四章 山羊

 四章 山羊

 

 

 「どうしてそんな死に方をするかなぁ……」

 そう言って刈賀は、タブレットをスワイプした。

 それは、取り急ぎと渡された新美に関する資料である。

 佐伯たちが帰り支度をはじめようかと腰を上げた頃に、署内のロボット警察官が事務室に走り込み、手渡されたものだ。

 なめらかな合成音声は、動作の割に慌てたふうもなく事務的な声音で、拘束されていた新美俊哉がベッドの上でどろどろに溶けて死んでいると伝えた。

 にわかには信じがたくとも、渡されたタブレットに入っていた書類には、どう読んでもそうとしか言えないことが書かれていたし、実際にとろけてしまった新美の写真も添付されていた。

 生前、と言っても、佐伯たちが知っているのは、既に元の姿を失った新美俊哉ではあるのだが、それを加味しても全く面影のない死に様であることには間違いなかった。

 拘束着から漏れた体は、概ね人のかたちをした血肉色のしみとなり、マットレスに吸われていた。骨の断片に、肉の切れ端のような、レバーの塊のようなものがシーツの表面に張り付き、それだけが彼が液体ではなかったのだと主張する。しかし、性別や体格などを推察するにはあまりにも、文字通り断片的であった。

 かろうじて生前を思わせるのは、色の抜けた金髪が頭があったあたりに張り付いていることぐらいだろう。

 ひどく現実味に欠けた、しかし凄惨な死体であった。

「今後、もう少しなにか出てくるかな?」

「どうでしょうね。肝心の死体がこの様ですから」

 刈賀が、タブレットで動画を再生し、佐伯と貞沼に見せた。

 拘束された新美が突然苦しみ出し、嘔吐を繰り返す姿が映っている。吐瀉物に溺れて、喉を掻きむしろうとするが、拘束された手足は動かない。

 口の中に盛り上がった血液混じりの吐瀉物から、気泡のようなものが二度弾け、新美は動かなくなる。途端、ぐずぐずととろけていくというのが、一連の映像であった。

 あるのは、この監視カメラの映像から得られるものだけなのだから、死因を調べようにも難航するだろうことは想像に容易かった。

 液状化した人間をどう調べるのだろうか。ちょっとスポイトでとって、顕微鏡で覗いたり、薬品をかけてみたりするのだろうか。それに、葬儀の際は、どんな姿で出棺するのだろうと、佐伯は要らぬ気を揉んだ。

「今は瓶詰めになってるんですね」

 貞沼が刈賀から渡されたタブレットを操作しながら言う。

「まあ、他に置いておく方法もありませんしね」

 刈賀はそう言いながら手に持ったボールペンを弄んだ。ボールペンが生き物のように、刈賀の指先で回る。

 「人間一人を挽肉にするだけなら僕でもできますけどめ。でも溶かして液状にするとなると、なかなか難しい。魚なんか、腐らせると内臓が液体になりますよね」

「……腐らせた経験が?」

 貞沼が恐ろしいものを見る目で刈賀を見た。

「夏に、なぜか車の屋根に買ってきた鯵を置き忘れました」

 刈賀はそう言って、ふふ、と微笑んだ。

「腐って液体……。蛇毒だと、血液を凝固させて血栓を作る代わりに、出血か止まらなくなるなんてんてのもあるよね。やっぱりあの血液絡みなのかな。血液を急速に腐らせると血液なんて」

 自信なく、佐伯はそう口にした。いざ口に出すと、荒唐無稽さばかりが際立った。

「そうだったとして、なにをどうするか思いつきます?」

 刈賀が顔に手を当てながら言った。

「…………」

 皆、顔を見合わせる。

 しばらく誰も何も言わなかった。

 やがて、ぽつりぽつりと、話し合いが再開されるまで、かなりの時間を要した。

 策を弄するいとまがなくとも、それに向き合い、知らねばならないという事実だけを、全員が理解していた。

 

 

 ◆

 

 

 佐伯と貞沼が、林に囲まれた坂口邸に到着したのは、朝の九時ごろだった。まだ朝露の香りが残る並木道を歩いた先で、敷地を取り囲む高い塀がまず二人を出迎えた。

 それだけでも充分な威圧感があったが、塀に沿って少し進んで見えた坂口邸の門構えに、佐伯と貞沼は甚だしく怯んでいた。

 太い材木でできた見上げるように大きな門は、時代劇で見た武家屋敷のようだったからだ。文字通り格式高くて気後れがする。

 騎乗でも通れる背の高い門の横に、小さな通用門がついているところまで、昼の再放送で見た時代劇ドラマにそっくりだった。

 中を窺い見ることもできない高く厚い壁は、ある種の要塞を思わせる。三台ほどの自動車が収容できるガレージもあるが、そちらもぴったりと厚いシャッターを下ろしている。

 堅牢で広大。それが最初の印象だった。

「ねえ、坂口家って、戦後の農地改革でだいぶ土地を手放したって聞いたんだけど」

 佐伯は立ち塞がる門を見上げ、渋い顔をして言った。

「先々代までは、ここら一帯の大地主で、自分の土地だけ歩いて隣市まで行けるなんて言われたらしいですね。さすがに今はその規模ではないみたいですけど……」

 同じく貞沼も、天を仰ぐように上を見る。

「貞沼の実家とどっちが大きい?」

「うちは割とこぢんまりしてるんで。高さもないし。でもうちなら、こういう普段使い用のガレージの他に、趣味車が何台か入れられるガレージが中にありますから、この家もあるんじゃないですか」

