ドーナツとアイスクリーム



 私には、ドーナツを売る才能がある。

 と、思っていた時期がある。


 高校生の頃だ。理由としてはすごく単純で、文化祭でドーナツ屋さんをやることになった。私はその頃そんなに文化に興味がなかったので、特に「あそこに行きたい」「これも回りたい」というような欲求がなく、割合率先して店番をやっていたのだけど、これがもう飛ぶように売れた。昼前にはもう完全に売り切れになってしまって、午前シフトだった人間は午後シフトの人間と比べて労働時間が長すぎると不平が高まり、文化祭を通して絆が深まるどころか溝が広がりかけるほどだった。


 午前のシフトに、一番多く入ったのは私だった。

 そういうわけで、思うに至った。私には、ドーナツを売る才能がある。


 これにはくだらない種明かしがある。今はどうなのか知れないけれど、当時、私の通っていた学校ではリスク管理の問題だか何だかで、食品関係の出店がものすごく少なくなるような規制がされていた。ドーナツ自体も、実は既製品。よそからちゃんと衛生管理を保って作られたものを提供してもらって、それを売っていただけ。看板にもそのお店の名前をちゃんと出していたから詐欺ではないと思うけれど、実態としては高校生が自分たちの自主性に任せてお店をやっているというより、チェーン店の代理出張販売所というところだった。


 食べるところが少なかったのだ。

 他にはたこ焼きとカレーと焼きそばくらいなもので、選択肢がほぼない。砂漠の果てにあればどれだけ料理人の腕が悪かろうがレストランは繁盛するはずで、しかも既製品を貰ってきたわけだから、その腕すらも悪くない。初心者用のお店屋さんごっこをやっていたみたいなもので、だからよく考えると、私にドーナツを売る才能があるわけではなかった。


 でも、当時はそう思っていたので、最初のアルバイトはドーナツ屋さんを選んだ。


 というようなことを、〈銀河〉二階のドーナツ屋さんの前で思い出し、懐かしんでいたら、恐るべきことにその奥から知った顔が現れた。


「あれ、」


 とこちらの顔を見て視線を留めたのは、立派な白髭のおじいさんだった。夏毛のサンタクロースのような風情になっていたけれど、我ながら大した記憶力だと思う。ドーナツとの組み合わせに思い当たるところがあって、すぐに誰なのかわかった。


「警察の」


 すると、向こうもそれで思い出したらしい。


「もしかして、アルバイトの?」


 ちょうどそのアルバイト時代の話だった。

 その頃はまだ、確か〈銀河〉にドーナツ屋さんはなかったと思う。代わりに駅周りにもうちょっと賑わいがあって、その近くのドーナツチェーン店で私はバイトをしていた。クラスメイトから「学校に近いのって嫌じゃないの?」と訊かれて、「客は客、全部同じ」と当時の私はかなりプロっぽいことを言っていたけれど、実を言うと、お客の中でも目立つ人は何となく顔を覚えていた。


 その中の一人が、この人だった。

 目立つ理由は単純で、よく制服を着たおまわりさんと一緒に来て、謎の威圧感を放っていたから。


 そして、なぜかそのうち急に同僚になって、しばらく一緒に働いていたから。


「待て待て、今思い出す……数字が入ってたよな。四谷……じゃ怪談になっちまうな」

「頑張ってください、元刑事」

「任せとけ。……一、二、そうだ。なんかあったよな。一発ギャグみたいなの」

「ありませんよそんなの」

「あっただろ、自己紹介のときの――そうだ三階堂!」


 合ってるだろ、と言われれば、まあ、合っていた。珍しいことに、数字まできちんと。


 お久しぶりです、と頭を下げる。そのときちらっと名札を見ておく。シゲさんと呼ばれていたことは覚えていたが、そのあだ名の印象が強すぎて、細かいところは覚えていなかった。茂倉さん。今覚えた。


「茂倉さん、〈銀河〉でも働いてたんですね。駅周りから撤退して、どうしてるのかと」

「おう。色々転々としてたんだよ。今はここの店長だ」


 えっ、と声が出た。

 だはは、と茂倉さんは豪快に笑った。


「だよなあ。やらすなよな、こんな仕事。早期退職で隠居生活送ってる爺さんに」


 警察よりもドーナツの方が好きだと気が付いた、というのがかつての茂倉さんの言だった。


 憧れていたそうである。子どもの頃に観たサスペンス映画で、刑事がドーナツを食べるシーンが出てきていた。そのチョコレートのコーティングの、美味しそうなこと美味しそうなこと。付け合わせのコーヒーが夜に湯気を立てる有様の、香しそうなこと香しそうなこと。映画に憧れて警察に入ったはいいものの、よくよく考えてみれば自分が好きだったのは警察の仕事ではなくそのドーナツの方だったと、数十年働いてようやく気付いたそうである。


 それで警察を退職してまでドーナツ屋さんに転職してきて、一度は同僚になった。


 人には色々な人生がある。

 にしても、


「それは……おめでとうございます」

「いやあ、めでたかねえよ。子どもも独り立ちして、後はのんびり暮らそうってのに、忙しいばっかりで。おれぁてっきりこの年になったらのんびり夫婦で年金暮らしと思ってたんだけどよ」


 そこから茂倉さんは、ひとしきり現行社会に対する愚痴を披露し始めた。少子高齢化だの何だの、どうしてこうなっちまったんだかなあ。どこの国も戦争ばっかできな臭えし。おれぁ結構真面目に働いてきたつもりなんだが、それだけじゃダメだったんかね。しかし今の若いのは大変だ人手不足だってあんだけ言われてるのに、隠居したじじいの俺より働いておいて、大した給料を貰っちゃいねえ。何だか世の中が暗くなったよなあこれもおれら世代の責任だろうねところで警察を辞めるときはなかなか大決断だと思ったが今となっちゃ意外にもかつての同期が働く先が見つからねえってひいこらこいててうちじゃ「お前にはなかなか先見の明がある」って評判に――


