第5話

 一佳はルーエルの手を引いて土手を歩いていく。夕飯は外で済ませたかったが、ルーエルのこともあるので作る事にする。何か食べたいものを聞こうと思ったが、自炊はここ数ヶ月まともにしていない。リクエストには応じられそうに無いので、自分で考えることにする。

「お米しか無いんだよねぇ、下手に買って使い切れないとイヤだし……オムライスにするか。卵と玉ねぎなら多少はもつし、ひき肉は少しのやつ買えばいいし」

 近所のスーパーで買い物を済ませて帰ると七時近くになってしまっていた。干していた洗濯物は諦めていたので、部屋の中につるしておく。お米を研いで御飯を炊き、しきりに話し掛けるルーエルの言葉に耳を傾けながら(天国や神様に関する話はよく理解できなかったが)夕飯の仕度をする。

 玉ねぎのみじん切りに苦戦したくらいで、意外と手際よくオムライスが完成する。卵もいい具合の半熟。インスタントのポタージュスープとリンゴを添えて夕食にする。一日歩き回り、野球のコーチまでした空腹の体には十分すぎるご馳走だった。一佳もルーエルもおいしいおいしいと、あっという間にたいらげてしまった。

 一佳が自分以外の人に食べさせるために料理をしたのは久しぶりだった。満足そうに微笑んでいるルーエルの顔を見て安心する。

 後片付けをして、生ゴミをベランダのポリバケツへと捨てる。よく晴れた星空だった。周りが明るくないので、オリオン座以外にもたくさんの星が見える。コートを着てしばらく空を眺めていた。夜が星空だということを思い出したような気がする。何も考えずに、ただ夜の闇に心地よく溶け込んでいけそうだった。

 震えが走りくしゃみをする。妙な夢見心地から解放され、慌てて部屋に入る。疲れたのだろうかルーエルが炬燵で寝ていた。彼を起こしてシャワーを浴びさせる。下着ドロ対策に持っている(効き目のほどはよく分からないし、何よりここは三階だが)トランクスとパジャマを出しておく。大きいが構わないだろう。

 彼の体を拭いて、パジャマを着せベッドに寝かしつける。彼はすぐに寝息を立て始めた。彼のふやっとした頬にそっと触れる。

『本物の天使の寝顔か……』

 一佳もシャワーを浴び寝る準備をする。目まぐるしい一日だった。

 土曜日なのにちゃんと朝に起きて、町内会の清掃活動に参加し、喫茶店で昼食、少年野球のコーチをして、夕飯を作って星空を眺め……何の変哲も無く、とても充実した一日だった。前日まで鬱々と会社の愚痴を一人でこぼして、苛立たしげに生活していた自分とは正反対だ。そう、一佳は思った。

 大学を出て就職難の中、何とか滑り込んだ会社。一日中ルーチンワークに追い立てられ、達成感も無ければ感謝されることも無い日々。突然の転勤で数少ない大学時代の友人達とも疎遠になり、知り合いもいない生活。一週間分の掃除と洗濯以外やることの無い休日。そんな自分を振り返る暇もなく、ただ漫然と過ぎていく時間。

 いけないと思いつつ、どうしようもないと諦めていた現状が、たった一日で打破できたような気がした。そんな自分がなんとなく誇らしかった。

 ルーエルを起こさないようにそっとベッドにもぐりこんだ。彼を抱くようにして眠りにつく。湯たんぽの夢を見たような気がした。

 翌朝、先に起きたのは一佳だった。枕元の時計に目を寄せると六時半、どうしても一旦は普段起きている時間に目が覚める。台所に行って牛乳を一口飲んで再びベッドにもぐりこむ。ルーエルの寝息を確認して、もう一眠りしようと目をつぶった。違和感を覚えて眼を開ける。それを確認するために眼鏡をかけ、電気をつける。

『何か、色が……薄くなってる?』

 目に映った状況を理解するまでニ分、納得するのにもう三分、驚くまでに三十秒かかった。ルーエルの体が薄く透き通っているのだ。

 顔などの言うなれば厚い部分はそうでもないが、手のひらなどは電灯に透かせば後ろ側がうっすらと見えるほどになっていた。何より、昨日はあんなに早くに一佳を起こした彼が、全く目を覚まさないのだ。ぐっすりと言うより、昏々と眠っているようだった。

「ちょっと! ルーエル、起きて! ルーエル!」

 慌てて彼を揺さぶると、目惚け眼のくぐもった声で「おはようございます、一佳さん」と言う。相変わらずの笑顔だが、心なしか元気がないようにも見える。体がどうなったのかを聞くと、いつもの落ち着いた様子で答えた。

「輪っかが無いままこちらで暮らすと、こうやって消えていってしまうのだそうです」

「消えていくって……どういうこと?」

「分かりません」

「分かりませんって……こうなることは分かってたんでしょ? どうして昨日もっとちゃんと探さないの? こうなるって分かってたら私だって……」

「……ごめんなさい」

「あぁ、もぅ……ルーエルが謝る事じゃないでしょ!」

「僕の姿を見ることが出来たのは一佳さんが初めてだったんです……それで一緒にいるのが楽しくて、つい……」

「とにかく、輪っかを見つければいいのね?」

 一佳はベッドから飛び降り服に着替える。一緒に行くというルーエルをベッドに寝かしつけ(やはり元気が無い様子だった)、家を飛び出す。髪も梳かさずスッピンのままだったがかまっていられなかった。一階まで降りたところで、引き返す。

「ルーエル、輪っかってどんなのなの?」

「大丈夫です、一佳さんには見えますから」

 今までのことから、これ以上聞いても無駄だと分かる。とにかく見えるのであれば、あとは探すしかない。

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