七章 黒蠅

七章 黒蠅


 

 一度は臆した、砦のような外壁の前に佐伯は立っていた。佐伯は原動機付自転車のスタンドを立て、腕時計を見る。

 篤人との待ち合わせ時間まで、まだ二十分はある。インターホンのない門の前に立ち、篤人に到着の連絡を入れるか少し迷っていた。

 意気揚々と、というには程遠い気分であった。坂口邸を囲む林のさざめきが不穏なものに思える程度には、佐伯の感情は安らかさから遠い。

「こういう時に、神鳥なんかは一服つけたくなるんだろうな……」

 そうひとりごち、せめて背すじだけは伸ばしていようと、制帽をまっすぐにかぶり直す。気を紛らわせようと昨日の釣りと、夕飯の煮魚を思い出し、佐伯は少し微笑んだ。

 今夜も家に帰って、夕飯を食べられるといい。

 昨日の釣果は、思いの外よく、これからするであろう行為に対する自分の気持ちをほんの少し、ましにしてくれている。

 上向いた気持ちに視線をあげると、絹を張ったような秋空が広がっていた。

「ああ、お待たせしました」

 その声は途端に、秋の爽やかさを塗り替えた。

 通用門から姿を見せた坂口篤人は、甘くまとわりつくような声で佐伯に会釈した。

「いえ、大丈夫です」

 佐伯はそう答えて一歩踏み出した。前日と変わらない、くたびれたスーツに身を包んだ篤人は、佐伯を手招きする。

「今日はこっちから。どうぞ、入って」

 通用門をくぐった佐伯を見守り、しっかりと扉を閉め、錠をかけた篤人は白い玉砂利を踏んで先を歩く。以前見た雪原のような美しさの印象は消え果てていた。今日は足元で鳴る白い小石に、人骨を想起するほどに。

 黒い石畳を避けて歩く。それはただ最短距離を取っているだけであるのに、奈落の溝を避けて歩いているようでもあった。自身が転げ落ちるのを厭い、他者を踏みつけるような。

 ばかばかしい連想だと佐伯は想像を振り払うように小さく頭を振った。

「夢子と会う前に、ひとつお渡ししたいものがあるんですよ」

 玄関を開き、篤人は言った。線香のにおいがした。

 佐伯が靴を脱ぎ、家に上がるのを待ってから、篤人は上着の内ポケットを探る。そして、取り出したものを佐伯の手のひらに乗せた。

 それは懐紙を折って作られた包みであった。訝しげに包みを眺める佐伯に、篤人は言った。

「どうぞ、夏朗です」

 手のひらに乗せられた小さな紙の包みを凝視し、佐伯は返す言葉を失っていた。

「骨壷に納めたその残りですが、立派に夏朗の骨です。噛んでもらえませんか。きっと夏朗も喜ぶでしょう」

 篤人はそう言って、促すように手のひらを差し伸べる。

 佐伯の手のひらの上のものは、かさ、と、軽い音を立てた。

 恐る恐る、折られた懐紙を開いていくと、小指の爪の先ほどの骨灰がみっつ、姿を見せた。

「う……」

 およそ人の骨とは見えなかった。かさつく小さな破片をつまみとり、佐伯は口に近づける。舌の先に破片を乗せ、ほんの少し前歯で噛んだ。

 細かな破片が口の中で砕け、きし、と、微かに音を立てた。無味であった。

 感動も、大きな感情の揺さぶりもなかった。嫌悪感もない。

 佐伯は懐紙を畳み直し、制服のポケットに入れた。

 夏朗が一緒にいてくれる、というような感覚はまるでなかった。しかし、供養をひとつ済ませたという、そんな達成感のようなものを感じていた。腹の中にあった小さな悔恨がゆるんだ心持ちであった。

「では行きましょうか」

 篤人は嬉しげにそう言ってみせ、長い廊下を先立って歩き始めた。

 佐伯は、足音なく歩く篤人の背中を見ながらも、やはり耳では篤人のものではない息遣いや衣擦れを感じていた。締め切られた襖の向こう側になにかがいる気持ち悪さに、佐伯の気が急いた。

