三章 血は水よりも

 三章 血は水よりも

 

 

 心地よい秋晴れである。連日の寝不足がたたった佐伯の頭の中は、破れ鐘が鳴り続けていた。眼精疲労は最高潮で、目の奥を中心とした目の周り、顎関節までが割れんばかりに痛んでいる。或いは、除夜の鐘付きの最中、鐘の中に立っていればこのような心持ちだろうか。

 トイレの鏡に映った自分の目は虚ろであるし、判断能力は鈍っていることがありありと見てとれた。もし、通販サイトを開いたら、別に必要でない日用品を、特別安くもないのに買っているだろう。

 先日の事件から三日が経とうとしている。

 羽佐田は拘置所に収容され、手の空いた佐伯と貞沼は、その夜は家に帰り着くことができたのだ。ひと息ついて味わった、夕飯のハンバーグが心から懐かしく感じられた。

 じゅんわりと焼き上がったハンバーグと、ケチャップの味が遠い日のように感じられる。よく炒められた玉ねぎの甘みに、香ばしいスパイス。付け合わせの温野菜のサラダとあっさりしたコンソメスープ。いまだありありと舌の上に味が蘇る。

 手のひらに乗せたタネを、猛烈な勢いで整え、ハンバーグを大量生産していく真弥の頼もしさもまた、味と共に思い出した。

 佐伯は、真弥が冷凍庫に並んだ作り置きハンバーグたちとともに、今も自分の帰りを待ってくれているだろうと考え、気力を奮い立たせていた。

 そんな幸せのひとときから一転して、本部の小汚い仮眠室で過ごした昨夜。

 厚さ二センチほどしかないせんべい布団は、おじさんのにおいがした。自分がおじさんなのか、布団がおじさんなのか。おじさん布団が自分なのか。浅い眠りを繰り返す日が長引けば長引くほど、自分と布団とおじさんの境界線は曖昧になっていく気がして恐ろしく感じた。

 ようやく今夜、自分を待つ人と、あたたかくやわらかい寝床へ帰ることを思うと、心が躍る。

 このまま、貞沼と刈賀の録画や録音を提出し、神鳥と佐伯の証言に食い違いがないか確認が取れれば、ひと段落つくはずである。

 後の作業は、聴取や鑑識の結果がまとめられ、そのデータを人工知能が判別する。いずれ最短で起訴され、人工知能によって判決が決まるだろう。

 それが今回、現場の再確認だけでなく、オベンチョたちの引取先の打診や、言語化しづらい部分の説明で煩雑さが増し、書類作業が押していった結果、最終的に徹夜じみた仕事になっているというだけの話だ。慣れない睡眠不足が猛烈に体に響くことを再確認し、佐伯は頬を叩いた。

 神鳥は早々に書類の作成を貞沼に投げて、隣村の駐在所に帰って行った。神鳥は神鳥で、少し山に近い地域一帯の治安維持を、ほとんど一人で担っているので、長く離れているわけにもいかないのだ。誰もやりたがらないところにこそ、駐在員は必要である。

 貞沼は、神鳥のぶんの書類仕事を既に片付けて、佐伯と同じく今夜は帰宅できると嬉しそうにしていた。時折、遅々として進まない佐伯の書類仕事を覗きにきては、こうですああですと、指示を出して去っていく。

 刈賀はというと、書類制作や雑務の合間合間に、羽佐田に嫌がらせをしているらしい。特別取調室に通っているので、あまり姿を見ていない。下手をすると、仕事らしい仕事はさっさと片付けて、日がな嫌がらせだけをしている可能性もある。

