猫になりたい



 絶対にアライグマだと思う、と高浜さんにしては珍しく強い調子で主張した。


「うちにもこの間、出たんですよ」

「アライグマが?」

「そう。てっきり僕、上の階に子どもがいるのかと思ってたんですけど、郵便受けのところを見たらそもそも空き部屋で。まさか心霊現象かと思ってしばらく不気味に思ってたんです。そうしたら――」


 そこで彼が言葉を切ったのは、私が息を止めたのと完全に同じ理由だったと思う。


 ととととと。


 と、プラネタリウム奥、バックルーム。事務室。テレビも点けずにいれば私たちの話し声以外はほとんど芸術的に静かな部屋に、その小さな足音が響いている。


 天井から。

 方角で言えば、北から南。部屋を横切るようにして、その足音は遠くへ出かけていった。


 私たちは無言で、その行く末を目で追い掛けている。しばらくそのまま耳を澄まし続けて、帰ってこないのがわかると、


「そうしたら?」

「最近ほら、風が強かったじゃないですか」

「ね。春って毎年こんな感じだったっけ」

「それで物干し竿をそのままにしておくと窓が割れそうで危ないなと思って中庭の方に出たんです。そうしたら、壁に、こう」


 高浜さんは、右手を顔の前に出して、全部の指を折り曲げる。野球ボールが何かを持っているような形で、ひょいひょい、とそれを動かす。


「爪痕が残ってたんです。ガリガリ、って感じで」

「へえ。アライグマってそんなに鋭いんだ、爪」

「らしいですよ。木登りが得意で腕力もすごいから、ちょっとした隙間もこじ開けて入っちゃうらしいです。見かけても三階堂さん、素手では戦わない方がいいですよ」

「戦いそうに見える?」


 何の気なしに訊いてみたことだったけれど、意外と高浜さんは動揺した。いやでも、前に蜂が出てきたときも簡単に捕まえてぽいっと捨ててたので、もしかしたらそういうこともあるかなと思って……。どうやら私は高浜さんの中で、野生動物と戦う担当にされているらしかった。ちょっと面白い。


「でも最近、そういうの増えたよね」

 あまり面白がりすぎても悪いので、私の方から話を変えることにした。


「昔は家にアライグマが入り込んでくるとか、全然聞かなかったけどね。やっぱりあれかな。人里と山の境目の手入れをする人がいなくなったからとか?」

「どうなんでしょう。単純に繁殖してるからな気もします。あ、でもイノシシとかクマとかも結構聞くから、三階堂さんの方が正解なのかな。そうだ。そういえばニュース見ましたか。一週間くらい前の」


 どの、と訊けば、クマの、と答える。ニュース自体は見なかったけれど、別の人から聞いたのを思い出した。


「あれ、近くの高校で校内放送流れたらしいね。『クマが出没しているので、全校生徒はバスに乗って帰るようにしてください』って」


 へー、と興味深げに高浜さんは頷いて、


「やっぱり僕の頃はそういうのなかったですね。一度だけ、『強盗が出たので集団下校してください』ってアナウンスされたことはありますけど」

「うそ。そっちの方が珍しくない? 犯人逃げちゃったんだ」

「そうなんですよ。『包丁を持った犯人が近辺を逃走中……』なんて言うからびっくりしちゃって。結局捕まったんだったかな。わからないですけど」


 でも、と話を戻した。


「野生動物が出てくるからバスで帰って、はもうサファリパークですよね」

「ね。高校があるあたりは大体市街地の方だと思うんだけど。この調子だと〈銀河〉もわからないよ」

「周り、田んぼと畑ばっかりですからね。大丈夫ですか、三階堂さん。自転車通勤で」


 戦う羽目になるかもしれない。

 どうせ夏になればバス通勤に切り替えるつもりではある。花粉症の薬を朝晩飲んで頑張ってはきたけれど、そろそろこのあたりで屈してしまおうか。アライグマはともかく、イノシシあたりに遭遇したら自転車では逃げ切れる気がしない。


 というようなことを口にしようとしたとき、二人揃って口を噤んだ。


 ととと。

 ととととととと。


 また遠ざかっていけば、止めていた呼吸が再開される。


「そういえば、アライグマとかイノシシは出るようになったけど、野良犬は全然見なくなったね」

「え。そんなの出るんですか、このへんに」

「昔見た……けど、どうなんだろう。私がまだ小学生くらいの頃だったから大きく見えただけかもしれないけど、大型犬くらいの大きさに見えたし、どこからか逃げ出してきてたのかも」

「大型犬って」

「ゴールデンレトリーバーとか、そのくらい」

「相当大きいですね、それ」

「しかも群れ。三、四頭くらいの」

「それ、ニホンオオカミの群れだったんじゃないですか」


 最後の、と高浜さんは言う。

 どう考えても、そんなわけはなかった。





 一階のその店の前で足を止めたのは、まず間違いなくその後に続いた「犬派か猫派か」の話題が盛り上がりを見せたためだと思う。高浜さんは猫派だった。私個人の印象としては高浜さんは犬か猫かで言うと犬っぽい印象の人だったので意外だったけれど、ここで働くよりも前のこと、道端で途方に暮れていたところを謎の野良猫に慰めてもらってからそっちに傾いたのだという。ちなみに私は犬派だ。理由は単純で、子どもの頃に家に犬がいたから。意外に思われたのか、それとも納得されたのかはよくわからない。


