第7話

 何となく、そうだろうとは思っていた。天使に出会うことなんて、普通はありえないのだ。二度も三度も会えるなんて思っていない。だから一佳は、悲しい顔をしなかった。最後の別れなら最高の顔を見せるべきだ。涙の別れは性にあわない。

「ほら、笑って。ルーエルは笑ってるほうがかわいいんだから」

 ルーエルは微笑み、翼を開いた。音もなく広がる大きな翼は、無数の羽根を散らせながら彼の体をゆっくりと持ち上げていく。

 一佳はルーエルを強く抱きしめ、その額にキスをした。ちょっと驚いた顔の彼に微笑みかけ、手を放す。そのままゆっくり天に昇って行く彼を見つめ、もう一度小さくつぶやく。

「ありがとう」

 白い光の空間が、一瞬にして元に戻る。その光は無数の破片となって部屋を舞い踊り、羽根の形になって床に積もっていった。部屋は純白の羽根に覆われる。

 見慣れた天井をしばし見つめ続けていた一佳は、後ろからかけられた声で我に返る。目を見開いた美輝が、声を震わせ何とか言葉を探そうとしていた。

「え、あの、その……あれ、あれ、何だったん……」

「……何が見えた?」

「あの……お、男の子。それに、この羽根……」

「天使よ。本物の天使様……」

 全く状況が理解できずおたおたとしている美輝の肩に手をかけ、一佳はこう言った。

「まずは、部屋の片付け手伝ってくれない? ルーエルも掃除のことまでは考えてくれなかったみたいだし。その後で、朝御飯でも食べながらゆっくり話しましょ」

 ベッドの上に取り残されていたルーエルの着ていたパジャマは、まだほんのりと温かかった。





 結局、部屋の掃除にはたいした時間がかからなかった。部屋中の羽根は時間がたつにつれて段々と消えてゆき、たった一枚が残っただけだった。

 朝御飯の用意などなかったので、わざわざ車に乗ってファミレスまで食べに行った。日曜日の八時前では客もおらず、天使の話をしたところで他の人から変な目で見られる心配もなかった。

 美輝は話を聞き終わってなお、混乱と興奮が覚めやらないといった感じであった。しかし、自分が見たものが幻の類でないということを認める以上、一佳の話を信用するほかはないと考えたようだ。

「でもなんで、あの時だけ私にも見えたんでしょう?」

「分からないと思うよ、ルーエル本人に聞いても」

 この一件以来、一佳は美輝と仲良くなった。互いに行き来(といっても、美輝が一佳の部屋に来ることのほうが多いのだが)しあい、よく遊ぶようになった。

 少年野球の年少組のコーチもたまに引き受けるようになった。監督の人にえらく気に入られ、その人の所属しているシニアソフトボールチームの助っ人に(年齢制限があるのだが、女ということで認められている)駆り出される事もある。

 回覧版にはちゃんと目を通すようになったし、町内会の活動にも参加するようになった。相変わらず、アパートの住人とは顔を合わせることがないのだが、アパートの外には知り合いが出来た。

『若い男と知り合う機会が、もう少し増えてくれればいいんだけどね』

 部屋に掃除機をかけながら一佳は思った。午後から美輝と一緒に買い物に出かけることになっている。そのまま、彼女のバイト先の人達と飲み会の予定だ。メンツは女ばかりだという。

 写真立てのホコリを丁寧にぬぐいながら、一佳はルーエルに話し掛ける。

「十分、立派な天使だよ。ルーエルは」

 新米の天使の仕事は、地上の人たちをただ見守るだけなのだそうだ。死者を天国に導いたり、人々に幸せを分け与えるには、もっと立派な天使にならないといけない、そう彼は言っていた。

 自分の生活はルーエルに会った日から劇的に変わった、一佳はそう思っている。さざ波一つ立たない鬱屈した生活が、楽しい日々に変わった。ルーエルは彼女に、幸せを与えてくれたのだ。

「どうせなら、素敵な出会いとかも用意してくれればよかったのにね」

 まぁそれは自分で見つければいいか、そう付け加え写真立てを元に戻す。

 干したばかりの洗濯物をかき分けて、狭いベランダに立つ。この日差しと風なら、出かけるまでにはかなり乾いてしまうだろう。高い青空に微笑みかけた。

「どこで何してるのかなぁ……」

 きっと今も、ルーエルはあの微笑みを絶やすことなく、世界のどこかを飛び回っているに違いない。そして、一佳がもらった幸せを別の人にも分け与えているに違いない。

「フフ、またどこかで輪っか落としたりしてないでしょうね」

 部屋に戻り、食事を取ろうと思う。間の悪いことに、買い置きのインスタントラーメンをきらせていた。財布だけもって家を出る。コンビニでパンでも買ってこようと思ったのだ。

 アパートを出た彼女の頭に、上から軽く固い物がぶつかった。とっさに上を見たのだが何もない。足元には上から落ちてきたものが転がっている。乳白色で淡く輝く、やや厚めの板で出来た輪。拾い上げるとほんのりと温かかった。

「……まさかね」

 そうつぶやいて、一佳はもう一度空を見上げる。深く澄んだ青空には雲一つなかった。

 しかし、その空の真ん中にある小さな白い点がゆっくりと大きくなっていくのが、はっきりと見える。

 天使が降りてきた。

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天使の輪 アスナロウ @hoko-sugi

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