第3話 神社の死体

「自費出版社の社会問題」

 というものが、問題になっていたが、その時に、

「にわか作家」

 と呼ばれていた。

 いわゆる、

「あわやくば、作家になれるかも?」

 という考えの人たちは、

「実際には、そんなに世の中甘くはない」

 ということを知ると、続々と、

「小説家になる」

 というような夢を捨てていくのだった。

「小説家としてデビューすることがどれほど難しいか?」

 というのを思い知ったということであろうが、

「それよりも、他の楽しい趣味を探した方がいい」

 という、それこそ、

「にわか」

 だったということであろうか。

 そういう意味では、

「小説界隈」

 と呼ばれるところに残ったのは、

「元々、小説が好きで、何があろうと、小説家になろう」

 と思って頑張っている人か、

「ただの趣味で、文章を書くのが好きだという人」

 の、大まかに分けると、その二つになるのではないだろうか?

 それでも、まだ、

「小説家になりたい」

 と思っている人も若干数はいるようで、中には、

「紙ベースにこだわらず、ネット配信でもいい」

 と考えるようになったアマチュア作家が、

「投稿サイト」

 と呼ばれるところに掲載し、そこで、販売したり、

「最初は無料で」

 というところから始めて、いろいろな作品を仕上げるようになったいくのだった。

「趣味で小説を書いている」

 という人には、

「無料投稿サイト」

 というのはありがたかった。

 自分が書いた作品を、不特定多数の人間に見てもらおうと思ったら、今までであれば、書籍化しないといけなかった。もちろん、

「ブログ」

 や、

「ホームページ」

 というものを、自分で作成し、そこで、公開するという方法もあったのだが、その時代はとっくに過ぎていて、自費出版社の社会問題が起こった後は、すでに、

「無料投稿サイト」

 というものが、主流になっていたのだ。

 裏を返せば、

「自費出版で懲りた人で、まだ小説を書くということに興味のあった人は、ここでの、無料という言葉に惹かれて、流れてきていた」

 のである。

 これは当然の流れであり、そのおかげで、ネット書籍というのが、脚光を浴びてきたのだ。

 やはり、人に見られて、見てくれる人が多くなり、その数が、まるで、その作品の評価のように感じられると、

「たくさんの読者を増やしたい」

 と思うようになり、それが、SNSというものを繋がって、

「自分というものを宣伝する」

 という意味で、ネットは、実に効果的だった。

 そんなこともあって、

「小説を書く」

 というだけではなく、

「自己宣伝」

 つまり、

「ブランディング」

 というものが必要だということになるのであった。

 そのあたりになると、ネットの世界の話で、SNSの利用ということになるのだろうが、作家になりたいと思っている人は、あらゆる方法を使って、自分を宣伝しているのではないだろうか。

 もちろん、昔ながらの、

「新人賞募集」

 という、オーソドックスな方法を辞めるということはしない。

「いい作品が書けた」

 あるいは、

「最初から新人賞に応募するために書いた」

 という作品を、推敲を重ね、新人賞に奥部するということになるだろう。

 それと同時に、

「無料投稿サイト」

 を使っての、作品公開。

 もちろん、まだ結果の出ていない応募作品を発表はできないが、応募予定のない、あるいは落選した作品を、公開することは、著作権が自分にある以上、いくらでもできるというものである。

