警察に対する挑戦
森本 晃次
第1話 田舎の村
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年10月時点のものです。とにかく、このお話は、すべてがフィクションです。疑わしいことも含んでいますが、それをウソか本当かというのを考えるのは、読者の自由となります。
令和5年の10月のことであった。新聞を賑わすほどのおおけさなニュースではないが、ある神社で、人が殺されたということであった。
その神社というのは、昔から存在している神社というわけではない。比較的最近の神社で、作られたのは、明治時代だということで、そういう意味では珍しかった。
そもそも、この街は、もう少し広い範囲の中に村ができたので、その村のはずれに、神社が、
「鎮守」
ということでできていたたのだが、この村が、明治に入り、人口が都会から、結構移り住んできたことで、村が分割されることになった。
この辺りの村というと、昔から慣習として、
「一つの村に、一つの鎮守」
ということになったので、
「この村独自の鎮守」
というものを作らなければいけなくなったのだ。
「どうして、この村に人が流入してきたのか?」
というと、
明治初期というと、開国により、外国人が入ってきたことで、都心部に、
「外国人居留区」
というものができた。
それにより、外国人が必要とする会社であったり、工場が、特別に作られるようになったのだが、それが、田舎の方に建てられることになった。
そのせいもあって、都会から、日本人がその工場や、会社で働くことになるので、田舎部にも、人口が増えてきたということであった。
日本人であれば、村人も、それほど、入植に対しては、抵抗がなかった。
最初は、
「外国人を受け入れてほしい」
というような話であったが、
「それは、とんでもない話だ」
ということになった。
何しろ、開国から、十数年しか経っていない。ましてや、明治維新から、十数年という時期で、いくら、強行軍の改革が行われているとはいえ、まだまだ外国人に対しての、敷居は高かったのだ。
それはそうだろう。
以前は、
「取って食われる」
とまで言われた時代、
今の時代であっても、もし、宇宙人と遭遇し、彼らが地球人と交流を求めてきて、地球を代表する、例えば、
「国連」
のようなところが、
「宇宙間外交」
というものを、よしとしても、それはあくまでも、政府レベルで行われたことであって、庶民には、よくわからない世界である。
そんな宇宙に対して、国連が、
「地球への移民を認める」
といっても、そこに住んでいる地球人が、
「はい、そうですか」
といって、簡単に受け入れるであろうか?
何といっても、
「地球と、彼らの住んでいる星とでは、文化も違えば風俗も違う、それは、日本人と外国人の違いよりも、はるかに隔たりのあるものであろうが、明治時代においての、日本人が、外国人を見る目は、もっと厳しいものだったに違いない」
何しろ、
「鎖国政策」
というものをしていたのだ。
「地球の中に、日本があり、日本の外には、世界が存在していて、その世界という、地球の何十倍。いや、何百倍という広い土地が存在している」
ということは知っているとしても、その外には、何かが潜んでいるが、それがどんな連中なのか分かるはずもない。
同じ人間だという認識があるのか、それとも、
「違う種別の人間だ」
ということであったとして、
「その違いがどこまでなのか?」
ということが想像できるわけもない。
何しろ人間というと、ほとんど、日本人しか見たことがないのだ。
たぶん。最初にアメリカ人を見た人は、
「目が青いぞ」
と感じたことだろう。
その瞬間に、恐ろしくなって、
「絶対に、目を合わせてはいけない」
という。
だから、幕府が開国を認めたことで、他の藩であったり、朝廷の人間は、幕府に対して、
「弱腰だ」
ということになったのだ。
確かに、
「弱腰だ」
ということは感じたであろうが、それ以上に、
「あいつらは得たいが知れない」
ということで、恐ろしさで、どうしていいか分からないと考えるようになり、
