第2話

(魔王が赤ちゃんの……寝かしつけ?)


 赤ん坊が目を開けるその瞬間、勇者の頭の中に魔王の間に入る前の記憶が瞬間的に蘇る。



「しばらくの間、何人たりともこの部屋に入ることを禁ずる」と書かれた張り紙。

 静寂に包まれた魔王の間。

(そうか、部屋に入るなというのはそういう――)

 そして部屋に響き渡る「魔王っ! 出てこいっ!」という自分の言葉。

(俺は、俺はなんということをしてしまったんだっ!)



 赤ん坊の目がパチリと開き、眉間にシワを寄せる。鼻がひくひくと動き出す。最後にゆっくりと唇が尖り、そして大きく口を開けて――。


「フギャァァッ! フギャァァッ!」

「ああっ! せっかく寝かしつけたのにっ!」


 魔王が赤ん坊を抱いたまま立ち上がる。そして、体を小刻みに上下させながら、背中をトントンと叩く。


「フギャァァッ! フギャァァッ!」

「おぉ、よしよし。大きな声がして怖かったねぇ、大丈夫だよ」


 そう言って魔王が勇者の方を向いて軽く睨みつけた。勇者は申し訳ないと言う気持ちでいっぱいだった。思わず剣を鞘に納め、「すまない」と手を合わせ、頭を下げる。


 その姿を見た魔王は「ふっ、構わんよ」と口角を上げて、表情のみで返事をする。そして赤ん坊の顔を見ながら再び寝かしつけに入る。


「フギャァァッ! フギャァァッ!」

「あれ、おかしいな……さっきはこれで眠ったはずなんだが……」


 しかし、一向に赤ん坊は眠る気配を見せなかった。つい先ほど眠りに落ちる直前に大声で起こされたのだ。再び大人しく眠れという方が無理があるだろう。魔王がトントンする手にも、体の上下動にも、少し苛立ちが見え始めた。


 勇者はそんな魔王をしばらく黙って見つめていたが、突然魔王の元へと歩み寄った。



「ちょっと貸せ!」



「うおっ!?」


 魔王がギョッとしたのも束の間、勇者がひょいと手を伸ばし、上手に赤ん坊を魔王の手から引き剥がした。突然の出来事に、魔王は抵抗すらできなかった。


「勇者よ! 我が息子に何をする! 手を出してみろ……ただでは……」

「しーっ」

「むむっ!?」


 勇者は魔王の赤ん坊を抱っこして、トントンと背中を優しく叩き始めた。魔王よりもリズミカルに、そして掌を当てるのではなく、指先を軽く曲げて包み込むように。さらには赤ん坊の顔を自分の胸に押し当てていた。


 するとどうしたことだろうか。魔王が抱いていたときは泣き止まなかった赤ん坊が、しばらくすると、すうっと安らかな表情へと変わっているではないか。これにはさすがの魔王も驚かずにはいられなかった。


「勇者……お前はいったい……?」

「魔王よ……寝かしつけの基本は焦らないことだ。焦ると、その気持ちが赤ちゃんにも伝わってしまう。かえって逆効果だ」


「……」


 勇者といえば、魔族を親の仇と言わんばかりに一方的に攻撃してくる野蛮な人間とばかり思っていたが、どうだろう。今は魔族の赤ん坊を抱いているのに、見たこともない笑顔をしているではないか。魔王はそんなことを思った。


「それと、赤ちゃんの顔を自分の胸元に持ってくるのもポイントだ。自分の心音を聞かせることで、それがリラックス効果を生み出すんだ」


 魔王は合点がいった。赤ん坊を抱いてすぐ、勇者は自分の胸の前に赤ん坊の顔を近づけていた。あれはそういう理由で――。


「すやぁ」


「ほら、寝たぞ。かわいい寝顔じゃないか」

「お……おお! 助かった!」


「ベビーベッドか何かないのか? さすがに床の上に置くのは忍びない」

「あ、それならそこに!」


 魔王は玉座の脇に置いてるベビーベッドに手を伸ばし、勇者の足元へとそっと置いた。それを見て勇者は目を見開いた。


 小さな魔物の頭蓋骨を並べて作られたベッドフレーム。高さは魔王の腰の辺りまである。マットは魔獣の皮を縫い合わせたもの。両サイドから何かの肋骨が、ベッドを覆うように伸びている。これが落下防止の柵代わりになっているようだ。


 魔王がベビーベッドだと言って持ってきたが、勇者にはまるでそれには見えなかった。


「……なにこれ?」

「なにって、ベビーベッドだ。魔族の職人に作らせた最高級品だぞ」


 まぁ、魔族と人間は美的感覚が違うのかもしれないと自分に言い聞かせながら、勇者は赤ん坊をゆっくりとベッドに下ろす。するとそれまでベッドを覆っていた肋骨がゆっくりと開いた。


「おお!」


 勇者が驚きの声を上げると、魔王が得意げな顔をした。


「魔力を感知して自動的に開閉するようになっているのだ! フハハハハ! 人間のベッドにはこのような機能はあるまい!」


「……そんな声出すと起きちゃうぞ」

「うっ、これは失敬」



 数分後。



「もう大丈夫だろうな」


 悪趣味なベッドの上ですやすやと眠る赤ん坊の姿を見て、勇者から笑みが溢れる。魔王がうなづく。


「ああ、おかげで助かった。では、最後の戦いといこうか」


 その言葉に、勇者の顔が急に険しくなった。魔王もまた、その顔を見て同様に不敵な笑みを浮かべた。いよいよ舞台は整い、二人の間に緊張が走る。しかし、彼らの間にベビーベッドが置いてあり、可愛い赤ん坊が眠っていることがどうにも不釣り合いだった。

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