五章 魂の通貨
五章 魂の通貨
ふと、顔をあげると、眼前で自分の葬儀が執り行われているのに佐伯は気づいた。
読経の声がスピーカーで響き、空気を震わせる中、ずらりと並んだパイプ椅子に座った面々が、それぞれ俯いて押し黙っている。白と黒ばかりが連なるその光景は、古い映画のようだった。
佐伯は順繰りに、椅子に座る人々の顔を覗き込んで回ったが、見知った顔がひとつも見つからず、寂しい気分になった。
棺桶の中の佐伯は、少し窮屈そうで、この幅では寝返りが打てないなと、見ている佐伯は思った。
香りのいいバラの花が佐伯を囲んでいた。いつか真弥に聞いた、ヘリオガバルスの絵画を思い出した。
バラの芳香は芳しくも、線香のにおいと混じって最悪だった。
それに加えて、大音量の読経だ。気分が悪い。汗を滴らせながら読経を続ける坊主の袈裟が、サーモンピンクをしていた。
坊主に抗議しようと駆け寄ると、その顔はたちまち貞沼に変わった。
佐伯を見ながら読経する貞沼の顔面が崩れるように剥がれ落ち、筋繊維のように張り巡らされた配線が露わになる。
驚き、身を引く。
途端、貞沼から火花が散る。照明がディスコのけばけばしいレーザーのように変わり、ホール中が明滅する。
つんざくような音量の読経が、佐伯の耳を割らんばかりに響き渡る。
視覚と聴覚が過剰な情報に悲鳴をあげて、真っ白な中に放り出されたようだった。
浮遊、落下感。
胃袋の底が宙に浮き、食道を迫り上がるものに思わず強く目を瞑った。
次に気づくと、それは葬儀が終わった後に変わっていた。
窓の外には闇が満ちている。
闇は染み込むように家の中にも満ちようとし、ダウンライトのついた廊下すら暗く見せている。まるで居住者たちの心情を餌に密度を増す黒蠅のようであった。
骨壷と佐伯の遺影が、居心地悪そうにテーブルの上に置かれていた。
遺影には警察手帳の写真が使われていた。証明写真のようでそっけない上に、固い表情をしていて、目元は陰気に見える。日焼けをしていない頃のものだから、黒い制帽と制服に挟まれて、白い顔が浮かび上がっているようだった。
まるで幽霊のようだと、佐伯は思った。懐から手帳を出した時にそんな印象はなかった。だのに、こうして黒い額に収まり、喪章をかけられるとこうまで変わるものだろうか。
他にもっとマシな写真はなかったのだろうか……。
そうは言っても、佐伯自身にもあまり写真を撮った記憶がないのだから、あれが一番マシだったのかもしれない。どれもこれもが白と黒のように感じられて、色彩が恋しくなった。
室内は線香の煙で曇り、さながら曇天。
暗い外の天候は佐伯の視点からはわからなかった。
フリルのついた黒いブラウスに、黒いフレアスカート。有り合わせの喪服に身を包んだ真弥が正座のまま俯いている。黒いストッキングの足の裏だけが天井を向いている。
闇を纏っているようであった。真弥が佐伯の遺影に向いて顔を上げると、鳶色のひとみから、大粒の涙が落ちていった。
線香の雲が真弥のまなこから雨を降らしているようだった。
貞沼が、真弥の肩に手を置いて、一言二言話しかけた。真弥は泣き笑いして、貞沼にありがとうと伝える。開いた扉の隙間から、煙草を咥えた神鳥が覗きこみ、貞沼を呼んだ。立ち上がり、部屋を出る貞沼と、神鳥の表情は二人とも険しい。
貞沼と入れ替わりに部屋に入ってきた刈賀が、真弥の隣に腰を下ろす。お菓子と飲み物を差し出し、真弥ちゃん、真弥ちゃんとしきりに話しかけている。
真弥の細い肩がふるえて、またぽろぽろと涙が落ちる。そこでようやく、佐伯は家に帰りたかったことを思い出した。
真弥の姿を見て湧き上がる猛烈な罪悪感に、頭を床につけて謝りたくなった。
きっとあの日も、夕飯の支度をして、連絡のない佐伯の身を案じてくれていただろう。
腹の奥から真っ黒い気持ちが湧き出して、佐伯の胸の中を埋め尽くしていく。血の流れがささくれ立ち、細かな棘が刺すようだった。
ティッシュとタオルを握りしめて、真弥が鼻を啜った。誰かがこのひとを支えてくれないかと、佐伯は願わずにはいられなかった。
部屋を出る刈賀の独り言が聞こえた。
「今の真弥ちゃん、未亡人みたいだな……」
目の前が真っ赤になった。久しぶりに感じた色彩は、怒りに沸騰した血の色をしていた。
オマエにだけは真弥ちゃんを預けられないと、振り上げた拳は空をつかみ、佐伯は猛烈な怒りをそのままに跳ね起きた。
◆
「やあ、起きたね」
和服を着た青年は、家畜人と書かれた文庫本から顔を上げ、佐伯の方に手をあげて見せた。
知らないベニヤの壁。知らないにおい。知らない声。知らない天井から吊り下げられた蛍光灯の白い光に目が眩む。
怒りに震えていた頭が、一瞬で冷える。
周りを見渡すと、締め切られたカーテンの向こう側は暗かった。夜なのだろうか。室内中央に柱があり、それを囲むように三部屋。
本来は襖や引き戸があったのだろうが、それらを取り外して一間に繋げてある。作りからして、古い公営住宅の一角のようであった。
「…ここは?」
ほとんど掠れて発音できなかった。ひどく喉が渇いている。
紙とインクの匂いがする。部屋の壁に沿って積み上げられた書籍の山が、小口を佐伯に向ける。
