第6話

 一佳は再び家を飛び出した。昨日とはうって変わって寒い朝だった。冷たさがパリパリと顔に張り付く。肩をすくめ、吹いてくる風に顔を背ける。髪を梳かしてきたとしても無駄だっただろう。吹き流される髪を抑えながら足を進める。

 児童公園を探して河川敷まで。そこになければ、町中でも探さなくてはならない。どれくらいでルーエルの体が消えてしまうのか分からないが、とにかく早くしなくてはならないことは確かだ。輪っかを見ることができるのは一佳だけ。ポケットに突っ込んでいた手を出し走り出す。

 不意にこみ上げてくるものがあった。感動的な映画だろうと卒業式だろうと、泣いたことが無いというのが変な自慢だった。それなのに……ルーエルはまだ消えてもいないのに。

『……一緒にいるのが楽しかったから、なんて』

 立ち止まって上を向き、寒いせいか涙のせいか分からない鼻をすする。

 その時、一佳の目の端で何かが一瞬輝いた。何かの形まで見えたわけではない、しかし彼女には見えたのだ。大家さんの家の庭の大きな松の木に引っかかってる、白く輝く天使の輪が。

 あまり手入れされていない混み合った枝に絡み取られるように、その輪っかは引っかかっていた。大家さんの家にダッシュして、勝手に庭に入り込む。木に登ろうとしたが、さすがに出来ない。

「ハシゴ、ハシゴは無いの?」

 庭を見回してもそれらしきものはない。焦る頭をなだめて考える。二階から竿のようなもので下に落とせばいい。玄関に回りこみ、呼び鈴を連打する。

「どちら様で……」

「笹崎です、笹崎一佳! 美輝ちゃん! とりあえず早く玄関開けて!」

 インターホンから聞こえる寝起きの不機嫌そうな声をねじ伏せるように、一佳は昨日知ったばかりの名前を大声で怒鳴る。眉をしかめて玄関を開けた美輝を押しのけるように、一佳は玄関を上がり階段を探す。状況が飲み込めない美輝を尻目に二階に上がると、庭に面している部屋に入り込む。

 ちょうど目の前の枝に輪っかが引っかかっていた。距離はそれほどでもない。窓を開け、体を乗り出し手を伸ばす。

「何やってんですか!」

 美輝が一佳の腰に抱きつき、部屋の中に引っ張り込んだ。

「説明は後でするから! 何か長い棒みたいなのない?」

「ちょっと、待って下さ・・・・・」

 美輝の言葉が終わらないうちに、一佳はその部屋に渡してある物干し用の突っ張り棒に手をかける。軽くひねって取り外すと、窓の外に突き出した。

 二三度ガサガサと枝を突くと、輪っかはあっさりと下に落ちた。突っ張り棒を美輝に渡して、再び下に駆け戻る。靴をつっかけ、もつれる足を無理やり前に進めて庭に入り込む。

 しかし今度は、落としたはずの輪っかが見つからない。歩き回り這いつくばって、ようやく盆栽の乗せてある棚の下に転がり込んでいる輪っかを見つける。腹ばいになり手を必死に伸ばしてそれを掴んだ。

 それは、やや厚みのある板でできた輪っかで、重さはほとんど感じない。普通、絵で描かれる天使の輪は黄色っぽい色だが、実物は乳白色で淡く輝いている。一佳はそれをそっと、そしてしっかりと胸に抱いた。ほのかに暖かい感じがする。

「いい加減にして下さい、笹崎さん!」

 いつの間にか着替えを済ませた美輝が、精一杯に目を釣り上げている。

「ごめん、後で!」

 コートについた土や落ち葉をはらうことなく、一佳はそれだけ言って走り出した。美輝が何か言いながら追いかけてくる。後ろには構うことなく一佳はアパートの階段を二段飛ばしで駆け上り、息を切らせながら家に駆け込んだ。外の寒さで冷え切った頭の中を、猛烈な勢いで血が巡る。ズキズキと痛むこめかみを押さえながら、ベッドに寄る。

「ルーエル! これでしょ?」

 いつもの穏やかな笑顔を見せながら、ルーエルはコックリとうなずいた。

「ありがとうございます。やっぱり、一佳さんはすごいですね……」

「何言ってるの、ほら」

 ベッドに横たわる彼を抱き起こし、輪っかを手渡す。ルーエルは、彼の着ていた白いダウンジャケットを着せてくれるように頼んだ。いつの間にか部屋に上がりこんでいた美輝の「何してるんですか?」という不安そうな声を無視し、一佳はハンガーからダウンジャケット(当然美輝には見えないのだろう)を下ろし、彼に着せた。

 ルーエルは目をつぶり、手に持った輪っかをゆっくりと頭の上にかかげる。彼がそっと手を離すと、輪っかは宙に浮いたままとどまった。眼を開けた彼は、元気に微笑む。

 そして次の瞬間、部屋全体が白い光に包まれた。

 何も見えなくなるほどの強い光。それなのに眩しくはなく、優しく柔らかく目に入ってくる。一佳の目の前は真っ白な空間だけが広がり、その中心にルーエルがいた。

 彼の着ているダウンジャケットがモコモコと形を変えていく。それはフワフワの羽毛に変わり、ゆっくりと翼の形をとっていった。その翼は、ルーエルの体を包み込むようにたたまれている。全身をすっぽりと翼に包まれたルーエルがすぅっと近づいてきた。

「ありがとうございます。一佳さん」

「……ありがとう」

 一佳はルーエルの頭をなでた。突然の状況にも驚かなかった。彼が天使だということを素直に納得した。不思議そうな顔をしているルーエルに、もう一度ありがとうと言う。

「どうして、一佳さんがありがとうって言うんですか?」

「昨日は楽しいかったから」

 そう言った一佳に、ルーエルは少し悲しそうな顔をする。

「もう……会えないと思います」

「ええ」

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