「余程腹が立ったんでしょうねぇ」

「そうね」

 ひとつひとつのキーボードを丁寧に押す佐伯を覗きに来た貞沼が、事務椅子の上でくるくる回りながら言った。

「ああ見えて激情家なところありますよね、刈賀さんは」

「優しいやつだからね。俺はちょっと苦手だけどね」

「仲良さそうに見えますけどね。オレは佐伯さんも刈賀さんも好きですよ」

「だってあいつ、俺が真弥ちゃんと籍を入れてから殉職したら、真弥ちゃんは未亡人ですねとか言うんだよ……」

「ああ、真弥ちゃんは未亡人の素質があるって言ってますね。佐伯さんの殉職計画でも立てているかもしれません」

「刈賀め、俺のいないところでなにをしてるかわかったもんじゃない……」

 そう言って、佐伯は画面に続く誤入力を修正する。機械操作に苦手意識があることを再確認し、ため息をついた。

 佐伯には、別段秀でたところがなかった。

 秀でていないと言うと語弊があるかもしれない。しかし、本人は少なくとも自身のことを器用貧乏ではあると評価していた。

 貞沼のように、次々と機体を取り替えて物量で圧倒する事も、神鳥のように人間離れした膂力で対象を制圧する事もできない。

 刈賀のに至っては、相手が全身兵器ともなれば勝ち目などない。

 淡々と泥臭く地道な仕事。佐伯が一番得意なのはそれだ。派手さもなく、前に出ることも無い。大きく出世をする事もそうそうないだろう。秀でるなにかを、身体改造で後付けしたがる人間が多いのも、大いに理解できた。

 うだつの上がらない生活も、それもまたよい。佐伯はそう思っている。

 そうは言っても、ふとした時に自身の頼りなさを感じてしまう時があり、腹のあたりが痛むような気がした。ちょうど、こんなふうに疲労を重ねている時がそうだった。

 拙いタイピングは集中力に欠け、思考の渦に意識を沈めていく。

 自身の苦手な部分を身体改造で補えないかと考えたこともあった。

 しかし、日々進化するサイバー攻撃を危惧して、遠隔操作ロボットないし、サイボーグは必ず人間とペアを組まなければならないと定められて久しい。。

 機械は絶対に誤作動をするというのが通説であった。それは人間のミスに比べれば些細なものなのかもしれないが、悪意ある接続に対して、ナチュラルな人間を超える安全性は、今の所、確立されていない。

 何重にも物理的な鍵をかけられた、スタンドアローンのパソコンこそが最強のセキュリティを誇るのは、いつの時代も変わらない。

 佐伯たち僻地特別機動隊、通称僻地隊の四人は、佐伯を頭に据えた構成となっている。この土地に四人が揃って、もう四年ほどだろうか。貞沼と組んでいるだけの期間なら、もう少し長い。佐伯と貞沼。山の中の駐在員の神鳥。比較的自由に動き、必要があれば都市群への制圧に駆り出されることもある刈賀。

 四人での距離感は、ほどよかった。狭い地域をめぐる様々な人間模様を経て、信頼を築き、よい仕事ができていると思う。

 やはり仕事は、人格が大きくものをいうと、佐伯は思っていた。

 僻地隊は、国策を持ってしても一向に解決しない、主要七都市への人口集中社会に対する、ある種のやけくそ法案によってできた部隊だったが、主要都市で扱いにくい人間を送りこむという一面性も持ち合わせている。

 貞沼ならば、強大すぎる実家の力を敬遠されているし、神鳥は膂力に優れるが、彼の通したい筋にそぐわないと手が出る。

 刈賀に至っては、性能としては欲しいが、常に手元には置きたくない。そんな持て余し気味の人材を、優等生の佐伯にまとめさせようというのが本部の魂胆であろう。

 僻地隊は、そんな彼らをちょうどよく包める場所であったのだ。

 各地に散らばる田畑や山は勿論、かつて住宅地だったところ。

 それらは現在、多くが国の管理する土地となっている。離れた都市と町村を繋ぐ道はあれど、その間にあった商店や住宅街は、老朽化し崩れるに任せてあるものも多い。

 それでも、第一次産業を担う地域は落ち着いた活性化を見せ、また農耕や漁業を補助するロボットの導入で、少人数での食糧生産が安定している。赤馬町は、そんな町の一つであった。