「ああ、ぼくのねじろだ。遠慮することはない。まずあんたがすべきは、そのままぼくの話を聞くことだ」
青年はそう言って、文庫本に栞を挟む。
「あんたは佐伯國春で、ぼくは山田夏朗。夏朗のロウは、朗らか夏朗だ。よろしく頼むよ」
夏朗は文庫本を置き、家の中をウロウロしながらしゃべり始める。
「水と食料はそこの冷蔵庫の中にたくさんある。トイレは玄関の方を右だ。隣に風呂。シャワーはないけれど、浴槽はあるから、風呂に入りたかったら自分で水を溜めて……ああ、使い方がわからなかったら聞いてくれよ。古い型だから、風呂釜のタイマーを設定しなきゃいけないから。最近のは、ボタンひとつでお湯が沸くらしいね。大したもんだ。それと、そうだな。多分一番気になっていることだとは思うんだが」
冷蔵庫から取り出した、水のペットボトルを佐伯の枕元に置きながら、夏朗は続けた。
「あんたの腕は生えてきたよ。安心していい。全部元通りだが少し違う。お礼なんて言わなくていい。ぼくはあんたに頼みがあるんだ」
矢継ぎ早に話し続ける夏朗は、どこか興奮しているようだった。子どものように紅潮した頬が、嬉しそうに微笑むが、黙って傾聴することはできなかった。
「いや、いや。少し待ってくれ……。あれは夢じゃなくて、俺の腕は引きちぎられて食べられたのが、また生えてきたのか?」
佐伯は口を挟んだ。言葉の合間合間に、掠れた咳が出た。唇を舐めてどうにか言葉を継ぐ。夏朗の目が喜びに見開かれ、捲し立てた。
「そう!立派な腕が生えてるだろ?全部現実だ!あんたのことは、夢子が持って帰っていいって言うから、持って帰ってきたんだ。夢子は普段は骨まで食うから、あんたの死体が無くても比呂人はしばらく気づかないさ。それに、同僚のほうも……比呂人はただのロボットだと思っているから、壊れておしまいだと思っているだろうし、もうしばらくしたらどこかで溶かしたら、済んだことだと思って枕を高くして眠る事だろう。どちらにせよ、あんたはほとんど死んでいたから、ぼくの血を輸血したのが今朝だ。ちょうどよかった。これでもう、あんたは死なない」
そこまで早口に言い切って、夏朗は心から嬉しそうに笑った。話しているうちに更に高揚したようで、もう待ちきれないと言ったふうに、足を踏み鳴らす。状況が飲み込めていない佐伯は、話に置いてきぼりのまま固まってしまう。
「いや、あぁ……輸血?腕が生えて、あ……死なない……?」
おうむ返しのように夏朗の言葉を繰り返すたびに、頭の中で、かちんかちんと嫌なパズルが組み上がっていく。
「あとはあんたがぼくを殺せば、代替わりができるんだ!よろしく頼むよ!」
そう言って、いつの間にか持っていた出刃包丁を佐伯に投げて寄越した。
玉散る氷の刃は、畳に真っ直ぐに屹立して佐伯を見つめている。その冷ややかさも、却って佐伯の混乱を煽るばかりであった。
起き抜け早々に、自分を殺せという初対面の相手にどう接したらよいのか。二の句を継げずにいる佐伯を見て、夏朗は幾分か落ち着きを取り戻したようだった。
「ああそうか。順を追って話して欲しいんだな?まあ確かにそうか、そうだな。どこから話そうか……」
夏朗はそう言って、考え込んだ。
佐伯は布団の上で、手足に力が入るだろうかと考えていた。手を握る。つま先に力を入れて、握り、反らす。あれほど大きなけがをした名残はなく、まさに悪夢だったかのように痕跡は消え去っていた。
「昨日、ちょうど夢子に血をやりに、坂口の家に行ったんだ。まずそこからだろ」
夏朗は指を折りながら語り始めた。
「そうしたら、夢子があんたを食ってるじゃないか。ぼくとしても、できれば夢子には人を食ってもらいたくないし、ちょうど夢子にやろうと思ってケーキを買ってきていたから、あんたとケーキを交換してもらったんだ。これも何かの縁だと思ってね。だからあんたの中の血がなるべく、ぼくの血になるようにしたんだ。あんたのほうに残っていた血は、ぼくの中にも入れたけど、だいぶこっぴどくやられていたみたいだね。おかげでなんだかふわふわする……。ぼくの血が濃ければ濃いほど、不死に近づくから、あとはあんたがぼくを殺してくれれば、ぼくの中に残っている血をあんたが請け負って、ぼくはこの血から降りられる。誰か一人入って、一人抜けるんだ。そんなやつらがきっと他にも何人かいるが……、まずはぼくが一抜けだ」
わかるかな?と、夏朗は首を傾げた。
「言わんとしてることはわかる……。わかるけど……。どういうことなのかはよくわからん……。なにより俺は、ひとを殺すわけにはいかないから……」
「ああ、そういう……」
佐伯の返答に、夏朗は分かりやすく肩を落とし、落胆して見せた。
「まあそうだろうさ。あんたは警察官で正義に生きてる。だろう?じゃあもっとわかりやすくしよう」
夏朗の指先が、鉄製の玄関ドアを指した。
「あんたはこの家から出られない。出るにはあの玄関。わかるだろ?人の手で壊せる厚さでもない。鍵も内側からかけてある。掃き出し窓の向こう側は、コンクリブロックを積み上げて、塗り固めてある。うちに工具は無い。出るには、ぼくが今から飲み込むこの鍵を、あんたがぼくの腹を割いて取り出すしかないわけだ」
夏朗はそう言って、真鍮色の鍵を俺に見せ、ためらいなく口の中に放り込んだ。
