観客
「みんな、〈銀河くん〉がピンチだよ! 大きな声で応援してあげよう! せーの、がんばれー! もっともっと大きな声で! せーの、」
がんばれー、と客席にマイクを向けているところを浦々さんに発見され、驚愕の眼差しを向けられている。
なぜこんなことになったのかという話を、順を追ってしていく。
◇
最初は、照明を新しくしたのだと思っていた。
それにしては梅雨の晴れ間ばかりが明るいような気がして、ふと出勤中、顔を上げたとき、今まで自分が感じていた違和感の正体に気が付いた。
高浜さんにそれを話すと、
「本当ですか? 全然気付かなかったです。お昼休憩のときに見てきますね」
と言い、社長にそれを話すと、
「なんだ、知らなかったのか」
と言った。
それから続けて「まあ知らないか」と続けたのは、いつもの社長が顔を出す時間。午後六時前後のバックルームでのことだった。
「〈銀河〉も新しげな顔をしておいて、もうそれなりに年数を刻んでるからな。最初の頃に不具合を起こしたから、最近の若者は知らんだろう」
開閉式の天窓があるのだという。
私も見上げてみて驚いた。家から〈銀河〉の敷地まで移動する途中に「久しぶりの青空だなあ」なんて見ていたそれが、建物の中に入ってもまだ見える。元からこうだったんだっけ。〈銀河〉って半分は外に出てるような形の、そういうショッピングセンターだったんだっけと、しばらく立ち止まって考えてしまったくらいだ。
昔は、結構頻繁に動かしていたそうだ。
「市立図書館があるのはわかるか。駅の方の」
「ああ、はい」
「僕、結構よく行きますね」
「あそこ暑いだろ」
はい、と言葉を濁すこともなく高浜さんが頷いたので、相当らしい。
「あの頃このへんでそういうのが流行ってたんだよな。ただ、こういう建築をやるときはもうちょっと直射日光を避けるとか、空調設備をどうこうするとかやり方があるものなんだが……」
「あ、でも確かに。こっちに戻ってきてからは庇がついたりカーテンがあったりで、前よりはだいぶマシになってたかもしれません」
「そう、そういうの。で、〈銀河〉に天窓を付けることにしたとき、どう考えても昼頃なんかは垂直に日光が入ってきてどうしようもないだろ。真上に庇を置いたら意味がないし」
「だから開閉式に?」
そう、と社長は頷いた。
季節によって変わることはあるけれど、直射日光が入らない時間は開放、入ってくる時間は閉鎖という形で設計したのだという。
「それいいですね」
と私は言った。
「夜に開けておいたら、星空も見えますし。いかにも〈銀河〉って感じで」
「確かに」
「そう。そこも名物スポットとして使えるようになると思われていた。図書館の方はその時点でかなり色々言われていたんだが、かえってその反省を活かしてこれならよかろうと建設計画が決まった」
が、と社長は続けた。
「開閉のときに動作音が立ってな。いざ開店してみたら利用者から『上から落ちてくるんじゃないかと気が気じゃない』との声が相次いだ」
「そんなにすごいんですか」
「個人的にはそこまでじゃないんだが、まあ、頭上で巨大な何かが動いていたら気になるというのは生存本能の問題だろう。肝試しに使うならともかく、家族連れも多く来るところだから、そういう不安には寄り添わなくちゃ話にならん。結構真剣にクレームは受け止められて、まずは一旦開閉を停止することになった」
「その次は?」
「開閉の時間をアナウンスして上手いことやれないかという案が出て、試してみたところ、開閉システムが馬鹿になってて、もう開けられなくなっていた」
えぇ、と呆れた声を出してしまった。
「それこそ大丈夫なんですか。もうあの下のところ通りたくなくなっちゃったんですけど」
「いや、本当に単純なシステムの問題なんだ。構造上引っ掛かってるとかそういうわけじゃなくて、ほら、あるだろ。目の前に立ってるのに自動ドアが開かないこと」
「全然違う問題じゃないですか、それ」
「たとえだ、たとえ。遠隔操作を受け付けるためのセンサーが動作不良を起こしたんだよ。で、もう経営陣としてはそれで天窓に対する情熱を失った。放置だ」
へえー、と感心して聞いていたのは高浜さんだ。じゃあ、と彼は訊ねる。
「どうして今日は開いてるんですか?」
「誤作動じゃないか」
そして社長からは、単純な答え。