 一方で、人口が集中した都市群は、収入格差と住居格差たるや、実に凄まじく、所得の高い業種にあぶれた人々は、困窮し治安の低下を招いている。

 主要都市にあるのは、ハイテクノロジー、最先端の流行と、快楽を伴う娯楽、終わらない購買意欲を煽る、けたたましい動画広告。あらゆるものが手に入り、あらゆることに金がかかる。何よりも恐ろしいのは、際限のない、自分より上の誰かだ。

 それはもはや実在するかも定かでない偶像を見上げ、喘いでいるようであった。

 都市群に乱立したタワーマンションに押し込めるようにして、大量の人間を上へ上へと住まわせていく。摩天楼の住居、その高さがそのまま人間の命の価値に結びつく。

 都市は高密度化し膨れ上がった人口により、慢性的な生鮮商品の不足が続いていた。

 供給の少ない生鮮商品の価格は高騰し、それらを購入できない層は、炭水化物中心の食生活を、プロテインとサプリメント、点滴と身体の機械化で補い、今日も世界経済に最新の汎用性ロボットと、かたちのないものを売り続ける人々のために、文字通り身を削って働く。

 コンピュータを使った仕事の多くが、ロボットに取って変わられたため、ロボットにできない業務、その少ない枠を都市内で人が取り合うのだ。

 形ばかりの高難度国家資格で成り手を絞り、結果、人手不足という本末転倒ぶりを発揮しながらも、一度できた利権のうまみは忘れられず、下位互換の民間資格で人を補うことになった。もちろん、賃金は国家資格取得者よりずっと安い。

 それでも、多くの人は過酷な暮らしをしてでも街を選ぶ。

 きっと世の中には、都市群を離れて、最先端を手放すことを恐れる人というものが、佐伯が知るよりたくさんいるのだ。

 汚れず臭わず、コストパフォーマンスにタイムパフォーマンスを重視して効率よく稼ごう、一発逆転……。そんな言葉が溢れた中で、彼らはなにを生産しようとしているのだろうかと、佐伯はニュースを見ながら時折考える。

 耳にイヤホンを刺したまま交差点に入り、トラックに轢き潰された凄惨な死に様を晒すのが目的ではないはずだろうが、彼らには彼らなりの事情や地獄があるのだろう。

 そんな社会情勢の中で、都市群から離れ、飛地のように点在する第一次産業を主な産業とする地方の治安維持を少人数で行うことを目的とした部隊が、僻地特別機動隊だ。

 裁量の範囲が広く、武力行使も認められていることから、警察というよりも、火付盗賊改方のような軍人が近いのかもしれない。

 その地方の人口と管轄範囲によって、四~八人程度の人員を用意して、人間と、人型アンドロイド、サイボーグを組み合わせ、構成されている。

 また、各交番には、単純作業を得意とするロボット警察官が配備されているので、ある程度パターンの決まった業務はそちらに任せておくこともできるし、先の見世物小屋のように、必要に応じて専門の職員を呼ぶこともできる。

 忙殺されることがない反面、大きな事件もなかなか起こらないので、手柄による出世からは外れてしまう。ある意味貧乏くじでもあるが、他に誰もいないのなら、誰かがそのくじを引かなければならないと、佐伯は思っている。

