当ショッピングセンターは本日も営業しております。

quiet

どこにだって行けるよ



「あら偶然。お名前、二階堂さん?」

「いえ、三階堂です。一、二、三、で三階堂」


 名前を間違えられることにも、それを訂正するのにも慣れていたし、何より、突然に話しかけられることにも慣れていた。


 それほど自分では話しかけやすい外見をしているとも思えないから、理由は全く以て謎だ。しかし、子どもの頃からずっとそうだから、そういうものと受け入れるほかない。同級生の間で『保育園で一番最初にできたおともだち』と言ったらもっぱら私のエピソードばかりが出てくるし、中学高校では部活も出身も何の被りもない後輩から廊下で「先輩、先輩」と声を掛けられることもしばしば。用あって東京に出たときは電車を待つあの信じられないほど僅かな時間に当然のように道を訊ねられ、海外旅行は、それが怖くてまだ行ったことがない。流石に異国の言葉で訊ねられて、異国の地を案内できる気はしなかった。


 それでも自分の職場のこととなれば、ある程度は自信があるはずだった。


「ニじゃなくて、ミカイドウさんね。ごめんなさい。もうこのとおり年寄りだから、名札を付けてもらってもよく見えなくて」

「いえいえ。珍しい苗字ですから、電話口でもいつも苦労するんですよ。それで、四階をお探しに?」


 現代日本には、似たような街がいくつもある。

 国道があって、その通り沿いにファミリーレストランや自動車販売店、リサイクルショップやガソリンスタンドが並んでいる。そこからちょっと離れたところにそこそこ大きな、導線のごちゃごちゃした駅があって、何だかよくわからないたくさんの乗り場のうちのひとつから、直通のシャトルバスが出る。


 そのバスは、大型ショッピングセンターに繋がっている。


〈銀河〉というのが、そうして辿り着くことのできるショッピングセンターの一つであり、私の職場だ。


「ええ。お手紙が来たんだけどね」

 そう言って、彼女は手提げのバッグの中から一枚の葉書を取り出した。


 ひどく達筆で、さっと目を通しただけでは読み取れない。しかし、む、と眉間に皺を寄せるようにすれば『同窓会』の文字が読み取れて、後はもう、芋づる式に。


「ああ、本当ですね。会場は『四階』って書いてある」

「そうなの。それでずっと探してるんだけど」


 見つからなくてねえ、と溜息のように呟くのは、少し背の曲がり始めた、歳は八十は過ぎているだろうかという女性だった。髪の感じも服装も品が良く、いかにもこの日のために準備してきたのだと伺える。


 さっと道案内してあげたいところだけれど、困った。


「三階までしかない……と思いますね。ここが最上階で」

「やっぱりそう?」


 何度も案内板を見たのだ、と彼女は言った。

 シャトルバスから降りて最寄りの自動ドアから入って、すぐ傍に案内板があった。しかしそこには三階までの表記しかない。とりあえず吹き抜けのエスカレーターに乗ってみたけれど、やはりそれもこの階から先がない。もしかすると建物の南側だけに四階があるのではないかとか、あるいはその逆、北側だけにあるのではないかとか、そんなことをうだうだ考えながらこのだだっ広いショッピングセンターを何度も往復した。


 とうとう奥の方に、三階より上へと続くエスカレーターを見つけたが、


「そうしたら、急に屋上に出ちゃったからびっくりして。戻ってきたの」

「そうですねえ。集合場所ならともかく」

「うそ。集合場所って書いてある?」

「あ、いえいえ。会場ですね、会場。でも、流石に屋上で同窓会は……」

「やってるのはお姉さんも見たことない?」

「ないですねえ。やるとしたら二階にフリースペースがあるんですけど、そこくらいかなあ」


 でも確か、と記憶を探る。今は〈銀河〉直営子ども服店が小学生向け新生活応援ランドセル靴下裁縫セットお安くしておきますよキャンペーンの出張スペースに使っていた気がする。