「悠長に排泄を待とうなんて思うなよ。ぼくはウンコから出てきた鍵くらいなら、また飲み込めるからな!」
佐伯は身体を起こして、夏朗がくれたペットボトルの水をひと息に飲み干した。喉から胃袋に向かって水が落ちていく。沁み入るような清涼さに、祭りの日に飲んだ烏龍茶を思い出した。
干からびていた喉が潤いを取り戻し、ようやく舌がまともに回る。
「なぜそんなに死にたいんだ」
佐伯の問いかけに、夏朗は眉間に皺を寄せた。
「なぜ死にたいか、なぜ生きたいか、そんな話はとっくに哲学者がやってる。ぼくは哲学者じゃないから、そんな話はしない。でも……そうだな。なぜぼくがこうなったのかくらいは、教えてやらなきゃいけないとも思うね。どんな地獄に落ちるにしても、せめて納得だけはしていたいものだ」
夏朗は冷蔵庫から、サイダーのボトルを取り出し、スナック菓子やサンドイッチと一緒に佐伯の前に並べた。
「長くなるから、食いながら聞きなよ。あんたにはこういうものが必要だからね」
そう言いながら夏朗も、べっこう飴をひとつ口にいれて、かろかろと音を立ててうまそうに笑った。
夏朗が天井を仰ぎ、そうしてから話し始めた。
「昔、山の中で滑落したんだ」
その語り口から、夏朗の昔話が始まった。
夏朗の言う、昔というのは、数年前の出来事ではない口ぶりであった。それが十年なのか、二十年なのか、果たしてもっと昔なのか、佐伯は想像することしかできない。なにしろ、夏朗の時代認識は曖昧だった。
昔々あるところにいた夏朗は、無鉄砲な若者であった。
その頃の夏朗は、わざと人の立ち入らない危険な山を登り、人が取らないような果実や山菜を持ち帰るのが格好いいものだと思っていたのだ。
だからその日も、皆の行かない岩場で鮎を掴み上げてやろうと、山道を走っていた。
その結果、獣道を滑落し、苔むした岩の間をピンボールのように転げ落ちることとなる。脳震盪から我に返った夏朗を迎えたのは、あらぬ方向に曲がった足と猛烈な嘔吐感だった
頭部からの出血で顔と地面は真っ赤に染まり、どこからともなくやってきた虫たちが夏朗の体液から活力を得ようとしていた。
身じろぎするだけでも、折れた骨が肉に刺さり、悶えるほどに痛む中も、太陽は木々の後ろへ身を隠す。
湿った土の上で感じる、死の予兆。今際の際になってようやく、山の恐ろしさを思い出すことになる。
既に日は姿を消し、けれど山の中は静寂とは無縁であった。
身に染み込むような冷えが押し寄せる中、いつどこからなにが出てくるのがわからない。疑心暗鬼に心は千々に乱れた。
藪の隙間から見ている狢が、今にも夏朗の目玉を掻き出そうとしているだとか、冷え切って感覚のなくなった足の指の先には、既にシデムシが群がっているだとか。
ここで死ぬのか、こう死ぬのかという想像ばかりが駆け巡って、恐ろしくてたまらなかった。しかし、ふと身体の向きを変えてみると、小さな洞窟が彼の目に止まった。微かな灯りが見えたのだ。
当たり前のように、夏朗はそこに這い込んだ。
とろ火で焚かれた灯りの前で、人形のような男が、一切の表情も無く己の膝を抱いていた。
擦り切れ、朽ちかけた服を着てなお、男の肌は汚れていなかった。そのつややかな肌が、男を人形のように見せたのだろう。
夏朗は男に話しかけた。男の目が夏朗を見、その折れた足を見た。少し間を置いてから、男はどこかほっとしたような表情を見せた。男は薪の中から、太い一本を取り出し、山刀で節を落とし、木の皮を剥ぎはじめた。
かりかりと、木材を削り出す音が妙に心地よく、夏朗はしばし足の痛みを忘れて聞き入ったという。
一本のまっすぐな無垢材のようになったそれを、夏朗に渡し、男は添え木にするように言った。
傷が癒えるまでここにいてよいかと尋ねる夏朗に、男はただ頷いた。
しかし、その穴蔵には一切の食料が無かった。夏朗は、繰り返し男に尋ねた。なにを食っているのか、水を分けてくれないか、と。
最初はほとんど沈黙で返していた男も、一晩中饒舌な夏朗に根負けし、朝には水を汲みに行った。清水を夏朗に飲ませながら、なぜここにいるのかを話し始めた。
その男こそが夏朗の始まりであり、遠くわからぬ始祖の末の者であったのだ。
彼は繰り返し繰り返し、その暗い穴蔵で、水と僅かばかりの焚き火で正気を保ち、餓死や凍死を繰り返して、いつか不死が尽きる日を待っていたのだ。
男の持ち物は、火打石がひと揃いに、すすけたような色の椀がひとつ。山刀が一振りと、出刃包丁であった。
それら財産を夏朗の前に並べて、男は低く静かな声で夏朗に言った。自身を血を一滴も残さず食ってくれと。そうすれば、たちまち足の傷は跡形もなく癒えるだけでなく、不死の力を得られるという甘言であった。
夏朗はいつまでも生きたかった。当たり前に生き残りたかった。だから男を殺して食うことに、なにもためらわなかった。
それは男が望んだことであり、夏朗も強く望んだことであった。
夏朗にとってその男は、今選べる最善の、夏朗が生き残る手段と疑わなかった。
それどころか、男がなるべく腐らないでいられるよう、慎重に部位を選んで生きたまま解体していった。男の苦痛が長く続くことを夏朗は厭わなかった。
