印象的なフレーズ、その気障さについて。


 問いを投げかけるフレーズというのは、良くも悪くも印象的になるものだ。

 作者であれキャラであれ、その人物が相手側に直接的に意志のやり取りを持ちかけんとする、そういう場面であるのだから。

 このエッセイは、そういった問いに問いを投げかけた、ある求道者の話。



 レビュアーの勝手な認識なのだが、こういった問いと言うのは「抜き打ちテスト」のようなものである。

 大半の人はいちいち問いや答えを浮かべて生きていけるほど、高尚でも、暇でもない。

 そんな状態で何であれ「問いたい」とやってくることは予想外な出来事であり、
 しどろもどろしてるうちに、相手はしたり顔で自分の理屈をこねている。

 単純な質問疑問でなく、敢えて「問う」と述べるのは、実際のところ、その先にある発言者の答え(主張)ありきの問いという感じがある。
 そこになんとなく踏み台にされている不快感があるのではないかと、そう思うのだ。

「これこそが○○ってことなのだ」といった強調、断定表現をはじめとする、強い表現と言うのは、印象に残りやすいメリットはあるが、
 あまりに頻発して用いると、くどい上に押しつけがましいというデメリットもある。

 すなわち表現とは、至高の調味料のようなものなのだ。使い手によって味を引き立てるものにも、台無しにもする。

 だからこそ、我々は注意して取り扱わなければならない……そう、大物毒舌評論家のように。