「幹事さんにご連絡は?」

「それがねえ。随分久しぶりだったから、向こうの連絡先もわからなくて。地域の人ならわかるんだけど、これが高校のときの人たち相手だから」


 そうですか、と相槌を打てば、そうなの、と向こうも頷く。

 しかしそれから、ふふ、と彼女は葉書を見て笑った。


「何だか話したら、懐かしくなっちゃった。お姉さん、どうもお仕事中にごめんなさいね」

「いえいえ。すみません、お力になれなくて」

「いいええ。お姉さんの言う通り、集合場所かもしれないから、一度駐車場の方に上がってみようと思います」


 どうもありがとうと頭を下げて、去っていった。





「高浜さん、四階って行ったことある?」

「屋上駐車場ですか? 一応、最初の頃には使ったことはありますけど」


 何かありましたか、と訊ねられるのはバックルームでのことだった。


 それほど広くはない部屋だ。跳ね上げ式の長机が長辺合わせて二連結に、折り畳まれていないパイプ椅子が四つ。折り畳まれているのが角に五つ。室内入って左側には背の高いロッカーが並んで、右側には電子レンジと電気ポット、来客用のカップがいくつか。その奥に流し台と小さな冷蔵庫。私は折り畳まれていないパイプ椅子の一つに、自前のクッションを重ねて座っている。


 対面には、同僚の高浜さんが座っている。

 わざわざノートパソコンを打つ手を止めて、話に付き合ってくれていた。


「でもあそこ、夏は厳しいですよね。庇も何もないから、車の中に熱が籠っちゃって」

「そこで同窓会ってやれると思う?」

「……バーベキュー会場にするとか、そういう話ですか?」


 それがさ、と順を追って説明することにした。


 今日も今日とて私は受付に座っていた。すると今日も今日とて道を訊く人が現れる。これは三階の案内カウンターにだけなぜか人員が配置されていないのが原因だと思う。いつになったらあそこの後任が来るのだろう。私の方が高浜さんより数年この職場は長いけれど、実を言うとそんな私でも三階カウンターに人が立っているところを見たことがない。何なら学生の頃から見たことがない気がする。そんなことはともかくとして、今日訪ねてきたのはお年を召された女性の方で、手には高校の同級生から送られてきたという同窓会の招待状を持っていた。そこに、


「あ、なるほど。それでいきなり四階の話を。びっくりしました。何かイベントでも始めるのかと」

「やってるんだっけ。あそこ、そういうの」

「やってないと思いますけど、前に僕、大学に通ってた頃にそういう場所に行ったことありますよ。ビルの屋上みたいなところで開かれてるビアガーデン」

「うそ」

「一回だけですけどね。ものすごく暑くて、酔っぱらってないとやってられないって感じでした。すごく汗もかくので、とんでもない量を呑んじゃうんです。上手くできてますよね」


 高浜さんがそういう場に出席しているところが全く想像できない、という気持ちが顔に出ていたのかもしれない。高浜さんはいつものように、ちょっと困った風に眉をハの字にして笑った。


「そのうち〈銀河〉もお客さんが減ってきたら駐車場を減らしてそういうことをするように……って、すみません。全然脱線で」


 話してもらっておいて、そのまま話題を放り投げてしまうのも何だか忍びない。一応私は一回だけ、高浜さんから出てきた話を打ち返しておいた。駐車場が減るころにはバーベキューするような人もいなくなっちゃってると思うけどね。


「それで、一応確認しておきたくて。四階って、知らないよね」

「知らないですね。場所違いか、階数違いかどっちかじゃないでしょうか。気にしてるんですか?」

「まあ。案内できなかったのもそうだけど、同窓会ならもしかしたら、これから他にもうちに訊きにくる人がいるかもしれないでしょ。高浜さんが知ってたら教えておいてもらおうと思って」