むしろ男も、夏朗に指示を出し、ここをこうして切り取るなら、まだしばらくは死なないと、教えてくれたという。彼は自分の体の限界を恐ろしく細部まで知っていた。
最初のひとすすりが、夏朗の足を癒した。これならばと確信した夏朗は、時間をかけて血の一滴も残さず、男を我が身とすることに成功したのだ。
そうして夏朗は、なにかと引き換えに、死ななくなった。なにも残さないよう、夏朗は男の遺したものを抱えて穴蔵を出たのだ。
その後、夏朗も自分の身体を試しに使った。指を切ったら生えるのか、生えるならばどれほどの時間がかかるのか。
試してみた。指は生えず、折った腕も戻らなかった。折れた足がみるみるうちに治ったのは、男を食った最初の一度きりであった。
「思うに」
夏朗は、唇を舐めて言った。
「肉よりも血なんだ。血の中になにかがあって、それがまず最初に、傷を治して健康体にしてくれる。健全な状態を維持する働きがあるのだろう」
死の間際のまばたきの瞬間に、夢の狭間を見るのだと、夏朗は言った。その目は、どこか望郷のような感情に揺れていた。
「うつし世はゆめ、夜の夢こそまこととはよく言ったものだ。いつ終わるのかわからない夢の瞬きの繰り返しこそが、ぼくの現実だ。だが、営むことにおいて、なにも他の連中の生活は、本質的には変わらない。感覚として腹は減るし、刺されれば痛い。飽きがくるかこないかだけが問題だが、幸い世の中には、読み切れないほどの本がある」
何度も読み返され、背表紙の剥がれた古書を顎で指す。
「幾年過ぎる間に、死なないならばと好奇心に駆られる時もあるだろう?死なずに、誰かの手足を接木のようにぼくに接いだらどうなるだろう?生きた人間を捕まえて、腕を外してぼくに接いでみたこともある。六臂に憧れてね。あれは上手くいかなかった。猛烈に痛い上に、相性があるらしい。朝起きたら腐った腕が寝床の上にある悲しみを知ることになる。しかし、くっついたところで六臂は邪魔だね。服も着られないし。結局ちぎって外したよ」
夏朗は、缶コーラのプルタブを起こして中身を煽った。
「ではぼく以外に血をやったらどうなるのか……それももちろん試した。一番よかったよ。きっと最初の血の作用だろうね。生き物と生き物を繋ぎ合わせても生きていられるんだ。しかし最後は、中の血が腐ると、生き物の枠組みを外れて死ぬことになる。だいたい三日が限界だ。真冬なら一週間くらいはもつが……、一番いいのは、こまめにぼくの血を入れて、新鮮さをある程度維持してやることらしい」
じゅる、と、夏朗の唇がコーラを啜った。
「あんたもなにか飲むといい」
差し出されたサイダーのボトルを開け、佐伯も一口飲む。腹が空いていた。夏朗に促されるまま、具材がぎっしり詰まったサンドイッチを口に運んだ。
「拾ったこどもに、行き倒れそうな男。森の中で自死しようとする女に、肝試しにきた学生たち……ぼくの血をいれてな。いろんな接いだ生き物を作って売った。短期間なら動物でも接げたよ。すぐ死ぬからよく売れた。道楽ものがね。みな、嬲って遊ぶんだ。そうやって長く糊口を凌いできたよ。飢餓っていうのは、わかっててもつらいもんだ。食べなくても眠らなくても、死んで戻ればいいとすると、途端に気がおかしくなる。わかるだろう?」
夏朗はコーラの缶を差し出してそう言った。
「ああ。同僚のサイボーグたちも、睡眠と食事が必要ないが、人間性の維持を目的に最低三時間の睡眠と、一日一食以上の食事が義務付けられているから、きっとそうなんだろう」
「だろう?社会と関わりを持たずに生活をするのは難儀だ。舗装された道路や水で流れるトイレを得たいなら、人の真似事くらいはしなくちゃね。
だから金を稼ごうと考えたよ。出来上がりの形は、突拍子がなければないほど良かったね。猿の上半身に魚を継ぎ合わせて、水槽に浮かべて泳がせた事もあるし、犬の頭を三つに増やしてみたり……。
夢子はそんな俺を諌めてくれたが、俺は夢子をよく殴った。生業にケチをつけられたら、そうなるだろう?でも、子供を産んでくれるとわかった時は嬉しかったな。
でも出産が原因で夢子が死にかけたから、ぼくは夢子に血を入れた。赤ん坊はかわいらしかったが、当面の生活費のためにすぐに好事家に売ったよ。そういうつては広いんだ。その後は、いかにして夢子を夢子のまま生きながらえさせるかに苦心したよ……。血をこまめに入れてやれば、そうそう狂わないが、少しでも怠ると家畜を襲って食ったりする。ぼくのことは覚えていてくれているけれど……。腐りかけた血でおかしくなってから、膂力が増すし、切り落とした手足を生やしたりもできるようになったから、もし人を襲うとなれば、ぼくじゃ手がつけられない。だいぶ我慢して世話をしたが、どこからか話を聞きつけた比呂人がくれと言うから売ったんだ。おかげで今は、坂口の世話になって人生で一番いい生活ができてるね」
空き缶を床に置き、夏朗は話を括った。
「それを後悔しているのか?」
佐伯の問いかけに、夏朗は頭を振った。
「後悔なんてしない。ぼくはいつだってその時やれることをやってきた。だが、まあ、そうだな。夢子のことだけは、哀れだなと思っているよ。こどもを抱かせてやれなかったしね」
少し目を伏せた夏朗の感情が、悔恨なのか感傷なのか、自己保身を孕んだ罪悪感なのか、佐伯は推し量りあぐねていた。