 そんな犬派の私の足を止めさせた店は、猫カフェだった。


 私はその『犬神家の一族』と『八つ墓村』を合体させて中途半端に反転させたみたいな店名が掲げられた看板を前に、しばし考え込んでしまった。ついさっきまで、野生動物が生活圏に侵入してきて困るという話をした口で私たちはどの動物が好きかということを大いに語り、またそういうことを話す人間の職場と同じ建物の中に、こういうテナントが入っている。そういう人間と自然界との関りの複雑さについて、私はまるで自然博物館に来た観光客のごとく、深いような浅いような、そういう物思いに耽らされてしまった。


 店頭の説明書きによると、保護猫の中でも人懐っこい子を選んで店のキャストにしているのだという。料金体系はカラオケみたいに時間でいくら。ドリンク別。うちの店もドリンクを売り出せばもっと儲かりそうなものなのに、とちょっとだけ思う。折角〈銀河〉という名前とリンクした施設なのだから、七色に輝く〈銀河〉名物ギャラクシーソーダとか。しかしこんなことを提案して仕事が増えてしまうのはどう考えても私なので、もう少しプラネタリウムの先行きが怪しくなるまでは胸に秘めておくことにする。


「ご興味ありますか」

 後ろから声を掛けられたのは、動物がいるなら衛生管理も大変そうだな、と思った直後のことだった。


 振り向くとしかし、声の主は猫カフェの店員らしい格好をした人物ではなかった。背広のよれた感じの、少し顔色の悪げな会社員の人だ。とりあえず笑いかけてみると、かえってそれで彼は我に返った様子で、


「すみません。お店の人というわけではないんですけど、よく私もここに来るんです。お姉さんも興味があるのかなと思って」


 良いところなんですよ、と口にした言葉に嘘はないのだろう。訊いてもいないのに出てきた言い訳の後に続いたにしては、とても自然な笑顔でその男性は言った。


 確かに、入り口のガラス越しに伺える中の様子は、とても綺麗に見えた。実際に木材が使われているのか、それとも木目調の壁紙でそれらしく演出しているのかはわからないが、間接照明なども相まって、全体に温かな空間が広がっているように見える。動物がいる環境をこれだけ清潔に見せられるのはすごい。


「癒されますか」

「はい。それはもう」


 迷いのない答えに、私の心はちょっとばかり揺れる。しかし、実際のところ私の生活は一丁前に癒しを求めるほどに苦しくはない。その上、もう帰るつもり満々で、薄手の上着を羽織ってしまっている。洗濯機で洗えないタイプの。


「そうなんですね。今度入ってみようかな」

「ぜひ」


 別にお店から給料を貰ってキャッチをやっているわけでもあるまいに。

 その男の人は、顔色に反して爽やかな笑みを浮かべると、店の中に入っていく。よっぽど常連なのだろうか、慣れた様子で店員さんに話しかけている間、その足元に一匹の三毛猫が寄ってきて、彼の足に尻尾を絡めている。


 でもまあ、私、犬派だから。





 珍しく朝から社長がプラネタリウムにいた。


「人恋しさですか?」

「どこから来たんだその発想は」


 鍵が開いていたからてっきり高浜さんが先に来ているのだと思ったら、違った。社長はパイプ椅子に腰を下ろして、カップ麺に箸を入れていた。豚骨醤油の濃厚な香りがバックルームに充満している。恐らくこの後は人に会う予定がないのだろう。しかしこのままでは豚骨醤油の濃厚な香りを漂わせる奇妙なプラネタリウムの受付がここに誕生してしまうのだが、まあ、社長が率先してその奇妙感を漂わせたがっているならばよしとする。ちなみに私はラーメンは味噌派だ。美味しければ何でもいい派との掛け持ちでもある。


「朝から緊急の店長会だったんだ」

「何かあったんですか?」

「獣が暴れ出した」

「……クマ?」


 いやわからん、と社長は言って、麺をずーっと啜る。気持ちの良い啜りっぷりだけれど、その調子ではそのサイズのカップ麺は三口くらいしか保たない気がする。最近は値段が据え置きのまま内容量が減りに減らされ、子どものおやつくらいにしかならないようなカップ麺も増えてきたけれど、今社長が持っているのがまさにその手のものだ。


「南側の食品売り場があるだろ。一階の」

「ああ、はい」

「あそこの店員が朝出勤したら、お菓子売り場でスナック菓子が散乱してたそうだ」

「動物ですか」


 例の、と天井を見上げる。だろうな、と社長はこっちの顔ばかりを見ている。


「こうなってくると経営陣も本腰だな。うちみたいなところならともかく、食品を扱ってるところは下手したら売り場閉鎖だ。大慌てになって早速今日、業者を入れることになった。早ければ午前中から来るみたいだから、上の方がうるさくても気にしないでくれ。多分、ホールの方は防音で聞こえないとは思うんだが」

