やもり

桑野健人

やもり

 寂寞の夜空を時折仰ぎながら帰宅すると、アパートの入口にやもりがへばりついて息をしていた。私は静謐な月光に照らされて鈍く背中を輝かせるそれを好ましく眺めていた。まるで故郷の友人にばったり遭遇したような感覚だ。それもそのはず、田舎の実家の窓にはよくやもりが何匹もはりつき、その愛らしい瞳や襞のある指をあらわにしていた。実際はここにひっついて首をひくひくさせている奴と実家の窓でいつまでも餌食を待ち伏せていた昔日のあいつとは別々の存在なのだろうけど、まあ、そんなことはどうでも良いのだ。私は彼の灰色がかった背中を指で押すみたいにして撫でてみた。だが彼は吃驚してあせあせと天井まで登っていってしまった。全く、すばしっこいやつだ。けれど苛めるのはもう止めよう、なんといっても、やもりは「家守」と書いて、家を守ってくれる存在なのだ。たとえ廊下は床から壁に至るまで罅が入っていて、天井に取り付けられた火災報知器もまともに作動しないような襤褸いアパートでもね。女の子の私にとって、これ程心強いものはない。しかし束の間の幸福も長くは続かない。私はアパートの共用スペースにある私の郵便受けに溢れるばかりの封筒が押し込められているのを見て、溜息を漏らした。

 私、守谷昴もりやすばるは質の悪いストーカーに狙われている。質の悪くないストーカーが居るのかと言われれば、多分居ないんだろうけど、まあ、そんなことはどうでも良いのだ。ストーカーの名前は木戸と言って、大学の文學研究会に所属している私の先輩だ。身長は高くもなく低くもなくどちらかと言えば痩せ気味で、顔はそれほどカッコいいわけでもないけどそれほど不細工でもない。猫背気味でいつも眼鏡をしていて、髭は生やしていない。純朴ではないが変態でもない。馬鹿ではないが賢くものないので一年浪人している。まあ、どこにでも居るような普通の大学生だ。そんな彼が私に告白してきたのは、定例の読書会の後のことだ。彼は何の取り柄も無かったし、彼の書く文章もさほど上手とは言えなかったけれど、どこか致命的に欠陥があるような気がして、そこが人を惹きつけるようなところに思われた。だからと言って素直に告白を受け容れるのもどうかと思った。だから私は賭けに出ることにした。彼のグラスの氷が私のグラスの氷より先に溶けたらまあ、OKしても良いんじゃないかな。そして――私たちは偶然につきあい始めたのだった。

 そしたら彼の決定的な欠陥がすぐさま露呈した。彼は全く、私のことを溺愛しすぎていた。その証拠に、ほら、こんなに。私は玄関に大量の封筒をまき散らした。部屋の大半が彼のラブレターだ。私との愛を囁くもの、破局を憂い半狂乱的に書き散らしたもの、私を剥製にして飾りたい等々。しかも毎日届ける、その偏執ぶりには呆れざるを得ない。私が感じ取った欠陥とは、彼がおよそ人間関係というものの機微を知らない不器用さにあったのだ。偶然に出逢った関係を彼は運命と勘違いしてしまっている。憐れだ。私は一々それを破いてはゴミ箱に捨てた。軽快にびりびり破れることもあったけど、殆どが名残惜しそうに抵抗した。未練がましい奴。彼を振ったのは私達がつきあい出して三か月目の記念日だった。彼は冗談だろ?と中々受け入れてくれなかったけど、まあ、そんなことはどうでも良いのだ。そして彼のストーキングが始まったのである。