「傷を受ければ、より血の多い方へと血は移っていく。わかるか?血の中になにか小さな群れのようなものがいて、より大きな群れへと合流したがっている。鰯のようにね。だから夢子を殺すのは簡単なんだ。血の多い者が少しずつ削ぐようにして、夢子を小さくしていけばいい。死に戻り続ければいつか殺せる。だからあんたは、ぼくを殺して夢子を殺せばいい。ぼくはやりたくない。だからあんたがやるんだ」
「ただ血をやらなければ、その夢子さんは死んでいくのに、なぜ俺にやらせようとするんだ。もう一度言うが、俺はあんたの計画に協力はできない。夢子さんを助けたいのなら、いくらでも手を貸せる……」
舌が重く感じる。なにか預かり知らぬ事情を想像したかったが、夏朗は手のひらを佐伯に向けて、話を遮った。
「いやいや。そういう、あんたの仕事に対する使命感とか、ダメ殺人なんてのは、もう関係ないんだ。ぼくがやりたくないから、あんたがやるんだ」
夏朗は目をぱちぱちさせて、畳を引っ掻いた。ぼそぼそした畳表が毛羽だつ。
「あんたには、殺人をするしないを選ぶ余地なんてないんだ。ぼくは、あんたがぼくを殺す気になるまであんたを殺す。あんたはぼくを殺さなきゃ家には帰れない。あんたがぼくを殺さないままなら、いずれぼくの方に血が戻ってあんたが死ぬだろう。それであんたは、素直に死ねるか?」
佐伯を指差し、夏朗は言った。佐伯の顔が曇る。生き残り、家に帰れば、あの夢を現実にせずに済むのだ。
「夢子を殺すってのはもののついでだよ。ぼくが通うのをやめても、あのまま嬲られて一週間かそこらで腐って死ぬだけだ。それなら、まだ人の形のうちに死なせてやろうという、ぼくの小さな良心だよ。いくら夢子が人の形をしているだけだって言っても、こういう思いやりをね。無碍にしないでくれよ、おまわりさん」
夏朗は憐憫を誘うように笑ってみせた。
菓子袋に手を入れると、もうひとつ、べっこう飴をつまみ出した。つつみを解き、透き通った台形の飴を口に入れる。
その指先や唇は幼く見えた。夏朗は、口の中で二、三度、かろかろと飴と歯が触れ合う音を鳴らすと、音を立てて噛み砕いた。膝を立てた夏朗の手には大振りの山刀が握られていた。
「帰りたいだろ」
最初に感じたのは、焼けた鉄をねじ込まれたような熱さだった。佐伯が腹に手をやると、そこにはひんやりとした山刀が、佐伯の腹深くに座していた。
「帰りたい……」
譫言のように、そう口から出た。
真っ直ぐにへその上に突き立てられた山刀は、そのまま左右にこじられ、半回転して佐伯の身体を胸まで開いた。
すぐに口の中に鉄臭いものが込み上げ、佐伯はたまらず嘔吐した。夏朗の話を聞きながら食べた、ふわふわのパンでできたサンドイッチは、おいしさを全く残さず、血の塊のようになって佐伯の腹から出ていった。
ずくんずくんと、心臓の拍動に合わせて全身がひどく痛む。腹を起点に始まった痛みは、瞬く間に全身へと拡散されていた。硬直した身体が、どうにかして痛みを和らげようと試みるが、呼吸すら佐伯を苛む痛みにしかならなかった。
夏朗が山刀を引き抜く。佐伯の内側をかろうじて支えていた硬いものを失って、猛烈な脱落感が佐伯を襲う。
自分が出ていってしまう。腕を無くした時に感じた喪失感にも似ていた。かき抱くような気持ちで、溢れ出ようとする腹の中身に手を当てた。それでも、流れる血潮は止められない。やわらかいものが蜜のように零れようとしている。
「帰りたい……」
佐伯は繰り返した。
佐伯の縋るような目に、夏朗は笑顔を返す。無邪気だった。十六、七歳の少年の顔だ。
「その気持ちは正しいものだ。安心しなよ。戸籍制度の導入からこっち、ぼくと夢子は人じゃない。あんたたちの法律に則れば……あんたがぼくたちを殺すのは、殺人にはならない。ここには既に法はなく、ここはぼくの寝室だ。だからあんたは、ぼくにこうやってされたように、ぼくの腹を裂いて鍵を取り出してここを出ていくんだ」
嬉々として玄関を指差す夏朗の姿が、少年漫画の冒頭のようであった。死出の旅だちこそが、彼にとってのまっさらなはじまりであろうか、あるいは。
◆
「いやだ、やれない」
佐伯はそう言って、夏朗を組み伏せた。
夏朗の手を離れた山刀が、放射線状に飛び、床に跳ねた。
「ちょっと死んだくらいじゃわからんか。まあそうだよなぁ」
佐伯の腕の中で、夏朗はやれやれといいたげに笑った。
「あんたのそれは、倫理観の問題なのか?宗教?それとも、なにか他の……職務的な責任感?」
夏朗は身体をよじった。長めの前髪が白い頬にかかり、揺れる。
呼吸と体温。佐伯は一拍置いて答えた。
「俺は警察官だし……。何より、大切な人に顔向けができない……」
「ああそういう、ありがちな……。でもあんた、生き死にってのはそんなに難しいことじゃないはずだ」
空手であった夏朗が腕を振った刹那、佐伯の頬を深々と出刃包丁が貫いた。
頬の肉を突き破った刃先が、佐伯の歯に当たり、いやな音を立てる。
「うォ、ぐぅ……」
顔の中を掻かれるような不快感ののち、傷口は灼熱の痛みを発する。両頬を貫かれ、引き攣った唇は、悲鳴をあげることも叶わなかった。
激痛に呻き頬を抑える佐伯に、夏朗は言い放つ。