 いまに後ろから、身体を歪められたこどもたちがひたひたと忍び寄り、佐伯の足をつかみ、久遠の苦しみへと引き摺り込まんとしているような。

 それも渡り廊下に近づくうちに、しだいに気配を薄くし、渡り廊下を歩く頃には一切なくなっていた。

「比呂人は中にいるんですか?」

 佐伯が問う。

「いえ、ちょうど出ていますよ」

 篤人は鍵を取り出しながら言った。「ですから、ごゆっくり」

 佐伯は、扉の先へと進み、深く息を吸った。以前のようにすえたにおいはしなかった。篤人が「少ししたら来ます」そう言って、扉を閉めた。施錠の音はしなかった。

 ダウンライトが照らす薄暗い通路には、石造りの花台だけが無言で鎮座しているばかりであった。

 鉄製の扉を押し開くと、首にワイヤーを巻きつけた夢子が椅子に座って俯いていた。佐伯を一瞥することもなく、ただ項垂れ、椅子にすわっている。

 改めて室内を見回す。二十畳ほどの板張りの部屋であった。防音のための丸い穴があいた壁は、体育館のようであった。

 あかり取りの窓が足元と天井との境に設けられており、前回、比呂人が逃げ出したのは足元の窓だったのであろう。

 男でも比較的細身であれば通れる大きさをしていた。

 佐伯は夢子に歩み寄り、話しかける。

「夏朗がね」

 佐伯の言葉に、夢子がぴくりとした。

「俺の中に入ったよ」

 夢子が顔をあげる。長い髪に隠れて表情は窺えなかった。しかし、奥の双眸は佐伯を見据えているに違いなかった。

 椅子の肘置きに置かれていた夢子の手が持ち上がり、自身の首へと回される。る

 

 ——みち、と、肉が剥がれる音と共に、夢子の指が血を噴いた。

 

 首に巻き付いたワイヤーへとかけられた指は、その爪を、肉を、金属線に裂かれるを厭わずに引き剥がそうともがく。

 夢子の唸り声のたびに、束ねられた金属線が毛羽立つようにちぎれていく。じきに首の戒めは解かれ、夢子は椅子から立ち上がった。

 回転を続ける下劣な性具を踏み、椅子を持ち上げ、床に叩きつける。電力を供給していた配線から火花が飛び、こげたにおいが佐伯の鼻を突く。

 夢子は破壊された椅子の破片を握り込み、佐伯へと振りかぶった。

 佐伯の手に閃いた出刃包丁が夢子の肩口に突き刺さる。

 夢子の手が佐伯の腹へと木片を突き立て、腹の中を掻き回した。

 それはほとんど同時であったが、佐伯が女の細い肩へ突き刺した出刃包丁を揺するよりも、夢子の手は俊敏であった。佐伯のはらわたは、椅子の木片に絡め取られ、そのまま引きずり出された。

 小腸とそれにつながる臓器が、ぞるぞると連なって佐伯の体外へと巻き取られていった。

 佐伯は口からも血を吹き出しながら、己の首筋へと出刃包丁をあてがい、強く引いた。

 先端を潰されたホースのように、佐伯の首から拍動に合わせて勢いよく血液が吹き出す。佐伯は数を数えていた。

「思ったより時間がかかる…」

 微かな吐息のような声で、佐伯はそう発し、膝から床へと崩れ落ちた。

 頭蓋骨が床を叩く固い音が室内に響く。夢子は佐伯の死骸を見ようと、長い前髪を持ち上げた。

 そのまばたきの刹那、佐伯が夢子の背後に立ち上がる。華奢な背中に深々と出刃包丁を突き立て、もう片方の手で持った山刀を振り下ろし、右腕を肩から切り落とした。

 夢子は悲鳴をあげることもなく、床に倒れ伏す。しかし、その腕の切断面の肉は盛り上がり、みるみる内に新しい腕を生やそうと試みる。

 佐伯は、伏した夢子の背中に乗り、夢子の首を落とさんと山刀をうなじに向けた。夢子がもがき、腕の断面から吹き出した血が佐伯に降り注いだが、それはゆっくりと佐伯の全身の肌に吸われていく。

