占い手帳
「そういえば、再来年の大河に出るらしいな。〈銀河くん〉」
社長がとんでもないことを言い出した。
終業後の時間だった。新しく〈銀河〉にはスープ専門店が開店し、社長はそのメニューの全味を制覇しようとしている。私たち従業員二名を巻き込んで。今日も今日とてスープというよりカレーみたいなスープや、スープというよりラーメンみたいなスープとパンを差し入れられて、私たちは晩御飯をここで済ませている。差し入れというよりまかないみたいな差し入れだった。
「アームストロング船長の大河ドラマでもやるんですか」
「そんなわけあるか。百歩譲っても国内の宇宙開発プロジェクトだろ。小惑星探査機とか」
「じゃあなんですか。ショッピングセンターの興亡、地方都市のリアルに迫るですか」
「それって三階堂さんも一緒に出るんですか?」
そんなわけがなさすぎて、声を出して笑ってしまった。
社長もツボに入ったらしい。しかもスープというよりチゲ鍋みたいなスープを飲んでいる途中で。ごほっ、ごほっ、と派手にむせ始めるから、私はどんどん面白くなってしまう。高浜さんだけが自分の発言に笑わないで、あわわとティッシュを数枚引き抜いては、大丈夫ですかと社長の心配をしている。
「高浜」
笑いを揉み消せていない。変な声で、社長は言った。
「こいつの履歴書勝手に出すか。俳優志望」
「とんでもない提案しないでくださいよ」
「あ、はい」
「高浜さんも承諾しないで」
どんな業務命令ですか、と言えば、冬のバックルーム。
別に、社長は突拍子もない嘘を吐き始めたわけでもなかった。かと言って、適切な形で説明をしているわけでもなかった。
「じゃあ、食べ終わったら見に行くか」
さっきそこの本屋で見た、と付け足した。
◇
書店の入り口には、コーナーができていた。もうすっかり年末だ。
来年の大河ドラマの主演の顔がポップに載って、その周りにはガイドブックと、歴史公証を担当したらしい研究者の著書が並んでいる。それから、これからの主役を張る人物を題材にした歴史小説や、同じ頃の年代が舞台の時代小説も。ちょっと変わったのでは、漫画も置いてある。
その隣に小さく、『再来年は……』という紹介が並んでいた。随分気が早いと思ったが、流石に大河ドラマは相当な準備が要るものらしく、今の時点ですでに、誰を題材にするかや主要な演者を誰にするかは決まっているらしい。
その中に、蓮井さんの顔もあった。
「本当だ。〈銀河くん〉ですね」
高浜さんが言った通り、以前、私も手伝わされた〈銀河〉のマスコット〈銀河くん〉のショーで、着ぐるみの中身を務めてくれた流しの旅芸人。その人が地元出身の役者として、紹介されていたのだ。
「有名人って、意外と近くにいるものなんですねえ」
私は感心して言ったし、社長も高浜さんも「なあ」「ねえ」と頷いてくれはしたけれど、言ってから自分で自分の発言に疑問が湧いた。逆なんじゃないだろうか。有名人がたまたま近くにいたというより、たくさんの知り合いがいてたくさんの人脈を持っている人が、必然有名人になっていくのではないか。ひょっとすると今、全国で同じように書店を覗き込んでは蓮井さんの顔を見て、同じようなことを呟いた人がたくさんいるかもしれない。
何にせよ、めでたいことには違いない。
ひとしきり、もう年が明けてしまったかのように「めでたい」「めでたいですねえ」「めでたいです」と言い合って、後は思い思いの方向に散っていった。高浜さんは漫画のコーナーへ。社長は雑誌のコーナーへ。私はそもそも久しぶりに入った書店のレイアウトの様変わりっぷりについていけず、一旦うろちょろしてみることにした。
本を読む方かと問われれば、まあ、普通だ。
昔はよく図書館に通ったりもしたけれど、朝読書の習慣がなくなった高校あたりから急に読む量が減った。高校に入るとお小遣いの使い道も他に出てきて、じわじわと趣味の優先順位表から後退していく。そうして読書傾向の更新が中学生くらいの頃で止まってしまったので、今の自分にどういう本が合っているのかわからない。わからないので手に取らない。いっそこういう『アニメ映画になりました』と書かれているような文庫本を手に取ってみるのもいいだろうか。社長からは「日中暇なら本でも読んでていいぞ」と言われているし、いざ勢いをつけてみれば、案外するするまた趣味を取り戻せるのかもしれない。
と、考えごとをしていると、文房具のコーナーまで来てしまった。