「まあしかし、動かないならともかく、勝手に動くとなると危険性も上がるからな。近いうちにまた修理業者が入るだろう」
「建物に歴史ありですねえ」
「そうだろうそうだろう。ところでお前たち、〈銀河〉にはマスコットがいることを知っているか」
「え、うそ」
「本当ですか?」
本当だ、と社長は頷く。
懐から、一体いつの時代に作られたのか、私ですら全く見覚えのないパンフレットを取り出して、
「天窓が開いたことで封印が解かれ、経営陣もその存在を思い出し、来週に北側の広場……〈火星〉の方でマスコットショーの上演が決定した。そして、」
私と高浜さんの間で、目線が行き来する。
「ショーのMCをやってみたいのはどっちだ?」
◇
というわけで、私になり、高浜さんからは「いつもすみませ~ん……」とへろへろした、憎めない感謝の言葉を貰った。
「びっくりしたあ。三階堂さん、転職したのかと思った」
「ねえ。私も転職させられたのかと思った」
「こういうのって専門の人がいるんじゃないんですか?」
「いるらしいけど、まあ。聞いた感じだと、今回限りのおふざけっていうか、経営陣の悪ノリっていうか……会社の休日バーベキューみたいな感じ?」
「うわ最悪」
「うちの社長はお給料出してくれたけどね」
各テナントから駆り出されてきた音響やら何やらを担当してくれた人たちがどうなのかは、特に聞いていない。うわ最高、と浦々さんが言い直すのを、果たして最高というほど良い出来事だろうかと思いながら、私はショーの終わりに配られたスポーツドリンクに口を付けている。余った分は、隣で浦々さんが。子どもには余り物の全てを受け取る権利がある。
座っているのは、さっきまで〈銀河〉のマスコット〈銀河くん〉のショーが繰り広げられていた場所、〈火星の広場〉だ。
人がよくたむろしている〈地球の広場〉よりも北側のエスカレーターの傍にある、一階のスペースだ。こっちにもベンチはあって、複数のモニターが並ぶテレビもある。キッズチャンネルが放送されているので、時たま小学生なんかがここで時間潰しをしていることもある。
が、それ以外はあまり人が集う場所でもない。恐らく入り口からの距離や、周辺のお店のラインナップからの問題ではないかと思われる。そしてなぜこの広場が〈火星〉の名を冠するかについては、古いパンフレットまで見てもよくわからなかった。片方に〈地球〉と名付けたらこっちはじゃあ〈火星〉という決め方だったのでは、というのが私の中では有力な説となっている。
「でも子どもたち、喜んでましたね」
「ね。私も今日一日で結構子どものこと好きになったかも。台本読んでるとき、『ここで無反応だったらどうしよう……』って不安に思ってたから」
「事前に言ってくださいよ。クラスのみんなに声かけて応援団作ってあげたのに」
最悪、と呟くと、あはは、と浦々さんは相当明るく笑った。よっぽど知り合いがマスコットショーでMCをやらされている姿が面白かったらしい。
「でもあれ、よく盛り上がりましたね。〈銀河くん〉がピンチになるのも意味わからなかったし、銀河がピンチのときに我々人類にできること何もないし」
「ね、ほんと。でもやっぱり、着ぐるみの中に入ってくれた人がよかったんじゃないかなあ」
「あー、ね。あの中に入ってた人も素人なんですか? なんかめちゃくちゃ動きよかったけど」
「ううん、確かあの人は――」
「いやいや、MCのお姉さんもなかなかのものでしたよ」
後ろから話しかけられた。
わ、とびっくりして二人で振り向く。振り向かれた方は、そんなにびっくりしていない。「驚かせてすみません」と言いつつ、やけに堂に入った笑顔を浮かべて両手を振る。
たった今、話題にしていた人だ。
「蓮井と言います。普段は旅芸人をしているんですが、たまたまこっちの地元に戻ってきたところを、〈銀河〉に勤めている知り合いに声をかけられて」
旅芸人、という言葉で動揺したのか、浦々さんが目で訴えてくる。そんな人、初めて見たんですけど。私は年上らしく落ち着いて、それに頷いて答える。安心して、私も初めて見たから。
「ショーがお気に召したなら幸いです。お嬢さん」
浦々さんが目で訴えてくる。お嬢さんなんて初めて言われたんですけど。私は頷いて答える。でもこういう人、たまにいるから。
