(マイクテストをする声、ハウリング、ノイズが十数秒続く)

 ……えー皆さん。聴こえていますか。聴こえているでしょうか。あ、ありがとうございます。あの忌まわしい報道から一週間が経ちました。そう、分かりますか、あの「同性婚」報道です。政府はこれまでも、消費税の増税、輸入関税の撤廃等、我々国民の民意を踏み躙るような政策を、次々と実施してきました(そうだ、そうだ! という声)。すっかり経済的に疲弊し切った我が国の、今度は伝統までも、政府は破壊しようとしています。こんな暴挙が許されていいのでしょうか。許されていいはずがありません!(拍手、数秒中断)ありがとうございます、ありがとうございます。今こそ我々は立ち上がらなければなりません。我々の意思を、はっきりと政府に伝えなくてはなりません。我々はおかまのために税金を払っているのではないのです。子どもを作り、文化を継承していくことが、我々の動物としての使命なのです。次世代の子どもたちのためにも、断固あのような法案が可決されることの無いようにしなければなりません。……(以下略)

——二月十九日 渋谷駅前での演説


          *


 トレーニング直後の腕は緊張し収縮して、ロッカーの荷物を取る運動だけでも悲鳴をあげた。上半身の定められたトレーニング・メニューをこなした光は、試合後のボクサーのような姿勢でロッカー室の椅子に腰かけていた。手にはシェイカーに入ったプロテインが、どろりと水に沈殿している。光は痛む手を無理矢理に振って中身を混ぜると、蓋を開けてそれを一気に煽った。口の中を通り抜ける半個体のようなその感触を、眉間に皺を寄せながら奥に押し込んで行く。

「斎藤さん、今日は早いですね」

 光の隣にいた老人が、誰かに声をかけている。平日の昼間、ジムにいるのは老人か、暇を持て余している主婦がほとんどだ。光に話しかけてくる人などいなかったし、それは光にとっても好都合だった。

 光は鏡の前に立ち、自分の体を見つめる。パンプアップされた胸の筋肉が、谷間ができるほど膨れている。光はなるべく刺激を与えないようにゆっくりとした動作で手を後ろに伸ばし、胸の筋肉と腕の筋肉をストレッチする。

「今日はちょっと天気も悪くて」

「まだまだ暖かくなるのは先ですかねえ」

 椅子に座り背中を丸めて伸ばす光の耳に、会話が聞こえる。

「最近はなんだかすっかり物騒で、ニュースも暗い話ばかりだし」

「本当に、嫌になりますね」

「なんだか同性婚なんて話題も出ていますね」

「我々の時代には考えられなかったことですよ」

 老人は溜息をついた。

「それだけ世の中が豊かになって、求めるものが増えているってことなんですかねえ」

「人間は足ることを知らないといけないな、と私は思いますがねえ」

 老人達の話題は続いて、区で行われている屋外の太極拳の話題へと移った。

 光は風呂に向かって備え付けの体重計で体重を確認すると、簡単にシャワーを浴びて家に向かった。


「ごめんね、どうしてもお願いしないと間に合わない感じなの」

 ジムから帰宅し昼ご飯を食べ終わった後、真知子は皿を片付けて光に言った。

「ああ、漫画の話? いいよ、全然。手伝うよ」

「本当? ありがとう。ごめんね。ちゃんとお金は払うから」

「いいよお金なんて、本当に。俺もやってて結構楽しいしさ、今日は仕事だから、それまでになっちゃうけど」

 カレンダーには赤い丸がつけられている。

 食卓を軽く真知子は拭くと、光の前に原稿用紙を置いた。

「もうそこまでは枠線とペン入れは終わってるから、ベタ塗りとトーンを貼るのをやってほしいの。前に一回やり方教えたから分かるよね」

「うん、大丈夫」

 綺麗にペン入れをされた漫画の、×印が書かれている部分にはベタを塗り、数字が書かれた部分にはトーンを貼っていく作業だった。

 光が手を入れる原稿用紙には、有名な少年漫画のキャラクターが書かれている。そして、原作ではライバルのその少年二人が、互いに愛し合い、キスをしたり、セックスをしたりする。そういう二次創作の漫画を真知子は描いていた。