 管轄内の人口がそもそも少ないのだから、合鴨の交通整理や、無人駅付近の警邏で日常は暮れていく。

 それでもやはり、横断歩道の横に立って、こどもたちに「いってらっしゃい」の声をかける仕事が佐伯は好きだ。

 画面を見つめながら、佐伯は神社で遊び回るこどもたちの姿を思い出していた。

「ねえ、佐伯さん。今度真弥ちゃんも一緒にラーメン食べに行きません?魚介出汁系のおいしそうなお店できたんですって」

 貞沼が、佐伯の机にコーヒーの入ったマグカップを置きながら、そう声をかけた。

「へえ、いいね。魚介のあっさり系は真弥ちゃんも好きだし」

 佐伯はおぼつかないタイピングの手を止めて、コーヒーをすする。三人で出かける約束は久しぶりだった。

「佐伯さんは、休憩にしましょう」

 そう言って、貞沼が佐伯の座った事務椅子を隣の席へと押しやった。されるままに貞沼に運ばれながらメッセージを送信すると、すぐに真弥から返信がきた。

「真弥ちゃん、明日は葬式の手伝いに出るらしいから、明後日以降にしよう」

 白くて丸っこいキャラクターのスタンプが、喜びを表現していた。

「真弥ちゃんの親戚ですか?」

「いや、多分町内の……。そろそろ危ないって聞いてたから、その人じゃないかな。今年九十三だったと思う」

「ああ。それなら大往生ですね」

 貞沼は、キーボードを叩きながら、佐伯にそう返した。小気味よい音が事務所の中に響く。

「このへんって、結構な派手好きですし、葬儀も賑やかになりそうですね」

「ああ。霊柩車もいいやつを呼ぶと思うよ。俺も淋し見舞いを用意しておかなきゃな」

 めっきり減ったと聞く、大きな宮型霊柩車もこのあたりでは現役だった。黒い車体と金色の唐破風、ぶら下がった揺れる細工をきらめかせ、走る様は見事なものだ。パトカーとはまた違った威圧感。そんな非日常の造形は、真弥が好むものだった。

 察するところ、そういった宗教的な部分への知的好奇心も孕んで、率先して手伝いに出向いていると察せられた。彼女はキリスト教徒だが、そのあたりは気にしないのだろう。

「きっと、寿司とお酒をもらって帰ってくると思うよ」

「じゃあ、ラーメンはそれが終わってからですね」

 相槌を返す間も、貞沼の手は止まらない。指先のひとつひとつに目があるのだろうか。

 佐伯の視線に気づいた貞沼が、目線を寄越して微笑んだ。佐伯のタイピングでは遅々として進まなかった文章製作が進み、画面のほとんどを文字が埋めている。

「もしかして、見るに見かねてた?」

 恐る恐るそう尋ねると、貞沼はエンターキーをわざとらしく大きな音を立てて叩いた。

「佐伯さんは真面目ですからね。言葉選びのひとつひとつにしても、なるべく優しい表現を探してるでしょう。そういうところ、好きですけど、佐伯さんには他の仕事を優先してもらいたいっていうか……。佐伯さんはオベンチョたちの引取先の話、すごく頑張って探してたでしょう?なるべく人道的に扱ってもらえる場所って。そういう時の、相手の口調や雰囲気からくる肌感みたいなものって、佐伯さんじゃないとわからないし、そういうのに神経を使ってくれればいいんですよ」

 貞沼の言葉が面映く感じて佐伯は視線を逸らした。貞沼の指が、またかちゃかちゃとキーボードを鳴らし始める。

「今度のラーメン、奢ってくださいね」

「はい……」

 神妙な面持ちで答える佐伯に、貞沼が吹き出して笑う。

「そういうところが真面目なんんですよ。ああ、あと、羽佐田の話も、この二日でだいぶ聞けたそうですよ。やっぱり、煽てられると調子に乗ってしまう人間みたいですね。過去に投資に失敗して坂口比呂人に個人的に金を借りたことがあるようです」

「ああ、そういう繋がりだったのか」

「元は同級生のようです。見世物小屋で日銭を稼いでいたと。羽佐田の話ぶりから、その見世物小屋も、坂口比呂人が作らせたんでしょうね」

「なるほどね。じゃあますます坂口さんに話を聞かないと始まらないわけだ。土地の権力者……やだなぁ、素直に応じて欲しいなぁ」

「あと、佐伯さん。さっき報告入ったんですけど」

 貞沼がタイピングの手を止めて、佐伯の方を向いた。気まずそうに視線を下にやり、言いづらそうに口を歪める。

「オベンチョとチョウズが、病院の職員に噛みついたので、射殺のち解剖、後日焼却処分だそうです」

「噛みつく?」

 佐伯は唖然とした。彼らは落ち着いていたし、人に攻撃をするようには見えなかった。

 佐伯は事件の当日から受け入れ先を探し回っていた。戸籍のない彼らを収容できる病院は限られており、難航した。ようやく見つけた受け入れ先も、病床の都合もあり、どうにかして一夜の宿をあてがわなければならなくなった。