別に蓮井さんは、目的もなしで私たちに話しかけてきたわけじゃないらしかった。彼はバッグに手を入れると、ひょい、と紙包みを取り出して、こちらに渡してくる。
小さくて、ちょっと重い。
「キーホルダー?」
「です。さっき、向こうの奥の方で着替えていたら、昔のが見つかったって配り始まって。いる人だけにってことだったんですが、もしかしたらここに戻ればまだ他のスタッフの方も見つかるかなあと思って」
どうぞ、と言われる。
要るか要らないかで言うと、まあ要らない。そもそも私はキーホルダーを付ける習慣がないから。しかしショーのMCなんて、一生に一回やるかやらないかというところだろう。これも思い出と思って、ありがたく受け取っておく。
ついでに、持ってきてもらっただけではいどうもさようならではいかにも冷たい。もう少し、蓮井さんに話を振ってみることにした。
「普段からこういうことをされてるんですか?」
「時たま。さっき旅芸人とは言いましたけど、最初はただの自分探しの旅のつもりだったんです。大学の頃、所属していた演劇サークルが人間関係のこじれで吹き飛びまして」
「ああ~……。聞きますね、そういう話」
「で、色々すっぱり忘れて夏の間、バイトで稼いだお金が尽きるまで方々旅してみようと思い立ちました。大学生は人生で一番自由な時間……今はそうでもないんでしたっけ」
「あ、あたし? いや、まだ高校生なんで」
浦々さんが慌てたように答えれば、ああそっか、と蓮井さんは頷く。じゃあやれることが増えてくる頃だ、と言って、
「後はまあ、あなたみたいな形ですね」
私を見ながら、そう続けた。
「……緊急登板?」
「そうなんです。不思議とこういう機会に縁があって、この年までお金が尽きることもなくずるずると。あなたもそうなるかもしれまんせんよ」
「旅には出ないようにしておきます」
それがいい、と彼は笑った。
それから後も、ほんの少しだけ話した。実際のところは、現在は本当に完全な旅芸人というより、ある程度の人脈があってそこから声がかかるのを待っている、フリーの役者という方が実態に近いということ。しかし自認としてはいまだに旅芸人という意識が強く、年々焦りが出始めていること。一生続けられるならこれだって立派な自分の人生の完成形ではあるし、実際堅実に生活しているように見える他の人だって多かれ少なかれその日暮らし性は持っているわけで、かと言ってそういう割り切った見方ができていても感情というものはなかなか制御しがたくたまに胸騒ぎに襲われたりもするんですが、こういうのってどう対処すればいいんでしょうねえ。
わかりません、私たちは一体どうすればいいんでしょう。
という具合に話に区切りがついて、では今日はありがとうございました、と彼は踵を返そうとした。
そのとき、ふと顔を上げる。
別に不思議なことではなかった。私も浦々さんも、ほとんど同時にそれを感じたからだ。一瞬、ぱっと視界が明るくなる。何のことはない。まだ修理が終わっていないらしい開きっぱなしの天窓は吹き抜けの上にあって、吹き抜けの下が〈地球〉や〈火星〉になっている。雨続きの日々の、ちょっとした雲の途切れ目だったのだろう。陽光が窓から差し込んできた。
「今も開いてるのか」
と蓮井さんは呟く。
ちょっとした知識披露の時間だった。私は社長から聞いたことを、浦々さんにそのまま伝える。へー、と完全に歴史に遅れてこの場所まで辿り着いた彼女は、古墳の成り立ちでも聞いたかのような相槌を打つ。
「蓮井さんは、開いてた頃を知ってるんですか」
「ええ、まあ。実は昔、高校演劇でそこそこのところまで行きまして。それがちょっとだけ盛り上がって、地元の高校だからと、ちょうどこの場所に呼ばれて……いや、舞台なんかは全然違いますから、結局ここでやる用の劇を改めて作ったんですけどね」
懐かしいなあ、と彼は天窓を見上げたままで言った。
表情は、言葉と裏腹に険しく見えた。
◇
「それ」
と、珍しく話しかけられた。
プラネタリウムで、ちょうど五時になる頃だった。毎日のように来てくれる常連さんが一人だけいて、その子が家に帰る時間。
小学生で、名前は月丸さんという。
これだけ毎日顔を合わせている割に、挨拶以外のことを話すのは本当に久しぶりだった。