そういえば、とそれで全く関係のない方向に思考が飛んでいく。バックルームにホワイトボードがあると伝言板として便利かもと思っていたんだった。残念ながらここにはホワイトボードはないようだけど、今度〈銀河〉を巡って探してみてもいいかもしれない。あと、そうだ。壁掛けといえばカレンダーもだ。小さいのはこの間貰ったから――
「どうせまた貰えるからいいぞ」
いつの間にか、隣に社長が来ていた。
「自宅用か。なら、余ったの要るか」
「いや、大丈夫です。プラネタリウム用のつもりだったので」
そうか、と社長は頷く。文房具コーナーを改めて見て、
「あ、そうだ。手帳」
と呟いた。
社長がそのまま歩き出すのについていくと、手帳だけが別で特設コーナーを作られていた。へええ、とそのカラフルな陳列に感心しながら私は、
「社長って、結構アナログな人ですよね」
「物体と機能は結び付いていた方がいい。特にこういう予定管理のツールは、何でも同じデバイスで管理しているとかえって作業状態が散漫になるし、漏れも出やすい」
と口では言うものの、社長は加湿器と除湿器と空気清浄機を別で買って持っている。何となく多機能一体型というものに対して反感があるのではないかと私は睨んでいた。そう考えると、我らがプラネタリウムがいつまで経ってもお食事もできるお洒落なカフェ付きレジャースポットに変貌しないことにも納得がいく。ちなみに、ここの書店はカフェが併設されている。最近はこのタイプでカフェが併設されていない方が珍しい気もする。全てがカフェになる時代だ。
うーむ、と社長が悩んでいるから、横から口を出した。
「何か選ぶときの決め手ってあるんですか。好みとか」
「大体は自分のビジネスのスケジュール感に合わせるだろうな。一週間単位か、一月単位か。どのくらい一日当たりに書き込むことがあるか……。後はもちろん、サイズ感も。持ち運びやすいに越したことはない」
「デザインは?」
「あるらしいな、流行色とか。気にせず派手な色のを買うことが多いが」
「その理由は」
「どっかに行ったとき探しやすいだろう。黒が一番無難に見えるが、あれは鞄の中に突っ込んでおいただけでも見失う。机の上に放ることも多いから、何より紛れない色がいい」
社長の手帳がギンギラな理由がここで解明された。
「手帳ですか」
すると、結局高浜さんも現れてまた三人勢ぞろいしてしまった。ああ、と社長が頷く。年末ですもんねえ、と高浜さんもコーナーを見てしみじみ言う。
「あれ、」
しかし、その直後、
「いいんですか、社長。一月始まりで」
と言う。
私は何が問題なのかわからず黙っておく。二人の会話を横で聞くうちに、その意味が徐々にわかってくる。年度区切りの仕事をしている人は、一月始まりで十二月終わりの手帳より、四月始まりで三月終わりの手帳を買うことが多いようだ。社長が自分のこだわりについて語り始めるのを聞きながら、私も一度くらいは紙の手帳を使ってみようかなと考える。陳列をぼんやり眺める。
『変わり種手帳』と書かれたコーナーがあった。
何がどう変わっているというのか。興味本位でそのうちの一つを手に取って、中身を開いてみる。
日付がなかった。
「へえ。今ってこんなのもあるんですね」
てっきり手帳を使う人たちの間では有名なのかと思ったけれど、二人の反応から見るに、そんなことはないらしかった。
なんだこれは、と社長は首を捻る。高浜さんはもう手帳を使っていた頃の記憶を遠い彼方に飛ばしてしまったのか、今はこんなのがあるんですね、と私とほぼ同じような感想を述べている。
変な手帳だった。
日付がなくて、代わりに一ページに一文ずつ、文字が書き込んである。たとえば、こんなの。
『誕生日』
『仕事初め』
『有給休暇』
何となく、意図するところはわからないでもない。
「先にイベントがあって、そこに自分で日付を入れ込む形なんですね」
「絶対使いづらいだろ」
ごもっともなことを社長が言う。が、現にこうしてどこかの企業が自信満々に売り出しているのだから、何かしらの利点はあるはずだと思う。ちょっと考えただけでも、たとえば『誕生日』の欄に自分のものだけでなく人のものを並べておいて一覧性を持たせるとか、それこそ『有給休暇』のところに予定日を書きこんでおいて、日数の管理をするとか……後は、何だろう。
他にも何か使い道があるはず、とさらに奥のページをめくってみた。
『自分へのご褒美』
『昇給』
『思わぬ収入』
手帳を閉じる。まじまじと、その帯に書かれた言葉を読んでみる。
占い手帳、と書いてあった。
「合わせ技だな」
と社長が言った。
「普通の手帳というより、自己啓発に近いものがあるんじゃないか」
「この日までには昇給するぞって? まあ確かに、締め切りがあった方が人は動くような気はしますけど」