 最初、真知子がこの部屋に住む事になったとき、仕事は何をしているのと光が訊ねると、真知子は曖昧に答えるばかりだった。

「ちょっとものを描く仕事をしてて」

 まずそれが漫画だと分かるのに時間はかからなかったが、それがこういった漫画だとは、光は思いもよらなかった。勿論こういう漫画があることは知っていたし、例えば高校で女子がこういった漫画を好んで読んでいる光景には遭遇したことがあったものの、光の記憶では真知子はそういうタイプの人間では無かった。

 そもそも光と真知子は、高校で特に接点があったわけでは無かったのだ。互いにクラスで顔を毎日合わせ、挨拶程度はしてはいたが、光は真知子のことをほとんど何も知らないと言って良かった。

 だから正直、最初こそ高校の友人などと繋がっていたものの、現在はそういう人との交流が主となっていたSNSで、突然真知子がメッセージを送って来たのには驚いた。しかし光はしばらく恋愛は良いと思っていたし、真知子自身にも悪い印象は持っていなかったので、同居は拒む理由がなかった。真知子がそのSNSを通じてメッセージを送って来たので、いろいろな事情の説明をしないで済んだことも大きかった。

 光は渡されたペンで指定された髪の毛の部分を黒く塗っていく。塗り終わったそれを真知子は受け取ると、その黒い髪の毛の上に白インクで艶をだす。一瞬にしてただ真っ暗でのっぺりしていた髪が、艶やかで立体的な髪になる。

「すごいなあ、本当に、絵、うまいよね」

 絵心の全くない光は、素直に感心してしまう。真知子は笑った。

「ありがとう、でもそんなことないよ」

 二人は再び原稿に眼を落とし、作業をする。ペン先と紙のこすれる音が、部屋に響いている。

「なんか、音無いと寂しいね。テレビでもつけようか」

 真知子はリモコンの赤いボタンを押す。

 昼の情報番組では、まかないが好評でメニューに入る事になった和食屋を紹介している。チャンネルを回すと、ニュースをやっていた。

「あ」

 真知子が声を漏らす。見知った顔が映っていたからだ。

 司会者が黒木を紹介する。

 ——黒木純さんはですね、作家の方でいらっしゃいます。小説では「性」をテーマにいろいろと書かれているらしいんですけれども。

 画面に映った黒木が、頭を下げる。画面の右下には「どうなる「同性婚」徹底討論」と表示されていた。

 ——どうですか、黒木さん、こういった政府の動きを、どのようにお考えでしょう?

 ——こういったマイノリティの権利に関わる問題は、政府が積極的に動かなければ情況が変わることはありえません。なぜなら彼らは絶対的な少数派だからです。こういった運動は黒人の奴隷解放運動や、女性解放運動などと比較される場合が多いですが、彼/彼女たちは確かに最初は「人間」として認められていなかったかもしれませんが、認められたあとは人口のかなりの割合を占めることになりました。同性愛者はそうではありません。彼らは政治的に既に認められている人間ではありますが、逆に人数が絶対的に少数なんです。だからこそ政府が積極的に推し進めていかなければならないと思います。

 ——では黒木さんとしてはこの法案に賛成だと?

 ——ええ、色々と問題はあると思いますが、概ね。

 ——それは同性愛者として賛成、ということですか?

 男の漫画家が横から会話に割り込んだ。

 ——あなたの作品を読んでいると、一作目も二作目も三作目も、全て同性愛者が出てきますね。下世話ですが、私はあなたは同性愛者なんじゃないかと思っているんですけど。あなたの意見は、一人の作家としての意見なのか、それとも同性愛者としての意見なのか、どっちなんですか? それって、だいぶ違うことですよね。

 黒木は静かに応えた。

 ——私はそうは思いませんが。

 ——あなたがそう思わなくても、視聴者にとっては重要な問題だと思いますよ。多くの視聴者が、この問題について様々な意見を求めています。そしてそのとき、その人間が同性愛者なのかそうでないのかどうかで、立場は大きく変わるんじゃないですか? あなたはどちら側の人間として、テレビに出ることにしたんですか?