彼が指差しているのは、〈銀河くん〉のキーホルダーだった。社長に「車の鍵とかにつけたらいいんじゃないですか」と譲ろうとしたところ「自転車の鍵にでも付けておけ」と返され、しかし最近は夏が近付いてきたり雨が続いているのもあってバス通勤が増えてきたからなんだかなあと思っていると、高浜さんが「じゃあ、受付に飾っておくのはどうでしょうか」と提案してくれた。
というわけで、〈銀河くん〉は大人いくら、子どもいくらの料金を掲示したアクリルボードの端っこに、ちゃりんと留められている。
「この間、やってたってやつですか」
そうですよと答えながら、私はあのとき集まってくれた子どもたちの中に月丸さんの姿があったかどうかを思い出そうとしている。けれど、こっちが記憶を探り切る前に、彼は帽子を深くかぶり直して、目元を隠すようにしながら、
「昨日、受付に別の……あの、女の人がいて」
「ああ、社長ですね」
私が別の仕事に出ている間、その人員はどう埋めたかというと、そういうことだった。別に大した仕事をしているわけではないので、いなければいないでも済んでしまうような気もするが、多分高浜さんに気を遣ったのだと思う。彼は接客が苦手というか、全体的に人と関わること自体に緊張するままみたいだから。その代わり機材の保守点検も帳簿処理も全部やってくれているので、私より働いてはいる。
「その、はい。社長さんから、聞いて……」
もしかして、〈銀河くん〉キーホルダーが欲しいんだろうか。
確かに、可愛いと言われればそういう風に見えなくもない。色とか。そもそも人には夜空を美しいと思う感情がある以上、銀河をモチーフにしたものには一定の美的な特長が備わるものだ。ほとんど毎日のようにこのプラネタリウムに通う月丸さんからすれば、心惹かれるデザインであったとしてもおかしくはない。
しかし、私の方から先回りしすぎるのも、それはそれで良くない。うっすら微笑みながら、月丸さんの言葉の続きを待つ。
「それ、」
すると、
「また、やりますか」
全然、予想とは違う言葉が出てきた。
驚いたし、なかなか答えにくい。〈銀河くん〉のマスコットショーをプラネタリウム的な天体イベントだと思っているのだろうか。実態はかなり違っていて、ほとんどは大型ショッピングセンターとしての〈銀河〉のPRに近いのだけど。その上、明らかに「やるよ」という答えを期待された訊き方なのに、それに対して「やるよ」とは返せない。
「どうでしょう」
目一杯、濁した言い方で、
「〈銀河くん〉の演者さんが、」
と、ここまで言ったところで「あれ小学生の高学年くらいの子って着ぐるみに中身があるってわかってるんだっけ」と不安になる。反応を見て、別に問題なさそうだったので続ける。
「旅をされてるらしいんです」
「旅?」
「そうなんです。普段は街から街へと渡って、流しの役者をやられているそうで」
月丸さんの目が輝いた。
ごめんなさい蓮井さん。私は今、あなたのあずかり知らぬところであなたを使い、子どもの気を逸らそうとしています。
「旅って、えっと、ゲームみたいに……」
「らしいです。私も少しお話したんですが、行った先で役者の仕事を見つけて、旅を続けているプロの方で。今回はたまたまこちらに戻ってきていたのでお願いできたそうなんですが、どのくらい滞在されるのかがわからないので……」
ちょっと予定はわかりません、ごめんなさい。
と、結局あまり優しくない回答になってしまったけれど、「うちは管轄じゃないのでわかりません」と率直に伝えるよりかは柔らかい伝え方になっただろう。「旅……」と呟いて、すっかり次の〈銀河くん〉ショー開催未定という残酷な事実から気が逸れた月丸さんを見れば、会話の手ごたえがあった。
「でも、今度また――」
「あのう、すみません」
ショーをやることになったら月丸さんにもお教えしますね。と言いかけたところだった。
二人組の、年は三十には届かない位だろうか、男女の二人組が入り口の方から声を掛けてきた。月丸さんが驚いて振り向く。知らない人だったのだろう。帽子を目深に被り直すと、一瞬だけこちらを振り向いて、
「ども」
かろうじて「ご利用ありがとうございました」を背中に伝えれば、脇を早足で通り抜けられた新たなお客は目を丸くする。
「すみません、お邪魔しちゃいましたか」
話を聞いてみると、別にお客でもなかった。