「税金対策の車が家族の人数ぶん以上並んでいるような家は、こぢんまりとは言わないんだよ」

「今度遊びにきてくださいよ。あっ、監視カメラがありますよ。手を振ってみましょうか」

 貞沼がカメラに向かって手を振る。特に反応はない。

 立ち塞がる塀に隠れて見えないが、貞沼が言う通りに、高級車がずらりと並んだガレージを想像させる敷地の広さであった。様式によっては、テニスコートやプールもあるかもしれない。

「佐伯さんが声かけてみてくださいよ。国家権力が地方の地主に怯むだなんて格好がつきませんよ」

「会社がどんなにでかくたって、俺は一般家庭の育ちなんだよ。貞沼の方がこういう家の訪問には慣れてるんじゃないか。俺は、ぱっと見インターホンもない家の声のかけ方なんかわかんないよ」

「ごめんくださいとかでいいんじゃないですか?真弥ちゃんだって、回覧板を置きに行く時、とりあえず叫んでるじゃないですか」

「あの子、ごめんくださいって言えば玄関先までは入ってもいいと思ってるところあるからね……。ああなるほど、それなら俺たちもきっと慣習に則れば、玄関先までは入れてもらえるはず……。ごめんくださぁい!」

 渾身のごめんくださいから、たっぷり十秒ほど待っても、なにも返答はない。

「お留守ですかね」

「こんな大きい家がもぬけの殻なんてことある?」

「屋敷の大きさも見掛け倒しかもしれませんよ。きっと、女中さんも庭師さんも雇ってないんですよ。住み込みもいないかも」

「嫌だなぁ。庭師さんが常駐してるのに慣れた人間は……」

「うちは面倒くさがりが多かったんで、服やかばんなんかは、外商さんが持ってきてくれたやつをそのまま買って使うんですよ。家の中で完結するんです。このお家はどうかな」

「そんな話聞きたくない……」

 佐伯は頭を抱えて、砂を踏んだ。

 眼前に立ちはだかる要塞のような門をどう攻略すべきか。時間が経過すればするほど、気持ちがしぼんできそうである。

「アポを取った方が良かったですかね」

 貞沼が唇をとがらせて言った。「そういうわけにもいかないか」

「近所の人の話では、比呂人と父親はいつも在宅してるって言ってたけどね。毎週決まった時間に、足を悪くした父親のかかりつけ医が往診にきているから、少なくとも父親は出歩けるような人じゃない」

「じゃあいるんでしょうね。裏口に人がいないか探しましょうか」

 きっと門から生えた監視カメラには、佐伯たちが右往左往している様が録画されているに違いない。監視カメラ越しに観察される想像は気分のいいものではなかった。

 佐伯と貞沼は、ぴくりともしない門を諦めて、誰か人と接触できそうな場所を求めて塀に沿って歩き始めた。

 塀に沿って作られた道は、私道なのか舗装もされておらず、乾いた砂が続いている。

「面積は二反くらいかな?」

 佐伯がそう言うと、貞沼は来た道を振り返り、また前を見て答えた。

「オレ、そういう古風な土地面積、ピンとこないんですよね」

「だいたい俺たちが毎日見てる田んぼ二枚分だよ」

「ああ……。草取りが大変ですね」

「やったことないくせに……」

 長く続く塀に恐れをなしながら、ひとつ角を曲がる。そうすると、勝手口と思しき扉がひとつある。佐伯が大声で呼んでも、やはり誰も出ない。

 おおむね同じくらい歩いて、またひとつ曲がる。なるほど、裏口に相応しく、門の裏手に扉がついている。その付近では、かすかに音楽が聞こえていた。

「なんの曲かな……。でも誰かいるのは間違いなさそうだ」

「ベートーヴェンの歓喜の歌ですよ。どこかの部屋から漏れてるみたいな……。爆音上映でもしてるのかな」

 貞沼が耳に手を当てながら言った。屋敷のいずれかの部屋から漏れているのだろう。

「すみません、どなたか」

 貞沼が扉を叩いて、声を張り上げる。相変わらずなにも返答はない。佐伯たちは、変わるがわる人を呼んでみるが、一向に誰も出てこなかった。

「もうだめだ。音楽をかけっぱなしだし、中で死んでたらまずいから、どこか壊して入ろう。刈賀を連れてこればよかった」

「きっと社員旅行とかに行ってるんですよ。社員全員連れて四泊五日で海外とかに」

「そんなバブリーな社員旅行、マルサカの社員だけで空港が埋まっちゃうよ」

「もうオレもマルサカに転職しようかな……。長期休暇もあるし、有給取得率も高いらしいですよ。うちの会社もゲーム休暇を優先してとらせてくれればいいのに」

 不貞腐れはじめた貞沼の背後から、砂を踏む音がする。じきに角を曲がって、一台のセダンが現れた。

 警戒する二人の横に止まり、ドアウインドウが下ろされた。

「おまわりさんたち、うちになにかご用で?」

 窓からかけられた声は、バニラの香りがした。

 甘やかな印象とは裏腹に、細く開いたドアガラスの隙間から、ヤギのように四角い瞳孔が佐伯たちを見ている。

 身体改造をファッションの一環とする人たちの中には、視力の落ちた目をデザイン性の高い義眼にはめ替える人もいるらしい。彼もそのクチだろうか。

 少なくとも比呂人ではない。写真で見た比呂人の双眸は横長ではないのだ。

 ともかく、彼がこの家の関係者なら、ようやく状況が変えられる。

「こんにちは。坂口比呂人さんにお話を伺いに参りました」

 佐伯は頭を下げて、警察手帳を出した。貞沼も続く。手帳と佐伯たちの顔を交互に見ると、坂口篤人は、微笑んだ。

「ああ、なるほど。次男の坂口篤人です。ご足労おかけしました。兄なら奥にいると思うので、屋敷の中でお待ちになってください。今から車庫に入れますんで、よかったら乗っていただいても」