 よく喋る人だなあと思うけれど、前に茂倉さんの後輩だという人がお店に来たときに零したところによると、かつては寡黙で鳴らした渋い刑事だったそうだ。後輩さんは「人って変わるものですねえ」と感心していたが、私にとっては最初からこんな感じの人なので、久しぶりに会っての感想も「相変わらずだなあ」に過ぎなかった。


 再会しておいて、じゃあどうもさようなら、も味気なく思えた。


「折角だし何か買っていきますか」

「おっ、いいね。毎度あり」


 昼休みだし、昼食を終えてからのことだったから、すぐに食べられはしない。でも、プラネタリウムのバックルームには冷蔵庫もあるし、夏とはいえど中に入れておけば一日くらいは保つだろう。それなりに長い付き合いになったから誰が何を好むかは大体把握できている。もし社長が来たときに自分の分がなかったら拗ねるだろうから、三人分にしておいて、余ったら明日の私の昼食に回そう。


 苦渋の決断として、飲み物も頼む。その本数でようやく察したのだろう、茂倉さんは、


「家族にか?」

「いえ、職場に」

「このへんか?」

「三階北奥、プラネタリウムです」


 はあー、と驚いて、


「近くにいてもなかなか気付かないもんだな」

「建物が広いですからね。私も結構、ここの食べてるんですけど」

「何。見落としてたか」

「いつもはプラネタリウムのオーナーが買ってきてくれるんですよ。大瓦っていう、」


 簡単に社長の特徴を伝えると、あああの格好いいお姉ちゃん、と茂倉さんは頷く。もう流石にお姉ちゃんという年でもない気もしたけれど、年を取っていくにつれて全ては曖昧になっていくのだと思った。それが幸せなことなのかはよくわからない。


「それなら、こっちも買っていった方がいいんじゃねえか?」


 にやり、と茂倉さんは笑って指差した。

 レジの横にポップが貼られていた。新商品だ。こんな文字が並んでいる。『夏季限定』『歯ごたえ楽しい!』『新触感』『がぶがぶサマークランチ』『しっとりリッチチョコ』『さわやかチョコミント』


「……新商品の毒見って、あの人じゃなくて私がしてるんですよ」


 でも美味しそうだから買います、と言えば、毎度あり、の言葉がついてくる。じゃあまた、と頭を下げて、職場に戻る。高浜さんに「今日ドーナツ買ってきたよ」と伝えると、喜び、それから恐縮した。自分も明日には差し入れを買ってこなくてはという思い詰めた顔をしていたので、今度一階の空いてるところにラーメン屋さんのテナント入るらしいから一緒に行ってみようよ、と別の約束を取り付けてうやむやにしておく。それからつつがなく時間は過ぎ、退勤の時間が訪れ、私たちは冷蔵庫を漁り出す。


 そのとき、問題が発生した。


「お疲れ。差し入れを――」


 と、紙包みを持ってバックルームに入ってきた社長が固まる。私は一応、こういう事態を危惧してはいた。というわけで実はドーナツ屋さんからの去り際、茂倉さんに言っておいた。もし社長が来たら、今日の分は私が買っていったって伝えておいてください。


 本人に連絡しておくのが一番事故を防げたのだろうけど、わざわざそんなことを言うのもかえって催促しているみたいだからと、遠慮していたのが災いした。


 別のところからの差し入れだった。


 アイスクリーム。


 社長も、明らかに差し入れの重なりに気付いたらしい。そのまま冷蔵庫の前まで移動する。小さな冷凍スペースを開けて、大人しくそれを収納しながら、こう言う。


「夏だから」





 一理あった。


 確かに私は以前はドーナツ店で働いていたこともあり、この手の軽食ではドーナツ贔屓ではある。けれど、夏だから。熱中症になるので外に出てはいけません、なんてアナウンスが大真面目に流れるような季節だから。


 ドーナツではなく、アイスクリームの方が食べたいと思う日もある。


 というわけで、別の日の昼休み。社長が持ってきたアイスの差し入れも食べ尽くした頃になって、私はアイスクリーム屋さんの前まで来ていた。


 ちょっと気まずいのは、それが〈銀河〉の二階にあることだ。しかも、茂倉さんが店長を務めているドーナツ屋さんとは通路を挟んで向かい同士。まさか気付かれることはないと思うし、そもそも気付かれたところで、別に咎められる謂れもない。


 でも、一応振り向いておいた。

 目が合った。


「気を遣っちゃった?」

「ははは。実は……」


 高浜さんだった。

 結局、私の気を逸らす作戦はあまり上手くいかなかったらしい。差し入れを貰いっぱなしでも悪いと思った彼は、昼休み、ちょうど私と同じタイミングで終業後の差し入れを買いに来ていた。別にそんなの気にしなくていいというのが私の言いたいことではあるけれど、しかしそう言われて綺麗さっぱり忘れられるなら、世話はない。


 二人でアイスクリームを買うことにした。


「やっぱり高浜さんはチョコミント?」

「好きですね。三階堂さんは?」

「私、あんまりフレーバーに詳しくなくて。いつも悩んだ末にバニラとか買っちゃうかも」


 っぽいですね、と高浜さんは言った。

 どのあたりが「っぽい」のだろうと思ったけれど、私も高浜さんがチョコミント好きと聞いたときに感じた「っぽい」という気持ちを説明できるかというと、できない。気にしないことにして、


「でも、結構そうじゃない? アイスとドーナツって、特に種類が多くて把握し切れないよね」

「僕、実はドーナツがそれです。今でも子どもの頃に両親がよく買ってきてくれたものをそのまま選び続けるような形で」

「そうなんだ。でもわかるかも」


 私もドーナツ屋さんでアルバイトをしたことがなければ、というようなどうでもいい話をしながら、フレーバーを選んでいく。チョコミントとバニラが確定。社長用に一個はチョコ系統のも買っておいて、三個だけでは寂しいからと、明日の分も買ってしまおうと、どうせなら期間限定とか食べたことがないのがいいかなと、私たちは話している。