 う、と高浜さんが怯んだ顔をする。

 そうか、そうですね、といかにも気後れしたような表情で呟くから、


「高浜さんはそっちのことは気にしなくていいよ。私やるから」

「すみません」

「その代わり経理と保守点検はよろしくね。そっちはてんでダメだから……あ、」


 時間だ、と呟いたのと、時計の針が十七時を指すのはほとんど同時だった。

 二人で椅子から立ち上がる。バックルームを出て、廊下。高浜さんは両開きの黒いスチール戸の方に向かっていって、一方で私はもう少し長くその道を歩いてく。こっちは、片開きの扉だ。


「ご利用ありがとうございました」


 開くと、すぐにいつものお客様が目に入る。

 私よりも背が小さい。小学生の男の子だ。ちょうど帽子を被り直しているところだったらしくて、つばに指をかけて髪をしまい込んでいる。声を掛けるとちょっとだけ、爪先をこっちに向けた。


「……ども」

 ぺこ、と小さく頭を下げるから、こっちも下げ返す。またお越しくださいの言葉も忘れず、その小さな背中がエスカレーターの向こうに消えていくのを見る。


 以上、接客業務終了。

 私が勤めているのは、この程度の仕事で構成されている〈銀河〉三階、寂れたプラネタリウムだ。


 大型ショッピングセンターの突き当たりなんて贅沢な立地を占めているとは到底思えない閑散ぶり。大して目玉になるイベントを企画したりもしないから、決められた映像とナレーションを決められた時間に流すだけ。それを見にくる人たちに笑顔を振りまいて、今時珍しく紙のチケットを発行して千切るだけ。一日の来客者数を真面目に数え上げたりなんかすれば、もうわざわざこんなところに陣取っているのは社長の税金対策の一環だとしか思えない。そうでなかったとしたら彼女の「こういう場所を持つ余裕が世の中になくては」という信念がへし折れたとき、私はまず間違いなく失職する羽目になる。


 そういう危険性にさえ目を瞑れば、楽な職場だ。

 一生これでもいいかな、と思う程度には。


 たった一人のお客様を見送ってからも、しばらくそこに座っていた。常連のあの子はいつもこの時間のバスに乗って帰ってしまうから、午前十時から午後六時までの営業で、この時間帯が一番暇になる。あくびをしたって誰に咎められることもない。最後の上映開始時間までに誰も来なかったら、『本日の営業は終了しました』の看板を出して、施錠をして、今日の仕事はそれでおしまいだ。


「三階堂さん、お疲れさまでーす」


 と思ったら、来た。

 お客じゃない子が。


 最寄りの高校の制服を着た女の子だ。別に趣味で着ているというわけではなく、実際に通っていて、今日も学校帰りらしい。教科書は学校に置きっぱなしなのか、薄っぺらい鞄を両手に、入り口の方からニコニコ笑って、こっちを覗き込んでいる。


「トイレ行きましょ、トイレ」

 はあい、と返事をして、受付を立った。





「普段はどうしてるの?」

「え、なんて?」


 ぶおお、とハンドドライヤーがすごい音を立てているから、もう一度言う羽目になる。


〈銀河〉のトイレは清潔だ。モノトーンのタイル調で、空間が広々していて、いつもぴかぴかにされている。学校や駅、コンビニのトイレなんかと比べてもずっと立派なもので、どこもこのくらいが水準になってくれたらなあと願わざるを得ない。


「学校。友達と?」

「学校のトイレはいっつも誰かしらいるじゃないですか。あ、でも美術室とか音楽室がある方のトイレは普通に怖いかも。誰もいないし」


 私をこうしてそのトイレまで連れ去ってきた高校生は、浦々さんという。全国津々浦々の浦々と書いて、読みは『うらら』。彼女もまた、初対面では難読苗字に生まれついた者らしい手慣れた自己紹介を聞かせてくれた。


 その初対面は、トイレの前だ。

 彼女の通う高校の創立記念日だったらしい日。私はプラネタリウムへの出勤の途中で、彼女もまた、フードコート内のハンバーガーチェーンへのアルバイトに向かう途中。トイレの前でいかにも嫌そうな顔をして立ちつくしているところを発見した。