 夢子の片手が、佐伯の足首を掴んだ。

 

 ——ぼぎり、

 

 佐伯の足首が砕け、夢子の腕力に引きずられて横転する。

 側頭部を強かに床に打ちつけ、佐伯の目がぐるりと回る。

 佐伯の足を掴んだまま、夢子は腕を振り上げ、床に佐伯を打ち付け続けた。割れた頭蓋からは体液と脳の一部が漏れ出し、床に、壁に、飛び散り、張り付く。

 頭のほとんどを無くし、動かなくなった佐伯から夢子が手を離す。

 しばし、夢子は佐伯を見つめていたが、ふいに振り返り、両手を伸ばした。

 夢子の顔を横一文字に出刃包丁が通過する。頬を、鼻を、深々と厚い刃が切り裂き、佐伯の顔面に飛散した。

 佐伯の三白眼が、夢子の黒く潤んだ目と交差した。佐伯は夢子の目に艶を見た。

 夢子の両腕が佐伯の顔に伸び、髪を掴む。夢子の胸へと引き寄せられた。薄い衣越しの乳房に、佐伯は思わず目を閉じた。

 一瞬の暗転。

 ぶちゅ、と、湿った音が佐伯の脳天に響いた。

 夢子が佐伯の目に両手をやり、そのふたつの目に深く指を潜り込ませたのだ。

 細い指が目蓋をめくり上げ、その中の肉色の眼窩に這入りこみ、佐伯の白いつややかな眼球が指によって押し出された。

 佐伯の眼球はひどくあっさりと目からはみ出し、次の瞬間真っ赤な血が、溢れ出した。

「——————っ!」

 佐伯の喉から獣の唸り声のような悲鳴が生じて、空気を震わせた。

 夢子の指は、より先へと進み、佐伯の脳に触れようとする。

「あ、ぼっ、あば、ぼ、おっ、ぉっ」

 佐伯の全身は痙攣し、反射の発声を繰り返す。鼻から血を滝のように流し、直立するように佐伯は固まった。

 夢子が佐伯の頭から腕を引き抜いた時には、彼女の爪には豆腐に似たものが細切れになって張り付いていた。夢子は腕を振り、血と肉を指先から払う。

「脳に指はダメ!」

 佐伯の叫びが轟く。

 夢子に向かって山刀を薙いだ。それは夢子の両手首を切り飛ばす。

 夢子は怯み、顔を背けた。

 佐伯は夢子の首に取り付き、腕を回した。

 繰り返し繰り返し、佐伯は出刃包丁を夢子の身体に突き立てた。細かな血が飛び散り、指先がぬめる。

 木製の柄が滑り、出刃包丁が床に落ちて音を立てる時には、佐伯は山刀を夢子の背中から胸に貫通させていた。

 肋骨の隙間を抜いて、乳房を割ったその先端を、夢子は両手で掴んだ。鍔のない山刀は、夢子の指を深く切り裂きながらも、佐伯の手を離れ、やがて夢子の胸から血にまみれて引き出された。

 佐伯を背中から振り落とし、山刀を握りしめる。

 振り向いた夢子の手が、佐伯の頭に目掛けて、山刀を投擲する。

「あっ……」

 床の血溜まりに足を取られ、尻餅をついた佐伯の耳を剥ぎ取り、山刀は床を跳ねた。

 夢子の背が、胸が、ぶくぶくと泡立ち、傷を塞ぐ。 

 座り込んだ佐伯に夢子が手を伸ばす。佐伯の足を先端から順に握りつぶしていった。ふた呼吸の間に、佐伯の左足は肉襞と骨片の塊と化す。

「夏朗とも、こうやってたのか?」

 山刀を自身の顎下にあてがいながら、佐伯はそう問うた。

 夢子は言葉を返さなかったが、髪の隙間の双眸は、明らかに恍惚にほころびていた。

 いい夫婦だったのだな。そう思い、佐伯は微笑んだ。

 立てた山刀に体重をかける。一瞬のためらいは、すぐに消えた。皮膚下へ潜り込む鋭い切先に、脂汗が滲み、手が震える。しかし、刃を止めることなく、冷たい金属の芯が自身の脳天を冷やすのを感じていた。