「でも、それにしたって強気ですね」
強気というか、と高浜さんは怪訝な顔で、
「『思わぬ収入』って、もう予定管理の概念を外れてませんか。意図して起こすなら、それってもう『思わぬ』ではないですし」
だから占いなのかな、と呟く。変な手帳だなあ、と私は思う。
社長がぽつりと、
「売れるらしいからな、この季節」
「これがですか?」
「いや、占いが」
無言で社長は親指を立てて、くいっと自分の後ろの方を指し示した。高浜さんと二人でそっちを覗き込んでみると、確かにあった。占いコーナー。『来年のあなたの運勢を占う!』と無数の本が並べられている。何なら、手帳とだって遜色ないくらいのバリエーションで。
「へー……。私、買ったことないです。高浜さんは?」
「僕もないです。あ、全然関係ないんですけど、前から気になってたことがあって」
「何?」
「朝のニュースで星座占いとか血液型占いってやってるじゃないですか。あれって誰が占ってるのかなって。専属占い師とかいるんですかね」
全然関係ないということはない気がしたけれど、そう訊かれても「さあ……」と首を傾げるほかなかった。確かに、言われてみれば誰が占ってるんだろう。子どもの頃は、占い関係のものは全部、天から降るお告げみたいなものだと思っていた。天気予報みたいに。
「占いって、みんな信じてるんですかね」
高浜さんはこう答えた。僕、なんだかんだ星座占いで気分が上がったり下がったりしますね。あんまり信憑性があるとは思ってないんですけど、何となく。
社長はこう答えた。対面なら対話術や観察眼で人生相談に持ち込めるから、当てようと思えば私でも当てられる。そういうのが霊感商法の入り口にもなったりして厄介ではあるんだが、まあ、どうなんだろうな。ああいう本が売れるということは、結構信じられているんじゃないか。
「ただ、その手帳は占いというより、ちょっとスピリチュアルの入った自己啓発グッズという方が近そうだな」
買うのか、と訊かれる。
特に自己を啓発してどうこうしようという気持ちは、私にはない。が、漫画を買いに行くと言ったはずの高浜さんがよく見ると会計関係の本を小脇に抱えているのを目撃し、格好だけでもそうした方がいいのかもしれないという思いに駆られた。
「買ってみようかな」
安かったから、というのもある。
◇
そうして年末年始は、穏やかに過ぎ去っていった。
私は家でお雑煮を食べてだらだら起きてだらだら寝て、お笑いの番組をぼんやり見るという昔ながらの生活を送った。その番組に知った顔の芸人さんが二人出てきたので、私の中で『有名人はみんなの知り合い説』が補強された。そのまま一週間が過ぎて、仕事初め。
「そういえば、手帳は使ってるんですか?」
と高浜さんに言われるまで、私はその存在を忘れていた。何なら、言われてからも少しの間、一体何の話だろうと思っていた。
ほらあれ、と言われて、あああれね、と思い出す。鞄の中を漁ってみると、恐るべきことにまだ包んだ紙袋を開けてすらいないそれが出てくる。この時点で私の今年の自己啓発は望み薄のように思われたけれど、巻き返そうという気持ちもあった。
開けて、
「『思わぬ収入』に今日の日付を入れておこう」
「えぇ……。そこから埋めるんですか」
しかも今日なんですか、と言われつつも堂々私はその数字を書き込む。もう退勤の時間帯だから、あまりだらだらとやるつもりはなかったけれど、一応他のページも改めて見ておいた。
『運命の出会い』
『好待遇での転職オファー!』
『応援しているチームが快勝』
『宝くじが当たる』
思ったよりも、他力本願のものが多い。
「何このびっくりマーク」
「あ、バツ付けちゃった」
「いや、ここより好待遇の職場ってないから。間違って書かないようにあらかじめ消しておこうと思って。でも宝くじは欲しいから書いておこう。これも今日だね」
「買ったんですか?」
「買ってないけど」
しかし夢を見るのは自由だ。願いの大きさを込めて、一ページ埋め尽くすくらいの大きさで日付を書き込んでおく。よし、これで二ページは使った。これならしっかり使い切って自己を啓発し切る日も近い。
ノックの音がした。
扉が開いて、冬の空気をたっぷり外で吸い込んできたらしい。全体的に冷えた感じの社長が入ってきた。
「あけましておめでとう」
おめでとうございます、と私たちは口々に言う。社長の手には、また例のスープ専門店のテイクアウトがぶら下げられている。もうちょっとで制覇だな、と社長は今年最初の差し入れを机の上に置く。
マフラーを取りながら、私の期待に満ちた視線に気付く。