「倫理だのは贅沢品なんだよ。食う寝るに困らず、他人を思いやれる余裕ありきだ。だが今のあんたはどうだ」
夏朗ははたと気づいたように言った。「いや、今も食う寝るには困ってないか」
震える指で出刃包丁の柄に触れる佐伯の手に、夏朗は己の手を重ね合わせた。
「まあ、食えて寝られる幸せを掻き消すほどに、慣れない痛みってのはつらいもんだ」
——みぢ、と、肉が音を立てた。
夏朗が佐伯の手のひらごと出刃包丁を握り、真横に引いたのだ。両頬を繋いでいた鈍色の刃は佐伯の頬を真っ二つに裂く。
「残酷なことは好きじゃないんだ。あんたのそんな姿を見ると心が痛むよ。でも、これからぼくがあんたの指や目鼻を潰したり削いだりしても、絶対に心折れないでくれ。もうだめだなんて思うんじゃない。ぼくに対する殺意だけは忘れないでくれよ。ぼくがこんなに切ない気持ちであんたを傷つけるんだ。それには相応の気持ちを返してもらわなくちゃね」
夏朗は、山刀で佐伯のつま先をとんと落とした。一寸に満たない末端の肉。しかし、先端の欠ける激痛は、ばっくりと切り開かれた両頬の痛みを一瞬忘れるほどであった。
「がぁ、ウゥッ、ウッ……!」
佐伯は恐慌状態に陥り、握り込んだ出刃包丁を闇雲に振り回す。
「そう!いい調子!」
夏朗は喜びの声を上げた。包丁の刃先が夏朗の額を掠め、返す刃が頬を削いだ。切り飛ばされた肉片が、畳にへばりつく。
瞬く間に夏朗の顔面は血で染まる。血潮が頬を、顎を伝い、音を立てて畳へと散った。
「おお、いてえ。もうちょっと下で頼むよ。これじゃ美男子が台無しだ……」
夏朗が一歩近づくと、佐伯は後退りする。夏朗の血に冷静さを取り戻した佐伯は、出刃包丁を床に落とした。爆ぜ口を両手で覆い、膝をつく。
「やらぁ……」
それは不明瞭な発音であったが、明確な意志を感じられた。ぼろぼろとこぼれ落ちる涙が体液とないまぜになり、血と唾液と共にちぎれ落ちそうな顎から糸を引いた。佐伯の右手が取り落とした包丁を拾い上げる。喉元にあてがわれた切先に体重をかけるようにして佐伯はうずくまった。
しばし、溺れるような音を立てて、佐伯は動かなくなった。
夏朗は苦虫を噛み潰したような顔をしたまま、動かなくなった佐伯を見下ろしていたが、じきに裁縫箱を取り出して、ぱっくりと開いた顔の傷口を縫針と糸で縫い始めた。
◆
「あんたが自分で死ぬんじゃだめなのか」
何回目かで佐伯は夏朗にそう尋ねた。
「だめだね」
夏朗は、ジンジャーエールのボトルを唇に当てながらそう返した。
「ぼくが自殺で、あんたに死なずを手渡したとして、あんたは納得できるかね?」
「納得もくそも、俺はそもそもこうなることに納得なんてしていない……」
「ははん。もう自分が一度は死んだ身なのを忘れたな。そもそも、ぼくが自殺したからと言って、それであんたに死なずが移動するのか怪しいもんだ。あんたにぼくの血と、その血に宿る遺志が継がれるかどうか。これはきっと、血の中の鰯たちには重要なんだ」
言葉に詰まった佐伯を一笑に付し、夏朗は出刃包丁を佐伯に放った。それはもう幾度も繰り返されているから、美しい軌道を描いて佐伯の膝すれすれに突き刺さった。
「見ろよ、こんなに上手くなっちゃって。まともなことは何ひとつ身につけずにきたぼくだが、今ならナイフ投げでオリンピックを狙える」
「なぜ不死を、そういう研鑽を積むことに使わなかったんだ」
佐伯は、夏朗を見据えて言った。
「単純明快だ。ぼくは享楽主義なんだ。宵越しの金を持たずにきたし、なにかを毎日繰り返すのはごめんだね。単純娯楽小説が好きだが、書きたいと思ったことはない。推理小説は犯人を知ってから読みたいし、ぼく自身もそうありたい……。あんたこそどうなんだ。こんな事態に巻き込まれないように、さぞ真っ当な人生を歩んできた自負がおありかい?規則を守ってただ日々を生きているだけで、真っ当に善良だ、なんて、ものを知らない学生みたいなことは言わないよな?」
佐伯の眉根がぴくりと動いた。
「俺は……」
言い淀む。
犯罪もせず、学校では皆勤賞をもらい、成績もそこそこ上位であった。部活動では近場の大会で入賞できて、けれどそこから上にいくほどでもない。そんな優等生然とした経歴について、佐伯が漠然とした劣等感を抱えているのは事実であった。
しかし悪く生きたことはなかった。弱いものを守ろうとも思うし、正義を信じている。しかしそれらが、なにかを保証してくれるわけでもない。ならばなぜ、善くあろうと人は思うのか。
そんなことが頭をよぎり、佐伯は思わず唇を噛んだ。
「まぁ、聖人君子だろうとも、貰い事故のように人生は変わるものだからね。それに、人間は産まれた時からアダムの子だ。こう、よくしたからこうあって然るべきなんて道理はないさ」
ジンジャーエールを飲み干し、キャップを締めると、夏朗は立ち上がった。
「さあ、早くあんたの中でなにか納得できる理由を探せよ。それさえあれば、ひとは迷わずに為すべきことを為せる」
「納得できること……」
佐伯は夏朗を見上げて言った。
「そう難しく考えるなよ」
夏朗が立ち上がる。佐伯は、その手に再び刃が閃くことを思い、身を固くした。
「なにも無差別殺人をしろって話じゃない。自分が生きるために殺すのは、生き物のあるべき姿だぜ。みなゆっくりと死に向かって歩いている」