 彼らが小柄であるし、鳴き声もほとんどたてなかったため、仮眠室の一角にケージを置いて過ごさせる許可がおりた。なるべく暖かく過ごせるように……というと、まるで拾ってきた猫やなにかの世話をしたようにも聞こえるが、膝掛けだのを詰めてやった。佐伯なりに過ごしやすい場所を作り、彼らが食べられそうな物をと、介護用のレトルトパウチ食品をそれぞれに与えてやると、表情を見せたのだ。

 笑うように目尻を下げ、もっとくれと言いたげに鳴いたのだ。彼らはきちんと意思の疎通を残していたと佐伯は感じた。

 二度彼らに食事を与えたが、いずれも佐伯に危害を加えてくることもなく、どこか穏やかな表情をして匙に乗せられた食べ物を喜んでいたのだ。その上、彼らは暖かい場所で穏やかにしている限りは不必要な性交にも及んでいなかった。あれは見世物小屋で仕込まれた芸か、不安を紛らわせる常同行動の一種だったのか。

 ならば、きっと彼らは恐怖を知り、痛みから逃れるために、理不尽に服従する認知力もあったのか。理性すら、持ち合わせていたのではないだろうか。

「な、なんで……?」

 佐伯の声が震える。あの二人は反抗のために牙を剥くことはできないし、チョウズに至っては動くことすらできない。なにが、どうしてそんなことになったのか。そんなあらゆる気持ちがない混ぜになった一言だった。

「病院側の話と、監視カメラの映像から、なぜか二人の口に歯が生えて、職員の顔に噛みついたとのことです」

「なぜかって……そんな……」

「射殺の後もやはり動いたそうです。手足と首を落として解剖に回されて、今は結果待ちの状態です」

 膝に突き刺さった棒を引き抜き、職員に襲いかかるチョウズを想像して、刈賀が頭を撃っても動き続けていた金髪の男を思い出す。あの時は刈賀がすぐ近くにいたから、比較的安全に制圧できたが、医療施設ではそうはいくまい。他に何人か巻き込まれている可能性が更に佐伯の気分を悪くする。

 硬いノック音が、俯いた佐伯の顔を上げさせた。

「矢継ぎ早ですみませんが、佐伯さん。僕の方の話も聞いてください」

 血糊に汚れた顔が、ドアの隙間から覗いた。

「刈賀さん、ここついてますよ」

 貞沼が自分の頬をさして言う。刈賀は、机の上のウエットティッシュを取ると、顔を拭った。

「荒れない?」

「平気ですよ」

 アルコール入りのウエットティッシュをゴミ箱に捨てる。

「金髪男、歯型から市内に住んでいる新美俊哉と名前がわかりました。彼も今は収容所で大人しくしてますよ。手足の筋が切れているので、動きようがないのですけども」

 刈賀は、ふう、と息を吐いて、佐伯の机に置いてあった飲みかけのコーヒーを飲み干した。

「被害者たちが、調書を取れるような状態ではないのでね。新美に刺したものが何なのかを、羽佐田に優しく聞いてきました」

 優しく聞いていたら、刈賀もそんなに疲れた顔をしていないだろうに。さらさらしていた髪が血の汚れで固まり、数少ない刈賀の生身部分である目の下には隈が浮かんでいた。人間性維持に必要な三時間ほどの睡眠すら取っていないのかもしれない。それなら食事もそうだろう。

 燃料を補充すれば活動に支障ないとは言え、食事を断つというのも精神面には大きく影響が出る。刈賀の顔色が、どうにも悪いような気がして佐伯は立ち上がった。

「そう。それならゆっくり聞こう」

 佐伯は刈賀に、椅子に座って待つように促した。せっかくなので、低反発のいい座布団も刈賀に譲ってやる。刈賀の尻はシリコンと人工筋肉でできているが、気分は大事だ。

 それから給湯室へと向かい、まずお茶を淹れる。一番大きな急須に、ぬるめのかりがね茶を少し薄めに、けれどなみなみと。

 何種類か常備してある個包装の茶菓子をつかみ取って、木皿に山盛りにした。

 話をじっくり聞くには、それ相応の準備と栄養は不可欠なものというのが、佐伯の持論であった。マグカップを三つに、たっぷりのお茶に茶菓子を机に置いて、佐伯も椅子に腰を下ろした。なるべく深く腰掛ける。