 そう言って、坂口篤人はセダンの後部座席に乗るように佐伯たちをうながした。

「いえ、表の方まで歩きますから、門だけ開けていただければ」

「はは、確かに。初対面の人の車に乗っちゃいけないと、教える立場ですしね。先に門のところで待ってますから」

 ではあとで、と、手を振り、スモークの効いたドアガラスが上昇した。

 排気ガスのにおいを残して走り去ったセダンを佐伯と貞沼が追いかけて、最初の門の前にたどりつく。セダンは、佐伯らを待つように、大きな門の前で停車している。

 運転席から見える位置に立つと、途端に、分厚い門が巨躯を軋ませながら横に移動し、大きく開いた。

 すう、と、冷えた風が頬を滑っていく。

 徐行するセダンについて踏み入った庭は、雪原のように白い玉砂利の中を、黒光りする石畳が、なだらかにくねり、屋敷まで続いていた。水の音がする。

「敷地の中に滝がある」

 貞沼が感嘆の声を上げた。

 少し石畳を踏んで進むと、庭を縦断するように水路があり、その出発点は大きく積み上げられた岩の隙間から流れる清水だった。さすがに地下水を汲み上げているのだろうが、白糸の束が束ねられて沢になり、池に向かっている様は、美しかった。しかし、どういう発想で家に滝をつけて水路に流し、それを小さな橋で渡ろうなんて発想になるのだろう。

 滝の隣では松の木は荒々しく体を曲げ、飛沫を受けた針葉は芳しい香りを放っているし、枝ぶりの良い桜の木も見える。あちこちに置かれた石のかたちや、色も美しく感じるように配置されている。

「すごい庭だな」

 佐伯は小さな声で言った。

 篤人が車から降りて、庭を見回す。身長は佐伯とそう変わらないが、細身の印象を受けた。

「母の好みで建てた家なんですが、その本人が早いうちに亡くなってしまったんです。今じゃ母の好みの洋風建築と、父の好みの和風建築が混ざり合って、どっちつかずになってしまっているんですよ。そこからまた、父の足が悪いからって、門をリモコンつきのものにしてみたりね。うっかり電池が切れたり、職場なんかに忘れたりすると、中から開けてもらうまで家に入れなくなるのが困りものです」

 石畳の上に車を置いたまま、篤人は歩き出した。奥にもガレージがあるようだが、篤人が自分でしまうわけではないのだろう。

「テクノロジーとのせめぎあいですよ。便利はいいが、時に不便だ。……よかったら、庭でお茶でも?」

 篤人が歩くたびに、革靴で石畳を叩くいい音がする。手の込んだ庭を散策しながら、コツコツと鳴らしたら、さぞかし気分がいいだろう。

「いえ、それよりも坂口比呂人さんにお話を聞かせていただきたくて」

「そうでしたね。兄がなにか悪事に手を染めたんですか?なんの容疑なのかな」

 佐伯の言葉に、篤人は口角を上げ、身を乗り出した。聞きたくてたまらないといった風であった。

「染めたというか……。まだお話をうかがうところまでですから。今から逮捕というわけではありません」

「しばらく拘留していただいても構わないのに。そうしたら、あの騒音をしばらく聞かないで済む」

 篤人はそう言うと、さも愉快そうに笑った。兄弟が不仲という噂も確かにあったが、拘留上等とはよほど相性が悪いらしい。曲の趣味も合わないという事だろうか。

「ベートーヴェン、お嫌いなんですか?」

「いえ、好きですよ。父も好んで聞いていました。比呂人のあれは、些か音量が大きすぎますがね。なにか後ろめたいのでしょう」

「はあ……。なるほど」

 坂を登り切ると、白い玉砂利の上に浮かぶようにして本宅が建っていた。

 フランス瓦のかわいらしい印象の赤色の屋根をしている。南側中央には三連アーチのアーケードテラスもついている。二階の窓はステンドグラスが嵌め込まれ、花や女性のモチーフが見えた。日を受けて輝き、豪華な印象を受ける。

 近づいていくと、西側に車寄せを付けた玄関が見えた。車寄せには石でできたベンチも作り付けられている。本来ならば、ここに車を乗りつけ、乗降するのだろう。

 洋風建築の極みといったところだが、日本庭園とのちぐはぐさに違和感が残る。

「はー、なんともオシャレな」

「ぼくは詳しくないですが、スパニッシュ建築というらしいです。少し古いですが、耐震性はちゃんと基準を満たしてありますよ。どうぞ、上がってください」

 車止めつきの玄関を開けると、中には手洗い場がついていた。姿見付きの作り付け靴箱に、上がり端には屋久杉の衝立が置かれている。

 一階広間に付けられた内線電話を手に取り、篤人は何事か話をした。どこにつながるのだろうか。電話を終えた篤人についていく。応接間と書かれた部屋を通り過ぎ、主階段の横を抜ける。黒光りする廊下を歩き、ひとつ角を曲がった。

 板張りの床はよほど厚いものと見えて、男二人とズッシリとした重量の貞沼が歩いても、軋むこともなかった。微かな衣擦れの音が聞こえ、並んだ襖の向こう側にいるであろう人の行き来を感じさせる。

 微かな線香のにおいが屋敷中に漂っている。どこかの部屋にきっと仏壇があるのだろうが、少し焚いたくらいでこんなにも屋敷中がにおうものなのだろうか。

「どうぞ、かけて」

 一際美しい、ステンドグラスが貼られたドアを篤人が開く。やはり洋館を意識した作りで、小ぶりなシャンデリアが下がり、その上ではファンが回っていた。見渡せば、ドアにつけられていたようなステンドグラスの窓がついている。

