六章 骨喰み

六章 骨喰み

 

 夏朗から取り出した鍵を使って外に出ると、見知った風景が広がっていた。

 室内の作りに見覚えがある理由がわかった。一本の柱を中心にした独特な間取りは、以前通報を受けて駆けつけた同型の公営住宅とまるきり同じものであった。

 建て替えられることもなく、使われなくなった公営住宅が何ヶ所かあるのは、佐伯も知っていた。市が手放した建物と土地を坂口家が引き受けたのだろう。それならば、篤人とつながりのある夏朗が潜んでいても不思議ではなかった。

 昔はもっといくつもコンクリートブロックで壁面が作られた平屋が何軒も並んでいたのだが、端の方から屋根がひしゃげていたり、ブロックが崩れている。

 夏朗が窓を埋めたブロックも、そうして崩れたところから運んだものなのだろう。

 風景から察するに、この住宅は坂口邸からほんの十分ほど歩いたところにあるものだった。庭にあるむしろの被せられた一輪車を見るに、あれに佐伯を乗せて運んだのだと想像できた。むしろをめくって見ると、洗い流してなお残る血糊の痕跡がひび割れていた。

 夏朗の言葉を思い出し、篤人に電話をしなければ、と思った。幸い、もらった名刺は無事な状態で残っていたから、あとは佐伯のスマートホンがどこにあるのかわかれば話が早いのだが、佐伯の私物については、夏朗はなにも話していなかった。

 無いものは仕方ないと、半ば諦め気味に、紛失の際の手続きについて考えを巡らせていると、ふと、郵便受けを見ようという気になった。

 鉄製のドアに作り付けられた郵便受けの中には、ファストフード店の紙袋が入っていた。開いてみると、佐伯のスマートホンと、見当たらなかった私物がまとめて入れられている。存在を失念していた拳銃もそっくりそのまま入っていたことには心底安堵した。

 しかし、虫の知らせのような感覚に気味の悪さをおぼえ、佐伯は周りを見回した。

「夏朗、いるのか」

 ぼそりとつぶやいてみたが、返答はなかった。気配もない。

 しかし、開いた玄関の先、薄暗い部屋の中に、夏朗の亡霊が立っているような気がして、背筋がうすら寒くなった。はらわたの出た死体よりも、佐伯には、血の気のない顔でこちらを見る幽霊の夏朗のほうが怖い。

 嫌な想像を振り払うようにスマートホンを操作し、まず真弥にメッセージを送信した。仕事の都合で連絡が取れなかった旨。これから貞沼たちと合流して、可能なら今日中に帰る旨。佐伯はそれだけ送信し、刈賀に電話をかけた。

 ワンコールの途中で電話に出た刈賀は、ひどく不機嫌そうな声を出した。

「なにがどうなっているんです?そこは安全ですか?」

「ああ、大丈夫。いろんな話をしなくちゃならないが、電話はちょっとね。取り急ぎ生存確認をと思って」

「ふん。まあいいですよ」

 刈賀が電話の向こうで鼻を鳴らす。

「それで、あの。貞沼は?」

「貞さんは、無事なんですが、ちょっと軟禁状態というか。詳細を話せる状況でもないですし、お兄さんがたが、そんな危ないところに弟はやれないと言っているようです」

「ああ……。なるほど」

「だから最初から僕を連れていけばよかったんですよ。まだどこにも報告していません。坂口家のやらかしは、僕たち四人だけが知っています。迎えは要りますか?」

「いや、少し歩くよ。そうか……、それならもうしばらくそのままにしておいてもらえる?まずみんなに話したいことがあるんだ」

「わかりました。神鳥さんの駐在所にきてください。僕たちの方はロボ連中に任せてあります。佐伯さんと貞さんが帰ってきている事は比呂人には伝わっていないはずです。早く来てくださいね」

「ああ……」

 切れた通話画面に、真弥からのメッセージ通知が届く。

 こちらは問題なし、無事で帰れとただそれだけの言葉に、安堵し肩の力が抜ける。帰る場所は、佐伯を待っている。

「家に帰れるのか……」

 玄関を振り返る。中にいる夏朗のことを思う。さみしくはなかっただろうか。もしこのような出会いでなければ、夏朗を家に招いて、みんなで食事ができたのではないか。そんな想像をして、切なさに胸が痛みをおぼえた。