 彼女のそのときの第一声は、「今からトイレ入ります?」


 それからこうして、彼女はときどきアルバイトの前にプラネタリウムに立ち寄って、私を連れ去るようになった。


「あー、あと放課後も無理。高校は結構居残って勉強してくれてる人がいるからまだいいけど、中学とかはめっちゃ早く帰ってました。放課後のトイレとかもう、夕日差してるじゃないですか。全然無理。気絶する。てか、逆に普通の人って何で怖くないんですか? あたしそっちの方が理解できないんですけど」


 苦手なのだという。


 初対面の後、トイレに付き添わされて、同じくこうして手を洗って乾かして、何となく別れがたくなっているタイミングで聞いた。昔からこういう、人のいないところが何となく苦手なのだと。特に人通りから離れているところがダメで、トイレみたいに無防備なところはもっと。


 というわけで、それ以来こうして、たびたび私は便利に使われている。

 年下の友達というのはなかなか面白いものなので、まあ、悪い気はしない。


「だってどうします? 個室で座ってるときに上見て人が覗いてきてたら」

「昔そういうのあったね」

「えっ。あったんすか」

「怪談で。そういうのなかった? 今はもう流行ってないか」


 あー、と浦々さんは頷いた。


「もしかしてそれかも」

「苦手になった理由?」

「そう……うわ、なんか思い出してきた。あったわそういうの。トイレの花子さんみたいなやつですよね?」

「花子さんってノックするやつじゃない? 『遊びましょ』っていうやつ」

「あれ? じゃあ何と勘違いしてるんだろ」


 でもそんなのあった、と私も相槌を打った。学校の怪談とか、病院の怪談とか、そういうのの中の定番の一つにあったはずだ。夜中、誰かに追われてトイレの中に逃げ込む。入口に近い方から一つずつノックされていく。息を潜めていると、いつの間にか音が止んでいる。助かったと思ってほっと息を吐くと、妙に視線を感じることに気付き、顔を上げると恐ろしい形相でこちらを覗き込んでくる青白い顔……。


「でも、それがなくても怖いですよね」


 思い出し始めたそういう記憶を拭うためだろうか、わざわざ浦々さんは話を広げ始めた。


「そもそも一人になるのが怖くないですか。私、冬のバイト帰りとかにバス待ってるのも怖いっちゃ怖いですもん。人いないとき」

「あー。ちょっとわかるかも。バス停って何もない道端にあるから、ちょっと怖いよね」

「それでトイレなんか逃げ場ないじゃないですか。ていうか色んな人が怖いと思うから怖い話になるんでしょ。ここのトイレだって、隅っこの方なんかもう綺麗じゃなかったらそのまま怪談ですよ、怪談」

「ショッピングセンターの七不思議だ」

「そう、七不思議」


 あったなあそんなの、と呟きながらもうすっかりトイレから出てきている。誰も来ないとはいえ、いつまでもトイレの前で話していないで受付に戻った方がいいだろう。これでも給料は貰っているわけだから。


「え、あるんですかそんなの。もうトイレ無理になるかも」

「ううん。学校のね、学校の」

「あ、学校の……。あたしの小学校にはそういうのなかったなあ」


 けれど別れ際、ふと思った。

 ショッピングセンターの七不思議。


「浦々さん、ここの四階って行ったことある?」


 訊ねれば、きょとんとした顔を返される。四階って、と彼女は呟いて、


「なくないですか? 新しいのできるとか……え、待って。これどっち? 怖い話?」

「知らないならいいや」

「待て待て待て待て。気になる気になる気になる気になる」


 肩に手を置かれて、体重をかけられる。私はこの建物で働く先輩として、そろそろバイト先に行きなよ、とそんな彼女にアドバイスをする。


 プラネタリウムに戻ってくる。人の気配はない。『御用の際はお押しください』のボタンが寂しげに、ぽつんと座っている。


 普段の私と大差はないなあ、とその表面を薄く撫でて、定位置に座る。

 結局、その日はそのまま締め作業になった。




「お疲れ」


 と退勤間際の時間帯に顔を出したのは、このプラネタリウムのオーナーである大瓦さんだった。通称は社長。私がそう呼ぶ理由は単純にオーナーより社長の方がしっくり来るからで、高浜さんがそう呼ぶ理由は、多分私が呼んでるのに釣られて。


