八章 おやすみ
八章 おやすみ
坂口篤人は新聞をめくった。
地方紙の事件欄に、自分の父親の名前が載っているのを見て、満足そうに目を細めた。それは、篤人の父親である坂口史人が息子を刺殺した旨の記事であった。
憶測が飛び交い、ひと月ほどは話題となって人びとを巡るだろうが、年明けには忘れられ、なにかの折に怪談めかして語られるだけになるであろうことを篤人は知っていた。
くゆる煙をそのままに、ベビーベッドの中で眠る乳児の顔を覗き見る。
「父はどんな気持ちで比呂人を殺したんだろう。いやぁ、トイレにも立てなかった人がだよ。人の意志とはすごいね。夢子もそう思うだろう?」
夢子は答えない。夏朗に似た長いまつげを伏せ、寝息を立てている。
「夢子も誰か毎日世話をしてくれる人がいた方がいいだろうし、ぼくも実家に戻ろうかな……。使用人なりに入ってもらうにしても、空き家にすると傷むからね。将来、夢子の部屋を作るなら洋室がいいだろうし、リフォームも考えなくちゃいけないかな。さすがにポルノまみれの部屋じゃ、情操教育によくないもの」
篤人はそう言って、室内を見渡す。
撮影スタジオや機材倉庫を備えた、篤人の持ちビルの一室であった。どこかの部屋から微かに嬌声が漏れている。
本棚が並び立ち、あらゆるジャンルのポルノ作品が隙間なく収められている。映像、まんが、官能小説などの区別なく、一センチの隙間も埋めるように詰め込まれたその室内で眠る赤ん坊と、咥えたばこの男は限りなくミスマッチであった。
換気扇と空調の音の中、篤人が新聞をめくる。
——こん、こん
ノックの音に、篤人が返事をする。
「開いていますよ」
一拍置いて、ドアノブが回る。室内を睨め付けるような目をして、佐伯が顔を出した。
篤人の事務室に足を踏み入れた佐伯は、室内を、そして夢子を見、一瞬表情をこわばらせたが、制帽を取って会釈した。篤人も頭を下げる。
「こんにちは。夢子ちゃんも一緒だったんですね」
「佐伯さん、ご苦労様です。比呂人が死にましたのでね。父は帰ってこられるかわからないし、夢子はぼくが引き取ったんです。なにせこどもを育てるのは夢でしたから。どうぞかけて。お茶とコーヒー、どちらにします?お連れさんもどうぞ」
灰皿にたばこを置き、篤人が立ち上がる。佐伯に続いて室内に入った刈賀は、篤人から顔を背けた。
「いえ、今日はすぐ帰りますから」
佐伯が手のひらで制止すると、篤人は浮かせた腰を椅子に下ろした。
「では、お茶はまた実家に戻ってからご一緒しましょう」
たばこを口に咥えなおし、篤人は笑って見せた。
「ご家族を一度に亡くされましたから、心配で顔を見にきましたが……篤人さんにはいらぬお世話でしたかね」
佐伯の肩越しに、刈賀が言う。
「刈賀さん、聴取の時はありがとうございました。あなたは私が無関係なのを最初に気づいてくれましたからね」
篤人の言葉に、佐伯は眉をひそめた。刈賀の表情を窺い見る。佐伯の視線に気付き、刈賀は眉をひそめて言った。
「いえね。無関係に決まってるんですよ。あんたみたいな人は、無関係に決まってる……。無関係なところにいなければ、こんな事件は起きない。自信があるでしょ」
刈賀は、ふん、と鼻を鳴らす。
「サイボーグの方からそんな、スピリチュアルなお話が聞けるとは。いや、失礼。いいですね。最先端科学とスピリチュアル……そういうテーマも、ぼくは好きですよ」
「茶化さないでください。殺人に時効はありませんからね」
篤人は目を細めて、さも嬉しそうに笑う。
「ぼくのことを大いに疑って。目を離さないでくださいね。刈賀さん」
バニラの香りの煙を、ほう、と吐き出し、短くなったたばこを灰皿に押し付けた。
「それで、御用向きは?」
篤人は首を傾げ、新しいたばこに火をつける。いつかのマッチではなく、オイルライターであった。
火打石を擦る音。着火音。
ライターを閉じ、金属が鳴る。
たっぷりと間を取って、佐伯は尋ねた。
「夏朗と夢子の骨はどこに?」
「ああ……」
篤人は顎のひげをこすり、とぼけるような顔をして見せる。
「どこでしょうね。二人同じところには、いれてありますよ」
柔らかに、甘い声が空気を震わせる。教える気など毛頭ないと言いたげなヤギの目が佐伯を見据えたが、佐伯は怯まなかった。
「無縁仏に?それとも、共同墓地?あるいはゴミに出したか、敷地内のいずれかに?」
「大切にしてありますよ。夢子の両親なんですから。時期がきたら、ちゃんと夢子にも親の墓や骨くらいは見せてやらなければね」
「そうですが。場所がわかれば線香でもと思いましたが、仕方ない」
お邪魔しました、と、佐伯は頭を下げる。刈賀もそれに続く。