 もう少し、なにか。

 そんな思いは、今まで山ほどしていたが、足を止め、考えずにはいられなかった。

 萎縮しそうな気持ちを振り払おうと、篤人の名刺を取り出し、会社の番号にかけようとして、走り書きの携帯番号が裏側にあるのに気がついた。キーパッドを叩く。

 コール音。コール音。コール音。

「坂口です」

 途端、耳にどろりとした甘い声が絡みついた。それは温かい吐息を耳たぶに錯覚させるような振動だった。

 夏朗への憐憫が吹き飛び、絡みつくバニラの香りを思い出す。

「あ、あの。俺、佐伯です」

 首筋が泡立ち、スマートホンを耳から離したくなった。

「ああ。佐伯さん。きっと電話してもらえると思っていました。ご苦労様です。今は夏朗の家?すぐ行きます」

 佐伯が返事をする間もなく、通話は途絶えた。耳に残る音の余韻がむず痒い。佐伯は耳を揉み、夏朗の遺体をどうしたものかと、あたりを見回す。

 一匹の黒蠅が、開きっぱなしの玄関から夏朗の部屋に入っていった。それがひどく不快な心持ちがして、佐伯は蠅を追うべきか迷ったが、いくらも経たないうちに、砂利道を踏み鳴らして、見覚えのあるセダンが姿を現した。

「ふ、ふ。元気そうですね」

 運転席から降りるなり、篤人は山羊のような双眸を細めてそう言った。

「あんた……」

「少しぼくと話をしませんか?今後のことについてですよ。目的地があれば、そこに向かう間までで構いません。夏朗のことは、ぼくがやっておきますから。どうせ死亡届だのを考える必要なんてないんだ」

 開かれた助手席のドアを、佐伯は拒絶しなかった。

「どこに向かいますか?」

「……御影山の駐在所まで」

「少し遠回りしても?」

 佐伯は頷き、制帽を取った。

 勝てる算段が自分を大胆にさせている自覚があった。その上で、篤人に聞きたいことが山ほどあった。

 セダンのタイヤが砂利を噛む音を皮切りに、佐伯は口を開いた。

「夏朗は、あなたを友達だと言いました」

「ええ。そうです」

 エアコンの風に紛れて、控えめに音楽が鳴っている。ベートーヴェンではない。雨垂れのようなピアノの音が細くたなびいて聞こえた。雨垂れはきらめく光の粒であった。

「友達なら他の道があったのではないでしょうか。俺は、夏朗と話してそう思えてならない」

「……確かにぼくたちは友達です。しかし、夏朗が望んで、ぼくがお膳立てした。友達には力を貸すものでしょう。それともなにか、もっと夏朗を説き伏せて、夢子と家を出ろと言えばよかったと?」

「いや……。出たところでいずれどうもならなくなったでしょう。そこは遅いか早いかだけ……」

「ではどのあたりに問題が?」

「俺はなにか文句があるわけでは……ないわけではないが。しかしこれはあんたに向けるべき勘定じゃない。……夏朗とは短くとも長い時間を過ごしました。だから俺は、明日にでもあんたの家にもう一度行かなくちゃいけません」

「そうでしょうとも。あなたは夢子を、ぼくは比呂人を。それぞれやるべきことをしなければいけない」

「お兄さんを?もしあんたがお兄さんを殺すと言うなら、俺はそこに関してはなにか手を打たなければならない」

「……ぼくは兄を殺しやしません。傷つけるわけでもない。人の可能性に少しだけ力添えをするのがぼくの務めです。夏朗と出会った時のようにね」

 赤信号の合間に、篤人はたばこを取り出し、佐伯に断って火をつける。微かに車内が煙り、しかし開いた窓の隙間に吸い出されていく。

「夏朗をまず見つけたのはぼくでした。うちの……近くに、昔、雲母がとれた山がありますでしょう?あれの採掘跡に住み着いていたのを見つけたのが、ぼくと夏朗のはじまりでした」