それから一言も発することもなく、私の手の中にある『占い手帳』を見て、その意図を察したらしい。
「お年玉なら毎月ちゃんと出してるだろ」
「あれは給与です」
とは言うものの、別にこの年になって本気でお年玉をねだろうとしているわけではなかった。大人しく引き下がって、スープというよりシチューみたいなスープを飲みながら、「思ったよりも運に頼る項目が多い」と話をする。
ふうん、と社長は頷いた後、ああそうだ、と思い出したように言った。
「宝くじなら、買ってなくてもあれがあるだろ。年賀状の」
このご時世には珍しく、この職場ではいまだに年賀状のやり取りが行われている。
別にこれは社長のこだわりとかではなく、何となく習慣化したものだ。今回私がこうして手帳を使っているのと似たような流れが以前に発生し、それがその年だけで終わらず、今も続いている。
そして実は、ああいう年賀状に使う葉書にはお年玉くじというものがついており、宝くじのように数桁が合致すれば賞品やお金が貰える仕組みになっている。
「ああいうのって当たるんですか?」
「さあ。でも、折角手帳に書いたんだから確かめてみたらどうだ」
「あ、当選番号の発表はまだみたいです。来週……再来週かな?」
「じゃ、当たった分は三人で山分けだ。それなら当選確率三倍だぞ」
いいですよ、と私は頷いた。
この時点ではいつもの他愛のない雑談のつもりだったけれど、なんと本当に当たった。
それも、お互いに出し合った計六枚が、全部。
◇
空前の大ヒット商品というわけではないけれど、口コミからじわじわ売れ始めているらしい。実際、高浜さんが見に行ったときはもう在庫も残り少なくなっていたそうだ。
「本当に当たるんですかね」
「気分の問題じゃない?」
しかしその一方で、そんなレア商品を事前に手に入れるほどアンテナを高く張っていた私はといえば、別にそれから有効活用しているわけではなかった。バックルームの机の上に投げ出して、そのまま。占いどころか手帳としての意味すらない。今は年賀状くじで当たった豪華賞品をどう美味しく食べるかの方に、だいぶ集中力を持っていかれている。
本当に当たったときはびっくりしたけれど、社長が横で「まあこういうこともある」と言ったから、すぐに冷静になってしまった。
「宝くじを買ってもないのに『宝くじが当たれば』と願い始める人間は結構いるが、お年玉くじならそういう人間でも当たる可能性があるだろ。そりゃあ、百人も千人も買って使っていれば誰かは当たる。その誰かが、たまたま私たちだっただけだ」
手帳の最初の方にその項目が載っているのもまた憎い仕掛けだなと言われれば、見かけのマジックも解けてしまって、残ったのはただの使いづらい手帳だった。しかし、別に毒にも薬にもならないものなら、避ける理由もない。高浜さんがお昼に話題に出したので、私は久しぶりにそれを手に取った。
「次は何にしようかな。何がいいと思う?」
「何があるんでしたっけ」
「『運命の出会い』とか」
「じゃあそれにしましょう」
高浜さんも言うほど興味はないんだろうな、と思った。
とりあえず今日の日付を書き込んでみる。他のページをめくってみる。『飲み会』『待望の新作が発売するなんて!』『ライブ』『旅先で素敵な出会い』『セール中』……項目ごとの言葉の感じも統一が怪しい気がする。もしかするとこの手帳は、販売元の会社内で従業員それぞれに付箋でも渡して、書かせて、かき集めて、それをそのまま載せているんじゃないだろうか。あと、『旅先で素敵な出会い』は『運命の出会い』と役割が被っている気がする。こっちは運命じゃない方の出会いなのか、それとも『思わぬ収入』と『宝くじが当たる』みたいに、まとめてしまってもいいようなものなのか。
『病院』とか『美容室』の項目は周期管理なんかに使えそうではあるなと思いつつ、私は手帳を閉じる。珍しく自分で作ってきたお弁当を高浜さんのと見比べて、そういえば本屋さんにレシピ本とか売ってるよね、ああいうのどうなんだろうと話す。レシピに載ってる調味料って大体持ってなくない、と零すと、逆に調味料を先に揃えた方が楽ですよと言われる。味付けのパターンを何個か覚えておけば、後は具材を入れ替えるだけでいくらでも料理に幅が出せるので。そういうものなのか、と感心した。買ってきた調味料を使い切れるほど料理をする人は着眼点が違う。
仕事が終わる。
結局特に何の出会いもないまま一日が終わった、と言うと、高浜さんは、
「わかりませんよ。宝くじだって後から当たってたのがわかったじゃないですか。今日来たお客さんの中に、運命の人がいたかもしれません」