「幕府を批判することで、その恐怖を少しでも、和らげよう」
と考えたのかも知れない。
「武士だって、相手が、日本人で、同じ武士だ」
ということであれば、覚悟をもって、戦に望むことができるだろうが、得体の知れない存在の生き物であれば、
「いかに戦っていいのか?」
ということが分からないので、相手がどんなものなのか分かっているから、戦って勝った時の論功行賞に望めるのであって、相手が何物なのか分からないとなると、自分の立ち位置が分からずに、途方に暮れることであろう。
考えてみれば、鎌倉時代に起こった、
「元寇」
というものを考えてみれば、分かることもあるというものだ。
そもそも、当時は、
「封建時代」(江戸時代もそうであるが)
封建制度というのは、
「ご恩と奉公」
というものの、バランスで成り立っているというもので、
「幕府が、土地を保証してくれるから、御家人たちは、幕府が戦を行う時、はせ参じることで、命を投げ出して戦う」
という、一種の、
「契約」
のようなものであった。
ただ、それは、あくまでも、相手の土地に乗り込んでいって、相手を占領し、自分の土地にすることで、配下の御家人に、
「土地」
という報酬を与えられるというものだ。
しかし、
「元寇」
の時は、相手の外国勢力が日本に攻めてきて、結果としては、苦戦をしたり、幸運が舞い込んだことで、運よく勝つことができた。
しかし、相手の土地に乗り込んでいって、土地を奪ったわけではない、日本を守るために、
「軍事費用」
というものを、借金をしてでも、かき集め、はせ参じてきた連中がいるのだった、
だが、この時の戦いは、
「攻めてきた相手から、日本という国を守る」
ということであった。
褒美となる土地もない、しかも、国防が自分のところの土地であれば、借金をすることのない。わざわざ遠くまで遠征をしてくるから、そうなったのだ。
関東から、九州まで、国防のため、自国を留守にして、命令とはいえ、はるばるやってきて、着陣したのだ。
当然、旅費も、滞在費も、自分で持つということになると、その土地にいるだけで、借金ということになる。
そうなると、
「いくら、外国の脅威を取り除いたとはいえ、結果として、自分たちの借金が増えた」
というだけのことになり、御家人とすれば、
「幕府への不満が、増すばかり」
ということになり、結果。
「鎌倉幕府の滅亡」
ということになったのだ。
そういう意味では、
「鎌倉幕府は、気の毒だった」
と言えなくもないだろう。
そういう意味では、江戸幕府も、その滅亡の発端が、
「黒船来航」
にあるとすれば、どこか、
「鎌倉幕府」
と同じ運命だと言えなくもないだろう。
江戸幕府がそうやって滅んだ後、中央集権国家である、
「大日本帝国」
というものができた。
「世界に追い付く」
ということで、それまでに無図ばされた不平等条約撤廃のために、明治政府は、議会や憲法を作り、
「国家の体制を整える」
ということで、
「立憲君主国」
を作り上げたのであった。
そんな時代が、明治の中盤から始まるのだが、ここの、
「鎮守」
というものが作られたのは、さらに少し前のことであった。
一応、明治新政府という形で、いろいろな改革が行われている中でのことなので、ある意味、
「混乱している国家」
といってもいいだろう、
基本的には、
「欧米の文化」
というのを受け入れる気風であったが、その中でも、
「日本古来の文化を守り続ける」
という発想も共存していた、
「だから、混乱が起こるのだ」
ということなのだろうが、その混乱を和らげるという政策も取られていた。
その一つが、
「海外との軋轢をなくす」
という意味もあるのか、
「一つの村や街に、一つの鎮守」
というものを建てる」
という考え方であった。
この村においては、そもそも、外国人の居留の問題と、工場という問題が絡んでいたので、彼らの母国から、建設費用の幾分かをもってもらえることになったので、建設に関しての混乱はなかったのだ。
ただ、だからといって、大きな社を建てるというわけにはいかない。
「村の規模にあった神社」