 お疲れさまです、とすっかり帰り支度を整え終えた私たちは、しかし大人しく席に着いたままで社長を出迎える。理由は単純で、社長の手には紙箱が握られていて、その表面にドーナツのイラストが描かれているから。


「夕飯ごちです」

「ドーナツだけで済ませる気か? ちゃんと普通の食事も摂れ。そういうのは年齢でどんどん出てくるぞ。私の同級生なんかな……」

「ドーナツ食べてその上ご飯も食べられないですよ。私の健康のことを思うなら買ってこないでください」

「要らないのか」

「そんなことは言っていません。いつもありがとうございます社長様」


 全く、と社長がドーナツを机の上に置く。私は早速それに手を突っ込んで配膳を始める。社長、高浜さん、自分の順番。高浜さんは「恐縮です」と頭を下げながら、ドーナツじゃない方、つまり几帳面な社長が毎回わざわざ買ってくる明らかに割高としか思えないドリンク類の方を振り分けている。社長がコーヒー。高浜さんがアイスティー。私がフルーツティー。特に私の分は奢ってもらえるタイミングでもなければ絶対に頼まないようなぎょっとする値段をしているけれど、今日は奢ってもらえたから特にぎょっとしない。


「疲れた」


 コートを椅子に掛けながら、社長が椅子に座る。今日は話を聞いてほしいモードだな、と思ったから、私ももう少し深く椅子に腰を下ろすことにした。昼間から大して仕事をしていないのに給料を貰っているような状態なので、職場の上司の愚痴を聞くのに何の抵抗もない。というかむしろ、奢ってもらえるのを抜きにしても、社長と話すのは結構楽しいから好きだ。


「今日はどこか行ってきたんですか。よそ行きの服ですけど」

「同級生から久しぶりの連絡が来てな。こっちに戻ってきたから会おうというので、そこそこ見栄を張ってこういう服を着て行ったんだが……」

「はい、わかった。学生時代の憧れの人が見る影もないほど落ちぶれてた」

「私は憧れられていた方だ」

「自分で言う?」

「言う」


 はは、と高浜さんが笑った。む、と社長に目を向けられると、しかし彼もここに来たばかりの頃の様子ではない。そのまま、


「社長に憧れてた人は幸せですね。だって、多分その頃の憧れそのままでしょうし」

「昇給」

「よし」

「お前には言ってない」


 と言いつつ、ふ、と社長は相好を崩した。それから、小石に躓いたことでも報告するみたいに、


「ビジネスを始めるから投資してくれないかということだった」

「あらら。地主は大変だ」

「断ったよ。事業計画が薄ぼんやりとしたたし、私に話を持ってきたのも、友人としての気持ちなのか投資家としての判断なのかわからなかった」


 社長は、この〈銀河〉が立っている土地の一部を持っている。具体的に月いくら入っているのかは知らないが、何たら天文研究所とかいうところで研究員だか研究室長だか(毎回聞くたびに忘れてしまうし、毎回聞くたびに肩書きが変わっている気がする)を務める傍らでこんな道楽プラネタリウムを運営できるのだから、それなりの額なのだろう。


 お金持ちにはお金持ちの悩みがある。

 とは、言わない。


「じゃあ次からは同級生からの呼び出しは全部無視しましょう。解決!」

「…………」

「で、でも確かに、同級生が今何をしてるのかとかって、あんまりわかりませんよね」


 高浜さんが言った。


「僕も、多分今こうしてここで働いてることを知ってる同級生って全然いないです。特に地元は」

「ああ、確かに高浜はそうだろうな。一度大学で地元を出てしまうと、どうしてもな」

「他のみんなも地元を出ちゃいましたからね。なかなか連絡を取るきっかけもないですし、大学時代はともかく、働き始めてからは予定も合わない……というか、新卒の頃は人に会えるような状態でもなかったんですけど」