 そういう意味で、新人賞への応募作品の合格祈願として、この神社を訪れる人は多いのであった。

 最初は、バブルがはじけたことからであったので、

「自費出版系の会社」

 が、頭角を現してきた頃だっただろう。

 今では、様相がだいぶ変わってきてはいるが、だからといって、

「新人賞応募」

 というのが色あせるわけではない。

 それこそ、

「小説家になるという目的のための、王道だ」

 といってもいいだろう。

 それが、小説家を目指す人が通る、登竜門だといってもいいだろう。

 そんな、入賞祈願ということで、ここは、

「いろいろな合格祈願」

 というものでにぎわっていたのだ。

 そもそも、実際の進学などの合格祈願は、頭打ちというか、少しずつ減ってきている。社会情勢が変わってきたわけではない。確かに、

「ゆとり教育」

 などというのが出てきたのは本当であるが、問題は、そこではなく、

「隣町の鎮守」

 というのが、元々の合格祈願だったということで、そっちに流れた。

 いわゆる、

「元の鞘におさまった」

 といってもいいだろう。

 隣町の鎮守」

 が、一時期、こっちの神社に映ったのは、

「新しいジャンルとして、自費出版的の会社が出てきたことで、新しい神社の方がご利益があるのではないか?」

 ということで、行ってみると、

「戦時中に、生還率が高かった」

 ということが、クローズアップされるようになって、こちらに増えてきたのだった。

 しかし、

「自費出版の会社が、詐欺集団だった」

 ということになると、新しいからといって飛びついた祈願であったが、さすがに、隣町の方に流れたのだった、

 隣町は、元々からの、

「合格祈願の鎮守」

 ということもあり、初もうでだけではなく、受験シーズンや、それ以外でも、観光として人が、コンスタントに集まっていたのだった、

 しかし、減ったとはいえ、この街に後からできた神社は、参拝客が、まだ結構いたのだった、

 最初は、気にならなかったが、そのうちに、

「なんか、外人が多いような気がするな」

 ということを言われ出したのだ。

「ああ、確かに外人が多いような気がする」

 といっていたのだが、皆、それだけに、不思議に感じていたのだ。

 この神社での、

「ご利益」

 というと、

「戦争に出征した兵士の生存率」

 くらいのものだった。

 もちろん、

「奉納手形」

 というものを納めているから、

「そのご利益だ」

 といってしまえば、それまでなのだが、この神社を訪れるのが、

「東南アジア系の人間たちだ」

 ということが、気になるところであった。

 というのも、

 東南アジアというと、戦争では、名目として、

「大東亜共栄圏」

 というものを掲げ、

「欧米列強の職人地を化している、東アジアを解放し、そこに新しい秩序を建設し、独自の地域制で、共栄を目指す」

 という考え方であった。

 しかし、実際の東アジア諸国からすれば、

「日本こそ、侵略者だ」

 という、間違った認識を持っている人が多かったことで、日本に対しての認識は、最悪だったはずだ、

 ただ、若い人からすれば、

「それと観光は別だということになるのか、実際に、観光地へ来る客は少なくない」

 しかし、ここは、以前から比べれば、めっきりと観光客が減っているのだ。そんなところに、観光客が来るというのは、おかしなものだった。

 そんなところに、ある日のこと、早朝、静かな町を揺るがす大事件が発生したのであった。

 この街は、前述のように、

「村の時代に、街を分割された」

 というところであった。

 ということは、実際には、大きな村が、人口の流入で小さくなったのだが、面積からすれば、隣村の方が大きかった。実際に、こっちの村には、

「狭い範囲に人が密集した」

 というところで、さらに、おかしなところは、

「この村が、接しているのは、元々一緒だった、分割した村」

 ということだったのだ。

 この村は、別に海に面しているわけではないので、おかしいと思うのは当たり前のことで、どうしてなのかということが分かったとしても、にわかにその事情を理解できるわけはないのだった。