ということで、小さな神社に、社務所のこじんまりとしたものができたのだった。
戦前までは、この小さな神社が、話題を呼ぶということはなかった。
出征兵士が、
「奉納手形」
ということで、武運長久を願って、
「手形を奉納する」
ということが行われたということであるが、似たようなことをしている神社は少なくもなかったので、そのことで話題にんあるということはなかったのだ。
ただ、この神社で武運長久を願って、戦地に赴いた人の、復員率は、高かったということである。
この村の出身者が、比較的、激戦区に行かなかった人が多かったのが原因なのか、それとも、他に理由があるのかは分からないが、
「運よく」
という言葉が適切なのかどうか分からないが、生還率は高かったという。
しかも、田舎出身者ということで、復員してきてから、都心部のように、
「家をなくした」
あるいは、
「家族がしんでしまっていた」
などという悲惨なことはなかった。
空襲もほとんどなかったし、しかも、農村だったので、
「自給自足」
ができたということだ、
もちろん、極貧であったことに変わりないが、都会から、食料を求めてきた相手に、強く出られるくらいになっていたくらいだったのだ。
そんな時代から、
「もはや戦後ではない」
と言われる時代になると、今度は、都会が復興を果たしてくると、それまでいた住民がどんどん都会に出ていくようになった。
都会では、朝鮮戦争の特需などがあり、
「復興を早める好景気に沸いた」
ということであった。
当然、工場で働く人は多い方がいい。そういうことになると、どんどん、田舎から出稼ぎということで、都会に人が集まるようになる、
当然、住宅の建設ラッシュなどがあり、インフラも整備されていくと、人が都会に集まるというのは当たり前のことだった。
「いや、都会に集まるというよりも、元々、都会にいた人たちが、住めるところができたので、戻っていく」
ということであろう。
しかし、昔の焼け野原になる前の街並みとはまったく違い。鉄筋コンクリートの家などが、どんどんできたり、
「高速道路」
や、
「新幹線」
などというものが開通するまでに、
「終戦から、20年も経っていない」
ということであった。
戦争が終わり、焼け野原からの復興で、好景気に沸く日本であったが、田舎の方では、そんな都会とは、
「温度差」
であったり、
「空気の流れ」
というのが違うのか、特に都会では、その後の社会問題となる、
「公害問題」
「汚職問題」
などという、社会問題が湧き上がってきたが、田舎でも、そんな問題がないわけではなかった。
特に近くに大きな工場を持つところであったり、土地の買収に絡むこととしては、むしろ、都会よりも田舎の方が大きな問題になるのだった。
そんな田舎の街において、昭和の後半から、平成にかけてというと、
「いいこと」
や、
「悪いこと」
というのが、交互にやってきていたようだった。
特に、平和な時代になってくると、
「ブーム」
なるものがあり、それが、
「十数年おきくらいにやってくる」
と言われているので、その、
「いい、悪い」
のバランスは、その、
「ブーム」
というものによるものだったのではないだろうか。
この神社には、十年おきくらいに、
「落ちない神社」
という都市伝説のようなものがあり、
「ここで祈願をすれば、合格できる」
というウワサが、どこからともなく生まれてきた。
というのは、
「戦争中における、生存率が高かったということが、どこかから噂になり。最初のブームの火付け役になった」
というのは、聞いたことがある、
その頃になると、まだ、
「受験戦争」
というところまではなかったが、政府がそろそろ、国民の学力の低さというものを、
「憂慮し始めた時期だった」
といってもいいだろう。
受験戦争というものが、どうして起こったのかというと、当時の日本は、まるで、明治時代のように、復興というのが、明治時代にあった、
「不平等条約改正」
のために行った、
「殖産興業」
あるいは、
「富国強兵」
というものに似ているのではないだろうか?