「了解です。薬剤とか撒くんですか?」

「消毒はする。衛生に問題があるからな。ただ、あんまり強いのを撒くと、人がこれだけ集まるところだから、悪影響が出るだろ」

「ああ。子どももいますしね」

「それにほら、あそこ。一階の。『八つ墓村』と『犬神家の一族』を混ぜて裏返したような名前の店」

「猫カフェ?」

「よくわかったな」

「今、社長と全く同じ発想をしているということは私もなかなか頭が良いのではないかと思ったところです」

「動物除けはそういうところにも影響が出るだろ。一応、そこの店長も『飲食の気持ちはわかるから、保障をしてくれれば一旦猫を連れて別の拠点の方に退去してもいい』と言ってくれたんだが、まあ、何にせよ調整することになる。とりあえず今日は調査と消毒で、それ以外のところはわからんな」


 大変ですねえ、と言えば、大変だなあ、と社長も答える。がちゃ、と扉が開いて、「おはようございます……」と午前中に特有のちょっとダウナーな調子で高浜さんが入ってくる。「わ、どうしたんですか朝から」と社長を見てその調子が覚める。いずれにせよ社長の言う通り、まだ食品を扱っていないうちにはそれほど緊急性のない話だ。私はいつも通り、プラネタリムを開く準備に取り掛かる。


 ところでこの頃から、奇妙な噂が流れ始めた。

 一階の猫カフェに、人の顔をした猫がいるという噂だ。





「結構話題になってるんですよ、ほらこれ」

 とそれを見せてくれたのは高浜さんで、だから何となく、帰り際もその前を通りがかってみた。


「どれ?」

「あれじゃね? あれ。黒いの」

「違うでしょー。全然人っぽくないもん」


 今日が土曜日だからだと思う。プラネタリウムの仕事終わりの時間帯だというのに、子どもたちが首を揃えて猫カフェの前にたむろしていた。中はほとんど見えなくなっているが、入り口のドアガラスからは店内が覗き込めるようになっている。その場所を競い合うようにして、子どもたちはあれでもないこれでもないと、声を上げていた。


 その扉が開く。

 中から、今度こそは店員だろう人が出てきた。茶色っぽいエプロンを付けた、中年くらいの女性だった。


「ごめんね。興味を持ってくれるのは嬉しいんだけど、うちで働いてくれてる猫ちゃんたちは、人に見られると緊張しちゃうから」


 はーい、と素直にその言葉を聞いたのは、最近の子どもたちの素直さゆえか、あるいはこういうところに来るくらいだから、そもそも猫のことが好きだったからなのか。案外と子どもたちは呆気なく踵を返して、再び〈銀河〉の中、遊び場か親元か、そちらに向いて歩いていく。


 猫カフェ前に残されたのは私だけ、という形になる。

 店員さんと目が合った。


「何だか話題になってるみたいで、大変ですね」

「そうなんです。うちもなかなか経営が厳しいので、こうして人が集まってくれること自体は嬉しいんですけど」


 どういう理屈なのかはわからないけれど、〈銀河〉で働く人というのは、私がどちらかと言えば従業員サイドの人間であることをさっと見抜いた体で話し出すことが多い。社長がどこかで私のことを顔写真付きで宣伝しているのか、それとも私がいかにも従業員的な雰囲気を醸し出しているのかは定かではないが、何にせよ、私もこの店員さんを困らせる側の動機を持ってこの近くに来たことは確かであるので、必要以上に親身な口調で答えることにした。


「特に生き物を扱ってらっしゃると、なかなか難しいですよね。そういえば、聞きましたよ。今、天井裏に住み着いちゃってる動物の件もあって、猫カフェさんも大変だって」

「あ、そう。そうなんですよ」


 ちょうど誰かに話したい気分だったのかもしれない。彼女は、ぱっと表情を変えて会話を繋げた。


「うちなんか、特に衛生管理には気を遣わないといけないから、困ってしまって。野生動物……が何なのかはわからないですけど、やっぱりほら、ノミなんかを持ってたりすると、猫の方も苦しい思いをしちゃうし」


 でしょうね、と頷きながら、しかしちょっと言い方に引っ掛かるものを感じて、


「あれ、ごめんなさい。私、飲食系ではないのであまり事情に詳しくないんですけど、結局わからなかったんですか? 何の動物だったかって」


 一瞬、猫カフェの店員さんはきょとんとした顔をする。それから、ああ、と頷いて、


「業者が入るっていう話は聞きました?」

「はい。そこまでは知ってるんですけど」

「見つからなかったんですって」


 業者が、という意味でないことに、ちょっと遅れて気が付いた。


「動物がですか?」

「そうそう。屋根裏とか、色々入ってくれたみたいなんだけど、フンなんかも見つからなかったみたいで。業者さんの方でも、いないんじゃどうしようもないってことになっちゃったらしいの」


 驚きだったから、そのままの気持ちを伝えることにした。えー、びっくりですね。うちなんか、あ、あの三階奥のプラネタリウムなんですけど、結構休憩室なんかにいるとはっきり聞こえてたんですよ。何もいないってことはないと思うけどなあ。