 瞬きの狭間、佐伯は夏朗と夢子の生活を想像した。それは流るる血の中に残った彼らの断片であったのかもしれない。

 いっときの感情で拳を振るう夏朗を、夢子はなにも恨んではいなかっただろう。

 夢子はそのような日の夜に、決まって夏朗を、その細腕で出来うる限りに責め苛み、夏朗もまたその愛情を受け入れていた。死ぬほど愛しても死なぬなら、あばらが音を立てて折れるほどの抱擁も受けられよう。

 夏朗の充足感はどれほどのものであっただろうか。ならばきっとこれは、夏朗と夢子の最後の交わりでもあろう。

 佐伯の中の夏朗の血が沸き立ち、被虐性に身悶えしている。黒髪のおんなに切り裂かれる悦びを。それはなんとも心地よい一瞬であった。

 佐伯は目を開く。

 夢子の背と胸は、まだ再生しきっていなかった。

 振り向いた夢子は、腹に手を当てると、佐伯の前にこうべを垂れた。首に沿って割れた黒髪が、人形のように白く細いうなじを覗かせた。

 佐伯は山刀でもって、夢子の首を刎ねた。

 それはひと太刀では済まなかった。夢子の髪を掴み、何度も刃を往復させた。肉を裂き、骨を削り、刃の通る場所を探る感触は、佐伯の手のひらに深く残った。

 おんなの髪を掴む感触は、佐伯にとって語る言葉もないほどに悍ましいものであった。

 血潮の甘いにおい。それは真弥に頬を寄せた時の、彼女の肌のにおいに似ていた。

 夢子の血を全身に浴びて、佐伯は夢子の最期を悟った。いま、彼らは、佐伯の中で再会しているのだろう。

 欺瞞だ、と、佐伯は思った。血に遺志を感じれど、血に意志はないはずだ。しかし、そうであって欲しいと思った。

「うー……」

 佐伯は顔の血をぬぐい、床に散らばった服を拾う。順に身につけ、篤人を呼ぶべきか逡巡し、スマートフォンを取り出す。

 ひた、と、水音がした。

 

 ——きゃは

 