「もう何でもありだ」
あはは、と二人で笑いながら戸締りをして、外に出る。高浜さんが言う。
「もしかしたらこれからすれ違う人の中にいるかもしれませんし。もうちょっと歩いてから帰ってみるのもいいんじゃないですか」
「高浜さんも買った方がいいよ、この手帳。そんなに信じてるんだったら」
「いやあ、でも僕は――」
「三階堂さん?」
声を掛けられた。
「奇遇ですね、ってそんなこともないか。ここで働いているんですもんね」
見たことがある顔だった。
しかも最近、本屋さんで。
「……どうも。お久しぶりです。どうしたんですか、今日は」
「外回りといえば外回りです。ちょっと再来年の……いや、もう来年か。その仕事に向けて、ちょっと挨拶回りをしていて」
「大河ドラマですか?」
「お、ご存知でしたか。光栄です」
「本屋さんで見ました。おめでとうございます」
「ははは、今から夢も膨らみますよ。なかなかね」
ちょうどさっき書店さんにも顔を出してきて、と彼――蓮井さんが言う。そうだ、と続けて、
「三階堂さんって、来週再来週くらいでどこか暇な日ってありますか?」
嘘を吐く理由もなく、私は素直にその質問に答える。二、三、のやり取りがある。予定が決まる。蓮井さんが「お、紙の手帳だ」と微笑む。
去っていく。
隣で高浜さんが、私の手帳を見ている。
僕も買おうかな、と呟く。
◇
いくつかの法則性が見出されつつあった。
私と高浜さんの日々の研究の成果として。
まずは単純に、『日付以外は書き込んでも意味がない』ということだ。たとえば、『思わぬ収入』の欄に『三兆円』と書き込んだとしても何の意味もない。『二千円』も意味がなかった。確かに『思わぬ収入』が入ることは確かなのだけれど、その金額はまちまちだし、そもそも現金でないことだってある。
また、実際に効力が発揮されるのはその指定された日のうちとは限らない。私の『宝くじが当たる』が後になって当選が発覚したように、きっかけが発生したに過ぎない場合もある。書き込む当日の日付を指定した場合は、かなりの場合できっかけのみが発生し、書き込み時刻が十八時以降だと、きっかけすら発生しない場合も多い。
そもそも効力を発揮しない項目もある。
『美容室』とか『病院』とか、具体的にその場に行かないといけないものは、まず関係がない。が、一度だけカットモデルの声掛けはされた。あまりこのあたりはよくわからない。しかし私たちは特段研究者というわけでもないから、こうやって実験を続けているうちに、何の根拠もなければ裏付けもないある体感を、事実として受け取るようになる。
『願いごと系』の項目なら、七割くらいは何かしらの形で叶う。
素人がここまで確かめられるようなものが噂にならないわけもなく、今や、在庫は取り合いだそうだ。
◇
毎日同じ生活をしていると、どんどん服を買うのが億劫になってくる。どうせ毎日顔を合わせるのは同じ人だし、見栄を張る段階も過ぎて服のローテーションまで露骨になっているし。ちょっとどこかに寄るにしても全部〈銀河〉の中で完結して、家の近所を散歩しているような気分が抜けないし。
という話を高浜さんとして、せーので同じ日付を書き込むことにした。項目は『素敵な一着に出会えた!』多少値が張っても一着は買いましょう、とお互いに誓い合って退勤。
もうすっかり私たちは、この手帳を使いこなしていた。
まさに『占い手帳』だと思う。しかも、占いの結果とタイミングを自分で操作できるのだから、便利なことこの上ない。
ただし本当の詳細部分まで自分で決められるわけじゃないから、この『素敵な一着』がとんでもない値段をしている可能性もある。高浜さんにはああ言ったけれど、いざとなれば尻込みするかもしれない。そういう懸念もありつつ、まずは三階のお店から巡っていこうと考える。
そうしたら、顔を合わせて、声も合わせた。
「あ」
「あ」
そこに立っていたのは、浦々さんだ。フードコートの前。これから出勤なのか、それとも単にここに遊びに来ていただけなのか。詮索するのは後にして、一旦私は、記憶を探ってみる。
「あけましておめでとう……だよね?」
「そう!」
訊ねると、勢い込んで彼女は頷いた。頷いて、「あ、おめでとうございます」と頭も下げてくるから、私も「おめでとうございます」と改めて頭を下げて、上げると「もうさー!」とまた勢いが戻っている。
「聞いて! もう今年、のっけから最悪だった!」
何かあったの、と訊くと、それがさあ、と彼女は誰かに話したくてたまらなかったのか、あるいはもう何度も人に話して慣れているのか、まくしたてるように語り始める。