「ねえ」

 と、彼女も頷いた。


「うちでもそれらしい音は聞こえたと思うんだけど……。たまたま通り道になってただけで、もう出ていっちゃったんじゃないかって」

「でも、これだけ広いところだと、どこに潜んでるかわからないから、かえって不安ですよね」

「そうそう。私なんかは、動物全般が好きだからね。あんまりこう、駆除がどうこうって話も嫌なんだけど」

「あ、すみません。ずけずけと」

「ううん! やっぱりね、そういう生き物が病原菌を媒介したりするのも確かだから。でも、それで心が痛まないって言うとそれも嘘になるし……」


 動物と暮らすのって、本当に難しい。


 そう言って溜息を吐き、「ごめんなさいね、初対面でこんな」と笑う彼女を見ると、私はまさか「ところで人面猫の噂って……」なんて話を続けたりはできない。「疲れたときはプラネタリウムでも見て癒されてください」と人の店の前で堂々と営業を行い、彼女を一笑いさせるくらいが精々だった。





「変な人がいるんですよ」

 と浦々さんが言い出したのもちょうどその頃で、しかし私の最初の返答は結構すげないものだった。


「あんまりお客さんにそういうことを言わない方がいいよ。陰口を言ってるとね、そのうち陰口ばっかり言う人になっちゃうから」

「そういう意味じゃ……いや、はい。そっすね。すみません」


 小学校の先生かよ、という呟きを聞き流しておけば、まあ結構、大人としては貫禄のある態度が取れたんじゃないかと思う。


 しかし、場所は例によってトイレだった。浦々さんが私をトイレに連れ込むタイミングに、他の人影があることはほぼない。誰に聞かれる心配もないので、


「で、どこが変だと思ったの」

「……さっきと言ってること違くないですか」

「ストーカーとかだったら、浦々さん、私が話を聞かないのも傷付くかなと思って」


 むむ、と浦々さんは感じ入った顔をした。恐らく十年後二十年後、浦々さんが年下の女の子に対して似たようなことを言う場面が来るだろう。こうして受け継がれていくものもある。


 が、


「全然ストーカーとかじゃないんで、普通に言いづらいんですけど」

「けど?」

「……いや、うーん……。なんか三階堂さんにそう言われると、こういうこと言っちゃいけない気がしてきた」

「見た目とかの話?」

「見た目……っちゃ見た目なんですけど」


 しばらくうーんうーんと懊悩した後、うーんうーんと呟きながら、彼女は鞄の中に手を入れる。財布を取り出す。レシートやら何やら入れっぱなしの、いかにも充実した日々を象徴するようにぱんぱんに膨らんだそれから、一枚の紙を抜き出す。


 ハンバーガーショップのクーポン券。

 今日の夕食が決まった。





「いらっしゃいませー。ポテトも一緒にいかがでしょうか?」

 最初の注文を告げる前からいきなりポテトを勧められた。


 隣のレジの男の人が一瞬ぎょっとした顔をしたけれど、浦々さんのにこにこ顔を見て私が知り合いの客だとわかったらしい。時刻はもうすぐ二十時。よく働くものだなと思いながら、ちょっと豪華なチーズバーガーのセットを頼むことにした。クーポン券の意味がほとんどなくなる。いつもより夕食の出費が痛い。しかし一人の大人として、高校生の前で安いハンバーガーだけ頼んで飲み物は給水機の水という状態を見せたくもないのも確かだった。そこではたと思い当たる。これが毎回店長がドーナツショップで飲み物まで買ってくる心理なのか。こうして受け継がれるものもある。地主ではない私には、少し荷が重いかもしれない。


 ちょうど、このくらいの時間に来るとのことだった。


「実際に見てもらえれば絶対わかります」


 と浦々さんは熱弁した。この子はちょっと敏感なところもあるからどうかな、と私は思っていた。高校生の言う『変』は、実際はそんなにたくさんの人を見てこなかったことや、生まれた場所や学力、年齢等の面で自分と似たような成員ばかりを持つ集団に属していることに起因して、人と自分とのちょっとした差異を大袈裟に捉えてそういう言葉に変換している節があるものと思っている。私も長じるにつれて、色んなことがどうでもよくなった。鋭敏さを失ったとも言えるし、柔軟さを身に付けたとも言える。周囲との軋轢が生まれづらくなるので、自分としてはこの変化を気に入っている。


 早寝する性質なのもあって、この時間帯にポテトのセットは欲張り過ぎだったかも、と後悔し始めたあたりのことだった。


 ふらりと一人、背広姿のお客が現れた。


 レジの奥から訴えかけてくる浦々さんの視線が物語っている。この人この人、このこのこのこの人見て見て見て見て見ていらっしゃいませポテトも一緒にいかがでしょうか。不思議なのは、意外とこの手の勧誘文句に乗る人がいるということだった。じゃあ、と背広のお客が答える。ありがとうございます、と百点満点のひまわりみたいな笑顔で浦々さんがポテトをレジに追加していく。


 別に、特段変な人とは見えなかった。

 それは、バーガーのセットを受け取ってからもそうだった。


〈銀河〉のフードコートはかなり広い。駅ビルにも似たような空間があるけれど、こっちの方が広い気がする。店として並んでいるのはハンバーガーうどんラーメン牛丼チキンたこ焼きソフトクリームにピザと餃子とハンバーグと……という具合で、国道沿いに並び立つお店がぎゅっと凝縮された形。それらの店で買ったものをみんながここで食べるわけだから、そりゃあ相当のスペースが要る。けれど幸い、その人は観葉植物の向こう側や、ごみ箱の陰に消えていくことなく、ちょうど私の視界に入るあたりに腰を下ろしてくれた。