何でも、地方巡業中の芸人さんなのだという。名前だけでも覚えて帰ってください、と名刺を渡された。聞いたことのないコンビだったけれど、物腰は丁寧で印象は悪くない。
「それでですね、こちらでもやらせていただけないかと思い、事前に電話でアポイントを取らせてもらって、今日がご相談の日ということだったんですけど……」
「はあ」
「一階広場の管理窓口は、こちらの方で合ってるでしょうか」
全然違う。
なぜそんな勘違いをするに至ったのかは単純な話で、〈火星の広場〉でやる予定だからと駐車場のそっちの方に車を停めてそっちの方から入ってきたら、サービスカウンターが見当たらない。それで近くのテナントに「ここの使用に関する窓口って」と訊ねたところ、その質問を受けた人が、〈銀河くん〉ショーに出演した私の存在を覚えていた。多分三階のプラネタリウムさんじゃないかなあ。全然詳しくない人から与えられたヒントによって、芸人さんたちはここに辿り着いてしまったわけである。
「いや、うちは単なるテナントなので、向こうの方ですね」
一応、席を立って一緒に外に出た。
こっちが北側なんですけど、全体的にテナントエリアなんです。南側が〈銀河〉直営の売り場になっているので、そちらのサービスカウンターの方に声を掛けてもらえれば。そう説明すれば、得心いったところがあったらしい。ああそうかすみません、てっきりこっち側が〈銀河〉さんの方だと思って進んできたんですけど、やっぱりテナントさんですよね。おかしいと思ってたんです助かりました。
「え、でもお姉さん、この間MCやられてたとか?」
素人いじりが始まった。
かと思い、曖昧に笑って対応しようとしたら、意外な方向に会話の舵が切られた。
「あれって知ってます? 『見上げちゃいけない』って」
「いえ。舞台のルールですか?」
「あれ、やっぱり担がれたな」
「だから言ったじゃん。あの人いっつも適当言うんだから」
片方が片方を肘でつつく。つつかれた方が、いえね、と、
「先輩から脅かされてたんですよ。『〈銀河〉さんに行くのか!』『じゃあお前、絶対ネタやってる間は上見んなよ!』って」
はあ、と頷くしかないのは、何の心当たりもなかったからだ。
「吹き抜けで上を見上げると、人がたくさんいて緊張するからですかね」
思いつきで言ってみると、かもですねえ、と歯切れ悪く芸人さんは頷く。
「いや、それが『どういうフリなんですか』って理由を聞いても教えてくれないんで、僕らも気になってたんですよ。上ねえ、上……」
言いながら、彼らは吹き抜けの方に歩いていく。まさか転落防止の柵が設置されていないわけもないので、それに寄り掛かるようにして、
「何もなさそうですけどねえ。あ、でもあれか。風船の奥に天窓があるのか」
はい、と頷く。
頷いてから、首を傾げる。
「風船?」
そんなのあったっけ。
一緒になって見上げてみると、確かにそこには色とりどりの風船がある。天窓を覆い隠すように浮かび上がっていて、けれど普段の通勤では、それもここまで職場の近くとあっては、周りの景色なんてわざわざ気にもしないからだろう。いつからそこにそれがあったのか、私にはわからなかった。
天窓の存在に気が付いたときには、少なくとも、なかった。
装飾にしては、地味すぎる気もする。
「じゃ、どうもすみません。お邪魔しちゃいまして」
「ぜひ今度ネタのとき、ここのことも話させてもらいます」
それじゃあ、と二人の芸人は去っていった。
◇
「あれ、奇遇ですね」
二度も会ったからには、自己紹介しないわけにもいかない。
蓮井さんと再会したのは、奇しくもその芸人さんたちが〈火星〉のステージに登る日、そしてその〈火星〉目の前の寝具店の前でのことだった。
「ファンなんですか?」
そういうわけでもないんですけど、と答えかけて、いやそれはそれで失礼か、と思い直す。ちょっと縁があって、と伝えれば、ははあと蓮井さんは頷く。ついでに私が片手に提げているお惣菜のドリアが入った袋を見て、「いいな」と呟く。これからプラネタリウムに戻ってバックルームでチンするつもりで、その途中、ふと「そういえば今日だったな」と思い出し、ちょっとだけステージを見ていくことにしたのだ。
「お昼ってどこかおすすめあります? お店が多いから、かえって迷っちゃって」
「あれ。こちらが地元じゃありませんでしたっけ」
「こっちにいた頃は、もっぱらあっちの国道沿いで食べてたんですよ。学校からの帰り道だったから。あと、駅ビルとか」