「夢子さんも一緒に?」

「ええ。近づいたぼくに、夢子に人を食わせたくないと夏朗が言いましてね。彼のようなものなら、不死を笠に着て、もう少し横暴になりそうなものですが。そんな素振りはちっともなかった。話をするうちに、夢子を飢えさせないようにしてくれと言ったのも彼です。話し合った末に、比呂人のところへ夢子をやったんですよ」

「篤人さんが?」

「ある種、完全な存在である夏朗が、自ら坂口の下に身を窶したのですからね。ぼくは彼の望むものを全て与えました。実際、夢子は夏朗一人の手には負えなかったのですから」

「そこに夢子さんの意思がなかったとしても?」

 佐伯の言葉に、篤人はたばこを持った手を振って答えた。煙が踊り、車内が白く霞んだ。

「いや、いや。それは間違ってます。夢子は意志を持っている。強固なものをね。夢子は夏朗と同じ時間を生きるためならなんでもします。夏朗を食わないために他のものを食う。夏朗を飢えさせないために比呂人の元へ行く。あらゆる恥辱に耐える精神も全て夏朗がいるから。あれは純愛です。人の可能性、愛は思いもよらないかたちで表現されている」

「だからと言って、こどもたちを犠牲にしてもよいと?」

「あれらは全て比呂人の子ですからね。夏朗とぼくがどうこうできる命ではない。しかし、ただなぶり殺されるのはあまりに哀れだ。比呂人に重臓を使って見世をやれと言ったのはぼくです。重臓はあれで彼らをよくかわいがっていたんですよ。例の男の件だって、男の側があれらを棒で叩いたり蹴ったりして、ケガをさせなければああはならなかった。それでも、比呂人に内臓を突き潰されて死んだ子らよりはマシな死に方ですがね」

 篤人は唇の隙間から煙を吐いてそう言った。赤い舌がちらりと見える。

「まあ、比呂人のやっている事に関しては、使用人たちも詳しくは知りませんがね。巷のセクサロイド云々の噂話は、そのあたりから出たんでしょう」

「ぞっとしませんね。そんな趣味の男を今まで野放しに……」

「比呂人は母を亡くしてから女を潰すことに執着をしている。うちの母親は、踏切の線路に足を取られたぼくを助けようとして轢死しましてね。兄もそれを見ていた……。母の死の瞬間、ぼくは母の愛を確信したが、兄は弟のために自分を置いて死ぬ母を見た。視点の違いが結果を変えたんです。憐れみこそすれ、憎むことはできませんよ」

 車内に満ちたバニラの香りの中、佐伯は反論を飲み込んだ。家族ならばなにかできたことが、と糾弾するのは簡単であった。しかし、できぬ事情を洞察するでもなく、ただ唇のみで非難するのは実に愚かしいことだと思った。

「だからこそ、ぼくとあなたはそれぞれの務めを果たそうじゃありませんか」

 ヤギの目が視線を寄越す。

「あなたは、あなたに正しくあらねば」

 佐伯は窓の外を見た。篤人の視線は青信号で移り変わり、セダンのタイヤは軽やかに回る。

「俺の正しさ……」

 セダンは山道を進む。ひとつ小さな峠をこえ、またひとつ。頂上では、緑色の山肌の隙間から、きらめく波間が覗いていた。巨木に左右を見守られ、手を差し伸べる薮の合間を抜ける。途中、朱色の鳥居を幾重にも並べた稲荷神社が佐伯たちを見送った。

「じきに駐在所です。佐伯さん、明日あなたをまた坂口邸にきてくださいね。十一時ごろ、門前でお待ちしています」

 篤人はそう言って、たばこの吸いさしを灰皿に揉み消した。セダンのギアをパーキングに入れ、篤人は佐伯に向き直った。

「でも、くれぐれもお一人で。不死でなければ夢子とは対面するだけで終わりです。やはりやるのはあなたでなければ」

 篤人の手のひらが、佐伯の手の甲を撫でた。佐伯はその手のひらを避け、車を降りると、制帽を被り直した。

「夏朗を頼みます」

 佐伯は篤人に向き直ってそう言った。

「では十一時に」

 御影山駐在所の前で、佐伯と篤人はしばし視線を交わし、別れた。

 ゆるやかに下っていくセダンを見送り、佐伯は交番の引き戸を開ける。なにを話すべきで、話さざるべきか。

 迷いに顔を顰めながら室内を見ると、小さい貞沼が椅子に座って微笑んでいた。

 