 中年くらいの会社員。何となく誰かに似ている気がするけれど、思い出せない。こういうのは大体芸能人をその顔に重ねていると相場は決まっているものだけど、転職関係の広告にでてきている芸能人だったりしたら、普段から真面目に見ていないから絶対に思い出せない。


 特に見た目には、変わったところはないように思えた。

 強いて言うなら、食べ始める前にやたらと長くぼーっとしていたくらい。


「えー」

「別にそんなに変な行動じゃないと思うけど。今ってほら、食べる前に写真を撮る人もいるし。フードコートだったら、誰かを待ってたのかもしれないし」


 というようなことを素直に伝えると、浦々さんは不満げな顔を見せた。時刻は二十時三十分過ぎ。そろそろ夜も深くなってくる時間帯で、うら若き高校生をそんな時間にひとりバス停に並ばせておくのもなんだからと、自転車を引いてわざわざそこまで私は付き添っていた。


 この時間帯に薄手の上着の必要性が感じられなくなってくると、そろそろ夏が来るのだなあという気持ちが湧いてくる。

 まだまだ開店中の〈銀河〉から漏れ出す人工灯に背中を照らされて、私たちは話をしていた。


「そりゃまあ、別にそれ自体は変じゃないですけど」


 浦々さんは言う。それから、何か言葉を選び続けている。昼に言った私の何の気なしの一言を、思ったより真剣に捉えてくれているらしい。


「そうかー。三階堂さんでもわかんないかー」

「何。私『でも』って」


 それが、と愚痴っぽく彼女は、


「他の人もわかんないって言うんですよ。でもあたしは全然変だと思うんですよね」

「どのあたりが」

「顔、じっくり見ました?」

「誰かに似てるなとは思った」


 すると、浦々さんは意外そうな顔をした。

 それから妙に真剣な、気迫すら感じるような勢いで、


「それ、もっとよーく思い出してみてください」

「芸能人に似てるって話なの?」

「近いけど、違います。だから、よーく思い出してみてくださいって」


 そんなことを言われてもなあ。

 しかし思い出してみてくださいと言われたら、思い出してみるほかない。満腹感もあって、頭の調子はあまり良くはない。えいやと気合を入れて目までつぶって、本当に頑張って鮮明にさっきの光景を頭の中に再現しようとして、しかしそれでいてフードコートのお店の並びすらあやふやなんだから人の記憶なんていい加減で儚いものだなあと感慨に浸っていると、


「あ、」

 と本当に小さく、浦々さんが呟く声が聞こえた。


 目を開くと、どうしてそういう声が出たのか丸わかりだった。そこにいたのだ。今まさに、私たちが話題にしている人が。


 バス停に来るわけではなさそうだった。〈銀河〉の自動ドアから出てきて、私たちと同様、月や星よりもずっと眩い店内からの明かりに照らされて、駐車場を横切っている。歩いて帰るのだろうか。それにしてはしっかり革靴を履いていて――なんて、全体ばかりを気にしていられない。向こうがこっちに気付いていないのをいいことに、不意に訪れたチャンス。誰に似ているのかを突き止めようと、私は目を凝らしてみる。


 ぼや、とその輪郭がぶれる。

 その次の瞬間、急にはっきりと、その顔が見えるようになった。


 どうして気付かなかったんだろうと、今になってみると思う。浦々さんがあれだけ熱意を持って私に訴えてきた理由もわかる。別に、見ているものが変わったわけじゃない。たとえばそう、それは騙し絵に近い。壺だと思っていたら、それが向き合う二人の人間の顔だったことがわかるみたいな、その一瞬が急に訪れた。


 狭い額に、爛々とした大きな目。

 耳は顔の横じゃなくて上についていて、びょーん、と光に照らされてようやくわかる程度の髭が、片頬から数本、銀色に飛び出している。


 それで、顔の全部がふわふわした毛に覆われている。


 猫、

 と思った瞬間に、その人がこっちを見た。


「にゃーん」


 それからは、もう目にも留まらない。

 その男の人は駆け出した。猫のように四つ足で、ではない。二本の足で地面を蹴って、まるで学生時代は陸上部でしたとでも言いたげな見事なフォームで、あっという間に駐車場を抜けて、夜の闇の中に去っていった。


 入れ違いになるように、バスがやってくる。

 ほら、と浦々さんが言った。





「あ、この間の」

「はい?」


 二つの出来事が私の頭の中で結び付いたのは、そうして声を掛けられた朝のことだった。


 何となくこの頃、いくつもある〈銀河〉の入り口のうち、特定の場所から入る癖がついていた。まだ多くの店が開店準備中で、私も午前九時半、三十分後のプラネタリウムの開店を準備するために、てくてくと通路を歩いていた。