クリスマスと年末年始は時給が高くなるというので喜んでバイトのシフトに入った。そうしたらシフトの人数は少ないのにお客の数が多いのなんの。トイレには人がいつもいたからその心配はなかったけれど、疲労困憊で結局全然冬休みは休んだ気がしなかった冬休みなのに、と。
ぬくぬく家で休んでいた身としては、自分より年若いこの子どもが社会の機能維持のために身を粉にして働いていることが不憫でならなくなり、同時に感謝の気持ちも芽生えた。
というわけで、鞄の中に私は鞄の中からそれを取り出した。
「じゃあこれ。頑張ったからお年玉」
現金ではない。
社長にお年玉をせびったときに、そういえばと思っていたのだ。浦々さんあたりに会ったら、何かしら大人としてそういうものを渡すべきなのかと。しかし血縁関係のない未成年を相手に現金の受け渡しは色々と厳しいものがある。そうこう考えているうちに、そういえばこんなものもあったなと思い出して、鞄の中の取り出しやすいところにしまっておいたのだ。
カフェのドリンク一杯無料チケット。
十一月から十二月にかけてだらだら通っていたら、キャンペーン中だったのかなぜか貰えた。一月くらいに新商品が出るという噂も聞いたので、そのときに使おうと思って取っておいた。しかし、最近は年賀状宝くじの賞品の消化で忙しく、自分で使う暇もない。
それなら有効活用してくれそうな若者へのプレゼントにした方がよっぽど有意義だろう。これならまあ、現金と違ってそんなにマズいところもないし。多分。
「え!」
と浦々さんは目を丸くする。
「いいんすか!?」
いいんすよ、と差し出すと、うおお、と震えるような声と手つきで浦々さんがそれを受け取る。それだけバイトを入れていた割にはチケット一枚に随分な喜びようだなと思っていると、
「ほんとに当たるんだ……」
と言う。
言葉の意味を読み取ろうとすれば、それよりも早く「あ」と浦々さんは察してくれた。実はですねと今度は向こうが鞄に手を入れる。
「じゃーん」
そして、すごく見慣れたものを取り出した。
「これ知ってます? 今すっごい流行ってるんですけど、でも三階堂さんはこういうのあんまり信じないタイプか」
これって、と彼女がめくるのは、『占い手帳』だった。
「こう、何個もイベントが書いてあって、そこに日付を入れるんですよ。そうしたらそのイベントがその日に起こるっていう。久しぶりの出勤だったんで、この『思わぬ収入』ってやつに今日の日付を書いてたんですけど」
へへ、と笑って、
「ほんとにお年玉貰えちゃってラ……」
ッキーじゃないわ、ありがとう三階堂さん。
と幸せそうに笑って、彼女は言った。
私は、試しにどこの衣料品店にも寄らずに帰ってみようと考えた。
けれどエスカレーターで下って行った先、視界の端ですごく好みの服を見つける。そのまま立ち去ろうとすると、高浜さんと鉢合わせをする。彼はもう服の入った紙袋を両手に持っている。ルール違反を咎められたような気持ちになって、私は結局その衣料品店に入る。サイズを確認して、じゃあこれをとお願いする。レジまで持って行ってもらって、包んでもらっている間に私は訊ねる。
「これ、知ってますか?」
手帳を取り出すと、「ああ、はい!」と勢い込んで店員さんは答えた。
「お客さんも持ってるんですね! 私もこの間、何とかギリギリで駆け込みで買えたんです」
当たりますよねえ、と嬉しそうに彼女は言う。
ほとんど確信のような気持ちを抱えていた。答え合わせをするまでもないように思えた。それでも、私は訊ねてみた。
「ちなみに、今日の日付はどこの項目に入れました?」
店員さんは、曇りのない笑顔で答えた。
「『商売繁盛』です」
◇
「いつもより可愛いか? 二人とも」
と、プラネタリウム閉業後、社長は私たちをまじまじと見た。
差し入れがなかったのは、全員が全員まだ年賀状くじの賞品の消化に忙しいのがわかっているからだと思う。珍しく手ぶらで来た彼女は、しばらくじっと悩むと、
「わかった。服が新しい」
当たりです、と高浜さんは笑う。
「良い機会なので、二人一緒のタイミングで新調してみたんです」
「良い機会?」
はい、と高浜さんは頷くと、もうすっかり私より手帳を使いこなしているらしい。すぐに取り出して、社長に見せる。
「これを使って良い服を探してみたんですよ。おかげで……っと、すみません」
けれど、そこから珍しく慌ただしく動き始めた。
別に、大して遅い時間でもなかった。六時ちょっと過ぎ。それでも彼はそそくさと荷物をまとめて、
「ちょっと今日、これから予定が入ってて。お先に失礼しますね」
「ああ」