 

 ◆

 

 

「かわいいでしょ?」

 神鳥が小さい貞沼の頭を撫でながら言った。

「いや、いや。貞沼は家を出られないんじゃなかったのか?それよりも、どこか具合が悪いとかは?ない?」

 考えていたことが全て吹き飛んでいた。

 佐伯は小さい貞沼の前に膝を折り、やわらかな頬を手のひらで包んだ。小さい貞沼は、小さい手のひらで佐伯の手を触った。

「やっと出てこれたんですよ。あれだけ猛烈な破壊をされる想定がなかったので、痛覚信号の強さがうまく調整できないまま往復して、めちゃくちゃ痛かったですけど、それももう大丈夫……。そのあたりの調整が終わるまでは危ないからって、いつものボディは使わせてもらえないですけど。この大きさなら戦闘に参加はできないから外に出てもよし、と、兄たちに手を打ってもらいましたよ。どちらにせよ事務仕事くらいはやらないと、みんなも困るでしょう?」

 ラーメンの約束はちょっと厳しそうです、と、貞沼が頭を下げた。

「ああ、うん……。後日また改めて……。いや、思っていたよりかは深刻じゃなくてよかった。痛かっただろうからなにもよくはないんだけど、もし貞沼が警察を辞めるなんてなったら俺は……」