 そうしたら、呼び止められた。

 エプロンを付けているから、こっちは顔を思い出さなくてもわかる。猫カフェの店員さんだった。


「ごめんなさい。ちょっとお願いしてもいい?」


 はい、と容易く頷けたのは、日頃から時間に余裕を持って生きているからだ。彼女はまるで「救いの神が現れた」とでも言うようにほっとした顔をすると、


「今、うちの……あの、」


 彼女が慌てながら説明したのは、〈銀河〉の外にも保護猫を扱っている拠点が別にあるということで、


「そこで病気の子が出て、急いで病院に連れていかなくちゃいけなくて」

「留守番ですか?」

「お願いしてもいいですか?」


 別に、一日中ずっと頼みたいというわけではないらしかった。

 少し遅れて、猫カフェの同僚がやってくる。しかしその人はこのカフェの合鍵を持っていないから、今自分が持っているこの鍵を渡してあげてほしいのだ、と。


 もちろん、快諾した。


「いいですよ。急いで行ってきてあげてください。あ、事故にはお気を付けて」

「ありがとう、ごめんなさいね!」


 言うと、店員さんは駆け足で〈銀河〉の外へと消えていった。本当に生き物を扱うというのは大変な仕事だなあと思いながら私は、手渡された鍵を手の中でちゃりんと鳴らす。


 試しに扉を押してみると、開いた。

 が、流石にあの店員さんもそれほど面識のない私を心から信頼していたというわけではないらしい。脱走防止のためなのか、猫カフェの入り口は宇宙船のエアロックみたいに、二重になっている。二枚の扉を両方開けないように常に気を付けておけば、このエアロックの間に猫が入り込んでいない限りは、脱走されることはない。賢い仕組みだ。


 そして二枚目の扉は、パスコード付きの電子錠で管理されている。


 外側の扉を閉めてから、特にパスコードを入力しないままに二枚目のそれを押してみると、もちろん引っ掛かった。開かない。それから私は、ちょっと考える。一応出勤の時間のこともある。外の扉に『鍵をお預かりしています。三階北プラネタリウムにご連絡ください。三階堂』と張り紙をしておいて、鍵を締めて、向こうから訪ねてくるのを待とうか。しかしそんなに切羽詰まった出勤というわけでもない。


 一応留守を預かった以上、しばらくは待ってみるのがいいか。

 そう思って、エアロックの中に立ったまま、しばらくぼんやりしてみることにした。


「あのう」

 と、そのとき内扉の向こうから声がした。


 不意打ちだったから、声も出ないほどにびっくりした。当然誰もいないのだと思っていた。だって、そうじゃなければ部外者の自分に留守番を任せるはずがないから。


 扉のガラス越しに、声のした方を見る。

 誰もいなかった。


「すみません、下です。下」


 下ですと言われても。


 屈み込んでみても、別に子どもがいるわけでもなかった。強いて言うなら、もうあの店員さんは開店準備を終えていたらしい。幾匹かの猫が思い思いに店の中で過ごしていて、そのうちの一匹の三毛猫が、扉に肉球を押し付けているだけ。


「私です」

 その三毛猫が、喋った。


「すみません、驚かせてしまって。野中さん……さっきの店員の方は、もしかして留守番をお願いしたんでしょうか」


 ええ、と私は頷く。三毛猫は答える。ああ、やっぱり。

 別に、何の変哲もない猫に思えた。


 実は私は、犬が好きであると同時に、若干猫が苦手なのだ。というのも、犬は感情表現がストレートだし、嬉しいときは目一杯嬉しいアピールをしてくれる(ように私には見えているが、実際に本当にそう感じているかはわからないということを私はわかっている。人間が相手でもそうだけれど、自分以外の生き物が本当のところ何を考えているかというのは永遠の謎だ)けれど、猫はそういうのがあまりないように思う。一緒に長く暮らしたことがないから表情や仕草が上手く読み取れていないというのもありそうだけど、比較してクールというか、何を考えているかわからないというか、そういう印象があまり得意ではない。


 しかし、それでも猫を見ると「可愛いなあ」と思うことはある。

 ふわふわした毛並みとか、小さい顔とか、大きな目とか、後はやっぱり全体的な形として、可愛い生き物だなと感じるところもある。


「すみません、お手間を取らせてしまって。恐縮です」


 そんな可愛い生き物が、ビジネス用みたいな喋り方で語り掛けてくる。

 その申し訳なさそうな顔が、一瞬、誰かに重なる。


 そのとき、連鎖的に色々な物事が頭の中で繋がった。


「もしかして、この間私たち、会いませんでした?」


 ここで、と伝える。

 ちょうどこのお店の前で、と身振り手振りも交えて言う。


 少しの間、三毛猫もきょとんとした顔をしていた。恐らく私と同じ時間を取っていたのだろう。目の前の顔を、記憶と繋げるための時間。


「あっ」

 繋がった瞬間。


「やっぱりそうですよね。この間、私がここでお店の看板を見てるときに声を掛けてくれた、スーツの」

「ええ、ええ。そうです。よくわかりましたね。昔から、結構特徴のない顔だって言われてきたんですけど」


 あはは、と彼は笑った。

 猫がそういう風に笑うところを、私は初めて見たかもしれない。それは視覚に不思議な刺激をもたらす。


 その顔は、人間の顔に見えた。


 いや、人間の顔そのものなのか?