 形ばかりの暖炉の隣には、ビロードばりのソファが置かれ、傍にローテーブルの上に人数ぶんの蓋つき茶碗と菊の練り切りが置かれていた。丸く愛らしいかたちの練り切りとまんじゅうは、見覚えがあった。近くの和菓子屋が季節ごとにだしているものだった。

「兄がくるまで時間がありますから、召し上がってください。ちょうど余らせていましたのでね」

 線香の香りに割って入ったかぐわしいお茶と菓子のにおいに、途端に唾液がわいて口元が緩みそうになる。

「ご馳走になります」

 貞沼が先に練り切りを楊枝で切り分け、口に入れる。冷茶を口に含み、味わうと佐伯をちらりと見た。

「すぐススキの時期になりますね。こういう、菓子で季節を感じるの好きなんですよ。食べているうちに兄もくるでしょう。それまでは少しお茶休みしてください。ぼくとしては、佐伯さんと貞沼さんとお話もしたいですし」

 篤人に勧められるまま、佐伯も冷茶で唇を湿らせる。まろみがあり、甘く感じた。

 篤人も、一口冷茶を啜ると、今更ですがと断って、自分の名刺を佐伯の前に差し出した。佐伯と貞沼は名刺を持ち歩いてはいなかったから、返すものもなく名刺を受け取った。

「篤人さんは、サカカツの篤人さんでしたね」

 渡された名刺を見、貞沼が頭を下げる。

「サカカツ……?」

 改めて手に持った名刺を見ると、「坂口活動写真株式会社」と古風なネーミングが印字されていた。箔押しの社章には見覚えがあり、佐伯は貞沼を窺い見る。

「兄がお世話になっております」

 貞沼がもう一度頭を下げた。篤人も深々と頭を下げる。

 どうやら、貞沼の九人いる兄のうちの誰かと取引があるようだった。

「まあ、活動写真とは名ばかりで、最近は機材を仕入れて売ったり、スタジオを作って貸したりで、大きな映画を作っているわけではないんですけれど。お兄さまにもよろしくお伝えください」

 篤人はそう言って、もう一度深く頭を下げた。改めて観察すると、確かに社長らしく身につけている腕時計は、疎い佐伯でも知っているような高級ブランドのものだった。

 しかし、着ているスーツはいやにくたびれていて、頼りない。袖のあたりにはしわも目立つ。

 だのに、中に着たシャツの襟首はのりが効いている。思い返せば、茶色の革靴もツヤツヤとよく磨かれたものだった。

 それでいて、締められたネクタイは葬式用のツヤのない真っ黒いネクタイである。

 なでつけた髪から一房前髪が垂れて、その下にはヤギを思わせる横長の瞳孔が見受けられた。貞沼と談笑する傍ら、それが時折、佐伯の方を値踏みするように、じいっと見ているのだ。口に含んだ練り切りの甘みでは誤魔化せない、そんな不安を覚える目だった。

「篤人さんは、どんな映画を作られるんですか?」

 貞沼が好奇心を隠せない声音でそう言った。篤人は、楊枝で練り切りを割る手を止めて微かにほほえんだ。

「映画……ぼくが録るのは、ポルノなんですがね」

 ヤギの目が柔らかく細められた。それはぞっとするほど柔和で、最初に香ったバニラのにおいを思わせる。

「ポルノは、お好きですか」

 突然の赤裸々な質問に、佐伯と貞沼は思わず顔を見合わせた。

 サカカツと言われて、佐伯には見たことはあるがなにをしているのかわからないというのはこういう事だったようだ。

 大学生時代に冗談半分で部室や友人の部屋に持ち込まれた、DVDのパッケージを思い出す。正面から見るのが気まずくて、パッケージをひっくり返したら更に過激な写真が並び、そんな中にあった社章は、名刺に押されたものと同じであった。こういう性的な話は、僻地隊に配属されてから久しく耳にしていない。

 うろたえる佐伯が言葉を発する前に、貞沼が答えた。

「や、あんまり詳しくなくて」

 貞沼は、気恥ずかしそうに微笑んだ。佐伯も同じように頷いた。なんだか思春期のやわい肌を撫で上げられているような気分になる。

「どのようなものがお好みで」

 口ごもる佐伯たちに向かって、詳しくなくても興味のあるジャンルくらいはあるだろうと言いたげに、篤人は続けた。

「ありませんか?人妻もの、OLにコスプレ……人気順に並べれば、確かに限られてくるでしょうが、内容を細分化していけばどんどん増えていく。ニッチなものにも必ず需要はある。女性が男性に抱かれる作品だけではなく、ぼくはあらゆるポルノの需要を埋めたいんです。だからね。そういう細かな誰かの癖、機微、ときめき、鬱屈とした情慾……不躾だとは承知の上で、ぼくは必ず聞くようにしているんですよ」

「なるほど、あらゆる人に……という志を持ってやってらっしゃるんですね」

 佐伯の言葉に篤人は目を細める。

「ええ。だからなんでも録りますよ。フィクションはフィクションであることに意味がある。もし佐伯さんもこういうものがと切望する時がきたら、ぜひぼくに教えてくださいね。世界には色々なときめきがありますから。他人を傷つける願望があっても、フィクションの中である限りは肯定されなければいけない……。作る時は、既存のものから逸脱していればいるほど楽しいものです。凌辱や猟奇にも、いろんなやりようがありますからね」

「や、凌辱とか猟奇は、俺は……。職業柄もありますしね」

「おや、残念です。フィクションの凌辱ほど芸術的な映像作品はないとぼくは思っていましてね。法の中でお互いが了承した上で、いかにそれを不合意な暴力的、猟奇的な凌辱に見せられるか……。あるはずのないものを作り上げるんです。お互いの了承も選択もない凌辱なんてね。悍ましいだけですから。選択と了承。そうでなければ……」