「辞めませんよ。そこは安心してください」

 小さい貞沼が佐伯の手を握ってそう答えた。

 へたり込みそうになる佐伯に、刈賀が事務椅子を渡す。佐伯は、はーっと大きなため息を吐き、沈み込むように着席した。

「それで、佐伯さんのほうはどういうことになったんです?そんな変な服を着ているのも、何か理由があるんですよね?」

 刈賀が顎でしゃくり、先を話すようにうながした。

「俺も聞きたぁい」

 神鳥がたばこに火をつけながら言う。甘さのない香りが佐伯の鼻を突いた。

「ああ、どう。どう話せばいいのかな」

 佐伯は制帽を取り、頭を掻く。すっかり毒気を抜かれたような心持ちだった。

「貞ちゃんが壊れちゃった後から、順を追って話しなさいよ。今後の方針もね」

 神鳥が煙を吐く。

 佐伯は、身振り手振りを交えて、ほとんど全てを三人に話して聞かせた。

 坂口篤人の介入。坂口比呂人の所業。夏朗という不死人に、その妻である夢子。継承する血の不死と、それを継いだ佐伯自身。

 途中、神鳥の親戚だという少年が運んできた麦茶を飲み、佐伯はため息を吐いた。

「どうやら、俺は死ななくなったらしい」

 神鳥がたばこを分厚いカットガラスの灰皿で揉み消した。交番の中はすっかり白く煙っている。刈賀が黙ったまま窓を開けた。吹き抜ける風はひんやりとし始めていた。

「死なないって、オレとは違うんですよねぇ」

 小さい貞沼が、自分の胸を軽く叩いて言った。

「荒唐無稽な話だけど、貞ちゃんが壊れるような状況から、無傷生還したって言われちゃうとね。一回死んだのかな?と思いたくなるわよねぇ」

「オレのカメラが生きていれば、もう少し詳しくわかったんですけどね。迂闊でした」

「貞ちゃんは悪くないわよ」

 神鳥はそう言って、小さい貞沼の頭を撫で始める。茶菓子のクッキーを貞沼に手渡し、食べる様を嬉しそうに眺める様子は、こどもをかどわかす悪鬼を思わせた。

「本当だよ。俺は何回も死んだし……。死んでも戻るっていうのは確実なんだけど、証明する方法ってのが難しいんだよ、な」

 実際、一度死んで見せるのが早かろうとは思っているが、ここで突然自殺をしていいものだろうかと、佐伯は迷っていた。

「あ、ほら。こうやって刃物が俺について回るようにもなったんだ」

 佐伯は、明らかに入りきらない小さなポケットや、物の死角から、するりと山刀や出刃包丁を取り出して見せた。

「あらやだぁ……」

 神鳥が山刀を手に取り、顔を顰める。

「いよいよもって超常現象みが出てきましたね。好きですよ、そういう展開。わぁ、本物だ」

 事務机に置かれた出刃包丁をおっかなびっくり触りながら、貞沼が言う。窓際にいた刈賀も、事務机を覗き込む。

「じゃあ、これで佐伯さんを一度殺してみればいいじゃないですか」

 刈賀はそう言って、出刃包丁を手に取った。

「ここで?」

 神鳥が嫌そうな顔をする。

「聞くより見るのがなんとやら、案ずるより産むが易しみたいなことを言うじゃないですか。それに、佐伯さんも殺されても死なない自信があるから、こうやって刃物を並べて見せてくれたんですよね」

「百聞は一見にしかず?」

 佐伯は眉を寄せた。

「それです、佐伯さん。では失礼して」

 さくん、と出刃包丁が佐伯の喉笛に食い込んだ。

 刈賀は、食道を迷いなく切断すると、傷口に手を突っ込み、そのままめりめりと音を立てて背骨を引き摺り出す。服を捲り上げ、背中に深々と出刃包丁を突き立てると、一息に背中を割り開いた。

 目を見開き、唖然とする貞沼と神鳥を尻目に、佐伯を腰まで縦に割ると、

「佐伯脊髄剣!」

 高々と、刈賀は佐伯の背骨を掲げた。

 一瞬にして、駐在所の中は血の海となり、天井まで飛び散った血飛沫が雨のようにしたたる。吹き出した血液が窓ガラスを赤く塗り、ステンレス製の棚に置かれた事務用品も重く血を吸った。

「前が見えねぇ」

 顔面に血を受けた神鳥が唸るように言った。

「刈賀さん、生き返らないといけないから、背骨は戻してあげてくださいね」

 神鳥の陰になり、奇跡的に血飛沫を浴びなかった貞沼が、そう言って刈賀を諌めた。

 全身に血を被った刈賀は、背骨を放り出し、ぬるつく手を佐伯の服で拭く。

「それで、佐伯さんは……」

 ——がた、と、窓枠が風で鳴った。

 全員の視線が佐伯から離れた一瞬。佐伯の死骸は服から抜き取ったようになくなり、代わりに全裸の佐伯が隣室の扉を開いて室内に入ってきた。

「猥褻だとかそういう話はいい。服を着させてくれ」

 佐伯は、それぞれなにか言いかけた全員を手のひらで制止すると、血溜まりに落ちた衣類を身につけた。血に濡れそぼった服は相応に着づらく、動かすたびにぼたぼたと粘りのある血液が垂れた。

「ああ、あんな殺し方するから、シャツの首が伸びちゃうじゃないか……。刈賀、いくらなんでもやり方が激しすぎないか?」

「この間、貞さんに借りたゲームでこういうのが出てきたんですよ」 

 刈賀が血糊で固まりはじめた髪の毛を掻き上げながらそう返した。

「貞沼、そんなゲームを刈賀に貸しちゃいけません。そういうわけで、みんなにはわかってもらえただろうか?」

 話している間にも、室内の血痕は薄くなっていく。佐伯が衣類を全て身につけ、再度椅子に座って麦茶をコップに注ぐ頃には、以前となんら変わりない、たばこのにおいの残る駐在所に戻っていた。

 めいめい、沈黙していた。

 佐伯を除く三人は、細かいことを尋ねたい気持ちはあれど、恐らく追求するだけ無駄なのだろうとも薄々勘付いているようだった。よくわからないものをどう扱ったらよいか決めあぐねているようにも思えた。

 そんな中、神鳥が新しいたばこを取り出し、口火を切った。

「まあ。まあ、そうね。佐伯が死んでも死なないってのはよくわかったし、後始末の必要は、佐伯の社会的信用の如何程度で収まることもわかったわよ。本部にそれを報告するの是非はとりあえず置いておくとして」