 私は窓から零れる淡い月光をぼんやりと眺めた。思うのだけど、現代人には二種類の系統があって、一つは誰かをとことん愛したい人間がいて、もう一方にはそれと均整を取るために誰かから愛されたい人間がいる。同じ類型の人間が出会えば磁石みたいに激しく反発するだろうし、もし相手が自分とは違うタイプだったとしたら、障害物を押しつぶしてでも強力に結びつくのだろう。それが恋だ。だから、恋愛にはどちらか一方の熱烈な愛さえあれば成立する――これが私の仮説だった。木戸はその役目を果たしてくれた。でも、私には響かなかった、それはひとえに私が誰かからの愛を欲しない第三の存在だったからだろう。そんな悲しいことあるでしょうか。人間は等しく愛を欲する生き物だと思うのだ。あらゆる欲求の源泉は愛に違いない。現代で問題になっている承認欲求も、複雑な悍ましい怪物にみせかけた愛情の枯渇だ。ではどうして愛情が必要なんだろう。あの壁を登るやもりはいつだって孤独に生きていけるのに。簡単な話だ。人間は集団でしか生存できないようにプログラムされているから。私たちはやや大きめの身体と肥大した頭脳によって創出された厖大な機械の虚飾を浴びて自分が食物連鎖の頂点に立つ屈強な人間だと思い込んでいる――実際は愛らしい脆弱な存在にすぎないのにね。理科の授業で、特殊な微生物の欄に「細胞群体」というやつがあったのを想いだす。私は理科も数学も苦手で、いつも赤点ばっか取っていたけど、生物だけはましだった。薄い教科書に陳列された色とりどりの細胞は私をいつも慰めた。私は思った、人間という生物の構造は翡翠色をした単細胞の集合に違いない。だがごくまれにエラーが発生する。愛という接着剤では結合できない人間が生まれる。それが、私。

 小さな檻の白濁した石膏の壁を眺める。どこもかしこも爬虫類の肌のように凸凹していて所々に穴が開いている。壁に穴をあける禁忌を、これまたどうして歴代の住人達は犯してしまったのだろうか。私は冷蔵庫から水を取り出してぐびりと飲んだ。再三の督促をすべて無視したあげくに止められた水道の蛇口からぽたぽたと水の滴り落ちる幻聴。私は壁を暫く撫でた。私はなのだ。仮説が間違っていなければ、私は人間ではないのだ。だが、私は人間の肉体を与えられた以上は人間として生きなければならない、本質がであっても。なんて不愉快なことでしょうか!私はこの不愉快を払拭するために、樹々のざわめきを聴こうと思って窓を開けた。それがまったくの不幸の偶然の始まりだった。



ぺちゃり――まるで柘榴が地面に崩れ落ちた時のような音が響いた。私はハッとして扉の方をみた。は虚ろにゆったりと藻掻いていた。まるで、この世界に生れ落ちた生命の幸福が、奈落に墜落していくのに抵抗するように。それは無駄な行為だ。現にもう肢はつけ根を僅かに痙攣させるだけで動かなかったし、世界を享受する脳髄も耳も眼球も舌も一緒くたに潰されてしまったのだから。私はいましがた自分が殺したやもりの下半身がベランダの床に落ちるのをぼんやりと眺めた。潰された頭は何も臭わずに茫然と黄色い血を流していた。肉塊から飛び出た眼球の濁りきった憎悪が辛うじて私にも判別できた。私は極度の疲労を感じて後ずさった。椅子にへたり込み、生命の投棄という汚辱にまみれた窓を早くなる鼓動が凝然と感知していた。私は怖ろしいまでに過呼吸になった。