「では僕も失礼します。篤人さん、くれぐれも骨の保存は適切にお願いしますよ。なにがあるかわかりませんしね」
閉じる扉の隙間から、刈賀は言った。
「ええ、覚えておきましょう」
篤人は目を細めて、閉じた扉を見、眠る夢子を見た。
「骨は種のように撒かれ、いずれ芽吹く。それを刈り取るのはぼくか、夢子か、もっと他の誰かかわからないけれど、とても楽しみな可能性だよ」
ふにゃ、と、夢子が小さく声を出して泣いた。篤人は夢子を抱き上げた。
「夢子はどんな大人になるのかな。大人になるまで生きているかな?五歳になったらきれいなヘアピンをつけてあげるからね。ぼくも五歳の時にお母さんの形見で、もらったんだ。ぼくも子どもの頃よくつけていたんだ。あの頃は髪が長かったから……。きっと夢子の髪が伸びたら、黒髪によく映えるだろうね。……夏朗と夢子の血が佐伯さんに入っているなら、この夢子は佐伯さんの子でもあるのかな?夢子、お父さんは誰がいい?」
夢子をあやしながら、篤人は手際よくミルクを作り、人肌に冷ます。
夢子は、哺乳瓶の中身を少し飲むと、またうとうとと眠り始めた。
夢子をベッドに戻し、篤人は、手提げ金庫を開く。
男物の腕時計やネックレスが入っていたが、女物のアクセサリーがいくつか入っていた。
一際目を引く、クリスタルのケースに収められた花びら、あるいは星の光を模したヘアピンは、強く輝きを放っていた。
篤人はヘアピンをつまみあげ、懐かしそうに光にかざす。
「ねえ、夢子。國春くんは、どこまで自分の正義を信じて生きていけるだろうかね。あの優しい彼がね。ああ、彼はなにになるだろうか」
◆
篤人の持ちビルから出て、刈賀はこう言った。
「結果的に、生き残ったのは重臓と坂口篤人ぐらいですか」
「お父上も一応ね。途端に認知症が出始めているらしいから、どうなるかわからないな」
刈賀はいたく不満そうであった。それは、先ほどのやりとりだけではない。
坂口篤人の取り調べを担当してからこちら、どうにも隠せない苛立ちのようなものを抱えているように佐伯には見えていた。
「刈賀、言いたいことがたくさんあるんだろう」
パトカーに乗り込もうとしていた刈賀は、足を止めて、佐伯に向き直る。
「そんなの、唆したのは篤人に決まっているのに、逮捕状が取れるような証拠を篤人が残すわけないからですよ。歩けない父親を歩かせるほどの甘言、ここでは甘言としましょう。篤人が甘言を弄して、歩けないはずの父親が就寝中の兄を殺すように仕向けた。本人は恐らく、そんな自覚もありませんよ。親に何か言ったら、なんでか兄が殺された。それでも取り乱すほどではないんですから、家族を家族と思っているかも怪しいですよ」
「……」
「だいたい、重臓の見世物小屋も、資金を出したのは比呂人ですが、最初に子どもたちを重臓に世話をさせて金を取ってみたらどうかと提案したのは篤人だったようですからね。重臓なりにかわいがっていたとはいえ……あの住環境がよいとはとてもじゃないが言えない。実子には虐待と凌辱しかできない父と、性的な虐待はあれど、少なくとも殺そうとはしない重臓。どちらがマシかと聞かれれば後者ですが、言い出しっぺの篤人はどこにも出てこない……。僕には一連の出来事が、篤人が裏で画を描いて観察してるように感じとんのですよ。僕ぁ、ああいうのは嫌いだなぁ!」
刈賀はそう言って、パトカーの後部座席を開けると、佐伯のコンビニ袋からチョコレート菓子を取り出して食べ始めた。
「俺のおやつ……」
「そういう日もあります」
頬を膨らませてチョコ菓子を噛み砕くと、少し落ち着いたのか、刈賀は口を拭って運転席に座る。
「佐伯さんのこともそうです。僕はまだ納得してませんからね」
「ええ……。死ななくなったから、真弥ちゃんが未亡人にならなくなったなんで言わないよね?」
「それもありますけどぉ」
佐伯の袋からまとめて出したのだろう。サラミの外装を剥いて、刈賀は口に入れて噛んだ。
「佐伯さんと貞さんが屋敷に行って、たまたま坂口篤人が帰ってきて、話を聞いて夢子ちゃんに殺されて、たまたまきた夏朗に拾われて佐伯さんが不死になるなんて、えらいたまたまが重なって暗黒タマタマ過ぎますよね。誰かに大追跡されてたんじゃないですか?坂口篤人とか」
「いくら僻地隊の人間が少ないと言っても、俺は坂口篤人と面識なんかなかったし……」
「どうだか。忘れてるだけかもしれません。人間には録画機能もないし」
サラミを食べ終わった刈賀は、ゴミを佐伯に渡し、ハンドルを握り直した。