「あと、すみません。変な話なんですけど」

「はい。なんでしょう」

「昨日、フードコートでハンバーガーを食べてませんでしたか?」


 こうして、私の中で人面猫と猫人間の二つの出来事が繋がった。


 思い出したのだ。誰の顔に似ていたか。一度しか会ったことがないし、それも短い時間のことだったからなかなか出てこなかったけれど、いざ目の前にしたら流石に結びついた。まさにこの人の顔だったと思う。


 ああ、と猫はあっさりと頷いた。


「あなたは見える人なんですね」


 そうだな、と彼は言う。


「今から時間はありますか」


 あるといえばある。

 どうせ、しばらくの間はここでもう一人の店員が現れるのを待つつもりだったのだ。そう伝えると、彼はどこか安心したような、諦めたような、そんないかにも人間的な表情を浮かべて、


「では、何かの縁です。よければ、聞いていってくれませんか。」





 猫になりたいってよく言うじゃないですか。


 言いませんか? じゃあ、犬になりたいとか。ほら、お金持ちが飼っている大型犬になって一生のんびり暮らしたいっていう。ああ、よかった伝わって。


 私にもね、その願望があったんですよ。


 別に、珍しいことじゃないと思うんです。誰にだってそういう気持ちはあるんじゃないかなあ。今ってほら、何をするにも忙しいじゃないですか。幸せなことに、今の仕事はそんなに嫌いでもないですけどね。あ、普段は保険会社に勤務してます。あの感じの顔で「将来に備えましょう」って言うと、皆さん真に受けてくれるんですよ。ははは……すみません。今の人って、こういう容姿に関するジョークは笑いづらいんでしたね。おじさんだから、つい。


 ただまあ、忙しいんですよ。


 会社にもよるとは思うんですが、うちはかなり人手不足で、一人当たりの業務量が多くて。それに営業なら、人と関わる仕事ですから当然、お客様の都合に合わせる必要がありますし。事務は事務で、繁忙期はもちろん、人との調整が主になることも多いですからね。生来こういうのが苦にならないタイプだと良いんでしょうが、私は結構、人と関わるときは気合を入れないといけない性質で。それでも自動車通勤だったりすると、寝不足でいるわけにもいかないじゃないですか。だから帰ったらすぐ寝て、英気を養って……。するとまあ、気力がなくなってくるわけですよ。で、こう癒しを求めてネットなんかで見るわけです。あはは、そう。動物の動画とか。それで思うんですよ。こういう風になれたらなあ、って。


 もうちょっと、能動的に人生を楽しめる人だとそういう風には思わないのかもしれないですけどね。


 でも、私は思っちゃったなあ。


 それで、ちょうどその頃猫カフェに通い始めていたんですよ。そう、ここです。動画を見てるだけじゃ我慢できなくなっちゃって。最初の頃は全然触らせてもらえなかったんですけど、徐々にもう、向こうから来てくれるようになるくらいになったんです。


 ええ、三毛猫でした。


 何の気なしに呟いたんですよ。私も猫になりたいなあって。そうしたらその子が、じっとこっちの顔を見つめてくる。私、結構動物に話しかけちゃうタイプなんです。だから言ったんですよ。


 代わってくれるかな、って。

 いいよ、と言われました。


 それからですね。こうなったのは。





「思えば、あの子も外に出てみたかったのかもしれませんね」

 と、三毛猫は言った。


「不思議ですよね。野生動物っていうのは、人間のテリトリーでは常に生存を脅かされ続けているんです。でも、一度懐に入り込んで、その状態を受け入れてしまえば、生活するだけなら人間よりも楽になる場合もある。一方で人間は、この場所で生きることを許される代わりに、日々の生活に自ら責任を取っていかなければならない。それを『取らされている』と思うか、『取るだけの尊厳がある』と見るかは、猫歴の浅い私ではまだ判別できませんが……そうだ。そういえば、」


 そこまで語れば、彼はもう、自分で自分の言葉に満足したように見えた。

 急に雰囲気が変わる。妙にその顔が、猫らしくも見える。


「昨日、フードコートで私を見たって言いましたよね」

「ええ」

「ハンバーガーを?」


 食べてました、と答えると、猫は明るく笑った。


「食道楽なのかな。戻ったときの財布の中身が怖い」

「あ、戻られるんですか?」


 訊ねると、ええ、と躊躇いなく彼は頷いた。


「ときどき、いるみたいなんですよ。あなたみたいに、私と猫とで入れ替わっているのがわかる人が」

「すみません」

「いやいや。謝られるようなことじゃありません。多分、心が人のままだったり猫のままだったりすると、それが滲み出ちゃうんでしょうね。でも、それで猫カフェさんも大変みたいだから。そろそろ潮時かな、と。人に迷惑をかけてまでやるようなことじゃありません」


 潔くそんな風に言うと、おや、と首をもたげた。


「そろそろもう一人の店員さんが出勤してくるみたいです。すみません、長々喋っちゃって」

「いえ。耳、やっぱり良いんですか」

「この身体になってからは、かなり。あ、そうだ」


 腰を浮かせかけた私に、最後に、と彼は言った。


「猫になってみてわかりましたが、ここはすごく猫に気を遣ってくれている、猫カフェの中でもとても良いお店なんです」

「はあ」

「よければ、一度来てみてください。今度は多分、『猫がおじさんの顔に見える』なんて、気味の悪いことは起こりませんから」


 外の扉が開く。

 すみません、と慌てた様子の大学生くらいの店員さんに、私は預かっていた鍵を渡す。





 猫型のクッキーなんてものを持ってきた。

 社長が。


「貰いものですか」

「いや、買ってきた」


 わあ可愛い、なんて猫派の高浜さんは目を輝かせている。このプラネタリウムに残業の文字はないが、退勤間際に社長が差し入れを持ってくることによって発生する、だらだらしたロスタイムのようなものはよく存在する。これは従業員が嫌がっている場合には強制参加の飲み会に類似するものとなり、実質的にはサービス残業とみなしてもよい。しかし自分の心境や今日の高浜さんの様子を見ると、特にそういう底意地の悪い見方はしなくてよさそうだ。