佐伯の隣を通り過ぎて、夏朗は台所へと向かった。空になったペットボトルからフィルムを剥がし、ボトルをすすぐと、冷蔵庫からもう一本、ジンジャーエールを取り出した。キャップを捻ると、布を張ったような乾いた音ののち、炭酸が弾ける音がする。
二口ほど飲み、夏朗は元の位置に戻った。
「そこに至る時間は長くて、遠いと思い込んでいるからよく見えていないだけだ。しかし、あんたはなにも殺さずに生きた日はないはずだ。なにか殺して食って生きている。遠くて見えなかった死が、今日たまたまぼくの下にやってくるだけのこと。あんたは魚を焼いて食うのと変わらない気軽さで、ぼくの死を食べて生きればいい」
「嫌だな。人と魚は違う。それにペットボトルの分別を意識できるような相手を、俺は食いものとは思いたくない」
佐伯は鼻をすすった。
夏朗は驚いたように台所と佐伯を交互に見た。
「そうか。死ぬつもりのやつは、分別なんてしないか。ぼくもまだまだ覚悟が甘いらしい」
夏朗の微笑みに、緊張がほどけるのを佐伯は感じた。
「けど、ぼくの環境意識と、あんたにぼくを殺させようという意志は別だからな」
夏朗は念を押すように佐伯の顔を指さした。
「もう痛いのはウンザリなんだ。勘弁してくれ」
佐伯は、泣きそうな顔でうつむき、頭を抱える。
「それならなおのこと、一息に仕留めてくれるといい。不必要に苦しみを長続きさせるような屠殺は、動愛法でも禁止されてるからな」
夏朗は床に刺さった包丁を引き抜き、佐伯に向ける。
「よく考えてくれ。本当の慈悲とはなんなのか」
◆
じっと手を見る。
変わり映えのしない無骨な指がそこにあった。指のかたちというのは、日常で顔よりもよく目に入っているから、少しだけかたちが変わってしまっても、きっとすぐに気づけるだろうと佐伯は思っている。
親の顔より見た指は、以前と変わりなくそのまま佐伯の腕にくっついていた。記憶に新しい悪夢のような経験は、どれを思い出しても、夢には程遠かった。ただ、指先を染め上げていた夏朗の血が、流水にさらわれて洗面台に赤く糸を引き、排水口へと消えていった。
爪の間に入った血糊が取れず、何度も手を洗った。落ちない鉄錆を、使い古しの歯ブラシで何度も擦った。手を洗っていると、上がりきった体温が下がって、頭の芯が冷えていく。くすんだ鏡にうつった自分の目が吊り上がっていることに気づいた時はぞっとしたが、今はもう、見知った表情をしていた。
夏朗の授業は、実際のところ一日か一日半くらいのものであったのだが、その時間の中での佐伯は、絶え間なく殺され、死に戻りを繰り返していた。
恐ろしく長い体感時間を経て、佐伯は夥しい量の死の記憶を獲得していた。
瞬きの狭間に、繰り返し死について考えていた。それはどうにも哲学的であったから、結局佐伯は、死や魂に関して結論を出せはしなかった。
夏朗は、どうだったのだろうか。
彼の人生や死について聞いてみたいことは山ほどあったが、ついぞ人生観について深く知る暇を得ることはなかった。彼は彼の本質をどこに置いていたのだろうか。
夏朗は何になろうとしていたのだろうか。
物思いに耽りそうになる。頭は冷静で、恐れていた罪悪感もなかった。もっと世界が変わってしまうような、そんな感情に苛まれると思っていたのに。
「あのさぁ」
夏朗は、手洗いに没頭する佐伯に向かって、言葉を発した。
「そうやって手を洗っているけど、あんたはまだぼくの腹に手をつっこまなきゃいけないんだ。そんなにきれいにする必要はあるのか?」
両手足を投げ出した夏朗の腹からは、包丁と山刀が生えていた。
「そんなふうに軽口を叩いていて大丈夫なのか?いや、大丈夫ではないだろうけど……」
「ふふ、イテェ、たまらねぇ。クシャナ、俺の頭を砕いてくれ……。ぼくは言うほど痛くないから、頭は砕かなくていいよ。もうしばらくしゃべっていたいからさ」
「意外と平気そうじゃないか……」
「まあ、刺されたり切られたりは初体験じゃないからね。あんたが思っているより、ぼくは慣れてる。いや、極端に感じにくくなったというか、なんでもものは考えようなんだ」
「俺は泣きたいような気持ちなのに、少しくらい悪いとは思わないのか」
「ないね!」
発声の勢いで、腹に刺さった山刀の根本から勢いよく血が飛んだが、夏朗は意に介さなかった。
「後悔だの罪悪感だのを憶える生き方はしてない……。見ろよ。床の血がだんだんあんたに吸われていってる……。手なんか洗わなくたってじきにきれいになるんだ。ぼくの血が佐伯の中に……。ぼくは佐伯の中に入るだけだ。これからずっと一緒に生きていこうな。らぶだよ」
夏朗はそう言って、指でハートを作って見せた。
「そういう言い方をされると、なんだか変な感じがしてくるじゃないか」
濡れた手を拭き、勘弁してくれと佐伯はこめかみを指で押さえた。
「人生に必要なのは適応だよ。包丁と山刀も、きっとこれから佐伯について回るから、なるべく早く使い方に慣れることだ」
夏朗は、自分から突き出した刃物を差して言った。
「毎度毎度、どこから出しているのかとは思っていたが」