アクセルを踏み、パトカーが走り出す。貞沼に比べると随分と運転が荒い。道交法違反のギリギリを攻めるような走り方に、佐伯は刈賀の鋼の太ももを拳で何回か殴った。
刈賀は平気そうな顔をしている。
「安全運転。見逃しがないように」
「見逃しませんよ。動くものはみんな見えてます。ここでなにかが襲ってきても、オートエイムで即射殺ですよ。相手が不死でさえなければね」
そう言いながら、刈賀はアクセルを緩めた。
「そうだ。来月には、貞さんも元の大きさに戻れるそうですよ」
思い出したように指を鳴らし、刈賀は言った。
「ああ、そう……。ありがたいな。やっと刈賀と組む生活が終わる」
助手席の佐伯は、制帽を取り、目頭を指で揉んだ。
「そうですねぇ。坂口比呂人が死んだ時は、貞さんがいてくれればと本当に思いましたよ。なんとかなってよかったですけど」
「死んだら過労しないからって、刈賀に刺される日がもうこないことを俺は願ってるんだよ」
「次こそちゃんと死ぬかなと思うと、ワクワクするじゃないですか。年明けには真弥ちゃんと籍を入れるんでしょう?結婚指輪は一生ものですからいいの買ってくださいね。僕も使えるサイズ感にしましょう」
「教えた途端にそういうこと言うんだから。ひとの嫁さんを取るんじゃなくて、もう少しなんていうの……真っ当な恋愛の方法をどこかで学んできてくれないかな」
佐伯の言葉に、刈賀はふふんと笑って見せた。
「一度は結婚するほど愛した人を、上書きするほどに僕を愛してくれる人じゃないと抱けないですよ。離婚届を提出してから、僕を追いかけてくれる人妻もいいんですが、願わくは未亡人がいいですね。知ってます?未亡人って、夫が死んだのに未だ死んでいない人って意味らしいですよ。言い換えれば、僕と出会うために生きている人ということなんですよ」
「なにがあってそんな歪み方をしたのか知らないけど、認知行動療法って知ってる?刈賀のそれは、人の不幸の上にしか成り立たない幸福だよ」
「認知した上で、どうもならないから業なんですよ。十歳の僕の前で、夫を亡くして喪服を着ていた阿重霞おばさんを責めるなんて僕にはできません。正座した阿重霞さん、黒いストッキングが透けて見えた足の指、あれが決定打でした」
「そういう、人のなにかがぶち曲がる瞬間の話って、コメントに困るんだよな」
「佐伯さんは、そういう経験ないんですか?」
「俺は、真弥ちゃんと会うまで、勉強と部活と食べ物と仕事で生きてきてたから……」
「ああ……。佐伯さんって真弥ちゃんに出会ったの、二十八歳頃でしたっけ?……いや、上司の初体験の話とか嫌だな。話変わりますけど、本当にもう拳銃は持たないんですか?」
「……うん。俺にはもう怖くて撃てないし、銃に頼らなくても戦えるのはわかってるから」
佐伯はそう言って、手のひらにさも刃物があるかのように握り込んでみせた。ポケットに手を差し入れて、その手を引き抜いた時には、分厚い山刀の刃が鈍く光るだろう。
「それにこうして直帰もできる。あとは任せたよ、刈賀」
「拳銃は納めにいかないといけないって変な話ですけどね。僕はいつも弾薬を積みっぱなしですし」
刈賀は佐伯の自宅の前にパトカーを止め、佐伯の降車を待つ。
佐伯は、家に入る前に刈賀に手を振った。
「また明日」
秋の空気は冷え始め、冬が近づいていた。鼻の先を赤らめながら、佐伯は空を見る。オリオンを目印に、赤くアルデバランが見えた。
夕飯のにおいがする。焼いた魚のにおいだった。
釣った魚を捌く真弥の手を想像する。うろこを包丁でこそげ、落としてく。
赤いえらを剥がし、肛門から包丁を刺し入れ、腹を開く。指で掻き出されたはらわた。真弥の指が赤く染まり、流水ですすがれていく。
それは佐伯の腹を開く真弥のイメージとすり替わっていく。
分厚い肉切り包丁が佐伯の腹部にかかとを落とし、正中線を切り開く。まだ温かい内臓に、真弥の手が差し込まれ、食べられるところ、そうでないところを選り分けていく。
空っぽになった中を、真弥が流水で洗う。手足の関節を砕き、外すのを想像する。
佐伯だったものは肉になっていく。それを真弥が調理するのかまでは、まだわからない。
ただ、彼女の好きなように、自分を辱めて欲しいと思った。板の上で死を待つ魚のように。
愛の言葉を囁き、汗に濡れた髪を撫でて、夏朗にくちづける夢子の姿を佐伯は瞼の裏側に見た。それは真弥と佐伯にすり替わり、抱擁のような痛みが走るのを待つ。
佐伯は背筋に甘い痺れが走るのを感じていた。
骨喰〜猟奇伝説佐伯〜 宮詮且(みやあきかつ) @gidtid
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