 篤人はそう言って、なにかに気づいたように微かに目を見開いた。

 二、三度深呼吸をすると、垂れた前髪を撫でつけて天井を仰いだ。

「失礼。少し熱っぽくなってしまいましたね。作品作りのこととなると、どうも視野狭窄のケがありまして。気を悪くなさらないでください」

 篤人は、冷茶を一口飲んだ。そうして、練り切りの菊を楊枝で割り、口に運ぶ。伏せたまつげの縁取りがいやに艶かしく見えて、佐伯は手のひらを擦り合わせた。顎下に残した髭で誤魔化されているが、よく見ると中性的な顔立ちをしていることに気づく。

「話題を変えても?」

 佐伯の言葉に、篤人は頷いた。

「お兄さん…比呂人さんは、普段どのような方なんですか?」

「ん……。こう言ってはアレですが、真面目な男ですよ」

 口の中の練り切りを、冷茶と共に飲み下して、篤人はそう返した。

「世間的は、若くしてやり手だの、体を悪くした父を助ける孝行息子だの言いますが。ふふ、真面目なだけです。少し詰めは甘いですがね。かわいい兄です。少し新しいものに夢中になりすぎてはおりますが」

「……そういうと、例のセクサロイドの開発?」

「そんなようなものです。夢中になるのはいいが、それに時間を取られすぎてはね。過ぎたるは及ばざるが如しというやつです」

「そのようなものとは。セクサロイドとは違うんですか?」

「違いますよ。詳しくここで申し上げるわけにはいきませんが……失礼。一本喫っても?」

 逡巡するように少し間を開け、篤人は尋ねた。佐伯と貞沼は快諾する。

 篤人は立ち上がると、暖炉の上に置かれた陶器の灰皿を掴み、また椅子へと身を沈める。

 今時珍しく、分厚いマッチ箱を開けて、箱の側面で火を灯す。微かに燐の焼ける香りがして、どこか郷愁を想わせたが、すぐに掻き消える。紙巻を喫う微かなちりちりとした音と共に、甘い香りが立ち上った。

 神鳥の喫うセブンスターに比べれば、だいぶんやわらかな香りであった。

 ふ、と、薄い唇から吐き出された紫煙は、上に向かっていき、天井に取り付けられたファンに打たれて音もなく散った。天井には換気扇もあるようで、室内が白くかげることはなかった。ただ、甘やかなバニラの香りばかりが、部屋を漂うように残った。

「この家、イヤに閑散としておりますでしょう。雇人がいるなら、もう少し客人を歓迎したり、せめて玄関で出迎えるだとかするものでしょう。家の中を動き回っているのはわかるが、気配ばかりで幽霊が家の掃除をしているように思えますね。必要な時以外は、家人と口を聞くな、顔を見せるなと比呂人が指示していましてね。門のところにも以前はインターホンもあったんですよ。しかし、突然の来客が忌々しいからと比呂人が外させてそれっきりです。父の古い友人がやってきても、比呂人の了承を得ないと門も開けられない始末です」

「それはなんというか。実家なのに息が詰まりそうですね」

「帰ってみれば、碌なことを言われませんしね。仏壇に線香もあげやしない癖に……。ああ、来たみたいです。陰口はご内密に」

 篤人はそう言って、ちゃめっ気たっぷりにウインクをしてみせた。じきに部屋のドアノブが回り、篤人によく似ているが、隙間なく身なりのいい、しかしどこか清潔感に欠ける男性が顔を覗かせる。

 男は室内を睥睨し、あからさまに忌々しそうな顔をして見せた。お互いの第一印象は最悪に近いようだ。

「やあ、兄さん。お客さんだよ。佐伯さんと貞沼さんだ」

 たばこを持った右手を軽くあげて、篤人が笑う。

 比呂人は、佐伯と貞沼を一瞥すると、言葉の矛先を篤人に向けた。

「たまに帰ってきたと思えば、くだらん相手を連れて……。篤人、お前は親父の下の世話でもしてこい」

 酒灼けとも違う、潰れた声質だった。弟が低く響くような声質をしているぶん、顕著に聞こえる。

「なるほど。いいね。介護AVの参考にもなる。話が終わったらまた呼んでくれよ。ぼくはまだ佐伯さん達と話がしたいんだ」

「気色の悪い。すけこましの女衒屋」

「女衒はしていないし、こますのはスケだけじゃないよ、兄さん」

 篤人は比呂人の侮蔑を意に介した風もなく、佐伯と貞沼に軽く頭を下げ、バニラのにおいを連れて部屋を出て行った。代わりに、胡乱な目を佐伯たちに向け続ける比呂人があいた席に座る

「それで」

 不機嫌で、威圧的な声だった。

「何のご用で」

「単刀直入にお聞きしますが、羽佐田重臓はご存知ですよね」

「……同級生に似た名前はいたが、よくある名前じゃないですか」

 比呂人は、いらいらしているように見受けられた。佐伯たちの訪問が気に入らないというよりも、なにか他に気掛かりがあり、それを気にするあまりにいらだっているようだ。

「ゾウの字が臓物の臓なんてそんなにいませんよ。赤馬町の神社で見世物小屋を出していましたが、責任者は比呂人さんだと主張しています」

 比呂人は押し黙っている。

「重臓の言う通りなら、あなたの所有物であるアンドロイドが、客にケガをさせましたから、事実関係を確認しているところなんです。重臓はまだ聴取を受けている途中ですから、今後明るみになることですし、今のうちにお話が聞けたらと思いまして」