「ファミレスですか? 今なくなりましたよね」
「え、そうなんですか」
と言っている間に、マイクチェックが始まる。芸人さんたちは、地方巡業と言ってもまだ始めて日が浅いのだろうか。あるいは一生それと付き合うことになるのだろうか。緊張した様子で、しかしそれなりに遠くの方から立ち見している私を目ざとく見つけると、笑って頭を下げた。下げ返す。
「そういえば、三階堂さんはもう聞きましたか。〈銀河くん〉のショーをもう一回やるの」
「え、いえ。知りませんでした」
「好評だったらしいですよ。実は僕、今は他の長期撮影の関係でしばらくはこっちにいるつもりだと伝えたら、もう一回と」
「映画ですか」
「テレビです。ドラマで」
「おめでとうございます」
「ありがとうございます。そちらはともかく、またショーでご一緒になるかもしれませんね。ちょうどご挨拶ができてよかった」
多分次は違う人ですよ何も聞いてませんし、と答えると、そうかな、と蓮井さんは笑った。でも、ショーの予定が立ったならよかった。まだ日付は本決まりではないそうだけれど、今日の帰り際、月丸さんに教えておいてあげよう。
こういうのは忘れがちなタイプだから、プラネタリウムに戻ったら手のひらにでも書いておこう。
と、思ったこと自体を忘れてしまいそうだなと考えているところで、芸人さんたちが壇上に上がってくる。どうもー、と地域の子どもたちも真っ青な元気な挨拶を披露する。
「大丈夫かな」
ぽつりと、隣で蓮井さんが呟く。
どういう意味なのかはわからなかったけれど、ネタが始まってから訊き返すほどのことでもないだろうと思った。そのまま二人で、立ち見を続ける。
正直なところ、最初は何が面白いのか全然わからなかった。
緊張もあって、滑舌やテンポもおかしくなっていたのかもしれない。しかし会場が冷えている状態でそっぽを向いて職場に戻るというのも、何とも後味が悪い。そのまましばらく「多分ここで笑ってほしいんだろうな」と思うようなところで笑顔を作っていると、まあ別に私の顔を見てというわけではないだろうけど、段々演者の二人も調子が出てきて、本当に面白くなってきた。
これならそろそろご飯を食べに戻ってもいいかな、と思ったところで、
「お前なあ! デートと言ったらプラネタリウムだろ!」
何と律儀なことに、本当にプラネタリウムをネタに取り入れてくれていた。
ちなみに漫才……いや、コントなんだろうか。そういうのの境目が私にはよくわかっていないけれど、ネタの内容はこうだった。恋人を欲しがる二人が大型ショッピングセンター〈銀河〉を周りながらお互いの理想のデートプランを話し合い、ちょっとやってみようよと交互に相手に誘いをかけ、交互にシミュレーションを台無しにされる。
「こうやってさあ、隣同士のシートに腰掛けてさあ!」
畳み掛けるようにどんどんやるから、もう話の入りの時点で笑ってしまう。パントマイムも上手いものだ。二人は本当に椅子に腰掛けたように中腰で、そのまま背を倒して、
上を見た。
目を剥いて、演者が固まった。
ほんの一瞬のことだったから、それだけならきっと、違和感を覚えた人はいなかったと思う。一連の芸の中の、一つの工程だと考えたはずだ。あ、と私が気付けたのは、事前に「それをしてはいけない」という話を彼らから聞いてたからで、それでも多分、その後に何も起こらなかったなら、そのことすら思い出さなかったかもしれない。
ぱん、とずっと上の方で、軽い破裂音がした。
何の音だろう。他の観客たちも気付く。演者と同じように、星を眺めるように首を持ち上げようとする。
「伏せろ!」
そのとき、驚くような大声が隣から響いた。
まるで刑事ドラマだ。凄まじい迫力のその一声が、観客どころか、周りの無関係な買い物客たちの身すらも竦ませた。演者もそれで、急にはっと瞳に色を取り戻す。元々無理な姿勢を取っていたためだろう、膝から力が抜けたのか、床の上に崩れ落ちる。
その後、連鎖的にパン、パン、パン、と音が響いた。
小さな悲鳴が上がる。パニックが起こりかけて、しかしそうはならない。
ひらひらと、破裂した風船の欠片が、〈火星〉に降ってきたからだ。
驚きに、すぐさま冷や水を掛けられたような形だ。人々は、床の上に散らばったその色とりどりの雨の残骸を見つめる。何が起こったのかと、今度こそ頭上に目をやる。