「察しが早くて助かるよ。出そうと思えば出てくるから上手く使えよ。本数は訓練次第だ。細かいことはぼくにもわからん。神は大いなることを行なって計り知れず、そのくすしいみわざは数えきれないんだ。ヨブ記って結構散々な話だよな。それより佐伯。あんたに頼みがあるんだけど、いいかな」
「今際の際に言うなよ。聞くしかなくなるじゃないか」
「いいね。あんたに食わせてやろうと思って買ったものが、まだ冷蔵庫に入ってるんだ。食って帰ってくれ……。もったいない。冷凍庫にはいいアイスもあるぞ」
「そういうのが最期の願いで納得しているのか?」
「食べ物を大事にしろって教わっただろ?好き嫌いもするなよ」
夏朗の言葉に、渋々冷蔵庫を開く。先日のサンドイッチだけでなく、デパ地下の惣菜や和牛の焼肉弁当に、丸い包みの高級チョコレートや、なめらかなプリンが詰められていた。冷凍庫にはカップアイスの期間限定フレーバーが入っている。
「なんでこんなに……」
「ぼく、友達いないからさぁ。久しぶりにうちに人間がきたぞーと思って買ってきてもらったんだ。食べきれなかったら持って帰ってもいいけど……あんたが出ていったらしばらく使わないだろうし、ブレーカーは落としていってくれ。電気料金がまた上がっただろ。あとは……あぁ、坂口の弟に連絡をとって、後始末を任せてくれ。あいつは一応友達だから……」
夏朗はそう言って、あくびをした。
「夏朗は?なにか食べたいか?」
「いや、いい。それより、服、刺しまくって悪かったよ。ぼくの服、着て帰っていいからな……。少しきついかもわからんが」
夏朗が部屋の隅に積まれた服を差した。
電子レンジに焼肉弁当を入れ、佐伯は服の山に手を伸ばした。観光地で売られていそうな名物やゆるキャラが描かれている。
「趣味が悪いとか言うなよ。かわいいだろ」
「ああ、うん。このきつねうどんの柄とかいいね」
「おお、わかるか。篤人には散々バカにされたんだ」
選んだ服に袖を通していると、電子レンジが鳴った。
「なぁ、佐伯。電子レンジはチンだけど、オーブンはブンか?」
「いや、どちらかというとチンだと思う」
「そうかぁ……。ぼくはブンのほうがいいと思う」
まどろむように目を閉じる夏朗の隣に座り、佐伯は割り箸を割った。
「うまいな」
「いい肉屋のやつを用意したからな。しかし、佐伯がこういう時に食えるタイプでよかったよ」
「自分でもびっくりしてる。仕事柄、死体の後でも焼肉は食えるけど、まさか人を刺した後にも食えるとは思ってなかった」
「いいね。ぼくも同じだ。佐伯は生きる力が強い。そういえば、産まれたばかりのこどもを売りに出した日、その金で食った焼き鳥……あれはうまかったな。なにはなくとも食べなくてはね。食べるためにはなんでもしなきゃな。メーテルも、まず食べなさいって言ってた」
「メーテルもそういう意味で言ったんじゃないと思うけどね」
夏朗の言葉に相槌を打ちながら、佐伯は箸を進めた。血のにおいを感じていたが、食欲が落ちるようなものではなかった。
それは、夏朗の死がどうにも死には思えず、なにか悪い夢かいたずらをしかけられているようだったからだ。
布団にもたれた夏朗は、時折船を漕ぐ。
「佐伯、これからどう生きていく?恋人はいるのか?」
「俺は今まで通り変わらんよ。警察官をやって、働いて食っていく。恋人とは籍を入れたい。本当に死なないなら……そうだな。夏朗を殺したことを自分で納得できるまで、ずっと警察官をやるよ。あの時死ななくてよかったと思える仕事を……」
「ふぅん……。善人だな。心変わりの理由は?ぼくを殺すことのだ」
「……俺は警察官だから。大切な人に顔向けできなくなることをしたくない。その気持ちは変わらん。しかし、俺が怯えて錯乱して、いつかうっかり殺してしまいました、じゃああんまりにも情けない。それならせめて俺は、自分の意志で夏朗を殺し、ここを出て家に帰るためだったと胸を張りたい……。俺は夏朗を殺して、夏朗の遺志を連れて生きていく……。俺は夏朗の責任につきあうことにした。きっとそのほうが、真弥ちゃんは喜ぶから」
「いいね。佐伯、ちゃんと自分の地獄を選べるじゃあないか。そうだ。比呂人に会ったらなるべく優しくして、話を聞いてやってくれよ。あいつはあれで結構かわいそうなやつなんだ」
佐伯は箸をとめて、しかと頷いた。
「……喉が渇いたな。メロンソーダも買っておけばよかった」
夏朗の首がかくりと落ちた。鼻からたらりと鼻水が垂れた。佐伯は黙って、夏朗の鼻にティッシュを詰めてやった。それから冷凍庫からアイスクリームを出して食べた。カスタードショコラが口の中にとろけていく。
プリンとチョコレートは、夏朗を開いてからにしよう。そう思って、出刃包丁と山刀を抜き取った。いやに手に馴染む感触が、なにかひとつ、大きな変化が起きたことを感じさせた。
夏朗の脇に手を差し込むと、温かかった。夏朗の身体が冷え切って固くなる前に、佐伯は敷いた布団に夏朗を寝かせてやった。
佐伯は、目を閉じて手を合わせ、小さく念仏を唱えた。そうしてから、意を決したように夏朗の腹に自らの手を差し入れた。夏朗はなにを拒むこともなく、その血を一滴も余さず、佐伯に与えるのだった。
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