「そこに結婚が挟まるとな、もっとすごいぞ」

「でも結婚式って実質同窓会みたいな面ありません?」


 と、そこまで言ってようやく思い出した。

 同窓会という単語まで出てきていたというのに、どうしてそれまで思い出さずにいられたのかと思うくらいだ。チョコスプレーのかけられたカラフルなドーナツに、意識を持っていかれすぎていたのかもしれない。


「社長、ここの四階って知ってます?」

「ん? 車でも買うのか」

「やっぱそっちか」


 なんだ、と訊ねられるから、もう一度かくかくしかじかと説明することにする。自信は回答の速度に直結する。あっさり社長は「同窓会の会場に使えるような四階はないな」と答えるから、自然、話はもっと生産性のない方向に向かう。


「じゃあやっぱり七不思議だ」

「え。なんですか、それ」

「さっき浦々さん……ほら、たまに来る高校生の子。あの子とそんな話してたんですよ」


 考えてみれば、と私も興が乗ってくる。


「学校より大きいし、人も集まるし。七不思議くらいあってもおかしくないですよね」


 確かに、と高浜さんも頷いてくれた。


「でも、あんまりショッピングセンターのって聞きませんね。中学高校も聞かないかも。大学はちょっと聞いたんですけど」

「え、大学にも?」

「僕の通ってたところじゃないですけどね。周りに心霊スポットがあったからかな。病院とかもそうですけど、広める人がいるかいないかの違いなんですかね」

「こういうのって誰かが作ってるのかな。高浜さんは小学校の七不思議ってどこから聞いた?」

「直接いかにもな『七不思議』があったわけじゃないんです。ただ、上の代から自然と怖い話が流れてきて……でもあれ、今思い返すとほら、教室の本棚とかにありませんでした?」

「学校の怪談?」

「あれ由来だった気もしませんか。大体どこも似たような噂になるのって、そういうことだと思うんですけど」

「四階の怪談も聞いたことがあるな」


 社長が言った。

 高浜さんと一緒に、私は一度口を閉じる。それから、身振りを交えて社長に訊ねる。


「階段?」

「怪談」


 身振りを交えて、社長も答えてくれる。両手を前。珍しい光景だった。


「え、〈銀河〉のですか」

「いや、エレベーターの。聞いたことがないか。エレベーターに乗って特定の階数を押すと本来ビルの中にないはずの場所に行ける……という」


 あ、と高浜さんが反応した。


「エレベーターではないですけど、似たような七不思議がありました。学校に。階段が十三段になってるときは、上ると地獄に連れていかれるとか。後は四時四十四分四十四秒に校舎の端に行くと知らない教室があって、そこで幽霊が授業をしてるとか」

「ああ、言われてみればそこから来てるのかもしれないな」

「三階堂さんも聞いたことないですか?」


 ある、と頷く。十三階段も、四時四十四分四十四秒も、定番の怪談だから。

 でも、何だか改まってそういう類例を出されてしまうと、


「なんだ、どうした」

「地獄行きとか言われたから」

「怖くなったか」

「え、あ、すみません」


 謝られるようなことではなかった。

 そもそも話を振り始めたのは自分の方だし、まさか高浜さんも学校の怪談なんて遠い昔の話をして、自分より年上の人間が真剣に怖がり始めるなんて予想もしていまい。私だって、本気で怖がっているわけじゃない。


 でも、浦々さんがトイレを怖がる気持ちは、ちょっとわかったような気がした。


「〈銀河〉って、広いじゃないですか」


 何を今更、という顔を社長がする。それはそうだ、と私も思う。流石に『銀河』を自称するのはやりすぎだと思うけれど、『大型ショッピングセンター』というのはだいぶ控えめな言い方で、ちょっと謙遜が過ぎると思うくらいだ。