 比呂人は指で腿を叩きながら、なにごとか思案しているように見えた。

「どちらにせよ、屋敷の中に危険のあるアンドロイドがいるかどうか、適切な使用がされているかを確認する必要がありますので、ご案内いただきたい」

「まぁ……。あんたらを追い出しても、篤人がいるとどうにもならん。あいつらは離れに置いてある。見に来い」

 比呂人はそう言うと、応接間の扉を乱暴に開いた。坂口邸の長い廊下を経て、屋敷の奥へと入っていく。開かれた扉の向こう側に書斎と思しき部屋も見える。

 篤人はどの部屋にいるのだろうか。正面から見た印象より随分と奥に伸びた屋敷は迷路のようで、増改築を繰り返した名残を感じられた。床の一部に区切りがあち、木目が違っている。

 複雑に入り組んだ室内は、亡霊から逃げるように作られた海外の屋敷を連想する。

 もしくは、遠ざけたいなにかが家のどこかにあるのだと、佐伯は思った。比較的新しい木目の廊下を進む。窓のない廊下はいやに暗く感じられた。扉の数が多く、閉塞感をおぼえる。

 屋敷の最北に位置するだろう場所の厚い扉を開錠し、比呂人は佐伯と貞沼に先へ進むようにと促した。

 

 

 ◆

 

 樫の木でできた扉を開いた途端、すえた臭いがした。

 最初に貞沼が声を出した。

「えぇ……」

 貞沼は吐瀉をしないし、顔色も変わらない。それでも、最悪な気分である事は佐伯にもよく伝わってきた。

 めまいに似た拒絶反応が佐伯の頭を苛んでいる。

 それはもう、セクサロイドとしてもひどく悪趣味なものだった。

 花台の上に手足のない子どものようなものが乗せられている。少し近づけば、短く切り詰めた下半身を直接花台にビス打ちされた生き物であることがわかる。

 うつろな目から細かな感情はうかがえない。舌を突き出し、その柔らかな粘膜に蝋燭を乗せていた。光の反射に目を凝らせば、舌先から細い糸が伸びており、それを下半身のどこかにつなぐことで口を閉じられないようにしているのが見えた。

 このご時世にわざわざ蝋燭を照明にする意味はほとんどない。仰ぎ見る天井には充分な光量を出せるだろうダウンライトが並んでいる。作りからして、新しい建物なのだ。つまるところ、これはそういう嗜虐心を満たすためだけの場所なのだと気づき、佐伯の胸中には義憤が込み上げた。

 呼吸を整える。次に発する声が動揺で掠れていないかが気がかりだった。

「これは?」

 聞くまでもない。生き物のにおいがする。それでも、どうにか人道に反していないことを願わずにはいられなかった。

 比呂人はちらとそれらを見上げて、鼻を鳴らした。

「花瓶ですが」

 それ以外に見えるのかと、嘲笑うような声音であった。

「そんな、まさか」

 食いつくように踏み出した貞沼を制止する。歯噛みする貞沼を鼻で笑い、比呂人が突き当たりの扉を開く。

「では奥を」

 鉄板を使った分厚い扉であった。それを比呂人が押し開き、佐伯たちを中へと招く。軋んだ音を越えた先には、広間があり、髪の長い女性が、丈の短いドレスを着て椅子に座っている。俯いた姿から、表情は読み取れない。

「よくできているでしょう。夢子と言うんです。もっと近くに寄って見てくださいよ」

 比呂人は夢子と呼んだ女性のかたわらに立つと、佐伯たちを手招きした。夢子の座っている椅子からは、機械の駆動音が聞こえる。佐伯と貞沼は、数歩前に出て夢子を観察した。

 白いうなじを晒して、夢子はうつむいている。覗き見るに、儚げな印象を受ける。その細い首筋には、太く硬いワイヤーが巻きつき、その先端は天井のリールに向かって伸びていた。

 どちらともなく、引き攣った声を漏らす。

「ああ、首輪の代わりですよ。小型とはいえ、暴れられると危ないですからね。電気を流せばよく言うことを聞きます。それに、こうして持ち上げるのも面白い」

 比呂人が手に持ったタブレットを指で叩くと、リールにワイヤーが巻き取られ、夢子が宙に浮く。首を吊った状態の夢子が呻き声をあげて両手でワイヤーと首の間に隙間を作ろうと体をゆらす。

「こうして、上げて、下げてすると悦ぶんですよ。ほら、下げればまたあの椅子に自分で座る。卑しい女でしょう」

 椅子に目をやると、座面に突起が生えており、ゆっくりと回転とピストンを繰り返している。

 比呂人がタブレットを叩くと、がちゃんとなにか外れる音がして、夢子が落下した。

 床に叩きつけられた夢子は、なにかに急かされるように立ち上がると、椅子に腰を深くおろし、苦しげな息を吐いた。

「股になにか突っ込んでやれば悦ぶんです。女などみんなそんなもんですが、特に夢子はね。ひがなああしてほじり回されていないと暴れるんです」

 そう言って比呂人は、タブレットを叩く。再度、夢子の体が浮き上がり、吊るされた夢子が、ぐえぇと声をあげて足をばたつかせた。

「警察の方との話が終わるまで、垂直とびをしていなさい」

 床に下ろされた夢子は俯いたまま、その場で垂直とびを始める。

 ただ、淡々と、表情もなく。

 全身の肉を揺らし、夢子の素足が床を叩く音ばかりが続く。跳躍できるぎりぎりの長さを保たれたワイヤーが、着地するたびに夢子の首に食い込む。それは背筋が薄寒くなる、無情で人道に反すると思うに充分な光景であった。

