始めた。ソースの焦げる音と香ばしいにおいがする。光は袋から先程買った本を取り出した。

「あ、その本、書評が新聞に載ってたよ」

 紅生姜を食卓に置きに来た真知子が言う。

「うん、それで見て買って来た」

「まだ教えてくれないんだ。相変わらずなんだね」

 真知子は菜箸で焼きそばを一本取り口に遠くから入れている。

「読んだら感想、聞かせてね」

「自分で読めばいいのに、貸すよ」

 光はその本を叮嚀に袋に戻した。

「ううん、あたし、活字読むの苦手だし。知ってるでしょ? あたしの部屋に本一冊も無いって」

 真知子は笑いながら言った。できあがった焼きそばが光の目の前に置かれた。湯気が漂うのが見える。

「いただきます」

 二人は声を揃えて手を合わせた。

「そう、今日由貴が来るの」

 真知子の口は焼きそばで膨らんでいる。

「ああ、そろそろそういう時期だもんね」

「ごめんね、夜、ちょっと騒がしいかもしれないけど」

「大丈夫だよ、俺今日仕事だし」

「あ、そうか、そうだったね」

 真知子は壁にかかったカレンダーを振り返る。今日の日付には青い丸がついている。

「原稿は順調なの?」

 三週間後の水曜日のところには、数字のところに星印がつけられ、「ギリギリ」と書き込みがされている。

「うん、まあ……なんとか、多分、大丈夫」

 真知子は苦い顔をした。

「不思議だよね、どうして毎回そんなにギリギリになっちゃうの」

 光は純粋に疑問に思っていることを口にした。紅生姜の辛い味が鼻を抜ける。少し入れすぎたかもしれない。

「さあ……なんでかなあ。でもあたしだけじゃないんだよ、そういうの。皆そうなの。多分夏休みの宿題とかとおんなじなんだと思う」

「夏休みの宿題」

「そう。光は多分そういうタイプじゃなかったでしょ?」

「俺は最初に片付けちゃって、後はずっと遊んでたな」

「でしょ? 多分そういうタイプの人間には、絶対理解できないんじゃないかって思う」

 真知子の皿がようやく空になった。

「なんかそういう些細な違いの方が、人間、よっぽど大きい気がする」

 真知子は皿を重ねながら言った。

「つまり?」

「例えば、消しゴムを友達に貸したとするじゃない? ああいうときに、無神経にカドのところを使っちゃう人間って、いるでしょう? そういう人間とは一生理解しあえないんじゃないかなって、そういう感じ」

 真知子は皿をシンクに置き、水をかける。

「ああ、なるほどね」

「まあ結局、理解なんてできないってことなのかもしれないけど」

 そう言って真知子はカレンダーを見た。つられて光もカレンダーを見る。

「記念日もそうだよね。光って全然記念日とか、気にしないタイプでしょう?」

 光は返事をしばらく考え込んだ。今日は何の日だっただろう?

「今日で一年だよ」

「何の?」

 光は問い返した。真知子は呆れたように首を振ると、冷蔵庫から四角く突っ張ったビニール袋を取り出した。

「今日で共同生活一年です!」

 光はもう一度カレンダーを見た。全く自分は進歩していない、と光は思った。ビニール袋にはケーキが入っていた。

 そうだ、二人で暮らし始めてから、もう一年が過ぎようとしている。光は思った。当時一緒に暮らしていた恋人と別れた光が(その理由がまさに光の記念日への無頓着だった)、インターネットのSNSに書き込みをしたのがこの共同生活のきっかけだった。出て行ってしまった恋人の分の家賃の支払いに困っているというその書き込みを、たまたま真知子が目にした。真知子と光は高校時代の同級生だった。真知子もその時丁度、契約更新の時期で新しい家を探していたので、光にルームシェアをしないかと持ちかけたのだ。

 二人は真知子が買って来たケーキを食べ終わると、光は読書をし、真知子は皿洗いをした。やがて読み終わったのかそれとも飽きたのか光は本を閉じると、「俺、仕事まで寝るから、六時に起こして」と言って、自室に引き上げた。