「だから、結構長く働いてるつもりでも、自分の知らない場所があったりするのかもなあって、改めて思って」

「それはそうだ。そんなことを言ったら、私なんて実家の中にも一度も入ったことがない空間があるぞ」

「どんだけ大きい家に住んでるんですか」


 社長が何かを言おうとする前に、えぇ、と高浜さんが驚きの声を上げる。二対一。社長は反論を諦め、もう一つとドーナツに手を伸ばす。


 変わり映えのしない日々を送っているから、このときの会話を思い出すまでに何日、何週間がかかったのか、私は覚えていない。


 次にそれを思い出したのは、エレベーターの中でのことだった。





 プラネタリウムでの仕事を終えて帰路に就くとき、普段の私はエスカレーターを使って一階まで降りていく。ではそのときはなぜそうしなかったのかと言うと、すごく単純で、点検作業が行われていていつものそれが使えなくなっていたからだ。


〈銀河〉のワンフロアには、もちろん複数本のエスカレーターが設置されている。これだけ広い敷地の中に上下動できる場所が一ヶ所しかなかったら、それは相当導線に問題がある。しかしこれだけ広い敷地では、近場のエスカレーターを避けてもう一本先に行くのも面倒で、幸いなことにやたら端の方にばかり設置されているエレベーターというやつは、やたら端の方にでかでか陣取っているプラネタリウムのすぐ近くにある。


 ちなみに隣に階段もあった。

 特に迷うことなく、私はエレベーターに乗ることを選んだ。


 下に向かうボタンを押している間に、横目にその階段の方を見ていた。エレベーターの置き場所と階段はすごく近い。パネルの前に立ったままでも、天井から吊り下がっている『非常口』の標識とか、壁に埋め込まれた消火器とか、階段を一本分上った先の踊り場に落ちる、不健康そうな色の蛍光灯の光とか、そういうのが見える。


 普段はほとんど使われることがないから、節電のためだろう。奥まった空間にある階段は、日暮れ時であるのも相まって、冷たい薄暗さを湛えて見える。


 ぽーん、とエレベーターの到着する音が、その階段の方まで響いていった。


 重々しい音を立てて開いたそれに、さっと乗り込む。今日は社長は顔を出さなかったし、高浜さんはどうせ何かを食べて帰るつもりだからと遠い方のエスカレーターに向かっていった。こんな場所に一基だけぽつんと孤独に座っているエレベーターにわざわざ乗り込もうなんて奇特な人は私の他にはいなくて、だから、一人。


 気兼ねすることなく『1』のボタンを押して、それからせっかちに、さっさとその扉を閉じようとする。


 そのとき、別の数字が見えた。

 4。


『閉』のボタンに置こうとした指を、『開』に置き直した。そのまま止まって、私は考えている。記憶を探り出そうとしている。


 エレベーターに、元々こんなボタンはあっただろうか。


 直感的には『4』ではなく『R』の表示になっていたように思う。しかし、直感はあくまで直感だ。ここのエレベーターを使うことなんてめったにないし、ましてやこれに乗って屋上に向かうことなんてないから、確かな心当たりがどこにもない。


 そこでようやく、私は社長の言った怪談と、あの日プラネタリウムに四階を探しに訪ねてきた彼女のことを思い出している。


『4』のボタンを押した。

『閉』のボタンを押し直せば、扉は閉まった。


 それからエレベーターは滑らかに、下方向に動き出していく。


「あ、」

 当たり前の話だった。


 下に行くために呼び出したのだから、当然エレベーターは下方向に動き出す。『1』のボタンだって押したままなのだから、当然二階で止まることなく、一階まで私を連れていく。


 ぽーん、と明るい音がして、当然その一階で扉は開く。

 エレベーターを降りた。


 扉が閉まる。振り返ってみる。脇のパネルの表示が壊れているのだろうか。画面は黒くなったままで、それ以上何の数字を表示したりもしない。扉の向こうで微かに箱が動く音が聞こえたようにも思えたけれど、最近のエレベーターは静音機能が高いのか、売り場の方から聞こえてくるハウスミュージックに紛れてしまって、それだって耳には自信がない。