 とん、と、たばこの灰を灰皿に落としながらそう言った。

「佐伯は、今回の事件、誰をどうして決着とするつもり?」

 神鳥の歯がたばこのフィルタを噛む。

「そうですよね。貞さんは今は戦力外……。神鳥さんも、その夢子なる方の相手は厳しいでしょうし。僕と佐伯さんによる武力制圧が妥当だと思いますが、佐伯さんはそうじゃないんでしょう?」

 ため息まじりに、刈賀はそう言った。

「俺は、夢子の殺害と比呂人の説得だと思っている……」

 佐伯は重々しく口を開いた。

「司法の介入は、新美と重臓のところだけだ。そしてその部分は、もう俺たちの手を離れつつある……。後に残ったのは、先に話した夏朗の望みと、比呂人によるこどもたちの再生産を止めることなんじゃないだろうか」

 それを聞いた刈賀が鼻を鳴らす。

「それで、佐伯さんが一人で行って解決してくると?」

「少なくとも、夢子を殺せばその二つが一度に解決する。俺が夏朗に頼まれたことを最後までやりたいと思う」

 佐伯はそう言うと、汗をかいたグラスの麦茶を飲み干した。神鳥と刈賀、貞沼は、それぞれの思惑を窺うように目線を交差させた。

「オレはそれでいいと思いますけどね」

 貞沼が微笑んだ。

 駄菓子の山に手を伸ばし、ラムネ菓子の袋を破りながら続ける。

「オレたちにできない感情の機微だとか、そういう人間のやわらかいところに触れなくちゃいけないことって、佐伯さんにしかできないと思うんですよ。オレは人の発汗や息遣いまで深読みする経験はありません。神鳥さんにもそういう繊細さはないし、譲くんは人でなしです。だから、佐伯さんが全部一人でやらなくちゃと思ったなら、オレはそれでいいです。でも、それを私情としてやろうと言うなら……佐伯さんがまずしなければいけないのは、真弥ちゃんへの報告ですからね」

 神鳥が貞沼を見やる。そうして、満足そうに、にや、と笑った。

「神鳥さんと貞さんがそういうことなら、僕もいいですよ。佐伯さん一人でやれば」

 刈賀がどことなく不服そうに同意した。その肩を神鳥が叩く。

「ゆずくんは、佐伯のことが心配で仕方なかったもんねぇ?」

「そりゃそうですよ。まだ籍入れもしてないのに」

 刈賀の発言が意味するところを察して、神鳥は煙を吹き出した。

「刈賀、今のどういう意味」

 同じく察した佐伯が声を上げるが、その両肩を神鳥が抑えた。

「ほら、佐伯。送ってってあげるから。いとしの我が家でよく話してきなさいよ」

 神鳥との体格に適うはずもなく、佐伯は押し出されるように交番からの退出を余儀なくされる。閉じられたガラス戸の向こう側から、小さい貞沼がまたねとでも言いたげに手を振った。

 そのまま神鳥によって後部座席に押し込まれた佐伯を乗せて、パトカーは走り出した。

「神鳥、あれって絶対、俺と籍入れなかったら、真弥ちゃんが未亡人にならないって意味だよねぇ!?」

「ははは、知らねえよ」

 貞沼の運転より荒いハンドルさばきで、パトカーは御影山の山道を駆け降りていく。次々と後方へ飛んでいく、木々や地蔵群を横目に見ながら、佐伯はもごもごと歯切れ悪く言った。

「真弥ちゃんがさ」

「うん?」

「もし、俺が不死になったのを受け入れてくれなかったらどうしよう……。そんなの人生が終わる……」

 両手で顔を覆って、今にも泣き出さんばかりの佐伯の声を聞きながら、神鳥は哄笑した。

「そんな人じゃないでしょ、あの子は。どちらかというと、佐伯が不死なのをいいことに、いろんなことを試しにやってみるタイプの女性よ?」

「それはそれで……脳裏に一抹の不安がよぎる……」

「俺もマゾ開発された佐伯は、そんなに見たくないねえ」

「真弥ちゃんが?俺の女王様に?」

「まんざらでもない顔するんじゃないよ」

 今後の夫婦生活はさておき、自宅前に到着した佐伯は、二、三度深呼吸して玄関を開いたのであった。

 

