峠にて

川下まつり

峠にて

 四国の山道を走っていた。

 空港で借りた軽自動車はフロントガラスが狭く、体を前に倒さないと信号が見えない。一人きりの車内に、タイヤと路面が擦れる低い走行音が響いている。

 速度計の針を一定に保ち、直進する。

 行き先も目的も無い、走り続けるだけの旅である。

 

 その頃の僕は、ある一連の出来事と人生の鬱積によって傷ついており、今考えるとあまりまともな精神状態ではなかった。

 四国を訪れたのも、松山空港行きの航空券が安く手に入ったからで、殆ど衝動的なものだった。


 平日だからか車通りは少なく、時折対向車とすれ違う程度である。

 日が傾き、辺りは暗くなり始めている。そろそろ宿に向かわなければならない。

 

 峠道の長いカーブを抜けると、四方を畑と林に囲まれた十字路に出た。

 のどかな田舎道である。

 白線にあわせてブレーキを踏み、交差点のカーブミラーを覗き込む。

 右手側の曲がった道の奥から、何かがこちらに向かってくるのが見えた。

 トラクターかと思ったが、違和感があり、目を凝らす。

 

 それは、見知らぬ生き物であった。

 牛に似た体躯をしているが、背中が山のように盛り上がっている。

 日常の中で見る生き物としては大きく、異様であった。

 白く艶やかな皮膚が落日に照らされて光っている。

 黒々とした瞳が妙に目についた。

 その生き物には、四つの目があった。

 突き出た鼻の両脇に二つずつ、太い鼻筋に沿うようにして縦に並んでいる。

 瞬きを繰り返す瞼の下の瞳には、知性が宿っていた。

 太い四足を動かし、こちらに向かっている。

 

 僕は粟立つ肌を撫で、ゆっくりとアクセルを踏み、その場から走り去る。

 なるべく遠く、離れた場所へ。

 心臓の音が、耳の奥で響いていた。

 あれは、僕が見てはいけないモノであった。


 それが現実だったのか、正常ではない精神が見せた幻だったのか。

 何年も前の出来事であり、僕にはもう知る術がない。


 知らなくていいと、思っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

峠にて 川下まつり @kawashita

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