沸騰
数田朗
序
自由な同棲関係というものも堕落してしまった。——婚姻によってである。
——ニーチェ『善悪の彼岸』
*
体の中には先程までの重低音がもう一つの鼓動のように鳴っている。耳の奥はじんと痺れて、鳥のさえずる声が膜の向こうにあるみたいだ。ここ数日は夜は氷点下を記録し、店から出て来た瞬間、先程までの熱気が嘘のように感じた。息を吐くと、煙のような曖昧な塊が空中に広がり、霧散した。昇りかけの太陽が、地表のもやをきらきらと光らせている。その太陽が作り出す長い影を追いかけるように、光は駅に向かっていた。牢屋を九十度傾けたようなシャッターの降りたマルイの前を通り過ぎる。照明の落ちた店内に立つマネキンの、死んだ気配にいつものように身をすくめる。何かが擦れるような音がしてそちらを向くと、烏がコンビニの袋を嘴で突いて破き、中からカップラーメンの食べ残しを引きずり出している。香辛料で真っ赤に色づけされた麺が、つゆが良く絡むように小さく縮れたて、まるで人の内臓のように見えた。
「おつかれさまァ」
後ろからくたびれた声がかけられる。光はそれを振り返って、愛想良く手を振った。寒さに血液が指先に集中するのを感じ、すぐに手をポケットに戻した。
土曜日の朝、始発が出てから数本後の下り電車は、がらがらとは言わないまでもほとんど椅子に人は座っていなかった。三席を独占して寝潰れるサラリーマンや、電車の動きに合わせて中身を垂れ流すコーヒー缶を避け、電車の最前車両に辿り着くと、子供のように車掌室の横から前を見た。
電車が川を超えるとき、視界が一気に開け、朝の眩しい日差しが一斉に降り注ぐ。その瞬間が光は好きだった。先程までの世界がまるで嘘のようで、自分がしっかりと普通の世界と繋がっているんだと確認できる、その眩しさ。
橋を過ぎると、光は手近な隅の席に座り、冷たいバーに頬を乗せ少しだけうとうとと眠りに落ちた。
「ただいま」
家に着くと、そう言いながら靴を脱ぎ、遮光カーテンから漏れる光を頼りに奥へと進む。光は手前の部屋の扉の下から光が漏れていることに気付いた。「ただいま」、と呼びかける。返事は無い。三秒待ち、「入るよ」、と言ってから扉を開ける。小さなちゃぶ台の上に置かれたデスクライトが白く光って、真知子の顔を照らしている。真知子の腕の下には書きかけの原稿用紙が置かれている。光は真知子を起こさないように慎重にその原稿用紙を腕の下から抜くと、端を綺麗に揃えて少し離れた場所に置いた。インクは十分に乾いていたらしく、掠れたあとは見当たらない。光は音をたてないようにインク瓶に蓋を被せると、ベッドの上の毛布をかけてやり、ライトを消した。部屋の中は早朝特有の青い光でぼんやりと照らされた。光はゆっくりと扉を閉じ自室へ向かう。
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