「守谷は優しい子だね。どんなに小さな羽虫だって君は助けるんだから」

私は狼狽して昔かけられた言葉を何度も反芻した。かつて私を好きだといってくれた男の子の言葉だ。はやはり彼の愛情を無意識に拒んでしまったけれど、彼の与えてくれた役割はちょうどあのやもりの潰れた頭のように残った。という呼称が、何のとりえもない人間に仮初に与えられる役柄なんてことは、私も理解している心算だ。人間の性格というのは、彼らが想像力によって創りあげた世界の模造品の数々よりも遥かに容易に準備できるし、変更も可能だ。勿論本質までが清潔に塗り替えられるとまではいかないにしても、他人に本質がバレるなんてことはありえない、神に誓ってありえない。所詮私達は互いの表層で、ちょうど鍋の飴色の波に湧き上がる灰汁の部分だけで、性格を判断しているのだ。それが悪いとは私は思わない。だからこそ性格は変更可能なのだ。灰汁の形なんて、常に変わり続けるものなんだから。そして私はそれに固執し続けている。という仮面に。

 木戸と私の何が違うのだろう。大学の文學研究会に所属している女の子。身長は高くもなく低くもなくどちらかと言えば痩せ気味で、顔はそれほど可愛いわけでもないけどそれほど不細工でもない。猫背気味でいつも眼鏡をしていて、化粧には無頓着。純朴ではないが変態でもない。馬鹿ではないが賢くものない。まあ、どこにでも居るような普通の大学生だ。違うのは木戸の方がよりで、私はであるということだ。木戸は優しさなんて必要じゃない。誰かを、すなわち私を愛すということの幸福を彼は持っているのだから。けれど私はという役割がなければ、まともに呼吸もできない。何故なら、私が人間でないということがバレてしまうかもしれないから!頭の潰されたやもりは私の役割を剥奪しに来た、灰色の使者だったのだ。

「君に殺意はあったのかい?」

私に役目を与えてくれた福沢君の声が響く。どうしてか、木戸の声にも似ているその鷹揚な響きが、私を些か冷静にする。やもりに声があったなら、或いは殺された彼が綺麗な爬虫類の外套を着こんだ人間だったとしたら、こんな声なんだろうと思われた。夢幻に顕れた関帝や楊貴妃のように、私は福沢君の幻影を使って非業の死を悲嘆するやもりと会話しているのかもしれない。

「ないよ、、。だって、私、やもりが好きだから」

「可愛いね。信じるよ」

初めて告白を受けた私の高校時代の輝かしい記憶から抜け出した福沢君が、窓辺に向って歩いていく。彼もまた眼鏡をかけていて、その奥は澄んだ瞳をしていた。瑞々しい若さの象徴たる髪は堅固な岩壁に現れた鉱石のように黒く、純白の学生服からは涼やかな匂いさえ漂ってくるみたいだった。時間の概念を超克した彼に相応しい、あの頃から変わらない美しさ。彼はしゃがんで、潰れたやもりの頭を拾った。

「じゃあ誰がこいつを殺したんだろう?」

彼は私の方を見ないで掌のやもりを見ているようだった。それか、彼は自分の掌を見ていたのかもしれない。自分の掌を凝視していると早く死ぬという迷信があるけれど、彼にその猶予もなかったことを想えば、可哀想なことをした。彼はあまりに突然に死を迎えた。私と出逢わなければ、彼は頭を潰されることなどなかったのに。私の偶然が彼を死に至らしめたのだ。