 もちろん猫型のクッキーと言っても、毛がふさふさに生えているとか、そんなにリアルなものではなかった。


 台形の顔に、三角の耳をくっつけて、目は点で口は横倒しの『3』。ちょっと絵心のある小学生ならいくらでも真似して描けそうな、素朴な感じのデフォルメ猫。ココア色のそれを、指の間で弄ぶ。


 テーブルには、飲み物も並んでいた。コーヒーチェーン店のロゴカップに入った、コーヒー、カフェオレ、桜餅ラテ。社長は新商品を見るととりあえず私に与えて様子を見る癖がある。特に食べ物の好き嫌いがなく、どちらかと言うとこの手の期間限定商品は好きな方なので、私の方でも結構楽しんでいる。一番割高な商品を奢られる率も高いし。


「猫が話題だからな。たまにはこういうのもいいだろ」

「はい!」

「そうですね」


 高浜さんは一向にクッキーを口で食べようとしない。目で食べている。社長も自分で買ってきておいてなぜかなかなか手を出さない。目が桜餅ラテの方に行っている。


 というわけで、私が一番先にクッキーを食べて、その後に桜餅ラテも食べることになる。


「あー……」

「そんなか」

「和のタピオカ……には至らない……くらいの……」


 そう言われると気になるな、と社長が言う。社長が一番興味を失くすのは「普通に美味しいです」のパターンで、意外に味幅に対する耐性がないくせに「変な味」と私が称したものをもう一度買ってきては、勝手に苦しんでいることが多い。


 もっちゃもっちゃ、と桜とあんこ味のラテの中に混入しているお餅の部分を噛みながら、社長が、それから高浜さんがクッキーに手を伸ばし始めるのを見ている。クッキーの猫と目が合う。目を逸らして、天井を見る。


 足音は、もうしない。

 私と動物の何が違うのだろう、と思う。


「社長」

「ん」

「犬派ですか、猫派ですか」

「モササウルス」


 会話になってないのに、高浜さんは「かっこいいですよねえ」と、あっさり相槌を打った。





「この間はどうもありがとうございました」


 店の前を通りがかると、店員の人が出てきて挨拶をしてくれた。

 いえいえ、と私は言う。大したことはしていなかったので、大したことはしていませんから、と素直に伝える。あの日私に鍵を託してきた、野中さんだった。


「おかげであの子、今はすっかり元気になって」


 あの子というのは、きっと病院に担ぎ込まれたという見知らぬ猫のことだろう。私は答える。そうですか、よかったです。


 それから、店の様子を覗き込んで言った。

 賑わってますね。


「そうそう、そうなんです。一時はどうなることかと思っちゃったんだけど、怪我の功名っていうか、猫のおかげっていうか……」


 特にちやほやされているのは、三毛猫だ。

 幾人ものお客に目線を送られて、しかしそれを返すことはない。三毛猫はテーブルに座って一人の、会社員風の男性の隣でゆらりゆらりと尻尾を振っている。


「あ、ごめんなさい。でも、三階堂さんからすれば怖かったですよね」

 野中さんは口を押さえて、それから私を気遣うように言った。


「プラネタリウムの方でははっきり足音が聞こえたんですもんね。や、まさか動物じゃなくて人間が入り込んでたなんて……。道理で何の痕も見つからないはずですよね。人が調査に入ったときだって、日中だから店の中に降りてくればいいだけの話だし」


 うちの子も、と野中さんは店の中を振り返る。


「結果的にはお手柄だったけど、見つけたときはきっとすごく怖かったと思うんですよ。ストレスを感じてないといいんだけど」


 野中さんが、こっちに振り向き直す。

 そのとき、ちょうど向こうも私に気付いた。


「大丈夫ですか、三階堂さんも。この間はうちが助けてもらいましたから。何かあったらいつでも言ってくださいね」


 はい、ありがとうございます。


「そうだ。お礼って言ったらなんですけど、うちのクッキーを……あ、そっかそっか。プラネタリウムの……えっと、社長さん?」


 そうです、大瓦。


「大瓦さんが買っていってくださったの、そっか。お店の方で配ってもらったんですね。でも、もしよければ追加で。感謝のしるし」


 ありがとうございます。

 今度はお客として、ちゃんと買いに来ますね。


「本当? ありがとう。私も今度、時間があるときプラネタリウムに行くから。そのときはよろしくね」


 はい、待ってます。


「じゃ、またね」


 お辞儀を交わし合って、別れる。


 野中さんが扉を開けて、店の中に戻っていく。入口の扉のガラスから、中の様子が窺える。反対も同じで、入り口の扉のガラスから、彼らは外を窺っている。


 目が合う。

 笑って、こっちに手を振った。


 手を振り返しながら私は、人間と動物の何が違うのだろう、と考えている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る