 比呂人は夢子の姿を、さも面白いものだと言いたげに、指で指した。

「ねえ、ほら。本当の人間なら、こんな無様はしないでしょう。反抗の一つもしない。しかし人間の女のように肉を備えて、温かく、体液を垂らしてよがるんです。いい商品になるでしょう?」

 頭が追いつかず、佐伯は絶句していた。ここまでひどい女の扱いを俺は見たことがなかった。

「いくらアンドロイドと言っても、もう少し真っ当に使われなければならないでしょう」

 貞沼が佐伯より先に口を開いた。怒気の含んだ声は、震えていた。

「いくらなんでも、これは……」

「自分のものを自分の家でどう扱うかなど、なににも違反しないだろう。そのくらいのことも知らんのか。それとも、機械同士の同情か?」

 比呂人の物言いに、佐伯は指先が冷たくなるのを感じた。

「嫌な人ですね、あなた」

 貞沼と比呂人の間に一歩踏み込んだ。貞沼を背後に押しやって、比呂人の顔を見る。

「まず俺たちは、彼女がどういうアンドロイドなのか見せてもらわなければいけません。見て、触って、どういう燃料を使用しているかも聞かなければ。確かに生体アンドロイドは、物として扱われますが、人造人間保護法により、生体アンドロイドに人間に準ずる痛覚が搭載されている場合、設定を変えるか、用途を制限するかしなければなりませんよ。まずはそのアンドロイドの痛覚が人体と同等なのかの確認をしなければなりません。所有者ならば、ご存じでしょう」

 比呂人は床や壁に視線を走らせ、忙しなく腕をさすった。

「あんたの横のロボットはなんだ?盾だろう。それは真っ当な使い方だと言うつもりか?壊さないように気をつけろよ!」

 比呂人はがなると、夢子の首を締め上げていたワイヤーを緩めた。床に膝をつき、くず折れた途端、夢子の全身が大きく跳ね、硬直した。

 食いしばった歯列から、ぶくぶくと泡を吹き出し、絞り上げるような悲鳴が漏れている。

 肉が焼ける焦げ臭いにおいが佐伯の鼻に届いた。

 夢子の首が炭化し、ぶすぶすと燻っている。二度、嘔吐し、夢子は背中を丸めてうずくまった。

「さっさと食え、夢子!さもないとあいつを追い出すぞ」

 比呂人の怒号に、夢子が顔を上げた。その双眸は見開かれ、佐伯たちを凝視する。怒りとも悲しみともつかない表情に顔を歪ませ、何事か口を動かしたように見えた。

 股に手をやり、体内に挿入されていた棒状のものを二本引き抜き、床へ放る。

 改めて佐伯と貞沼を睨め付けると、固まった関節を無理やりに折り曲げるような歪な歩みで、佐伯たちに近づく。

 それは緩慢な動きであったが、煮えた魚のように濁った双眸は、やはりじつと佐伯たちを見据えていた。

「佐伯さん、後ろへ」

 貞沼が佐伯の前に立った。佐伯が比呂人を目で追うと、小さな明かり取りの窓を開き、身体をねじこんでいる最中であった。

「比呂人が逃げる。彼女を拘束し、比呂人を追いたい」

「了解です。佐伯さん、隙を見て比呂人の出たところから外へ。お願いします」

 貞沼が夢子を拘束せしめんと間合いを測る。夢子は、かくん、かくんと、膝が抜けたように歩き、けれど迷いなく貞沼に近づく。

 ——ぬっと、夢子の欠けた爪が、貞沼の左袖を掴んだ。

 途端、貞沼が夢子に引き寄せられ、服の袖が裂ける嫌な音がした。

「わ」

 夢子が手を広げ、貞沼の防刃ベストを鷲掴みにする。ポケットの縫い目がぶちぶちとちぎれ、ボールペンが床で跳ねた。

「いや、ちょっと。やめてよっ」

 貞沼が叫び、夢子の頬を拳で打った。貞沼の腕力のままに夢子の身体は宙に浮き、屋敷の壁に強かに体を打ちつける。

「女性の顔なんて殴りたくないんですけどっ。ああ、死んじゃったかな……」

 貞沼が泣きそうな声で佐伯を振り返った。

 その背後で、真っ赤な顔面が音もなく起き上がった。 

 貞沼の肩越しに、弾けた顎から白い歯が垂れ、床に落ちんと空にある刹那。

 

 ——ごぼ、と、夢子の喉が音を立てた。


「あ……」

 その赤く暗い喉奥に、佐伯は目を奪われた。貞沼を呼ぶために開いた喉は引き攣り、微動だにしない。

 虚空のように開いた夢子の喉の奥から、恐ろしいものが這い上がり、佐伯に向かって手を伸ばすように感じられたのだ。

 両足は震え、後ろへと下がろうとする。

 あたたかい血液の甘やかなにおいが佐伯の鼻を抜ける。

 佐伯は深く息を吸った。

 振りかぶった夢子の細腕が鞭のようにしなり、貞沼の側頭部を強かに打った。

 貞沼の耳がちぎれ飛び、続く殴打で貞沼の義眼が掻き出される。

 肉を硬いものに打ちつける音が、繰り返すごとに湿り気を帯びていく。

 夢子の手が往復するたびに、貞沼の人工皮膚が裂け、また夢子の右腕も打ち潰されていく。

 夢子の白い腕の肘から先がボロ布のように垂れ下がった。しかしそれも、左腕を振り上げて打ち下ろす間に、血泡に包まれ形を戻そうとしていく。

「佐伯さん、逃げ、」

 佐伯を呼ぶ貞沼の頭に、夢子が歯を立てた。尖った犬歯が貞沼の人工皮膚に食い込み、引き剥がす。

 貞沼の顔が引き攣れ、みちみちと音を立ててちぎれていく。

 右顔面の外皮が、みかんの皮のように剥かれ、その下の人工骨格が露出する。

 夢子の歯と顎も、固い人工皮膚に負け、めきめきと音を立てて折れ、割れていく。

 その裂けた顔面を、貞沼の腕が力無く数度殴打した。潰れた夢子の顔面から、白い歯と血飛沫が飛び、貞沼の顔を真っ赤に染めた。

 赤くぬらぬらとぬめった貞沼の頭を、夢子の小さな手のひらが優しく撫でる。どこかあやすような仕草も、貞沼の頭部に開いた穴を探しているに過ぎなかった。眼窩に突き込まれた夢子の指が、貞沼の頭の中をほじくり回す。

