第3話

部外者は厳しくチェックされるのではと思っていたけれど、どうやら出入りは自由らしい。カラフルで大人っぽい大学生の人波に流されるようにして、私は聖欧外国語大学のキャンパスに滑り込む。

大学の案内看板があったから、図書館の位置を確認した。キャンパスの南西の端。迷いなく足を向ける。少しだけ早足で、私は太陽の方角に向かって歩いていった。

(あった!)

イメージ通りの景色がそこにあったから少し驚いた。とはいえ、大学のホームページをあらかじめ見ていたのだから、調べたとおりの風景がそこにあるのは当たり前なのだけど。

図書館の入口から少し離れた場所、スラリと天に向かって伸びる白い螺旋階段。神話に出てくる塔みたいにそびえる階段を私はぽかんとした顔でしばし見上げた。それから、意を決して登ってみる。

階段の踏み板は木製で、コツコツと優しい音がした。

どこまでも続く螺旋階段を登っているうちに、出口のない迷路に迷い込んだような気持ちになった。不安な気持ちを追い払うみたいにして、ただただ無心で階段を登る。少し足が疲れてきた頃、視界が開けた。フワリと春の風が頬を撫でて過ぎる。


「わあ……」

思わず歓声が口からこぼれた。驚いた。都心の大学のキャンパスにこんな美しい風景が広がっているなんて。

階段を登りきって、目に飛び込んできたのは鮮やかな空の青。それから、一面の野原みたいな芝生の緑。私はきょろきょろと辺りを見回す。そこは私の大きな冒険の目的地。


屋上庭園には、たった一人だけ先客がいた。芝生の上にストンと座り込んだ、大人びたシルエット。ちょっとボーイズライクなデニムサロペットを纏い、ぼんやりと空を見上げている。金に近い茶色の短い髪が光に透けて、なんだか風に溶けてしまいそうな儚い雰囲気だった。

その人は階段を登ってきた私のほうを何気なく見やる。それから、少し目を見開いた。アーモンドのようなくりくりとした瞳が長い睫毛に覆われていて、とても綺麗だと思った。

彼女の口がふわりと動く。声はしなかった。

心臓が跳ねた。

「まゆ」と呼び掛けられたような気がしたのだ。


二人が存在しているたった半径十メートルほどの世界の時間がピタリと止まって、静寂がしんと音を立てた。少しだけ間をおいてまた時間がユルリと動き出す。数秒の間をあけたあと。彼女は何かを確信したみたいにニコリと微笑み、音もなく立ち上がる。

「繭でしょ」

美しい瞳が、庭園の端から真っ直ぐにこちらを見つめている。自信ありげな顔だった。どうやら彼女は私の態度を見ただけで、それが誰なのか確信したらしい。

どんな風に返事をしたらいいか分からなかった。それで、やっとのことでこくりとただ頷いた。私の表情はきっと混乱に満ちていたに違いない。

「ふふ」

風に乗って、彼女の微かな笑い声が聞こえてくる。サラサラと草の鳴る音が心地よかった。彼女は私の元にゆっくりとした動きで歩み寄って、口の端をちょっとだけ上げる。

「虎徹……?」

私はやっと声を発した。

「そう」

私は目をいっぱいに見開いて、目の前の女性を見つめる。

「……男の人かと思ってた」

口にしたら失礼なんじゃないか。そう思う前に私は心の内を言葉にしてしまっていた。

(しまった)

思っても後の祭り。

サイトに書いた日記なら、一度アップロードしても削除できるけれど。リアルの世界では、一度口に出してしまった言葉は戻せない。

だけど。

「あはは」

彼女が笑い飛ばしてくれたから、少しだけホッとした。

「虎徹ってね、うちの犬の名前を拝借したの」

目の前に立った彼女は私よりも少し背が高い。スラリと細くて、大人びている。耳に銀のピアスがキラリと光っていた。

「誤解しても仕方ないよ、普段のポストも男っぽかったでしょう。私、あんまり性別にこだわりがなくて。いつもわざと性別が曖昧に見えるようにポストしてたから」

シャープな瞳をスッと細めて、彼女は嬉しそうに笑った。

「でもびっくりしたな。繭は意外と行動力があるんだね。まさか、あんな短い言葉の集合体だけで、私の風景に辿り着くなんて」

「うん。まさか逢えるなんて思わなかった」

自分の無謀すぎる行動力。虎徹に本当に逢えてしまった奇跡。あらためてここまでの冒険のことを思い出すと、気が遠くなってクラクラと目を回してしまいそうな気持ちになった。

「繭はすごいなあ」

心底感心したといった響き。虎徹の言葉が、妙に耳にくすぐったい。

なんだか自分のことがとても誇らしく思えた。


+++


庭園を渡る優しい風を受けて、風見鶏がキコキコと小さな音を立てていた。

私たちは芝生の上に座って、とりとめもない話をした。サイトのことや、リアル世界での生活のこと。お互いに本名も教え合った。

「なんだか、ハンドルネームとイメージが違う」

虎徹の名前がなんだか良家のお嬢様みたいな綺麗な響きだったから、私はついそんなことを言ってしまった。虎徹は気を悪くすることなく「あはは」と軽く笑った。

「繭の名前もなんか、思ってた雰囲気と違うよ」

話したいことはいくらでもあった。今日初めて顔を合わせた人とこんなにも話が弾んでしまうなんて、自分史上初めてのことだったから驚いた。虎徹が前にポストしていた通り、私たちは顔や名前を知るより先にお互いの心の奥底をさらけ出していたんだなあと実感する。私たちはとても不思議な関係だ、と思う。


「ねえ、繭。手をつなごう?」

積もる話を山のようにたっぷりと積もらせたあとの別れ際。虎徹は私の目を見ながら、そんなふうに言った。

天空の庭園をフワリと柔らかな風が吹き抜ける。風が滲みたみたいに鼻の奥がツンとして、思わずはにかんで微笑んでしまった。

手をつなぐ。それは私たちにとって特別な言葉だった。別々の場所で別々の毎日を過ごしていた顔も名前も知らない二人だけど、それでも私たちは確かにこれまで手をつなぎ合っていた。私はイメージの中で、その姿すら知らないはずの虎徹の温かい手の感触を既に知っていた。

私はこくりと頷く。なんだか涙目になってしまって照れくさかった。

手を差し伸べたら、虎徹がその手をギュッと握ってくれた。


虎徹の手の感触は、思い描いていたイメージ通りだった。柔らかくて温かくて。ギュッと握ると少し力が強くて。触れるだけでパワーが伝わってくるみたいで。

寂しいときや苦しいとき、私はきっとまたこの手の感触を思い返すに違いないと思った。



+++



【繭】今日はひとつ願いが叶いました。なんだか充足感でいっぱいです。勇気を出して行動してみて良かった。今日のことを胸に、私はこれからの毎日を頑張って生きていけると思う。


【虎徹】悩むより前に行動してみること。それが無謀でも無茶でも構わない。自分の心に素直に従えば、きっと道は開ける。僕の空に降りてきた天使がそんなことを教えてくれた。ほんのひとときだけの、天空での逢い引き。


私とあの人をつなぐのは、たった100文字の宝石。

私は今日も、文字の向こうにいる彼女と手をつなぐために、言葉を紡ぎ続ける。



【END】

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