 場違いな赤ん坊の笑い声。ぞわりと、佐伯の肌が総毛立つ。

 夢子を振り返ると、そのドレス、股のところがわずかに盛り上がり、裾から小さな手が覗いていた。

「そんな……」

 佐伯が夢子の死骸に駆け寄り、首の座った赤ん坊を抱き上げるのとほぼ同じくして、扉が開き、比呂人が室内に転がり込んだ。

「ゆ、夢子……」

 威圧的だった比呂人の姿はすでに無く、よろよろとおぼつかない足取りで血溜まりへと膝をつく。

 啜り泣きが聞こえる。

 比呂人は夢子の頭を抱き、二、三度顔を撫で、佐伯を見上げた。

「う、産まれたのか……」

 膝に夢子の頭を乗せた比呂人が、赤ん坊を両手で受け取る。

 薄まりいく血溜まりの中で、比呂人が夢子の頭と赤ん坊を抱えて泣く。その手首には、赤い縄目が浮いていた。

 泣き続ける比呂人の隣に立ち、佐伯は、なんと声をかけたらよいかわからなかった。血溜まりが消えていく。

「お前が、殺したのか……」

 比呂人が嗚咽混じりにそう言った。

「……殺しました」

 他に返せる言葉もなかった。比呂人が夢子を抱き、涙を流すのに驚いていた。

 しかし、責任の所在だけは明確にしなければならないと思った。

「俺は、夢子さんを……」

「どうせけしかけたのは篤人だろう」

 佐伯の言葉を遮り、比呂人は言った。

「あいつはなにもかもめちゃくちゃにするんだ。母親もそうだった」

 比呂人は顔を上げ、真っ直ぐにどこかを見ていた。壁、あるいは虚空。もしくは。

「夏朗に、あなたと話をしろと言われました……」

 佐伯は、遣る瀬無い気持ちでそう口にした。

「……夏朗。夏朗な。おせっかいなやつだから」

 比呂人は、袖で涙と鼻水を拭う。

「……篤人が母親を殺したんだ。わざと線路に挟まったふりをして、母親が助けにくるのか試したんだ。そうじゃなきゃ……」

 夢子の髪を撫で、比呂人は低く、喉奥から絞り出すような声で言った。

「母がよかったと言って、微笑んで死んでいったなんて話ができるか……?」

 絶句する佐伯を見やり、比呂人は鼻をすする。

「お前、あいつをどうにかできないのか」

 そう言って、比呂人は忌々しげに口元を歪ませる。

「いや、期待なんかしとらんよ。どうかできるようなやつなら、とっくにどうにかしてある。どんなことを仕掛けたって、なにかが起きてあいつは死なずに、それどころか、けがひとつ無く終わるんだ。神か悪魔があいつを愛しているに違いない……」

 比呂人は鼻をすすり、続ける。

「走り去る篤人の背に母が手を伸ばしかけたが、瞬く間に母はいなくなった。しかし間違うはずもない。転がった靴に入ったままの足。道路に落ちたどこかの内臓の破片と、髪飾り……。母の名残があった。きっと俺は、心のどこかで篤人が死ねばいいと思っていたんだ。だから停止ボタンを押せなかった。篤人だけが死ぬのを期待した。その期待が、母が死ぬ理由を作ったんだと気付いたのは、しばらく経ってからだったよ」

 比呂人はそう言って、赤ん坊に頬擦りした。

 轢死の凄惨さを、佐伯は知っていた。響き渡る警笛の音。車両に砕かれる骨の音。実母が切り分けられ、列車の下で弄ばれるように転がる様をどのような気持ちで比呂人は見たのだろうか。散らばった母親の破片を間近に見て、なにを感じたのだろうか。

 そして、篤人は。篤人はなにを思ったのだろうか。

 推し量ることなど到底できず、そしてかける言葉もなく、佐伯は無言で比呂人の話に頷く。比呂人は袖口で顔をこすり、大きく息を吐いた。

「夢子は俺を受け入れてくれた。母のように俺を置いていかない。俺のなにもかもを受け入れて、死なないでいてくれる……それだけじゃない。最後に完璧な子供も遺してくれた。俺はこの子を、傷つけずに済む夢子にしたい……」

 比呂人は肩を震わせ立ち上がる。膝に乗せていた夢子の頭が床に転がった

「この子がいればやり直せる……」

「それは……」

 言いかけて、佐伯は黙った。殺害を実行したのは自分であるのだ。死骸の扱いを咎める言葉など、持ち合わせてはいなかった。

 居た堪れなかった。

 夢子は、夏朗への愛情ゆえに身体を差し出すことを甘んじていた。しかし、比呂人はそこに夢子からの母性を見出していたのだ。

 佐伯は口を噤んだ。

 どう扱われど、死んでいった子供たちとは違い、親だと手を挙げる者さえいれば末の子だけは人として生きる許可証を得られる。

 苦々しい、嫌な気分であった。そこには正論も理想もなく、目の前でうごめくこどもを抱かぬ佐伯に選ぶ権利などないのだ。

 佐伯は奥歯を噛んで、制帽を深く被り直した。暗澹たる気持ちが足元に影を落としていた。

 血を無くし、真っ白な顔をした夢子の相貌に一匹の黒蠅が止まり、前脚を擦り合わせた。

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