「偶然、、なの。私が月や森のざわめきを聴きたいと思ったから、、窓を開けて、やもりは殺されたの。偶然に殺されたの。私は、無実」

「司法はそう判断したね。どんなに賢い人間も、その本質までは見抜けないものさ」

「違うわ。私はやもりを殺そうなんてしなかった。福沢君ならわかるでしょ?第一、接点があまりに稀薄。愛することも憎むことも出来ないよ」

「可愛いね。信じるよ。僕はつまり偶然に死んだんだね」

「そう。骸になれば寂しくないわ。だって貴方はもうだから」

ふと柔らかい感触があって、掌をみれば、潰れたやもりが眠っていた。福沢君はもう居なかった。私は溜息をついて、綺麗な彼の下半身を探さなきゃいけないと思った。



 アパートから近くの公園までの道すがら、私は偶然という不思議で憐れな現象について考えてみた。錆びた十三階段が音を立てて軋むのがいつも悩みの種だったけど、空想途上の今日の私には、そんなことどうでも良かった。偶然というのは奇蹟だとか運だとかよく別の言葉でも表されるけど、私は偶然と聞けばこんな経験を思い出す。高校受験の時。私はある公立の進学校を志望していた。私は国語と英語と社会に頗る強くて、中学の頃の数学と理科ならなんとか理解出来たから、その進学校も合格可能圏内だった。入試三日前、塾で勉強していたら珍しく猛吹雪になった。ちょうど家の車は修理に出していて、結局私一人で帰宅しなきゃいけなかったんだけど、そのおかげもあって私は風邪気味なまま入試を受けた。けれど、というかまあ当然なんだけど私は本領を発揮できずに苦戦を強いられた。最終の国語の試験の時だった。現代文の選択肢問題で、私は二択を迫られた。絶え間ないくしゃみが私の明晰な思考回路を忽ち混乱させ、あろうことか試験終了三十秒前に私は答えを書き変えてしまったのだ。私は不合格だった。そして私は得点開示であの国語の問題を書き変えなければ合格していたのだと知った。私は不本意に入学した私立高校で福沢君と出逢った。

 彼は誰よりも聡明な人間だった。艶やかで清廉な黒髪、背も長身できっちりと着こなした学生服の純白は彼の象徴だった。そして吃驚するほど端整な顔立ちをしていた。けれど木戸と同じように間違えて私を好きになったのだった。私が彼を拒絶した時、雨に濡れた子犬のように虚ろに寂しそうに私を見つめる彼は可哀想だった。

「私もよく分からないんだけど聴いてほしいの、福沢君。貴方は素敵な人。賢くて、些細なことにも気がついて、私を何度も助けてくれた優しい人。でも、それは人間のしぐさなの。だから、ごめんなさい」

私はそう言って彼を拒絶した。どうして彼を好きになれなかったのか、私には分からなかった。偶然のおつきあいなんていう発想は、この頃の私にはなかった。誰か一方の愛さえあれば恋愛は成立するのだという仮説もなかった。試してみる勇気もなかった。放課後の校庭を逃げながら、私の瞳からは涙が流れていた。どうして私は泣いていたんだろう?それはきっと、雨が降っていたからだ。樹々の翠が風に震えて雫を落とすのが、決して泣いているわけじゃないように。は人間を愛さない。

 数日後、私の大切にしまっておいたあんパンをお母さんに食べられて、仕方なしにコンビニに買い物に出た時のこと。近くの路地で二人の男女が仲睦まじげに自転車をおしながら話していた。きらきらしていた。そしてその純白を認めたとき、気がつけば私は近くの垣根に隠れていた。福沢君は瑞々しい微笑を浮かべて、私よりもうんと綺麗な女の子がそばで朗らかに笑っていた。校章は同じだった。あの女の子は誰、誰、誰?どうみても彼女。私の胸を何か得体のしれない新鮮な感情が締めつけているのがわかった。私は早速買って来たあんパンを食みながら、二人の一部始終を見守った。あの女の子は偶然福沢君とつきあっただけの子。あの子に魅力なんてなくて、福沢君の心には一切干渉できないの。私とは違って。だってあの二人が結ばれたのは偶然だから。私が告白を拒否していなかったら、彼女はあんパンを食みながら私たちの下校を眺めていたはずだ。福沢君も福沢君である。そんなにころころ愛の対象を変えて、恥ずかしくないのだろうか。抑々私は福沢君のことが好きなの?違う、私はなの。誰からの愛も必要じゃないし、誰も愛さない新しい存在。けれど、けれど福沢君、貴方という住人に穿たれた穴は彼岸花でも挿して埋めないといけない。次の日は偶然にも雨で、自転車は使えなかった。仕方なしに電車で通学しようと思ったとき、ホーム上の絶え間ない雑踏に彼を発見した時は嬉しかった。私はきのうの彼女のことを問い詰めようと思って