今日もお疲れ、と社長が言う。お疲れ様でした、と私も挨拶を重ねる。扉が閉まる。「三階堂は?」と社長が訊ねる。
「はい?」
「予定があるんじゃないのか。だったら退勤の戸締りは私がやっておくから大丈夫だぞ」
気を利かせてくれたらしかった。けれど、予定があるのは今日じゃない。大丈夫です、と答える。続けて、予定があるのは来週で、と伝えようとする。
「にしても、上手いこと売ったものだな」
けれど、そういう風に社長が言うから、そっちの話に先に乗ることにした。
「手帳ですか?」
訊ねると、ああ、と社長は頷いて、
「服は冬の初売りセールがあるだろ。ちゃんと予定として服を新調する日を設定しておけば、何かしら良いものとは出会える。そうやって書くということは、少なくとも買う気はあるわけだからな。その第一関門が突破できたら、品物が魅力的に見えるまでの距離はそう遠くない。その手帳も、よく考えられてるよ。その使いにくさだと、精々使われて一月と二月だ。その間に起こりやすいイベントを項目として書いておけば、かなりの確率で当たるようにできてる。その間に噂が広まれば、一気に売り抜けることもできる。その手帳に限らず、占いっていうのは人の心理に詳しいから、ビジネスにも応用が利くのかもな」
年賀状くじのときと同じだった。
あっさりと社長は、こういう出来事に理屈をくっつけてしまう。だから私も、重ねて訊いた。
服屋さんが、商売繁盛の願いごとを。
「それこそ冬のセールだろ。誰かしらは買っていく」
知り合いの高校生が、思わぬ収入を。
「高校生が久しぶりにバイトに出てきたんだろ? そりゃあ新年なんだから、何かしらお年玉を貰えることもあるだろ。私だって従業員にクリスマスと年末年始まで働いてる高校生がいたら何かしらは渡すぞ」
私が、
「ん?」
とは流石に言えなかったから、頭の中、自分で店長の代わりを務めることにする。
年が明けたらそりゃあみんな挨拶周りやら何やらに動き回るし、これからの予定を組むことだってある。有名人と突然予定を組めちゃった、というわけじゃなない。色々な人と予定を組むのが、有名人なのだ。
「社長って、」
そうやって自分でできてしまったから、別のことを訊いてみることにした。
「誰かに自分が動かされてるって思ったこと、あります?」
「あるだろ。生きてれば」
「そういうことじゃなくて」
「私の今日の夕飯はハンバーガーだぞ。さっき〈火星〉のところの一番大きいモニターでCMが流れてたから」
「え。社長、年賀状くじのもう食べ終わったんですか?」
「あんなに一気に食えるか。適当に周りに配りながら、じっくり食べられそうなものだけ残したよ」
そうですか、と私は頷く。それから、何だか座っているのが億劫になって、ずるずると机の上に突っ伏した。
「そんなものですかねえ」
そんなもんだ、と社長は簡単に言ってのけた。
一緒に飯行くか、と訊かれて、いいえ、と答える。今日はハンバーガーの気分じゃないんです。すっかりハンバーガーの気分らしい社長は、深追いすることなく「気を付けて帰れよ」とだけ言い残して、去っていく。
しばらくぼーっとしてから、私も退勤することにした。
社長が年賀状くじの賞品をのんびり消費していると聞いて、私ももう、帰って家にあるものを食べる気はあまりなくなっていた。さようなら自炊生活、と今年最も長く続きそうだった自己啓発に別れを告げて、久しぶりの外食先を探す。立ち止まる。
スープ専門店。
外からメニューを眺めていると、ふと、見慣れないものが一つだけあることに気が付いた。
入ってみる。訊いてみる。これって新しいメニューですか。いいえ。その答えでわかったのは、社長が差し入れに持ってこなかったスープが一つだけあったこと。たまたまそれだけ忘れていたのか、その前に社長の中でブームが終わってしまったのか、あるいは一人でお店を訪れたときに、私たちに断りもしないで勝手に食べてしまったのか。
「じゃあ、それを一つ。あと――」
頼みながら、こういうことなのかもしれないな、と私は思った。
フードコートで食べるには少し席が混んでいたから、プラネタリウムまで戻ることにした。もう一度鍵を開けて、バックルームに立てこもる。早速、それを味わってみる。
まさにスープという味の、海老のビスクだった。
これが付け合わせのパンとも合っていてなかなか美味しい。すでに部屋の暖房は切った後で、室温は薄寒くなっていたけれど、むしろそれがちょうどよかった。すぐに飲み干して物足りなくならないようにと、私はゆっくり晩御飯を食べ進める。
ゆっくりだったから、他のことを気にする余裕がちょっとだけあった。
