犬を、吸う。
祐里
1.伊勢田水都
横浜ワールドポーターズから徒歩で馬車道駅へと向かう。万国橋に差し掛かり、彼は考えた。「俺はあれをペットだと思っていた……これは本当に事実だろうか。あれだけの愛情を注いだのは、単に犬だと認識していたからであり、恋ではなかったと……?」
スマートフォントークアプリでのやり取りや部室での何気ない会話で少しずつ積み上げてきた穏やかな信頼関係、そこに嵐が吹き荒れたのは、あのサイコパスめいた男子がやってきたからである。機会が訪れさえすればきっと、語尾に「
快晴の空の下、十月の乾燥した風は触れる人々の体温を奪おうとし、遮るもののない大きな橋の上、降り注ぐ日差しは温もりを補完しようとする。彼が日差しの方を鬱陶しく思うようになるくらい歩いた先には、小幡部長と初めて二人きりで入ったカフェ。土曜日の昼間ともなれば観光客で満席だろうと近付いてみると、ガラス越しにこれまで創作活動部の部室でしか見たことのない二人の姿が目に映った。小幡部長と柏木だ。小さなテーブルを挟む二人は笑顔で、楽しそうに何かを話しているように見える。
「他星の王子さまという小説を書いてみたいの。犬のポチが吠えるところから始まって、UFOに乗ってきた異星人の事情に息子が巻き込まれて、何だかんだあって、異星人がポチを連れて帰るっていうラスト。どう?」
「そういう、何とかして読み手の予想を裏切りたいという貪欲さは大好きだが、山羊座のA型はアホしかいないのか……」
「いいじゃない、小説なんてフィクションなのよ。読み手は裏切られるのを待っているんだから。伊勢田くんに一番に見せたかったの」
「いや、まあ、それはうれし……あっ、やっちまった、切れた」
「指? レポート用紙で切っちゃったのね」
そう言いながら心配そうに淡いスカイブルーのハンカチを貸してくれたことが、同じ山羊座のA型同士で文芸部らしい話をしていた頃が、彼の脳裏に浮かんでは消える。柏木は文芸部員ではないのにどうしてだか時々顔を出すようになり、小幡部長に気に入られ、彼の立ち位置を奪おうとしているのである。
「飼い主気取りかよ」
グレーのキャップ、ダークグリーンの長袖シャツにブルーのデニムパンツ、手には飲みかけの缶ビールとセブンスターのソフトパッケージ。独り言を自身に聞かせるように吐き出すと彼はキャップを目深にかぶり直し、秋風の中、カフェの前を通り過ぎた。
彼の名は、伊勢田水都(いせだみなと)という。私立高校にしては平凡な学校に通う二年生で、創作活動部部長を務める同学年の小幡部長とは部室で会うと気軽に話したり、部活を終えて一緒に帰路に就く仲だ。
「図書室に村川春樹の新刊が入ったよ♪ ハードカバーの♪」
創作活動部の部室のドアを開けるのとほぼ同時に、柏木の声が聞こえた。
「本当?」
小説下書き用のレポート用紙を睨んでいた顔をぱっと上げる小幡部長。
「今ならすぐ貸出できるから、来たら? 文体研究してるって言ってたよね♪」
「うん、行く」
ブラウスの丸襟とリボンを指先で整えながら、彼女は椅子を立った。
「おい、会計と書記が来るの待つんだろ」
「二人が来たらちょっと待っててって言っておいて」
「……わかった」
「ごめんね、伊勢田くん。じゃあよろしく」
村川春樹の作品については詳しい伊勢田も、新刊の魅力には太刀打ちできない。横浜山手の丘に建つ校舎の窓からは冷たい北風が入り込む。彼はいそいそとドアを出ていく小幡部長を、ただ黙って見送った。
伊勢田は気付いていた。いつも部室で小幡部長と文学について論じ合ったり書いた小説を評し合ったりするのは、まるで飼い犬と一緒に気持ちのよい布団に入ってぬくぬくしているようなものだと。ともすれば犬吸いまでさせてくれそうな関係だったというのに、柏木の登場で次第に小幡部長との距離が離れていることにも。だからといって、何をできるわけでもない。ただの部員である自分を省み、彼女との間に隙間風が入り込んだとて、近付こうとは思わなかった。
彼はそれを、自身にとって小幡部長はペットであるからだと結論付けた。彼女の薄紅差す笑顔に触れたい、華奢な腕に手を差し伸べたい、細い腰を撫で回したい……そんな欲望は、ペットに対するそれと同じだと。より適切にかわいがってくれる飼い主が現れれば、ペットにとってはその方が幸せだろうと。
毎日のようにしていた彼女とのトークアプリのやりとりは、今ではもうなくなってしまっている。前回の会話から既に一ヶ月が経とうとしているのだ。
「伊勢田くん」と呼ぶ涼し気な声がかすかに脳内で再生される。ほんの少しだけ開いているドアの隙間を見つけ、彼は力を込めてドアを完全に閉めた。
「うぉっ、大丈夫か」
ある日、椅子から立ち上がろうとして机に足を引っ掛けよろけた小幡部長に伊勢田が腕を伸ばしたとき、彼女は大げさに彼の腕をよける素振りを見せた。
「……あ、大丈夫……ごめん」
「気を付けろよ」
「う、うん」
その豊かな胸に触りそうになったわけでもない。彼は、自分は避けられているのだと悟った。きっと柏木と一線を超えたのだろうということも。もう彼女の心は、あの「
「俺、もう帰るわ」
「え、もう? 早くない?」
「
何か言いたそうな小幡部長の視線を振り切り、彼は部室のドアを出た。さっさと校舎を出ると、帰り道の下り坂を歩き石川町駅へ。大して速くもない歩みなのに、頬を滑る風は鋭く肌に突き刺さる。
「あー、しょーもね。何やってんだよ、俺……」
自分の家で飼っているウェルシュ・コーギーにも忙しさのせいで最近あまり触れていないのにと思うと、腹立たしさを感じる。伊勢田は、最近癖になった独り言をまた漏らした。
「帰ったら犬吸いすっか」
帰宅した伊勢田がまず最初に吸ったのは、使ったくせ洗いもせず返しそびれていた、淡いスカイブルーのハンカチだった。
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