 他に誰もいない場所で、私はしばらく考え込んでいた。そもそも、三階で呼び出しのボタンを押したとき、エレベーターは上と下、どちらから現れたのだったかと。


 いつまでも思い出せなければ、いつまでもそこにいる理由はない。踵を返して歩き出す。


 背後でもう一度、ぽーん、と明るい音が聞こえたような気がした。





「あら、二階堂さん」

 と呼び掛けて、それから私の顔を見ると、何か硬いものを噛むような顔をしてしばらく彼女は悩んでいる。足を止めて待ってみると、そうだ、と気持ちの良い笑顔を見せてもう一度口を開いた。


「違う違う、三階堂さんだ。ごめんなさいね、間違えちゃって」

「いえいえ。こんにちは。覚えていてもらって嬉しいです」


〈銀河〉には〈地球〉がある。別に、夜空を眺めて空に映る宇宙の話をしているわけではなくて、大型ショッピングセンターの中の話だ。


 最近のショッピングセンターは、地域のお年寄りや子どもの方々に向けて、一種のコミュニティセンターのような役割を果たしている。要はぜひぜひうちを溜まり場に使ってくださいそしてその滞在時間から購買意欲を刺激されてぜひぜひうちを利用しまくってくださいという地域密着型の行き着く先のような形で、私はもうこれより先に進もうとすると〈銀河〉の体内にマンションや保育園や老人ホームを建設することになるのではないかと思っているけれど、とにかくそうした目的を果たすために、利用者の憩いの広場が設置されている。


 その名がなんと〈地球の広場〉。そのネーミングの大上段っぷりは〈銀河〉で働く我ら労働者に宇宙人の一員としての自覚をじわじわと与え、しかも案内板に書かれているネーミングの由来を見ると「銀河に存在する生命体同士が交流するというのは奇跡のような出来事であり、であるからして我々はここにその奇跡を……」と大上段を通り越してロケット発射みたいなことが書いてあるのだから、もうとんでもない。もしこれが社長の入れ知恵だったら嫌なので、あまり職場で話題にしたことはない。


 そんな〈地球の広場〉の真ん中に、お友達らしき高齢者の方々と一緒に座っていたのは、私の記憶力もなかなか大したものだと思う、あの日四階の場所を訊ねてプラネタリウムを訪れた、あの女の人だった。


「ごめんなさいね、三階堂さんのところにも行こう行こうと思ってるんだけど、なかなか顔を出さないで、ただ道を訊いただけになっちゃって」

「気にしないでください。結構落ち着いた場所ですから、気が向いたときに来てもらえた方が、きっと好きになってもらえると思います。あるんですよ、プラネタリウムが楽しいタイミングが。疲れてるときとか」


 あらそう、と彼女は笑って頷く。上機嫌そうだったから、私はそのまま話を続けた。


「よくここには来られるんですか?」

「ええ、そう。そうなの。あんまりね、今までは来たことがなかったんだけど、ほら今、バスが出てるでしょう」

「駅から」

「そうそう。それで、値段も安いから。家でくさくさしてるよりもこっちに来た方が楽しいわって思って。結構ね、ほら皆さん、こちらに来られる方もいて賑やかだし」


 どうも〈銀河〉の地域密着戦略は綺麗に成功しているらしかった。そして成功の結果が今目の前にある彼女の笑顔だと思えば、なかなか悪くない目論見である気もしてくる。


 じゃあまた、と挨拶を交わした。


「私も定休日以外はほとんどあの三階にいますから。よければまた声を掛けてください」

「ええ、ええ。またよろしくね」


 はい、ともちろん私は頷く。いずれは彼女を相手にも、こういうプラネタリウムでの接客用の顔ではなく、素の表情を見せていくことがあるのかもしれないと思う。〈地球の広場〉には大きな時計がある。針が示すのは十一時三十五分。昼休憩の戻りとしてはかなり早いけれど、私がいない間にお客が来たら、高浜さんが苦労するだろう。


 それでは、と踵を返す。

 その前に一つだけ、私は訊いた。


「そういえば、同窓会は大丈夫でしたか?」


 すると彼女は迷いなく、深い笑みを浮かべて答えた。


「ええ。とっても楽しかった。昔に戻ったみたいで」


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