置きっぱなしにしてしまっていたらしい。机の上に『占い手帳』が投げ出されていた。片手でつまんで、ぱらりと捲る。危ない危ない、と思ったのは、勝手に書き込まれたらどうなるんだろうとちらっと頭の中に浮かんだから。よく見れば、とんでもない項目もいくつかある。
『ダイエット』くらいはまだいいかもしれない。前提として太っているのがちょっと気になるけれど、まあ、そんなに無理をしなければ身体に悪いことではないだろうから。でも、『手術』はどうだろう。そこまでしなくちゃいけないような怪我や病気があるのは怖い。
消してみよう。
項目に取り消し線を引いて、念のため大きくバツ印もつけておく。
こうして見てみると、要らない予定はいっぱいあった。『ペットとの出会い』飼う予定なし、削除。『登山』登る予定なし、削除。『勝訴』裁判の予定なし、削除。『投資の説明会』『マイホーム購入』『引っ越し』『憂鬱な気分を発散、散財の日♪』『運転免許取得』『試験に合格!』『新車購入』……ここなんかすごい。『結婚』『出産』ページを捲って『お葬式』急転直下にも程があるし、どれも他人に決められるようなことじゃない。神様にだって決められたくない。削除。
『商売繁盛』
ぴた、とペンが止まったのは、これならと思ったからだ。
これを平日の何でもないような日に設定しておけば、社長も理屈を付けられまい。だって、このプラネタリウムで発生する自然な『商売繁盛』と言ったら、近くの小学校でそういう課題が出たとか、遠足の行き先に使われることになったとか、そういうものしかないのだから。大体いつも、どのくらいの時期にそういう連絡は来ていたんだっけ。手帳を付けて管理していないからわからない。
いいや、消しちゃえ。
取り消し線を引いたら、そのあまりの絵面に「なんてとんでもない従業員なんだ」と自分で面白くなってしまった。もうこうなったら、どこまでも止まらない。迷うことなく、全部消してしまうことにした。
なかなか消すには心苦しいものも中にはある。たとえば『お花見』とか。去年は社長の車に乗って夜桜を見に行ったりもしたのだ。でも消す。『失せ物見つかる』なんかは仕事で役に立ちそうだし、持っておくと便利そうな気もする。でも消す。『株で爆益』なんかはもう、説明不要だろう。でも七割当たって三割外れるなら、そんなのギャンブルと同じだ。投資家なんて仕事――本人曰く仕事ではないらしいけど――をしている社長の気が知れない。消す。『カフェで一息♪』『待ち人来る』『エステ』『ゴルフ』『新作ゲームが発売』――
『運命の出会い』
もう一度ペンが止まったのは、二重線を引いてからのことだった。
ちょっとだけ、私は考える。それから紙の上でペン先がくるくると回る。インクが模様を作る。やがてそれが文字になって、こんな言葉を紙面に浮かばせる。
『でも、誰に決められるかくらいは、自分で決めます』
電話が鳴った。
静かな部屋だったから、びっくりした。表示されている名前を見る。通話開始のボタンを押して、すぐにスピーカーにもする。
「もしもし」
「蓮井です」
知っていた。
すみません今大丈夫でしたか、と彼は言う。大丈夫です、と私は答える。食べながらで大丈夫ならですけど、と付け加えると、お食事中すみません、とやたらに低姿勢で来る。
「あの、来週の食事の件なんですが……」
「別の予定が入りましたか」
「いやいや! 自分から誘っておいてそんなことは! ただですね。こういうことを自分から言うのもどうかと思うんですが、最近注目度が上がってしまって。身の回りに気を遣うようにと色々周りから言われたんです。有体に言えば、私生活を追われ始めているというか。特に――」
「一般女性の方とは」
「……はい。申し訳ありません」
芸能人は大変ですね、と私は笑って言う。その言葉の調子に気が休まったのか、本当にすみませんともう一度、今度はどこか情けない調子で蓮井さんが謝罪の言葉を述べる。そんなの気にしなくていいですよと言えば、かえって蓮井さんは、この埋め合わせは必ずと、おじいさんに罠を外してもらった鶴みたいなことを言い始める。
これから私はそんな彼に、奇妙な手帳の話を始めるだろう。
そして明日になったら、社長と高浜さんに、例のスープ専門店の最後のメニューを制覇したことを報告し、その達成感を共有したりするだろう。
でも、もちろん相手がいる話だから、必ずしもそうならなくたって構わない。
「実は――」
と、私は口を開いた。
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