天窓から、光が差し込んでいる。
それだけだった。
◇
「じゃ、行ってきます」
「頑張ってください、三階堂さん」
「昼休みになったら、私らも見に行くよ」
というわけで、結局また私が〈銀河くん〉のお供をすることになった。
何のことはなく、あの後社長から知らされたのだ。次もやることになったから。またよろしく、ショーのお姉さん係。別にやれと言われたらやるけれど、このまま行くと本当にずるずるこっちを本業にされかねない。次からはちゃんとした人を呼んでくださいよ、と念を押すと、社長はこう答えた。グッズの売れ行き次第だな。こうして今日はグッズの販売係もやらされることに。なぜ普段よりも仕事が増えているのだろう。
店番の高浜さんと社長に見送られ、開始時刻まではまだ時間があるものの、私は早速〈火星〉の大地に降り立っていた。すると、私よりさらに早く現場入りしている火星人がそこにいる。
「蓮井さん」
自分から声を掛けておいて、振り向かれるとぎょっとした。
「大丈夫ですか。顔が土気色になっていますよ」
「大丈夫です。着ぐるみの中から顔色は貫通しませんから」
「虫の息ですよ」
「大丈夫です。着ぐるみは喋りませんから」
明かに憔悴していた。
大したプロ根性だとは思うけれど、根性の出しすぎは人間としての問題が発生する場合が多い。今回もその例外ではなくて、ショーのことはいいから早く帰って寝てくださいと言いたくなる。
「それより、すみません。今回三階堂さんを指名したのは僕で」
しかしそんなことを蓮井さんが言い出すものだから、こちらが言いたいことを言う機会を逃した。
「というのも今回、ちょっと協力してほしいことがあるんです。〈銀河〉で他にこういうことができそうな知り合いがいないし、一度は舞台を共にした仲ということで、すみません」
「いえ、それはいいんですが。一体何ですか」
「上を見ないでください」
一拍置いて、彼は、
「見せないでください」
と言い直した。
冷や汗だろうか、それとも単に梅雨明け間近の蒸し暑さのせいだろうか、蓮井さんは首に一筋、つうっと汗を流して、
「天窓のあたりに風船が増えていたの、気付きましたか」
はい、と頷けば、
「あれ、そうしてほしいとお願いしたのは僕なんです。でも、全部割れてしまって、安全上の理由を付けてもう設置されなくなってしまった。今なら見ても大丈夫ですよ」
気を付けるのはショーの途中だけ、と彼が言うから、私は天窓を見上げてみる。
曇り空だ。特に、何の変哲もない。そしてそれが見えるということは、確かに彼の言う通り、そこに浮かんでいた風船は、割れてしまって以来補充されていない。
「今日はクッションがないんです」
と、彼は続けた。
「それで、三階堂さんにはいざというとき――」
そうして、〈銀河くん〉マスコットショーは始まった。
以前より人の集まりが多かったから、前回好評との噂も満更嘘ではなかったらしい。私は台本に書かれている通りのことを、過不足なく読み上げていく。というか、それ以外のことはできない。一回やったから二回目はもっと上手くやれるなんて、思い違いもいいところだ。普段のプラネタリウムでだって録音音声を再生しているだけで案内役を務めているわけでもないし、普段のか細い接客業務以外にこんな経験はない。
やれるだけのことをやって、〈銀河くん〉に後は任せる。
すると不思議なことに、私の淡白きわまりない説明読みが、ふわっとそれで華やいでいく。段々と余裕が出てきて、視野も広がってくる。広がればそれはそれで人前に立っていることがより意識されて、また反対に緊張が強まることもあるけれど、二階に知っている人間の姿を見つけた。社長と高浜さん、それから月丸さん。柵の傍で、こちらが見やすい位置に陣取っている。月丸さんは身長からして、何かの踏み台を使っているのだろう。たぶん高浜さんあたりが気を利かせて持ってきたのかな、と思えば、心が和むような気がした。
そのときだ。
ふっと頭の上が重くなった気がした。
今までは、私もその状態に気付いたことはない。少なくとも、この場所を歩いているだけでは。それがこれだけ賑やかな中でもわかったのだから、人前に立ったことで普段より神経が張り詰めて、感覚が鋭敏になっていたのかもしれない。
雨だ。