「それなら、こちらがおすすめですよ」


 アドバイスは、ショーケースの向こうから聞こえてきた。

 にっこり笑っているのは、ショートカットの、さっぱりした女性の店員さんだった。痩せ型だけれど、何となく貫禄がある。年の頃を見ると、あるいは店長かもしれない。


 彼女が指していたのは、ちょうどこの間ドーナツ屋さんで茂倉さんにやられたのと同じだ。レジの横のポップ。新商品。『夏の思い出』『期間限定』『口で消えちゃうしゅわしゅわ食感』『ドリーミィラムネ』


 へえ、と高浜さんが興味深げにそれを見る。それで一つは決まって、私も気になったのでもう一つも決まる。二人だけで食べていて自分の分がなかったら社長が拗ねるだろうということで、三つめも決まり。


 どうもありがとうございました、と高級ホテルみたいなお辞儀をされて、普段の我が身の接客ぶりに思いを馳せながら、お店を出る。


 結構買ったね、と高浜さんに言うと、


「すみません、あと一個だけいいですか」


 と彼は言う。別にダメという理由もないからそのまま見守っていれば、彼は通路を横断して、ドーナツ屋さんに入っていく。それから小さな箱を手に戻ってくるから、


「お腹空いてるね」

「一つだけと思ったんですが、それだけじゃ申し訳ない気がしてつい何個か……」


 らしいなあ、と勝手に納得しながら足並み揃えてプラネタリウムへ。高浜さんはさらにここでも気遣いを発揮して、私からアイスクリームの箱も奪ってしまうから、こっちはすっかり手が空いてしまう。


 彼の奥の方の手を覗き込みながら、ほとんど確認のような調子で、私は訊ねた。


「やっぱりチョコミント? クランチの」


 そうです、と高浜さんは頷く。この間食べたのが気になっちゃって。そう言って、左の手を軽く持ち上げる。好きだねえチョコミント、と言えば、これにもまた彼は、はい、と答えるけれど、


「でも、実はそれだけじゃなくて」

 変わったことを、続けて言った。


「ピリッとした気がするんですよね。食べるとき」





 高浜さんの言っていたようなことを、みんな思っていたらしい。

 と言っても、たとえば隠し味に唐辛子が混じっているとか、そういう話ではない。


 噛まれる、という噂が流れていた。


「そんなわけがねえんだけどなあ」


 退勤後にお店の前を通りかかると、茂倉さんはいかにも疲れた顔をしていた。目が合うと、おう、と片手を上げて挨拶してくれる。お疲れさまです、と私はまんまと店の中に誘い込まれてしまう。


 単純に噂に疲れているのもそうらしいけれど、噂の不穏な空気を感じたのか、それとも単に夏休みでみんな遊びに出掛けてしまったのか、アルバイトの人が入ってくれるシフトが少なめになってしまったのも疲労の一因だという。老体には堪える、と彼は言った。


「大体、何だよ噛まれるって。よく見てくれよ。穴の向こうに何かいるか?」


 全くいつの時代も噂ってのは、と大変ご立腹の様子だった。まあまあ、と私が宥めると、それから彼はこういうことを説明してくれた。もちろんこれは本社の方でちゃんとした調査が成されていて、その上でちゃんと安全性は確認されている。食べられるものだけで作っているんだから、食べられないものができるはずもない。アレルギー表示だってちゃんとしている。その上美味しい。だというのに、こんな変な噂のせいで販売中止にしようかなんて議論がされていて、腹立たしいことこの上ない。開発担当者だって可哀想だ。一体いつから世の中ってのはこんな風に……。果たして部外者である私にそこまで喋ってしまっていいのかは謎だったが、茂倉さんの中ではいまだに私はドーナツ屋さんの仲間なのかもしれない。それはそれで、ありがたいことだ。


 というわけで、ドーナツを一個だけ買っていくことにした。


 ちゃんと新商品の『がぶがぶサマークランチ』の『しっとりリッチチョコ』を。私は高浜さんと違って、特に一個だけ注文することに抵抗はない。別に、自分で働いているときに気にしたことがないから。心の中で『がぶがぶ』というのがまさにそういう名前みたいだと思ったけれど、もちろん声には出さない。


 あんがとよ、と笑う茂倉さんの顔が、ちょっと切ない。


 目の前の通路で食べてしまうというのも何だかだったので、私はそのまま三階に移動してみることにした。フードコートがある。午後も六時を過ぎるということで、まあそれなりの人がいないでもない。空いているからとついでに天そばを頼んで、食べて、その後ゆっくりドーナツをいただくことにした。


 外面はざくっとした食感で、中はかなり噛み応えがある。

 大きめのチョコレートを、噛み砕いて食べてしまうことで得られる快感というものがある。あの、こんなに甘くて美味しいものをたったの一瞬で消費してしまっているという罪悪感。こんなに食べてしまってもいいのかというちょっとした焦りと、その焦りを踏み倒すことで得られる高揚感。


 それが延々と続く。


 たぶん、チョコレートが厚めに、かつちょっと固めに入っているのが肝心なのだと思う。何度噛んでも噛み応えがある。コーンフレークやビスケット、あるいはナッツか。噛むたびに食感が微妙に違って、その延々と続くことにも飽きが来ない。そしてチョコ自体も、ちょっと身の危険を感じるくらいに美味しい。こんなに甘くて美味しいものを食べて私の身体は大丈夫なんだろうか。耐え切れるんだろうか。うどんじゃなくてコーヒーを頼んで、相殺しておいた方がよかったかもしれない。