「貞沼、もう入力終わった?」

「ああ、はい。オレも聞きたいです」

「ありがとうね。用意したからおやつにしよう」

 事務椅子を引きずってきた貞沼も入れて、三人膝を突き合わせながら黙々とお菓子を食べる。もなかやチョコ菓子に柿の種なんかを三つ四つ食べて、マグカップのお茶を飲み干し、もう一杯ずつあいたマグカップにお茶を注ぐ。口元を拭って、刈賀が膝を組み直した。少なくとも先ほどよりは、肩の線が柔らかく見える。刈賀は小さくあくびをした。

「中身は血液です。他の……ハナチンたちに打たれていた輸血パックとは違う。緊急事態が起きた時は、倉庫に囲ってある中で一番強そうなものにそれを打てと言われていたそうで」

「強そうなものに?」

「そう。なにかあった時に暴れさせるかして証拠隠滅を謀るか、我々を返り討ちにするのが用途として相応しいでしょうね。死体が出ても喰わせてしまえばいい。実際、その通りの使い方だったわけですし」

 刈賀が、両手で持ったマグカップの中身を啜る。

「それで、その血液の何がそうさせるのかと思いまして。新美の血液と、押収した注射器の中身の血液に、オベンチョたちの血液。それらの違いを探してもらったんです。そうしたら、みんな同じ血液型だったんです。新美は元はB型だったらしいんですが、彼は混ざり合ったような血になっている。気味の悪い話ですよ」

「生まれてすぐの血液検査で出た血液型が、成長する間に稀に変化するとは聞いた事があるけれど、そういう話ではないんだよね」

「ええ、勿論。新美は少し前に血液検査をしていたので……。仮に人工血液に置換したとしても、ある程度の拒否反応は出ますからね。馴染むまで免疫抑制剤を使う期間は必要です。しかし生き物の血液を生き物へ、のはずなのに、拒否反応らしいものが全くない。佐伯さんと貞さんが、彼を見かけた時分から考えても、短期間で身体を生きたまま変形させている……。どこにも人工物への置換無しにです。誰も身体改造を受けていない。なにをどうやったらこうなるんでしょうね」

 刈賀の言葉に、佐伯も貞沼もなにも返せなかった。

 たびたび、拉致された人間が好事家に売られ、目も当てられない身体改造を施されたという事件は起こるが、それはあくまで悪趣味なサイボーグ化の話だ。生身のままそんな事が可能という話は、この場の誰も聞いたことがなかった。

「腹部を観音開きに改造された事件がありましたよね。あの、やくざ屋さんの」

「ああ……」

 刈賀の言葉に、貞沼が渋い顔をする。

 それは都内のほうで起きた、拉致事件の話だ。生かさず殺さず、内臓をつつき回される拷問を受けていたとかで、凄惨な事件なことは想像に易い。

 じきに、いたずらに引き出された小腸が腹圧で戻らなくなり、飛び出した自分の小腸で相手を締め殺し、繋がって溢れ出した臓物を部屋中に撒き散らして死んでいたというから、B級ホラーもいいところの結末だと聞き及ぶ。

「うーん……」

 佐伯は、醤油せんべいを小袋越しに割りながら考え込んだ。

「それと、佐伯さん。あの見世物小屋にいた新美以外の、全員、該当するような遺伝子登録と戸籍はありませんでした。彼らはこの世にいない子です。でも、全員が血縁者でした」