「福沢君!」

彼は吃驚して私から逃れようと喧騒の渦の中を走った。まるで化け物でも見たかのような愕きように私は腹が立って彼のあとを追いかけた。そろそろ衣替えの季節で半袖姿の彼がおがめる頃だったが、彼はまだ全身すっぽり純白だった。

「待って!福沢君!福沢君!」

雑踏から声があがり、彼の姿が突然消失した。彼は勢い余って線路に落ちたのである。瞬刻の後、彼は特急列車に撥ねられて死んだ。私は多くの雑踏と同じように純白の制服が血潮に染まり、彼の聡明で美しい頭脳が耳目と一緒くたになって押し潰されて柘榴みたいになっているのをみた。肉塊から飛び出た眼球の濁りきった憎悪が辛うじて私にも判別できた。陥没した彼の頭蓋につやつやした淡い脳みそが薔薇のように咲き乱れていた。私は極度の疲労を感じて後ずさった。初夏の硬く無機的な地面にへたり込み、生命の投棄という汚辱にまみれた飴色の線路を早くなる鼓動が凝然と感知していた。私は怖ろしいまでに過呼吸になった。

「偶然、、なの。私が福沢君の声を聴きたいと思ったから、、貴方を呼んで、貴方は死んだの。偶然に殺されたの。私は、無実」

私は理性と意志が麻痺したように混濁し、明滅して徐々に狭まる視界の裡で、激しく鼓動が胸を破るように打つのを震える手で押さえながら、まるで幼児が失くした玩具を探すみたく虚ろに必死に、綺麗な彼の下半身を探さねばならないと思った。



 秋は突然終焉をつげて清冽な冬の夜空が遍く拡がって、怜悧をまとう無数の星々の綺羅を傅かせていた。けれど地上までその支配はいきわたらないらしい。現に雛罌粟は零れ落ちそうなくらいに鮮やかに公園を彩っていたし、草叢に紛れて松虫の声も元気だ。まるで人を愁殺する季節には思われないよね。寒くなるだろうと思ってストーブの類いを玄関に出しておいたのは間違いだったかもしれない。まあ、そんなことはどうでも良いのだ。私は大きなクヌギの樹の根っこに腰掛けて持って来たスコップで土を掘って潰れたやもりの頭とだらしなく弛緩した下半身を埋葬する。樹の下の土は茶褐色で湿った腐葉土の温もりがあった。たちまち小さな土の丘が出来上がり、穴ぼこのなかで蹲る彼の双眸はもう無かった。今朝彼が起きたとき、まさか自分が今日の深夜に悲劇的な末路を辿ってしまうということを考えただろうか。動物ならあるいは考えるかもしれない。けど、人間はどうだろう?熾烈な生存競争の喧騒から離れて、今日もあり明日もあることを信じて疑わない、卒然の死を忘却してしまった憐れな楽天家たち。近く死を約束された病人が時に看病してくれる家族や看護師に時に暴力的な振舞いをしてしまうのは、理性と想像力の氾濫にかき消された人間の本質たる動物の声なき聲なのかもしれない。それは偶然の脅迫でもある。人類の途方もない年月によって積み重ねられた叡智は、永らく自分たちに貢献してくれたと信じられてきた。私たち次世代の子供たちもその恩寵を享受していることは否めない。でも、そんなことはどうでも良いのだ。人類は、その智慧を生み出したのは自分自身だと信じ切っている。私はそれを疑わない人間をとても愚劣だと思う。旧約聖書の楽園追放の話において大切なのは、アダムとエバが禁忌であるはずの智慧の樹の林檎を食べてしまったことにあるんじゃない。なぜ智慧の樹は楽園にあったのか、何故神は彼らを誅殺せず、原罪を与えたのか。神様の真理を慮るなんていち庶民の私には出来かねることだけど、本当のことを隠すためにを隠れ蓑にする必要があったんじゃないかと思う。じゃあ、本当のことってなんだろう?その真理を表現するためには、或いはより高次元に至らなければならないのかもしれない。ドーキンスは惜しいところまで到達できたと思う。人間という存在に、明晰な意思なんてなくて、すべては利己的な遺伝子が人間という機械を操作した結果にすぎないという仮説。だがそれでもまだ足りないと思う。私は考える。身体を統括する遺伝子をも支配する偶然という現象が、この世界の真理ではないかと。