 別に、ぴりっとはしなかった。


 根も葉もない噂だったと言ってしまえばそれまでだけど、私が気にかかるのは、高浜さんがその噂が広まる前からそれに関することを呟いていたことだ。勘違いなら勘違いで、何かしらその原因となるものがあるのではないかと思っていた。それとも『チョコミント』だけで起こる現象で、『リッチチョコ』には関係がないのか。前に食べたときも、やっぱり私は何も感じなかったし。


「買ってきた?」

「きた!」


 と思っていると、近くの席からそんな声がする。

 見ると、小学生の一団だった。小さな身体で、頭を寄せ合うようにテーブルを囲んでいる。真ん中には、ちょうど私が持っているのと同じドーナツ。漏れ聞こえてくるのは、最近有名になり始めているあの言葉。


『おばけドーナツ』と呼ばれているそうだ。


 始まりは、最近の例に漏れずインターネットからだったらしい。某ドーナツ店で発売された新商品が『噛む』と。その新商品がいつの間にかあの『がぶがぶサマークランチ』のことだと決められた。そこからは動画投稿サイトに『噂の新商品を食べてみる』等の投稿が盛んになって、週刊誌が取り上げて、後は地上波まで行くか行かないか。


 子どもたちの笑い声が示すように、そこまで真剣に取り上げられているわけではない。元の噂が荒唐無稽だし、当然怪我人も出ていない。投稿された動画もいくつかは見たけれど、私のように「何ともないですね」とけろっとして報告するだけものもあれば、いかにも大袈裟なリアクションで笑いどころを作った後、「ぜひ皆さんも食べてみてください」で締めるものも多い。企業からは原材料の公開とともに「健康上の問題はありません」のアナウンスも発出され、それに対するリアクションも「それはそうだ」というものがほとんどだった。


 しかし、『火のないところに煙は立たない』ということわざを学校で教わってしまうことの罪深さ。根も葉もない噂は根も葉もないから引っこ抜くこともできず、ああして茂倉さんの胃を痛めつけている。


 一方で子どもたちからすれば、自分たちで確かめられる都市伝説として面白く消化されてしまうのだなあ、とその小学生たちを思っていれば、


「違うって。食べちゃダメ」

「指でしょ、指」

「動画で見たよ」


 というようなことを、彼らが言う。一人が両手でドーナツをつまむ。もう一人が人差し指を立てて、真実の口に手を差し込むみたいにおそるおそる、その指を水平にして、ドーナツの穴に向ける。


 固唾を飲んで、全員がそれを見守る。


 わあ、と大きな声。椅子ごとひっくり返らんばかりのリアクションに、彼らは笑う。





「三階堂。ドーナツ屋の店員に興味あるか」

 と、とうとう社長が言い出した。


 こういう発言の意図を正しく理解するためには、社長の人格というものをしっかりと把握しておく必要がある。地主で、本職は研究者で、明らかに赤字のプラネタリウムを粛々と経営し続ける謎の人……というだけに留まらない。それなりに長い付き合いになってきたので、私はこの人のちょっとした傾向のようなものを、よく知っている。その中でも一番、今回の発言に関連していると思しきものはこれだ。


 社長は大体何のスポーツでも、初めて見たときは「どこが一番弱いんだ」と気にする。


 そして、その一番弱いところを応援し始める。

 プロスポーツなんかでもそうだし、オリンピックでもそうだし、何なら甲子園でもそうだ。一番勝ちそうにもないところを見つけて、その良いところをたくさん見つけてくる。絶対勝てるぞ、と言い出す。たまに本当に勝ち、ほとんどは負ける。競馬なんかをやっていたらとんでもない負けっぷりだろうし、何なら似たような理由で私の職場まで確保されているのではないかと恐ろしくもなるが、本人はいたってさっぱりしたもので、勝てば喜び、負けても引きずらない。別に賭博にハマる気配もなく、健全な性質の一つとして、そういうところを持ち合わせている。


 それが高じたのだと思う。


「聞いただろ。あの『おばけドーナツ』の噂。あれもあってか今、人手が足りなくなってるらしくてな」


 お前あそこの店長と知り合いらしいじゃないか。行ってきてやったらどうだ。

 この時点では、いやいやそんなの余計なお世話ですよ、くらいの気持ちで私はいた。大丈夫ですって、他のバイトさんも見つかりますって。しかしそこから、社長は追い打ちをかける。


 派遣している間は、うちの給料とドーナツ屋の給料両取りでいいぞ。


「こちら商品でございます。ありがとうございました。またお越しください」


 というわけで、私は通常時と比べて遥かに多くの時給を発生させながら働いている。


「いや、ブランクを感じさせねえなあ」


 接客の一部始終を見ていた店長が、感心したように言う。彼は当初、「働きにきました」という私の存在に完全に困惑していた。事前に社長から連絡はあったようだけれど、どうしてそこまでしてくれるのか全くわからなかったらしい。私が「地位とお金をすでに持っている人なので、多分私を使って人望も手に入れようとしているんだと思います」と勝手な偏見を伝えると、それで納得してくれた。「そのうち地方選にでも出るのかね」と、そんな予定は聞いたことがないが、そうなったら応援してくれるそうだ。私も社長が当選した暁は秘書の一枠として……は謹んで遠慮しておくが、ご祝儀として給料をさらに上げてもらいたいところだ。


「別に、私が働いてた頃と大筋は変わらないですからね。変わってるところがあったらわからないですけど」

「いやいや、本気で助かるわ。っと、それじゃあ俺、ちょっと裏に回ってきてもいいか? 店長の方の仕事ってのが溜まってんだ、これが」


 人手が増えてもやる仕事が変わるだけで、休みが増えるわけではない。

 忙しい職場の悲哀というものを感じながら、私の久しぶりのアルバイトが始まった。


 といって、それほど波はなかった。笑顔を張り付けて、注文を聞いて、注文通りのドーナツやドリンクを出して、掃除をして、接客をして、備品の補充をして……。クーポンやら決済方法やらが異様に増えていたけれど、それくらい。忙しい時間でもなかったので、マニュアルをカンニングしながら対応しているうちに慣れた。ちなみにプラネタリウムでは、アプリで予約だのクーポンでお得だのというシステムは一切採用されていない。社長曰く、「そんなものをアピールしたところでデジタルに疎い高齢者が近寄りがたく思うだけ」とのこと。あとは彼女の中での理想のプラネタリム像に関わる問題があるらしい。楽なので、特に文句はない。


「お疲れさん」

 そうこうしているうちに、さっさと仕事は終わってしまった。


 昔よりも一日が短くなった気がする。特にまだ何もしていないのに退勤の時間が来た気分で、そういうことを伝えると「その年で言うのは早えよ」と茂倉さんは笑う。その後はプラネタリウムが暇な曜日や時間帯を訊かれ、まあ全部暇なのだけど、それっぽいところを探し出して答える。


「一週間後に一応、もうちょっと人手が増えるはずなんだよ。面接を何件か入れたから」

「そうですか。じゃあ、よかったですね」


 おう、と茂倉さんが頷く。というわけで一週間だけ頼むわ、といくつかシフトが入る。ものすごく忙しそうな時間帯に二日ほど入っているのを目撃してしまったが、こういうのは頭の片隅に置いておいても良いことは何もないので、はい、と頷いてその日まで忘れることにする。


 社長さんによろしくな、と笑って送り出された。社長は私を用いて地位とお金のみならず、人望も手に入れようとしている。


 そして私から社長への信望はといえば、「ドーナツ屋の方が終わったら直帰でいいぞ」と言われたために、それなりにある。まだ時刻は十六時前だ。夕食にするにしても早すぎるし、〈銀河〉の直営売り場の方でお弁当でも買って帰って、後は家でだらだらするとしよう。


 そう思って、着替えてドーナツ屋さんを出る。


 すると、すぐにそれが目に入ったし、目が合った。


 女の人だった。傍らには三歳くらいの女の子が立っている。どこにかと言うと、ドーナツ屋さんの向かい。アイスクリーム屋さん。困っている風だったので、近付いていってみる。


「やってますよね?」

 と、遠慮がちに彼女は訊いてきた。質問の意味は簡単にわかる。お店は明らかに開いているのに、店員さんが誰もいなかったのだ。


 見ると、カウンターの上に呼び出しボタンがない。普段からここに人が立っていることが前提なのだろう。お節介かと思いつつ、しかし「待っていれば来ますよ」と 親子を置いてけぼりにするのも忍びない。


 幸いと言っていいか、スタッフルームへの扉はカウンターの奥ではなく、客席の奥の方にあるお店の造りになっていた。


「すみません」

 呼び掛けると、ひどく慌てた様子で、中から人が出てきた。


「あっ、」


 避け損なった。


 知っている店員さんだった。この間、高浜さんと一緒に買いに来たときに新商品をお勧めしてくれた女性だ。こちらとしては軽くぶつかっただけなのだけど、よっぽど忙しいタイミングだったのか、かなり慌てている。すみませんお怪我は、と訊かれるけれど、もちろんないし、何ならお客でもない。


 むしろ、彼女が手にしていた携帯電話が床に落ちたことの方が気になる。

 壊れていませんようにと祈りながら屈んで拾って、渡して恐縮されて、


「こちらのお客さんが困っていらっしゃったようなので」


 と告げれば、それでようやく向こうも私が〈銀河〉のテナントのどこかで働いている、従業員側の人間だと気付いたらしかった。ほっとしたように顔から緊張が抜ける。私にお礼を述べながら指先が『通話終了』の操作を行って、それから「大変お待たせいたしました」とレジを開ける。


 待ちに待っていた子どもが、どう考えてもそんなに食べ切れない量を注文し始める。こら、とお母さんがそれを諫める。店員さんは微笑まし気にそれを見て、親子が揉めている間に私にもう一度目礼を送ってくるから、こちらも送り返して、ようやく私は店を出る。


 そして、食料品売り場でお弁当を眺めながら思い出す。

 店員さんの顔が、少し青く見えたこと。


 拾った電話、まだ繋がったままの通話口から「絶対にドーナツ屋には負けるな」というような言葉が聞こえてきたこと。





 もしかしたらあのとき、アイスクリーム屋の店員さんは、そのことをもう知っていたのかもしれない。


 次はそっちの番だということを。


「あれもう食べた? 三階堂さん」


 プラネタリウムの方に行ったら受付にいなかったからびっくりした、と言われた。

 それでドーナツ屋さんの方に来たら本当に働いていたから、今度こそ本当に転職したのかと思ってさらにびっくりした、と言われた。


 浦々さんだった。フードコートのハンバーガーショップでアルバイトをしている高校生。ちょうど退勤のタイミングだったので着替えて出てくれば、一緒にトイレに寄って、戻って、それからそんなことを言われる。


 ドーナツの話かと思ったら、そんなことはない。

 向かいのアイスクリーム屋さんのことだった。


「あ、まだ見てない? こっちもこっちで話題になってるんですよ。ドーナツもだけど」


 そう言って見せてくれたのは、ネットニュースだった。タイトルは『検証! 消えるアイスは本当に消えるのか!?』


 食べたことがあるのかと訊かれれば、あった。そのネットニュースで使われている『消えるアイス』は、前にお店で勧められた新商品『ドリーミィラムネ』だったからだ。


 記事の内容は単純で、その『ドリーミィラムネ』を常温で放置して経過を観察するだけ。勿体ない、と思って見ていると、その後の写真は不思議な経過を辿っていく。


 溶けていくのは、まあいい。普通のことだ。


 けれどその溶けた後の液体が、お皿の上に全く残らなかった。


 記事は「本当に消えた!」と誰もが思い浮かべるような通り一遍の驚き文が続き、その後アイスクリーム屋さんの本社が出した声明文が載っている。決して巷で言われているように『おばけのアイスクリーム』というわけではありません。こちらの意図した形としてこのようなデザインが行ったわけでもありませんが、アイスクリームが消えるのは今回の『しゅわしゅわ食感』を実現するための食品の組み合わせによる蒸発速度の問題であり、安全上の問題がないことは確認しております。


「太らないって噂になってんだよね。消えるから」


 若さを感じた。

 これからアルバイトに行くというのに、浦々さんは平然と三段重ねを頼み、もりもりとすごい勢いで食べ進めている。一瞬にしてその量を口の中に収めていく様の方がむしろくっきり『消えるアイス』で、仮に『ドリーミィラムネ』を食べて太らなかったとしても、残りの二段のチョコとキャラメルの行方についてはどう考えているのだろうと訊いてみたくなり、訊いても嫌がらせ以外の何物でもないかと心の中にしまっておく。人々はみな好きに食べて、好きに幸せになればいいのだ。成人病にならない範囲で。


「あ、うまっ」

「ね。それ美味しいよね。シャーベット系かと思ったら、意外とベースのバニラが濃くて。アクセントのラムネもさっぱりしてるし」

「三階堂さんも食べたらいいじゃん」

「最近甘いもの食べすぎで……」


 その上、四六時中ドーナツ屋さんでドーナツを見続けている。昔は何とも思わなかったけれど、今となっては見ているだけでお腹いっぱいになってきた。昨日はそういう気分を吹き飛ばすために濃いめのラーメンを食べて帰ったけれど、特に効果はなかった。何なら顔がいつもより張っている気がする。


「運動しなよ……」


 ごもっともなことを言われた。夏場なので最近バス通勤ばかりなのも響いていると思う。


 と、そこで思い出す。


「明日夜勤だから、久しぶりに自転車に乗ろうかな」


 シフトを見た瞬間に記憶から忘れ去り、当日、あるいはその記憶が必要になった時点で咄嗟に思い出すという特技を私は隠し持っている。それを今使った。明日で一応派遣バイトは終わりだけれど、衝撃的なことにいつもプラネタリウムを退勤するくらいの時間から仕事が始まり、締め作業まで手伝うことになりそうなシフトだった。明後日はプラネタリウムの定休日なのが救いと言えば救いだ。


 危ないよ、と浦々さんに言われる。バスで帰んな。いつも私が言うようなことだったので、反論の余地はない。そろそろ〈銀河〉の中にあるジム施設に通い、わざわざ疲労を溜め込むためにお金を払うべき時が来たのだろうか。話に区切りが付けば、また戻って、


「でもこれほんと美味しい。定番商品になんないのかな」

「難しいんじゃないかな。噂になっちゃったし」

「そういうのやっぱ大変なの? 結構学校だと、ここのアイスの話題で盛り上がってるんですけど」


 言っている間に、確かにちらほら制服を着た高校生がアイス屋さんの方に吸い込まれていく姿が見える。ドーナツ屋さんでもそうだった。働いていてわかる。確かにそれ目当てのお客さんはいる。この間フードコートで見た、小学生みたいに。


「まあでも、こういうところって家族連れで来ることも多いからね」


 反対に、その前を素通りしていく親子連れも数組いた。

 食品の安全にはみんなどうしても気を遣う。身体に取り込むものだから、安全だと言われていてもなお気にかかる。こうなると後は信頼の問題になってくるのだけど、何も失うものはないと信じやすい若者の中にだって購入を控えるような子はいるのに、まして家族や大切な人にそれを買うとなったら。


 微妙な顔で、浦々さんは自分のアイスを見た。

 安全上問題はありません、と私は公式声明を繰り返す。




「仕事が終わった後に食えるところがどっかにありゃあいいのになあ」


 とは言うけれど、食べられるところが全て営業終了するがために私たちの仕事も終わるわけで、難しい注文だった。〈銀河〉は〈銀河〉という一つの施設の中で完全な生態系を確立していて、周りにお店もない。


 今度改めてなんか奢るよ、と茂倉さんが言う今日は、とうとう派遣バイトの最終日だった。案の定締め作業も行うことになり、時刻はもう二十一時を過ぎている。夕方から夜は特に客入りが少なくなり、それこそ茂倉さんの好きな洋画によく出てくる深夜のドーナツショップみたいな閑散ぶりだった。キッチン担当ももう帰ってしまって、今は私と茂倉さんとで二人だけ。向かいのアイスクリーム屋さんも、それだけでなく他のテナントもみんな同じだ。〈銀河〉直営エリアと映画館を除いては、これで今日一日の終わりだった。


「っと、車の鍵がねえ」


 立入禁止を表すポールを置いて、いよいよというときに茂倉さんが踵を返した。パントマイマーみたいに胸、腹、足、腰、とリズミカルにポケットを叩いた後、「先帰っててくれ」ともう一度バックルームの方に戻っていってしまう。そのとおりにしてもよかったけれど、いつもプラネタリウムを後にするときは高浜さんと二人で戸締りチェックをしているから、その癖だと思う。私はその場に留まった。


 テナントが灯りを消して、閉店後の〈銀河〉は少し暗い。

 完全に消灯されて真っ暗というわけでもないけれど、人通りもそっと途絶えて、音も少ない。普段から人がいるべき場所にそれがないと、寂しさがふっと増して、真新しい廃墟のようにも見える。実際、遠からずそうなりうるのかもしれないとも思った。子どもの頃にあった駅前のショッピングモールはいつの間にかなくなり、高校生のときに通った駅ビルだってほとんどのテナントが撤退して、見る影もない。地方都市の人口減少は止まず、これからも進んでいくことだろう。新しいお店が開いたニュースよりも、昔からあったお店が閉店していくニュースの方が多く感じる。〈銀河〉だって、いつまでここにあるのかわからない。


 今日こなした、数少ない接客のことを思い出した。

 どうも、と嬉しそうに頭を下げていった、もう顔も覚えていない人たち。あの人たちだって、来年にはどこにいるのかもわからない。時は流れ、なすすべもない。視界に映る灯りが一つ二つと消えていくところを見守りながら、何となくそんな先行きのことを考えてしまう、寂しい空気の夜だった。


 ところで、それにしても遅い。

 よっぽどどこに鍵を置いたのかわからなくなってしまったのだろうか。振り返ってスタッフルームの方を見る。物音もしないし、こっちに戻ってくる気配もない。探すのを手伝いに行こうか。先に帰ってしまおうか。それとももう少し待ってみようか。


 今日はもう帰ったらお風呂に入って寝るだけだしなあ、とぼんやり考えていた。


 そのときに、電話が鳴った。


 プルルルル、と甲高く大きな音が、無遠慮に鳴り響く。きっと、昼間だったらそれほど目立つ音でもなかっただろう。喧騒の中で、ようやく耳に届く程度の音でしかなかっただろう。しかしこの時間帯には、訪れた小さな静けさを思い切り引き裂くような、それはもう大袈裟な音に聞こえた。


 一応、まだここのアルバイトということになっている。

 私は別に、電話を取ることに抵抗を覚えるタイプじゃない。


 三コール目で、受話器を取った。

 はい。ドーナツ屋さんの名前を名乗って、それから付け加える。〈銀河〉店でございます。


 数秒、無言の間があって、


「どうなってんだよ、今日の売上は」

「はい?」

「俺らは作るのが仕事。お前らは売るのが仕事だって。前も同じこと言ったよな?」


 低い男の声だった。

 相槌を求めている風でもない。さらに続く。


「なのに何なんだよさっきの売上報告は。おい。『おばけドーナツ』だのくだらねえこと言いやがって。対面のアイス屋はどうなんだよ。同じような噂が出て、売上落ちたか? 言ってみろよ」


 前に、高浜さんが「電話が苦手で」と言っていたことを思い出していた。

 メールならともかく、電話って逃げ場がないじゃないですか。単純に緊張するのもそうなんですけど、一時期はもう、着信音を聞くだけで息が止まるようになっちゃって。


 近くの椅子を引き寄せて、腰掛ける。

 受話器から聞こえてくる声に、耳を澄ます。声が言う。ふざけてんじゃねえぞ。売り上げが立たない店舗なんてなくなって当然、こっちはお前ごときのクビなんかいつだって切れんんだからな身の程を弁えろよ下っ端の田舎もんがこっちはなあ――


 きぃ、と扉が開いて、バックルームから茂倉さんが出てきた。

 私が受話器を持っているのを見ると、驚いた顔をする。それから焦ったような顔。さらに気落ちしたような、これから嫌なことに向き合わされるときの、痛みを覚悟するような顔。


「本社か?」

 小さな声で言う。


 替わってくれというように、また、電話を取らせてしまって申し訳ないというような気配を滲ませて、彼はその手を差し出す。私もまた、それに片手を差し出して答える。


 大丈夫です。


「おい聞いてんのか!? こっちは忙しいとこわざわざお前の言い訳に付き合ってアイス屋の方に噂だって流してやったってのに――」

「アイス屋さんにも同じ電話をかけていましたよね」


 声に聞き覚えがあったからだ。

 この間、アイス屋さんに誰もいなくて困っていた親子を案内したとき。バックルームから出てきた店員さんにぶつかって、床に落ちた電話を拾ったとき。


 そのときに聞こえてきたそれと、話し方も声質も、そっくり同じだった。


「かけていましたよね」


 声は返ってこない。

 もう一度、私は訊ねる。


「誰ですか、あなた」


 電話が切れた。


 つー、つー、と機械音が響いている。私は受話器から顔を離す。もう一度繋がったりはしない。向こうは相当大きな声で、がなり立てるような話し方をしていたから、多分スピーカーで話していたのと変わらない程度には茂倉さんの耳にも届いていたのだろう。彼は、呆然とした顔で私の方を見ている。


「今の……」


 その顔を見たらふと、ひどく当たり前のことが頭に過った。


 茂倉さんも年を取ったなあ、と思ったのだ。


 指でフックを押す。着信履歴のボタンを押す。電話の型が古いのか、直接ナンバーがディスプレイに表示されることはない。指を離す。それでも、何度かコール音が聞こえてくる。


 がちゃ、と通話が繋がる音。

 一言だけ、私は伝えた。


「いい加減にしてくださいね」


 無言のまま、電話は切れた。受話器を置く。久しぶりの夜勤は、たとえそれほど忙しくなくても身体に堪えた。私はうん、と大きく背伸びをする。


「帰りましょうか」


 茂倉さんは、ほっとしたように頷いた。





 ある一本の動画が話題になった。


 有名らしいけど、私は知らない人が挙げた動画だった。長い配信の、ほんの一部を切り取ったものだ。何かおめでたいことがあって、彼女たちは視聴者たちのコメントと一緒にパーティを開いていた。テーブルの上には、並んでいたら嬉しいものがたくさん並んでいる。ハンバーガー、ポテト、チキン、ピザ、お寿司。スナック菓子やお惣菜のようなしょっぱいものはもちろんのこと、甘いものだってたくさんある。クッキー、チョコレート、グミ、ラテ、フラペチーノ、パフェ。


 クッキー。

 アイスクリーム。


「『おばけ』と『おばけ』でいけんじゃん?」


 と、そのうちの一人が言った。流行に敏感なのだろう。その一言だけで彼女たちの間では通じた。そのときは、市販のものの組み合わせで何が美味しくなるかということを探求していたらしい。他の面々がさっと取り出したのは『がぶがぶサマークランチ』と『ドリーミィラムネ』だ。一人が加えて言ったのは、いくら何でもラムネとバニラとチョコじゃ味が混乱するということで、その意見に対して取られた対応は「チョコミントなら逆に合いそうじゃない?」というもの。大味四つ。意外にコメント欄は肯定的で、盛り上がりを見せている。


「夏のおばけスペシャル……とうっ」

 カップに入ったアイスを、彼女はドーナツの穴にぽいっと落とす。


 直後、聞いたこともないような叫び声が、その穴の中から聞こえる。


 彼女たちはみな、声も何も失って驚いた。一人なんて、びくっとソファーの上で動いて手をぶつけていた。一番胆力があるのか、『おばけスペシャル』と名付けた彼女が、そのお皿を持つ。カメラに近付いてきて、どうなっているのか見えるように、それを傾ける。


 割れたドーナツ。

 なくなったアイス。


 彼女は肩を竦めて、一言だけ言った。

 イリュージョン。





「珍しいですよね。わざわざ社長が残ってるように僕たちに言うなんて」


 と高浜さんはそわそわしていたけれど、私は何となくもう、理由がわかっていた。しかしわざわざ今の時点で、当たるかどうかもわからない予想をぺらぺら喋ることもないと思う。違う話題に逸らした。


「ね。それにしても今日、人すごかったね」

「ですね。あれ、何だったんですか」

「夏休みの最終日だから」


 ちょっと遅れて、ああ、と高浜さんは頷いた。


「日付の感覚がなくなってました。そうか、今日ってそうだったんですね」

「どこか文化的なところに行きましょうって宿題が出てたんだって。それで、最終日に駆け込み」

「文化的なところ……」


 漠然としてますね、と彼は言う。全く同感だった。それから二人でもそもそと「そもそも文化的なところってどこならいいんでしょう」「美術館とか?」「このあたりにありましたっけ」というような会話をして、うちに来るのも納得か、という結論に至る。結論に至れば、また次の話が始まる。そういえば一階のテナントまた閉店しましたね。え、どこ。あそこです、ほら、前に三人で行った。嘘、あそこ美味しかったのに。でも社長は最初に入ったときに「客入りの割に敷地が広すぎる」って言ってましたよね。


 あの人、よそのことはよく気付くからね。うちの経営状態にその目は向けないでほしいんだけど。


 という言葉が聞こえたかどうかは定かではない。高浜さんが笑ってくれたから、その笑い声で掻き消された可能性もあるし、扉が開いた音でそうなった可能性もあるし、何なら扉を開けた本人がもう自分で喋っていたから、そっちが重なったのではないかと思う。


 社長が入ってきた。


「お疲れ」


 最近の差し入れ事情について話す。


 実を言うと最近、当プラネタリウムは甘いもの離れをしつつあった。理由は単純で、私が例のバイト以降クーポン券を大量に入手してしまったから。ドーナツ屋さんのものだけではない。茂倉さん経由でアイス屋さんの方にも何らかの情報が伝わったらしく、プラネタリウムの皆さんでどうぞ、とそれはもう大量に。


 そして社長は不思議なことに、こういう貰い物は使い切らないとかえって悪いという思想を持っていた。というわけで来る日も来る日も来る日も来る日もドーナツドーナツドーナツドーナツアイスアイスアイスアイスアイス……。最初の頃は「何だか悪いです」とにこにこだった高浜さんも、徐々に顔が曇ってきた。人間、よっぽど気合が入っていないと甘いものや辛いもの、苦いものやしょっぱいもののうち一つを選んで毎日延々と食べ続けることは難しい。人は、飽きる。


 その気持ちが伝わったのだろう。ここしばらく社長は、差し入れするにもポテトとかチキンとか、あるいは牛丼とか、そういうしょっぱい、完全にそれは私たちの晩御飯の枠ですよねというものまで持ってくるようになっていた。


 それが、今日は違う。

 ドーナツとアイスだった。


「わ、久しぶりですね」

「まあな。悪いな待たせて。少し用事があって、寄るところがあったんだ」


 高浜さんは目を輝かせている。私も最近は甘いものをずっと控えていたから、そろそろ良い区切りになるかもしれないと思う。


 でも、多分社長が買ってきた理由は、食べたくなったからじゃないだろうなという予測があった。


「あれ」


 早速みんなの分を取り分けてくれようとした高浜さんが、箱を開けて目を丸くする。


「全部期間限定のですか?」


 やっぱり、と思った。

 社長はもっともらしく頷く。そろそろ販売期間が終わるらしいからな、と。高浜さんは素直に頷いている。そうなんですか、せっかく美味しいのに勿体ないですよねえ。しかし私は察している。社長はドーナツやアイスが食べたくて、折角だから終売間近の期間限定のものを買ってきたわけじゃない。逆だ。


「社長って、駆け込みで食べたがるタイプですもんね」

「……まあな」


 食べられなくなると思うと、急に食べたがるタイプなのだ。閉店セール中のお店によく連れていかれるのは節約志向ではなくて単にそういう性分なのだと、あるときから気が付いた。実は〈銀河〉にこうしてテナントに入っているのも、その趣味の一環なんじゃないかと思うことがある。


 怖いので、深くは考えないことにして、


「私、両方食べちゃおうかな。アイスとドーナツ」

「僕もそうします。社長はどうしますか?」

「ドーナツだけ。アイスは冷凍庫に入れておけば保管が効くだろ」


 取り分けが終わって、ドーナツを手に取る前。ふと私は、思い立ったことがあった。


 高浜さんは不思議そうな顔をしている。社長は全然気にせず、ドーナツを齧り始めている。私は『ドリーミィラムネ』にスプーンを入れる。一掬い分を取って、『がぶがぶサマークランチ』『チョコミント』の上に掲げる。穴に落としてみる。


 もちろん、何も起こらない。

 アイスを掬い直して口に運ぶ。意外としっかりしたバニラベースに、しゅわっと爽快感のあるラムネ味が弾ける。ドーナツを齧る。ざくっとしたチョコレートの歯ごたえに、ミントの清涼感が合わさって、すっきりとした甘みが口の中に広がる。


 そうして夏は過ぎ、後には美味しいドーナツとアイスクリームだけが残った。

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