「兄弟或いは、親戚ってこと?」

「ええ。兄弟だと思われます」

 貞沼がチョコレートを二つ三つ、口に入れながら垂れ眉を更に下げた。

 うんざりだった。

 聞けば聞くほど胸糞が悪くなる話ばかり続く。

 出生届が出されず、戸籍登録もされていない人間は、この世にいないのだから、まともな葬儀すら行われない。

 いくら人権が憲法で保障されていたとしても、日本国民でなければその対象ではない。そして日本国民とは、日本に国籍を持つ人間。その人間を狭めた、人間とはなんなのかを問うような法が定められてから実に久しい。

 羽佐田を主犯にしたとしても、新美の方はともかく、オベンチョたちを被害者とすることはできない。人権がないからだ。

 生きている間にどこかで届が出されて、戸籍を得られればいいが、そうでないなら、生きた記録も死んだ記録も残らない。

 彼らはどこから来てどこへ行くのか。出生を祝福されずとも、生きる権利だけは保障されなければいけないはずなのに。産まれ流れて行った終着点が、焼却場か燃えないゴミの埋立地なんてあんまりに哀れだ。

 佐伯はどら焼きを口に入れて、よく噛んでからお茶と一緒に飲みこんだ。

「明日、坂口邸に行けないかな。貞沼、よろしく頼むよ……」

「そうですね、行きましょう」

 貞沼が頷く。

「二人で行くんですか?僕は?」

「刈賀さんは、明日はちゃんとメンテナンスに行ってくださいね。小屋の中でパカパカ打ってましたし」

「僕だって行きたかったのに」

 刈賀は不服そうにサラダせんべいの包装を破る。先程よりは表情が柔らかくなっている。

「刈賀はなぁ……。大企業関係者に絡むなら、武装解除しないといけないから……。まだ不確定要素が多すぎるし。でも貞沼とは脳波無線をいつでも繋げられるようにしておいて欲しいな」

「わかりましたよ。多めに弾薬積んじゃおうかな」

 ぷぅ、と、刈賀が唇を尖らせた。

 子供っぽい仕草に、刈賀の若さを思い出す。

 「刈賀は血気盛んだもんな」

「どうせぼくは、いつでも人工血液がたっぷりですよ」

 佐伯はせんべいに手を伸ばす。やはり落ち着きや、柔軟性なんてものは、いずれ経験で身につくのだろう。

「じゃあ僕が神鳥さんにも伝えておきますよ。あの人も連れていけばいいのに。嬉々として殴りにいくと思うんだけどなぁ」

「神鳥さんね。割に忙しいらしいですよ。それに担当している地区では、優しいお巡りさんで通ってるんですから、悪名を広めたらかわいそうですよ」

「あの御面相で?貞さんと僕以外はノワールものの映画に出てきそうだなと思ってるんですよ。人は見かけによらないというか、ええ……そうなんだぁ……」

「俺はいつもニコニコしてるし、真弥ちゃんには、佐伯さんはかわいいねって、言われてるからね!」

「佐伯さんが見てるだけで、街を行く酔っ払いの姿勢がよくなるんで、人相の悪い人たちも、あれはあれで役に立ってるんですよ。さ、お昼ご飯食べに行きますよ。急いで急いで」

 貞沼がそう言って話題を切り替え、両手をパンパンと叩く。

 時計を見ると、確かに昼食には悪くない時間だった。菓子類をつまんでも満たしきれない腹が動いた。

「貞沼、ほとんどやってくれたの」

 佐伯がパソコンの前に座ると、ほとんど完成したテキストデータが表示されていた。あとは書類の端に電子印鑑を押すだけになっている。

 佐伯が感謝に満ちた眼差しを送ると、貞沼は親指を立てて、茶菓子の片付けをしに給湯室へ姿を消した。

 やることが明確になると、安堵する。佐伯は電子印鑑を押して、完成したデータを送信した。昼を食べて、午後の仕事を済ませたら、家に帰ろう。今夜こそ。そんな気持ちは実に前向きであった。


 して、金髪男こと、新美俊哉とおぼしいものが、収容所内で死んでいる旨の報告がやってきたのは、佐伯たちが昼食を終えてほどなくの時刻であった。

 

 

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