 

 ◆

 

 

 佐伯が家に帰り着いた時、真弥はなにを取り乱すでもなくいつもの調子で「おかえり」と言った。

 それは限りなく日常のやり取りであった。仕事で帰りが遅くなった日、あるいは泊まり込みの仕事をした日の翌日。

 真弥は変わりなく食事を用意していて、温めた味噌汁と肉野菜炒めを、食卓に座った佐伯の前に出した。遅い昼食であった。

 腹はすいていなかったが、佐伯は手を合わせて、料理に箸をつけた。

「ねえ、佐伯さん。ごはん食べたら二時間くらい釣りに行かない?私、仕掛けつけられないからさ」

 いつも通り、瞬く間に料理を口に入れて咀嚼し、飲み込もうとする佐伯に真弥は言った。

 佐伯が時計を見ると、まだ十四時半であった。

 佐伯は新聞を開き、今日の潮目を見る。大潮の満潮まであと四時間ほどあった。

 身体は疲れてはいなかった。一度死に戻ると、その時の体力的な疲労はおさまるらしく、眠気もなかった。

 なにより、静かな場所で二人で話したかった。

「行こうか」

 佐伯がそう返すと、真弥は喜んで、投げ釣りの竿を二本と、のべ釣りの竿を一本、車に積んだ。

「帽子と日焼け止めもね」

 佐伯は真弥に従って、日焼け止めを塗り、帽子をかぶる。クーラーボックスと水筒を抱えて、車に乗り込んだ。

 田んぼ道を抜け、踏切を通り、電灯のない小さなトンネルをくぐる。

 途中、咥えたばこの店主の釣具屋で、アオイソメを三百円ほど買い、木製の箱に入れた。

 入江が深く大地へと切り込み、繋がれた漁船を囲うようにして家が建てられている。二階の窓を開けば、真下に水面である。

 海の切れ端を背に、壁のように整列する家や工場の姿は、海を堰き止める壁のようにも思われたし、海を近くに置こうという執着にも感じられた。水光のきらめきが目に染みて、瞼の下にもまたたいた。

 道路に面した広い敷地では、小女子やかちりが日に干され、開いた車の窓からは、干した魚のよい香りがした。

コンクリートの堤防に沿って車が走る。海面が見えそうで見えない焦ったさが、釣りに向かう気持ちを高揚させた。

「まだかな」

「もうちょっと」

 真弥の横顔を見ながら、佐伯は微笑んだ

 夏の間、隣の海水浴場のために有料になる駐車場に車を入れる。

「やあ、久しぶりだね」

 先に車を降りた真弥は伸びをし、深く磯のにおいを吸った。海水浴客がいない駐車場は閑散としており、まばらに車が止まるばかりであった。

 真弥と佐伯がよく釣りにいく防波堤は、海釣り公園も兼ねており、手すりがつけられていて安全な上、トイレと自販機もある。普段ならばなかなかの人数で混み合うのだが、今日に限っては、人気もまばらであった。