 福沢君はどうして死んでしまったのか。やもりはどうして死んでしまったのか。それは、偶然という事象に囲繞され、拉致監禁されたからだ。私にはみえる。数多の人間が螺旋を描く葡萄の蔦のように、偶然という摂理に雁字搦めされて悶え苦しむのが。それは死に至る病だ。時に神様は気まぐれに首を絞める蔦の力を強め、勢い余ってちょんぎってしまう。それが夭折とか早逝とか急死とか自殺とかいう人間の言葉に置き換えられて葬られてしまうのだ。すべては偶然による殺害なのに。偶然、偶然。入試直前に猛吹雪が起こった偶然。私が風邪をひいた偶然。私も彼も入試に落ちた偶然。くだらない地方の私立高校で同じクラスになった偶然。守谷昴を好きになった偶然。守谷昴に告白して振られた偶然、福沢英明の告白を振った偶然。別のずっとずっとずっと可愛い女の子にうつつを抜かした偶然、つきあい始めた偶然。お母さんが私のあんパンを食べた偶然。私がコンビニに買いに行こうとした偶然、私の前を大好きな彼女と横切った偶然。新しい感情が芽生えた偶然。雨の日だった偶然、二人とも電車で通学しようと思った偶然。ホームでばったりあった偶然、お話しようと呼びかけた偶然、守谷昴から逃れようとした偶然。転落した偶然、特急列車が通過して轢かれちゃった偶然。ほら、こんなに。私は思いつく限りの偶然を諳んじてみせ、まだ余裕はある穴ぼこにまき散らした。虚ろな穴の大半がやもりと福沢君の絢爛たるで埋まった。無実を証明した私はゆっくり立ち上がると大きく伸びをして、清々しい夜の大気を呼吸した。思い余ってあくびをこぼしてしまったくらいには気分が良かった。煙草でも吸おう。そう私は思い立つとポッケをまさぐって、ライターを落としてきたことに気がついた。



 今日は不運な一日だ。コンビニのライターは売り切れており、その隣に乱雑にマッチが積まれているだけだった。私はマッチを使うのが苦手だ。小学生の頃、実験している時に擦りかたが強すぎて何度も折った挙句、やっと頭薬に焔が灯ったまでは良かったが、炎の光芒が大きすぎるあまり愕いて投げ出して雑巾を燃やした過去がある。雑巾と共に私の中指も燃えて小さな水膨れができたのを思い出す。あれ以来マッチはトラウマだった。だが背に腹は代えられない。私の濁りきった肺臓は煙草を欲しているのだ。それに煙草はマッチの火で喫むのが美味しいらしいという迷信らしいものも聞いたことである。これもまた偶然なのだから従うに越したことはない。