復興することで、独立国家としての、再出発。それを世界に知らしめる意味での、
「東京オリンピック」
であったり、
「大阪万博」
というものではなかったか、
それを考えると、明治時代であれば、
「富国強兵」
であったものが、今度は、
「平和国家」
においての、
「強兵」
ということで、求められるのが、
「頭脳集団」
ということであった。
世界に通用する頭脳が、当時の日本では、まだまだ不足していた。そこで、
「教育の抜本的な見直し」
というものが考えられるようになったのだ。
だから、中高一貫教育であったり、大学への入学レベルを上げるということであったり日本において、
「どれだけの頭脳を持った子供を、大人の世界に送り出すか」
ということが大きな問題だったのだ。
だから、小学生の頃から勉強をさせ、
「いい高校に入って、いい大学に入って、いい会社に入る」
というのが、目標になってきたのだ。
以前の日本は、
「銀行や、金融機関というのは、潰れない」
という神話がまかり通っていた。
そういうこともあるので、
「いい会社にさえ入っていれば、安泰だ」
ということであった。
日本の企業を支えていたものが、
「終身雇用」
と、
「年功序列」
ということであったというのも、当たり前のことであろう。
その頃は、子供の教育問題は、
「世界に通用するような頭脳集団を揃える」
ということであっただろう。
だから、
「いい大学に入る」
ということを目標にした、
「受験戦争」
と呼ばれるものが生まれてきたのだ。
それが、
「中学受験から、大学受験までの間に、存在しているもので、受験戦争というものが、その後におよぼした影響が、どんどん形を変えて、今の教育問題となってきているということは間違いない」
というのは、受験戦争によって起こったのは、一つは、
「落ちこぼれ問題」
であった。
これには二つあり、一つは、
「中学校において、秀才グループを合格させるために、教育のほとんどを、秀才グループに置いて教えると、成績の悪い人はついてこれない」
ということになり、落ちこぼれが、生まれてくるというものである。
そして、もう一つは、
「高校受験で、優秀な生徒が、優秀な学校に入った時、それまでの中学時代であれば、クラスでも、トップクラスだったことで、有頂天になるのだろうが、実際に、、進学校と呼ばれるところに入れば、今までと違って、レベルが、どこになるか分からない」
ということである。
そもそも、
「入学レベルはギリギリ」
と言われる学校に、何とか入学できれば、普通なら、
「よくがんばった」
ということであろうが、
実際に、入学してみると、まわりは、普通に自分よりもレベルの高い連中ばかりである。
受験というののが、、模擬試験のようなもので、レベルを図るだけの目的であれば、なおさら目標を高くおいていても問題ないが、それが受験となると、今度は、
「自分よりもレベルが高い」
と目されている連中の中に放り込まれるのである。
「今までは、中学校では、優等生の秀才と目されていた自分が、高校生になったとたん、下から数えた方がいいくらいになってしまっていて、学校の授業についていけないという、
落ちこぼれ」
ということになってしまうのだ。
それを考えると、
「最初から、無理をしなければよかった」
ということになり、よくよく考えると、
「落ちこぼれという問題は、受験戦争があっても、なくても、存在するのではないだろうか?」
それは、皆が同じレベルではないわけで、教育者が、その教育方針を、
「優等生に合わせるか?」
あるいは、
「劣等生に合わせるか」
という違いなだけである。
「もし、優等生に合わせると、その先生の票かは高いかも知れないが、それはあくまでも、落ちこぼれあっての成果ということになる」
しかし、
「劣等生に合わせると、落ちこぼれは作らないでもいいかも知れないが、自分の票かは最悪であり、教育者としては、劣等の評価をされるという皮肉なことになるのではないだろうか」
「落ちこぼれ問題」
や、
「校内暴力」
などという問題が社会問題になっていた時期に、テレビドラマ化されたものの中に、
「腐ったミカンの法則」
なる言葉があった。
それは、
「雄当選の中に、一人での、劣等生がいれば、その劣等生の影響で、優等生が皆劣等生になってしまう」
というもので、
「腐ったミカンが一つでもあると、他のきれいなミカンもすべて汚染され、すべてがダメになるので、その前にm腐ったミカンを排除する」
というやり方であった、
つまりは、
「基本は、優等生に合わせる」
ということであり、
「劣等生を優等生の中に入れるということは、優秀なミカンの中に、腐ったミカンを入れるのと同じで、してはいけないことだ」
という教育方針から、結局、
「落ちこぼれは見捨てられる」
ということになり、
「それが、教育方針ではいけない」
という警鐘を鳴らす、そんなドラマであった。
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