 光はそのテレビで公然とカミングアウトさせようとする漫画家の言い方に辟易した。置かれていたリモコンを手にとろうとした時、黒木が話しだした。

 ——私は同性愛者です。私は今、作家として呼ばれたこの場所で、一人の同性愛者として発言しています。

 スタジオが静かになった。黒木は続けた。

 ——今、私が危惧しているのは、私の意見が同性愛者全体の意見として捉えられてしまうということです。私は同性愛者の代表になるつもりはありませんし、なれるとも思っていません。同性愛者にも様々な人間がいます。今回のことをまだ他人事のように考えている人間や、勿論これに賛成している人間、これに反対している人だって、勿論いるんです。全ての同性愛者がこれを喜んでいるとは思わないでください。そしてあなた。

 黒木は漫画家を指差した。

 ——あなたはつまり、この法案に賛成するような人間はゲイだけに違いない、と思っているのではないですか? そうでない人もいるということをお忘れなく。残念ながら、私はその反証にはなりませんが。

 黒木の声を聞きながら、光は原稿の作業に戻った。テレビは次の、先日結婚したばかりの芸能人の離婚の話題に移っていった。

 スクリーントーンを洋服の部分に貼り、形をカッターで切り取って、周りのトーンを剥がす。最初、真知子にこの作業を頼まれたときは何度も失敗してしまったが、慣れると意外に癖になる作業だった。何も考えずに済むのが良いと思った。

 テレビはニュース番組が終わり、ドラマの再放送を始めた。同性愛者が出てくるドラマだった。テレビが話題性があると思いこれを選んだのだろう。しばらくすると真知子がチャンネルを変え、通販番組をテレビは映し出した。その時、携帯電話が震えた。


 ——実は今、テレビに出演していました。見てくれましたか? 急なので連絡できなくてすいませんでした。

 辺りの空間は、壁も、天井も、床も真っ黒だった。そこに、赤や青、緑の光が降り注いでいる。光は、額を伝う汗を拭いながら、届いたメールを思い起こしていた。

 ——テレビで公然とカミングアウトさせられてしまいました(笑)まさかあんな展開になると思ってなかったんで、びっくりです。

 スモークが焚かれ、足下が白く濁り、なんだか甘いにおいがする。大音量で流れる流行りの洋楽のテクノ・リミックスされた曲が、鼓膜を限界まで震わせる。

 ——僕はあの法案は、可決されるんじゃないかと思っています。

 男たちがそのリズムに合わせ緩慢な上下動を繰り返し、頭をゆらゆらと揺らしている。ほとんどの男の髪の毛が、地肌が覗く程短い。この季節なのにタンクトップの男が居て、浮き上がった肩と、太い腕を見せつけている。しかし会場内の熱気からすれば、それもおかしな事ではないのかも知れなかった。

 ——もしあの法案が可決したら、僕と結婚してくれませんか?

 光はステージに立ってヒョウ柄のホットパンツを履き、ヒョウの前足を模した腕まである手袋をつけ、曲に合わせて腰を振っている。とても暑い。汗が光の体に浮かび、照り注ぐライトを跳ね返す。光が挑戦的な眼で客を見つめ、舌を半分出しながら、股間に手を持って行き、弄る。裏返った声が上がる。そこから手を、じらすようにゆっくりと、上へ上へとあげて行く。その手を唐突に男に掴まれる。後ろから抱きつくように現れた光と同じ格好をした男——ダイチは、光の口に指を突っ込み、いやらしく腰を光に押し付ける。光もダイチの手を掴み、自分の股間に押し付ける。薄い生地にダイチの熱を感じる。間近のダイチからは汗のにおいがする。

 ——もしあの法案が可決したら、僕と結婚してくれませんか?

 光はダイチの顎を掴み、口と口を合わせる。観客に見せつけるように隙間を開けて舌を絡める。互いに腰を押し付け合う。ダイチが光の頭を掴んだ。今日は俺が下ってことだ。構わない。光は膝をついてダイチの股間を眼の前にする。ダイチの腕が力を込め、光の顔を股間に押し付ける。観客の興奮が最高潮に達する。

 ——もしあの法案が可決したら、僕と結婚してくれませんか?

 ダイチが踊っている間に光は衣装を替える。ズボンに押し込まれた湿った紙幣が、ひらひらと床に舞った。今度は水夫のような衣装だ。セーラー服はギリギリまで短く切られ、光の鍛えられた腹筋と胸筋の下半分を晒している。パンツはまたホットパンツで、太い足が二本、そこから突き出ている。光がスポットライトを浴びながら登場すると、観客が悲鳴のような声をあげる。光は小道具の望遠鏡で観客席を覗く。腕で汗を拭う。ハイになる曲に合わせ客を煽る。

 ——僕は本気です。よろしくお願いします。

 夜はまだ始まったばかりだ。

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