 釣竿と餌入れ。バケツに釣具入れ。大きな荷物をそれぞれ両手に持ち、階段をのぼり、堤防に上がる。

「さあ、さっそくやろうか。すいてていいね」

「夕飯は手に入るでしょうかね」

 真弥と笑い合う最中も、佐伯の胸中には小さな黒いもやがいた。

 佐伯が竿に仕掛けをつけると、真弥はアオイソメを木箱からつまみ出した。青黒い胴体を裏返すと、鮮やかなピンク色をしている。

 ぱくぱくと動くアオイソメの口に釣り針を一息に刺し入れ、胴体の中に針を隠すように通していく。アオイソメは何度も身をくねらせる。

 びゅ、と、しなった竿が音を立てた。振り抜かれた錘と針、アオイソメは糸の伸びる音とともに飛び、着水した。真弥がリールを巻く。

「佐伯さん、なにかあったんでしょう」

 波のさざめきの中、内緒話をするように真弥は言った。

「うん」

 佐伯は素直に頷き、延べ釣り用の竿を用意すると、ぽちゃりと水面に糸を垂らした。浅い岩場の隙間に、黒く小さな魚影がいくつか見えた。

 そして、自分の身に起きたことを真弥に話した。それは極力、脚色を抑えたものであって、自分の意思で夏朗を手にかけたことも含まれていた。

 真弥は最後まで話を黙って聞いていた。ゆっくりとリールを巻き、針先に引っかかってあがった海藻を手ではずす。

「佐伯さんは、その夏朗って人から、死なないってことを渡されたのね。継いだとも言えるし、取り込んだとも言えるけど」

 佐伯が話終わると、真弥は新しいアオイソメを針の先につけた。竿を振り、今度は堤防の手すりに釣竿を立て掛けた。

「そう、そうだ。この辺りのお葬式の風習に、骨喰みってものがあるんだけど、知ってる?」

 聞き慣れない言葉だった。佐伯は素直に頭を横に振った。

「いや……」

「ちょっと前のお葬式でもやってた。故人のお骨を近しい人が少しもらって、噛んで、飲み込むの。ほんの指先、粉くらいの時もあるし、もう少し大きめのを奥歯で噛むだけの時もあるんだけど」

 真弥は、指先で「このくらい」と、骨の大きさを示してみながら言った。

「それは、死んだ人を忘れないように自分の身に取り込みたいという愛着もあるだろうし、一緒に生きていきたい気持ちなのかもしれないし……。あるいは、死んだ人からの忘れないでいて欲しいという気持ちや、骨肉とならせてくれという遺志なのかもしれない。とにかく、私はその風習をはじめて見た時に、なんて当たり前でいとしいものなんだろうと思ったよ」

 ざり、と、真弥のスニーカーの底とコンクリートが擦れ合って音を立てた。真弥の足元を船虫が走って逃げていく。

「夏朗さんを食べて佐伯さんが続く。そういう意味なら道理だね」

 真弥が足を上げると、船虫が一匹踏み潰されていた。

 数歩横に移動すると、真弥が踏んだ船虫に、別の船虫が群がっていく。たちまち死んだ一匹は仲間の船虫に食われ、なかったように消え去った。瞬くうちに変化する光景に、佐伯は輪のようなものを感じた。

「甘薯祭りみたいに?」

「かもね」

 真弥は、竿を持ち、ゆっくりとリールを巻く。

 佐伯は、海の波間を見て言った。

 実際は、波間を見ているのではなく、絶え間ない波をひとつひとつすり抜けていく釣り糸のことを見ていた。鳶が鳴き、鴎がざわめく。

「どんな味がするんだろうね」

 釣竿を持った指先に、微かな振動を感じた。

 垂らしていた糸を巻きあげる。メジナが黒い体をくねらせて陸に上がった。

「これで佐伯さんの夕飯は決まったね」

 真弥は、佐伯が引き上げたメジナをタオルで掴むと、針をはずしクーラーボックスへと投げ入れる。ビニール袋の中で、メジナはしばらく暴れていたが、じきに音を立てなくなった。

「そう……。ただ、においもない、灰のような、前歯の先が軋むような、それだけだよ」

 そう言って、真弥もリールを巻き、竿をあげる。十二センチほどのハゼが針先についていた。

 真弥はハゼを針から外し、ハゼの口からはみ出していたアオイソメの切れ端をちぎり取ると、指で弾いて少し離れたところに飛ばした。そして、ハゼをクーラーボックスの袋に入れる。

 動かないアオイソメの端切れに、また船虫が群がり、食い尽くしていく。

 びゅん、と、釣竿が空を切る音がして、先ほどよりも遠くへ着水した。

「それで、佐伯さん」

 かりかりと小さな音を立てて、真弥がリールを巻く。

「死ななくなったとか、そういう話、私はそのまま信じるからね」

 真弥は釣り糸の先を見つめながらそう言った。

「いつか見せてね」

 佐伯を振り向く真弥。煌めく海面、その遠くにスナメリの白い姿が見えた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る