 だぶついた合成音声が「くそったれ」と微かに発音した。

 途端、なにかが弾ける音がして、貞沼の鼻や口か液体を噴き出し、膝をつく。

 貞沼の頭をまさぐるうちに黒く焼け、赤い肉が割れた隙間から骨の覗かせる指先が生き物のように蠢いている。

 夢子は肉の焦がすにおいをさせながら、焼けた貞沼の中へと腕をねじこんでいく。

 金属同士が擦り合う甲高い音の後、貞沼の躯体からコードの束や、オイル、ショートの火花が溢れ出した。人工皮膚が剥がれ機械部を露出しながら、佐伯のほうを向いた頭部の半分は、まだ貞沼の顔のままであった。

 壊れた貞沼がゆっくりと倒れ、完全に沈黙する。佐伯は、その時間をスローモーションのように感じながら最後まで見ていた。

 貞沼が目の前で崩壊し、火花と煙の中で、樹脂の焦げる猛烈な臭いをあげている。

 度重なる殴打で脳波無線は破壊されているだろうことは想像でき、刈賀や神鳥がこちらに向かう可能性は限りなく低い。

 そして、本体の貞沼がどのような状態か、佐伯に知る術もない。

 生き残る方法を求めて佐伯は思考をめぐらし、思い出したように腰の拳銃に手を伸ばすと、ホルスターから引き抜き、撃鉄を起こした。

 だのに、ひどく指先が震えて、まともに握ることなどできなかった。かじかんだように感覚のない指先が、しっかり握り込んだはずの拳銃を取り落とした。

 凍える指は、床に音を立てて落ちた拳銃を拾いあげることすらできなかった。

 手をこまねいている間にも、夢子の腕のきれはしは、ぶくぶくと泡立つように肉を増やし、骨をつなぎ、元の白い細腕に姿を戻した。砕けた顎が血泡の中で形を変え、細面のなめらかな肌を俺に向ける。

 ああ、これはダメだと、佐伯は達観のような、諦観した心持ちになっていた。同時に、真弥と籍を入れておけば、死亡退職金で彼女の当面の生活を守れただろうにと、間抜けなほど現実的な悔恨を覚えた。

 汗と涙がぼろぼろと顎を伝って落ちていく。力が抜け、膝をつきそうになるのを堪えるので精一杯だった。

 心のどこかで、貞沼がいるならば、殺されるほどのことはないだろうと驕りがあったのだ。それは刈賀が相手をした男程度の膂力ならば制圧できるという慢心だ。

 夢子がこちらを見ている。白く濁っていた彼女の目は、栗色の澄んだ目をしていた。長いまつ毛がしばたいて、佐伯を憐れむように眉を下げた。

 対話を試みたくあった。命乞いがどれほど効くだろうか。

 佐伯は夢子に何事か話しかけようと口を動かしたが、彼女の薄いくちびるは、佐伯になにも伝えなかった。

「頼むよ……」

 震える声が、乾ききった砂のような俺の喉から絞り出された。佐伯は懇願した。

 帰りたい。

 そう、切に願った。

 夢子は、佐伯が差し出した手をそっと取り、ほんの少し微笑むと前腕を握り潰した。

 肉の下で腕の骨が細かく砕け、筋肉に突き刺さる。途端、猛烈な吐き気と眩暈が俺を襲い、急降下した血圧に、視界が半分ほどに感じられ、世界が色彩を失う。

「あひっ、ひっ……」

 腕を動かそうとすると、鋭くも重い痛みが、脳天に突き刺さるように駆け抜けた。溢れ出た涙で顔をべたべたに濡らし、万力のような夢子の指を外そうと必死になった。

「か、かえして……」

 佐伯の懇願も虚しく、夢子は、もう一方の腕で佐伯の肘を掴む。そうして、肘から先の腕の肉を、手羽先を食べるような気軽さで剥いた。

 瞬く間に生の肉と皮が限界まで引き延ばされ、皮膚下でみちみちと繊維の弾ける音がする。

 

 ——ずる、と

 

 肘から下が骨だけになり、すでに粉砕されていた手首の骨から下は、皮手袋を脱ぐように佐伯の体から離れ去り、夢子の口の中へと吸い込まれていった。夢子の歯が佐伯の肉を易々と噛み潰す。

 視覚的な赤に、目が眩む。自分の腕からとめどなくあふれていくあたたかいものを押し留めたくてたまらなかった。

 自分は、取り返しのつかないものをひとつ無くしたのだ。その喪失感たるや。

 このような死に方をするために生まれてきたのかと思う、妙な冷静さは頭の端に残っていた。

 左腕に、顔。ふくらはぎを撫でる感触。次はどこに痛みが走るのかと身構えたが、佐伯にできる抵抗などなく、奥歯を割れんばかりに食いしばり、体を震わせていた。死の予兆にせめて苦痛が和らぐようにと祈る佐伯の耳に届いたのは、

「夢子、夢子」

 と、比呂人ではない誰かが、あやすように優しく夢子を呼ぶ声であった。

 まぶたが鉛のように重い。

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