雨の降り出した気配が、頭の上にある。
今のところ、他に誰かが気付いているような素振りはなかった。このまま終わってくれればいいと思った。けれど、〈銀河くん〉が人前に出てきてからしばらくが経つ。人の集中力には限界がある。
そして、音がした。
ごおん、と深く響く、雲の中で雷の動く音だ。
限界だった。観客の顔が動き始める。これから帰路に就くつもりの人たちは特にだろう。空模様を気にする。その中でも〈銀河〉に詳しい人なら、それを確かめるのに頭上を眺めるだろう。天窓を通して、空の具合を確かめようとするだろう。
「あっ、大変! 〈銀河くん〉が!」
だから、私は大きな声を出した。
観客が一斉に驚いた顔をする。それはそうだ。明らかに出しすぎなくらいの声だったから。視線が〈銀河くん〉に集中する。ほんの一時だけ、全ての意識を独り占めにする。
その一瞬が勝負だ、と蓮井さんが言っていた通りのことが起こる。
「宇『宙』にかけて、みんなにバク『宙』を披露したがってるみたいだよ!」
すると、さっきまでうっすらとした虚無感のようなものを纏っていた〈銀河くん〉が、急にイキイキとした空気を放ち始めた。
着ぐるみの見た目が変わっているわけでもないのに、本当に不思議なことだった。しかし、傍らにいてその中身を知っている私からしても、急に魂を得たようにしか思われない。手なんだか足なんだかわからない手にぐっと力を入れる。手なんだか足なんだかわからない足をぐっと踏ん張る。観客は、私の声で驚いたときの比じゃなかった。もうぎょっとする勢いで、今、銀河中が目を見張って〈銀河くん〉の動向に注目している。
壮絶な力を込めて、バク宙が始まる。
宙に浮き上がることすらなく、ぺしゃっと潰れた。
「……〈銀河くん〉」
一拍開けて、
「どうしてそんなに自信満々だったの?」
滑稽さと愛らしさを半々に笑いが起きれば、後はもうこちらのものだった。
私はあの日のように呼び掛ける。〈銀河くん〉がピンチだよ、応援してあげて! 今度は子どもの声だけじゃなく、大人の声も混じっている。〈銀河くん〉はやたらに大仰な、いかにも精魂振り絞り尽くしていますという動きで立ち上がるものだから、また笑いが起きる。もう、彼の一挙手一投足に誰もが目を奪われずにはいられない。
でも、ふと私は気が付いた。
ついさっき、バク宙に失敗したとき、〈銀河くん〉は仰向けになって、空を見ていたということを。
ボクシングヘヴィ級タイトルマッチの最終ラウンドみたいな動きで〈銀河くん〉が立ち上がる。そんなに褒め称えるところもないと思うのだけど、まるでクラシックコンサートの後みたいな大拍手が、多分ちょっとした悪ノリも含めて鳴り響く。雨音すら掻き消すような大音量で、だから、そこから先はもう、ただ進むだけ。
ショーが終わって、グッズの販売中に、天井を見上げてみた。
天窓は閉まっている。
いつ閉まったのか、私にはわからない。
◇
それぞれの感想について、ちょっとだけ。
まず高浜さんは、
「すごいですよねえ、三階堂さん。僕、あんな風に人前で堂々と喋れませんよ」
社長は、
「なかなか貫禄が出てきたんじゃないか。どうせ三階堂はいつも一日中いるんだし、そろそろうちも原稿とQ&Aを作って生解説に移行するか。……給料? まあ、録音も録音で落ち着くし、独自の良さがあるな」
月丸さんは、
「……あの、良かった、です」
そして最後に、蓮井さんは、
「見てくださいこれ。ショーの後に子どもたちが書いてくれた感想です。基本的には褒めてくれてるんですけど、ほら、ここだけ。『バク宙ができないのはかわいそうだった。次は成功してほしい』って。いや、そうですよね。子どもからすれば〈銀河くん〉は友達なわけだから、失敗よりも成功を祈るわけです。着ぐるみでバク宙はリスクが高いからと成功パートは作らなかったんですが、ここまで配慮できてなかったなあ……。三階堂さん、次はもっと良いものを作りましょうね」
当然、私はこう答えることになる。
「もうやりません」
蓮井さんも、別に本気で言っていたわけではないらしかった。
ははは、と爽やかに笑う。そうですね、と私の言葉を肯定する。
「三度もやったら、癖になりますから」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます