2.柏木健太

 水色のパックからズズッとミルクティーを吸い込む音を立て、柏木かしわぎ健太けんたは細いストローを前歯で噛んだ。それから、違うクラスの小幡英子おばたえいこを見る。開いたままの教室の扉から見える廊下で、伊勢田いせだ水都みなとと楽しそうに話している彼女を。

 彼は一言何かを言い残し、立ち去った。きっと「じゃあな」などの短い言葉だったに違いない。

「何だよ、あれ」

 自分なら「じゃあ、また放課後に話そうね♪」と、にこっと微笑んで言うだろうと考える。

 表情をあまり変えず、おとなしく、一見すると人畜無害の伊勢田のようなタイプは突然溜め込んでおいた感情を露わにして周囲を驚かせたりすることを、柏木は知っている。伏し目がちな彼の瞳に時折翳りが現れることも。近い未来、轍鮒てっぷきゅうにうろたえる彼女の姿が浮かんでくるのは必定ひつじょうだ。

 柏木は中身のなくなったミルクティーのパックを、潰れたストローごとゴミ箱に放り込んだ。


 西校舎四階の図書室を、小幡はよく訪ねる。穏やかな笑みを浮かべながら好みの本を探す彼女に柏木が目を付けたのは、もう半年も前。図書委員特権で楽しく話せるようになってはいるが、いまだにスマホのトークアプリのIDを教えてもらう機会は訪れていない。彼女が部長を務める文芸部の部室は図書室の向かい側で、扉の向こうから漏れる明るい笑い声は何度も耳にしている。そのたびに嫉視しっしすることに慣れたくはないと、柏木は思っていた。

「プロットがんばれ」

「起承転結がわかりやすいのがいいのよね」

「度が過ぎたロールプレイングはやめとけよ」

「えー、でもこういうテイストじゃないと」

「おまえなぁ……」

 気軽な会話、気軽な沈黙。廊下に満ちる空気は冬の冷たさだ。入荷したばかりのハードカバーを手に、柏木は部室の扉前に立った。

「ごめん、今いいかな?」

「あっ、柏木くん! 新刊入ったの?」

「ドグラ・マグラ解説本なんだけど、確か前に読みたいって言ってたよね♪」

「うん! 今行くね!」

 扉近くで話す柏木の目をまっすぐに捉え、小幡が笑う。椅子に腰掛けている伊勢田は、小幡の背中側で眉間にしわを寄せる。その真っ黒な目に視線を合わせると、彼は柏木を強く見返した。

「……今日、一緒に帰らないか? カバンも持ってくれば?」

「え、あ……、えっと……」

 どうせ僕など新刊を運んでくる便利屋に過ぎないのに、帰り道の彼女を独占する権利くらいくれてもいいのにと思いながらも、柏木はにこにこ顔を崩さない。妬みの感情など表に出さず、常に余裕のある態度でいたいと考えているからだ。

「解説本なんていらねえだろ」唐突な、低い声。

「え?」

「人を介して理解したところで、何がおもしろいんだよ」

「おもしろい……かどうかは、読んでみないとわからないじゃない」

「自分の読解力に自信がないのか」

 やめろ、彼女の顔が曇る。そう言いかけ、すんでのところで柏木は言葉を飲み込んだ。

「……ん……、自信は、ないかな……」

「んでだよ」

「自信がなくたって、人の解説本を頼りにしたっていいじゃないか。何が……」

 ますます深くなった伊勢田の眉間のしわを確認してから言葉を切り、柏木は大きくため息をついた。

「行こう、小幡さん」

「う……うん」

 伊勢田に強く見据えられるが、顎を引いて斜め上から見下ろす。弱々しくうなずいた小幡がカバンを手に取ったのを見て、柏木はかすかな笑みを作った。


「……でね、親戚のおじさんのところなんだけど、摘みたての苺はやっぱりおいしいんだって♪」

「そうなの」

「今度一緒に行かない?」

「そうね」

「次の土曜日でいいかな?」

「うん」

 小幡との約束を取り付けるのは簡単だった。気もそぞろなうちにイエスの返答をさせればいいだけだ。ついでとばかりにトークアプリのIDを交換し、小幡と別れると、柏木は浮かれた気持ちで家路に就いた。


 叔父が経営している苺農園には、日曜日だというのに観光客が少なかった。

「まだシーズンが始まったばかりだからな。でももうおいしいのが成ってるよ。彼女も楽しんでいってね」

「え、あ、あの、彼女では……」

「ありがとう、叔父さん。あとでそっち寄るから」

 百メートルほど離れた叔父の居宅を目で指し、柏木は言った。小幡の硬い笑顔が気になるが、約束の日時に来てくれたと思うと頬が緩む。

 ビニールハウス内の苺は高設栽培で、歩きながら楽な姿勢で摘むことができる。二人は早速、赤くなっている苺を探し始めた。小幡は口に入れた苺を一つゆっくり噛み潰しながら、スマホでトークアプリを立ち上げているようだ。

「何してるの?」

「……何でも……」

「そう? あ、こっちにもおいしそうなのあるよ♪」

 彼女の背中に手を回し、ブラジャーのホックの位置を確かめる。ゆるいニットでも目立つ大きな胸。羽織っているだけのコートは意味をなさず、下心がうずく。柏木はそんな欲をできるだけ抑え込んで愛想よく話そうと努めるが、背中の左手は離すことなく、次の赤い苺を探す。

「あっ!」

 突然、小幡が声を上げて体勢を崩した。高設栽培のために組まれている金属の足場に足を引っ掛けてしまったようだ。

「大丈夫!?」

 崩れる体を右手で抱きかかえると小幡の柔らかく弾力のある胸が自身の胸に当たり、その幸運に感謝する。しかし彼女にとっては全くの不運であり、白いニットに落とした苺の汚れができてしまった。

「ご、ごめん、柏木くんの服にも……」

「いいよ、これくらい」

「ぼんやりしてたから……ごめんなさい」

 柏木の服はダークグレーで、苺のしみは目立たない。叔父の家でウェットティッシュでももらえばいいか、などと気軽に考える。それよりも、彼女の左胸に潰れた苺がまだ乗っているほうが気になる。

「あ、えっと……、これ、取っちゃうね」

 そう断りを入れたが、柏木の指先が薄手のニット越しに柔らかな肌をきゅっと押さえ付けた瞬間、一瞬だけぴくりと反応した彼女の目から涙がこぼれ落ちた。

「ご、ごめん、わざとじゃないんだ」

 一粒、また一粒と流れ落ちる涙に、柏木はただうろたえる。これではまるで自分がわだちに溜まった水の中のふなではないかと思うと余裕などなくなり、「ごめん」と繰り返し謝る羽目になってしまった。

「……ううん、こっちこそ……」

 柏木の目に付くのは、ぐすぐすと鼻をすすりながらハンカチで涙を拭く小幡の白いニットの赤いしみ。濡れてピンクがかった部分が少しずつニットに染み込んでいったのだろうと想像し、彼女自身をも汚す想像を止めることができない。

「……ごめん」

「も、もういいよ、そんなに謝らな……」

 他の客は隣のビニールハウスに入っている家族連れだけだ。柏木は小幡の二の腕を掴んで強引に引き寄せ、苺の汁がついた唇に自分の唇を重ねようとした。

「やっ……! やだっ!」

「おい!」

 柏木にとっては全く悪いタイミングで、聞き覚えのある声がした。入口を見ると伊勢田が大股で二人の方へ向かって歩いてくるところだった。

「何やってんだよ!」

「何って……」

 いきなり現れた当て馬に問い詰められる理由などない。そう思い、柏木は「デートだけど」と言うが、肝心の小幡は縋るような目つきで彼を見ていることに気付いた。

「伊勢田くん、何で……」

「何でって、助けてもらいたかったんだろ」

 小幡の手を取り連れ出す伊勢田に「邪魔するな」と言いたい、が、声が出ない。これではまるで彼がヒーローで自分が当て馬ではないかと、柏木は言葉を失い立ち尽くす。

「こいつはそんなんじゃ喜ばねえんだよ」

 そう告げると、彼はビニールハウスの扉を閉めた。


「……負けた、か」

 いつも周囲のことなど無関心と言わんばかりに孤独を装う伊勢田に、どうして小幡が懐いているのか不思議だった。小幡の朗らかな瞳にまっすぐ見られても平常心を保つ彼に、少々驚いてもいた。

 では何なら彼女は喜ぶというのか、答えは伊勢田にしかわからないのか、少なくとも自分には正解を出せる気はしないと、髪をぐしゃぐしゃと手で掻く。

 一人残ったビニールハウスでは、苺の香りだけが柏木を慰めていた。

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犬を、吸う。 祐里 @yukie_miumiu

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