 とはいえ私は大学生。マッチの光芒はあっけなくメビウスに吸われ、忽ち快い紫煙になって天空の螺鈿に昇った。あれほどの脅威を感じていた大きな光輝はもう無かった。私は紫煙を燻らせながら疎らになっていく街灯に沿ってアパートまで向かった。灰が点々と脱落していくのを私は心地よく眺めた。私自身を傀儡にして偶然が犯してきた罪の数々が剥がれ落ちて純粋になっていくような爽快感があった。それは一種の偶然への叛逆だ。未成年に煙草が禁じられているのは、肺臓に毒だからではなくて、背負わせた劫罰から逃れられないようにするためなんだろう。けれど私にはそんなは効かない。なんてったって、私は大学生なんだから。そんなことを思いながら何気なくアパートの十三階段を眺めて私は目を疑った。何か巨大な黒い影が重苦しくのぼっていった。気がつけば私は電柱の影に隠れてそいつの動向を窺っていた。三階、四階と、その不気味な人間は登っていく。微かにみえる眼鏡がアパートの淡い照明にきらきらしていた。私はどういうわけか、その影が私の部屋に向むかっているような気がした。何をしているの、私。逃げるの、はやく逃げるの。そう心の中で呟いておきながら、私は電柱にへばりついて動けず、緊張で呼吸さえ儘ならなかった。木戸はその背中に棒状の、斧かバールのようなものを背負って、ゆったりと十三階段を五階までのぼっていった。私はアパートの鉄柵に隠れて肩から上までしか見えない彼が私の部屋の前に立ったとき、自分の果てしない恐怖とは対照的に本能のようにアパートへ駆けだしていった。彼はきっと斧かバールで、家のドアをこじ開けようとするだろう。けれど私は鍵を掛けていなかった。やもりを弔って直ぐに帰るつもりだったから。しかし私はライターを落としちゃった所為で、コンビニに寄ってマッチを買うというに遭遇したのだった。何という偶然!もし私がマッチを買っていなかったら、或いは私が煙草を吸おうと思わなかったら、やもりを埋葬しようと思わなかったら、私は木戸に殺されていたかもしれない。身体中がまるで手負いの虎のように総毛だつ。興奮で息がはやくなった。マッチ箱を固く握りしめて私は一気に十三階段を駆け上がった。理性じゃない、悪魔の助けね!――硝子に映る私の顔は瑞々しく晴やかに笑っていた。この偶然は私を極度に元気づけた。私が反撃しなければならない。だって家を守ってくれるやもりは、もう居ないのだから。私は扉の前に立った。しんと静まり返っている。右隣の部屋は入居者募集中で、左隣の住人は海外旅行で居ない(嬉々としてハワイ旅行を自慢してきた隣の肥った大学生を私は想像する)。彼には憐れなことをするが、まあ、そんなことはどうでもいいのだ。

 予想通り木戸は扉が開かれたのを幸いにして、私の部屋を散々に荒らしていた。時折私の名前を呼んでいるのがわかった。私はそこに置かれていたストーブ用のガソリン容器の蓋を開いて、入口にゆっくりと垂らしていった。扉の向こうでは彼が哀切に駆られるような悲愴な声で私の名前を呼び続け、家具を破壊する音が響く。彼はこれからによって殺されることになる。筋書きは、失恋した腹いせに、彼女の部屋に放火して焼身自殺を図った憐れな男。その実は唯一の出口に零れたガソリンに買ってきたマッチが引火したことによる、焼死。窓からは逃げられない。守谷昴は五階に住んでいるんだからね。火災報知器は鳴ってくれないわ。なぜって、故障しているから。彼はきっと慌てて消火活動に勤しむだろう。けど、水道は止められてしまっているの。木戸君、貴方が恋した女の子は人間的生活に対しては極度にずぼらなのよ。夥しい絢爛を宿して焔はやがてかっと燃え上がり、敷き詰められた彼の手紙を燃料に彼はのみこまれてしまうだろう。恋焦がれた男に相応しい末路だと思わない?私はそっとマッチを擦った。空中を小さな光芒が放物線を描きながら落ちていくのを眺めながら私は祈るように呟いた。

「偶然、、なの。貴方が私に恋をして、振られちゃって、、やけになって貴方は死んだの。偶然に殺されたの。私は、無実」



ガソリンに引火して峻烈に爆ぜた焔が、右腕に罪の烙印を刻んだことを守谷昴は知らない。

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やもり 桑野健人 @Kogito

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