 真知子は机の上に置かれた白と黒の本を手に取ると、緩慢な動作で表紙をめくり、ゆっくりと本に視線を落とした。


 真知子が光を起こしたのは六時の五分前だった。リビングの大きな机に、原稿が二つ向き合うかたちで置かれている。起きた光は周囲を見回すと、丁度由貴はキッチンで麦茶を注いでいるところだった。黒く背中まで届く長い髪が眼を引く。由貴と真知子は、大学で知り合ったということだった。大学を中退した真知子から、他の同級生の話を聞いた事は無かった。

「こんにちは」

 光は背中に呼びかける。由貴は振り返り、やや間をおいて、「こんにちは」と答えた。すぐに、顔をそらし、真知子のコップに麦茶をついだ。

 光は自室でノリの効いたシャツを着て、スラックスを履く。洗面所で髪の毛にワックスをつけて、黒く短いその髪を後ろに撫で付けた。

「じゃ、行ってきます」

 コートを着、玄関で先の尖った革靴を履くと、「いってらっしゃい」と遠くから声が聞こえた。

 日曜日の電車は休日出勤のサラリーマンが少し、残りのほとんどはカップルが乗車列を作っていたが、光はこれからが仕事だった。


「おはようございます」

 光はロッカーに荷物を仕舞いながら言った。仕事先ではどんな時間でも「おはようございます」と最初に言うのがルールになっている。光はなんとなくこのルールが好きだった。

「おう、来たか」

 店長が光に声をかける。店長は酒の補充をしているところだった。光もその作業に加わる。

「ああ、そうだ、お前に一つ話しておこうと思っていることがあってな」

「はい、なんですか?」

 壜と壜のぶつかる高い音が鳴る。店内にはジャズが小さく流れていた。

「新しい店、六本木にオープンするの、知ってるだろ?」

「ああ、確かあれ、もうすぐでしたよね」

「俺はしばらく、あっちに集中したいなと思ってるんだ」

「はあ」

 光は曖昧に返事する。

「つまり、だ」

 店長は作業の手を止めた。光もそれに倣って手を止める。店長はゆっくりと言った。

「この店を、お前に任せたい。お前が店長になる」

「え、……待ってくださいよ、俺にはそんな——」

「お前がこの店で働いて、大学生のときを入れて三年間、これは今いるバイトで一番長い期間だ。というか今までそんなに長くここで働いたバイトはいなかった。おまけにお前は客受けもとても良い。見た目がいいってのもあるが、客の話を聞くのが抜群にうまい。まあ店長になると表に出る時間は必然減る事になるが、基本的に今までトラブルは一回も起こしていないし、この間のあいつのトラブルにも俺がいない間にちゃんと対処してくれた。お前しかいないんだよ」

 光は少し口を開け、そこからゆっくりと呼吸をしていた。

「まあ、新店のオープンまではまだ時間がある、ゆっくり考えてくれ」

 その日の仕事は上の空だった。光はそれまで、何か具体的な人生設計を持って生きて来たわけではなかった。数年経ったらまた違う仕事をしているだろう、そんな気楽なつもりで始めた仕事だったのである。

「ちょっと、光くん、話聞いてる?」

 常連客の女性編集者が、顔を紅く染めながら光に言った。

「ええ、聞いてますよ」

「ほんっと、売れ行きが芳しくない感じなのよ」

 話は『夜の汚泥』についてだった。女性編集者は彼の担当だった。

「そうなんですか」

 何も言わず差し出されたグラスを光は受け取り、そこにシェイカーから赤く透き通った液体を注ぐ。

「まあもともとああいう本なんて、一万部売れたらいいほうなんだけど」

「らしいですね。ぼくは買いましたよ」

「ありがとうねえ、貴重な貴重な読者さまですよ」

「いや、そんな」

「もう読んでくれたのかしら? 読んだならわかると思うけど、内容は悪くないと思うの。でも人を選ぶ題材でしょう? もともと少ない牌なのに、そこから篩にかけるわけだから……彼なら多分、もっと一般受けするような内容の本も書けると思うのよ。でもそうしちゃうとつまらないじゃない? いや、面白いんだけど。あたしの言ってる事、分かるでしょ?」

「ええ、わかりますよ、だいたい」

「なんだかドでかい賞でも獲ってくれればいいんだけど。だけどあの賞の審査員なんて皆なんだかんだで保守的なのよ。だからきっと無理」

 彼女は小さいグラスに注がれた液体を一気に煽る。

「このままじゃジリ貧ね」

 その言葉は光の耳に奇妙な感触を残した。

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