 というのは、

「この村は、元々の村と、完全に分割した、

「東西」

「南北」

 と言ったハッキリとした形ではなく、まるで、

「マトリョシカ人形」

 のように、隣村とは言っていながら、それは便宜上のことであり、実際には、

「自分たちの村のまわりを囲んでいる形の村」

 ということで、いわゆる、

「ドーナツ型」

 をしているのであり、この村は、

「ドーナツの穴」

 というものであったのだ、

 だから、この村に入ってくるには、隣村から、一本の道を通して、そこからだけしか出入りできないようになっていたのだった。

 そういう意味では、

「実に珍しい」

 という村で、この村に侵入するための道も、実は私道だったのだ。。

 元々の所有は、隣村のものであるが、それを、

「村が買う」

 という形になったのだ。

 その方が、お互いに、損はないし、道を通してあげているという方にも、面目がたつというものであった。

 実は、

「こんな歪な町がある」

 ということで、世界的にも、こういう珍しいところを探して歩いている人には、

「まず、知らない人はいないだろう」

 ということで、観光客が結構やってくるということになったのだった。

 それを考えると、

「なっるほど、それだけでも、外国の観光客が多いわけだ」

 ということなのだが、そのわりに、日本の客はほとんどいない、

 というのも、日本では、基本的に、こういう街の存在をあまり、公にしたくないという風潮がある。

「この村と関係のない世界の人たちは、別に構わないだろうが、このような形にしてしまうと、例の私道というものが、トラブルの種になる」

 ということが慣例的になるということであった。

 だから、日本では、

「なるべく、こういう街の存在というものを、隠しておきたい」

 ということで、観光ブックに敢えて乗せるようなことをせず、ひそかな秘密ということにしておいたのだった。

 そんな村の中にある、私道というところから出てきて、この街に入ったところのすぐ裏に、

「この街の鎮守」

 というものが存在するのであった。

 ちなみに、私道と呼ばれているその道は、

「隣町の管轄ではない」

 ということは、当たり前のことである。

 だから私道の方から、この鎮守に入ることができる道がある、この私道に、また別の支道があるとすれば、この鎮守に入るこの道だけであろう。

 この支道の方に入る人は、それこそ、この神社の関係者くらいのものであろう。しかし、最近では、他にこの支道を利用している人がいる、それは、

「警察官」

 であった。

 この街に一つだけある、いわゆる、

「派出所」

 というところで、パトロールをしている警官が、自転車で走り抜けるには、ちょうどいいところであった。

 というのも、この支道は、車が入ってこれない。

 そして、ここは、

「神社の私道」

 でもあるのだ、

 そういう意味で、この街には、

「村時代からの、私道」

 というものが結構あり、

「村人だから」

 ということで許されている道を走る人もいるが、そのほとんどは、所有者しか使わない道になっていた。

 だから、一つのところが私道を宣言すれば。他の道を、その人の私道としてしまわないといけなくなる。

 そういう意味で、

「この街の細い道は、ほとんどが、私道となっている」

 といってもおかしくはないということであった。

 そんな鎮守へつながる

「私道」

 を、朝、パトロールに、いつものように出かけていた警官が、通りかかった時、

「その日、初めて、その道を通る人」

 ということであった。

 秋めいては来たが、木々はまだまだ緑色に覆われていて、木々の間から、かすかに漏れてくる、木漏れ日に、

「まだ暑いよな」

 と、警官に感じさせるのであった。

 そのわりに、この辺りは、落ち葉がたくさん残っている、

「春には、掃除したはずなのに」

 と警官がそう思ったのは、

「この街では、毎年、春頃にンあると、道に残る落ち葉を掃除するという習慣がある」

 というのだ。

 他の私道は、その持ち主がやるのだが、鎮守に関しては、街の人も協力するようにしている。

「いつもお世話になっていますからね」 

 ということを、街の人はいうのだが、それも、

「小さな町ならではの、心遣い」

 ということであり、その分、神社からのお返しというのも、なくはないのだった。

 形は毎回違うが、

「なんでこんなことを?」

 というようなこともあり、きっと、他の街の人間には、分かるはずのないというものであった。

 それを考えると、

「すでに、枯れ葉という落ち葉は、なくなっていなければいけないのに、神社に続く道だけは、なぜか毎年残っているのだ」

 ということであった。

「まるで、万年雪のようだ」

 というのが、神社の人間であったり、警官の共通下思いだったのだ。

 ただ、一つ言えるのは、

「この道のまわりの木々は、いつも、緑が多いような気がする」

 ということであった。

 だから、落ち葉の季節から、冬というと、期間が結構短く、しかも、冬の期間は、ほとんど雪が積もっていて、

「まるで、万年雪のようだ」

 というのは、落ち葉だけではなく、本当に、この道は、どこから見ても、

「万年雪」

 という発想から逃れられないというものであった。

 万年雪というのは、

「富士山の上にあるようなもの」 

 というものを想像し、中には、

「キレイなものだ」

 と思っている人も多いだろう。

 実際、

「雪というものは、実際にはきれいなのだろうが、それは、遠くから見ているだけで、その場所に行ってみると、土にまみれたりして、溶けかかっているような雪は、べたべたになっていて、決してきれいとはいえない」

 ということになるであろう。

 秋に限らず、この道は、雪のない時期に、乾燥していることはまずない。

 道はいつも濡れていて、粘土質になったような地面は、滑りやすくなっていて、自転車では結構きついところであった。

 慣れているはずの警官も、恐ろしいのか、ここを通る時は自転車に乗らずに、押して歩いているのであった。

 そんな、湿気を帯びた危ない道ではあったが、朝、そこを通り過ぎる時は、それほど危ないところではなかったのだ。

 というのも、

「道を歩いていると、ちょうど、朝日の木漏れ日が出てくるので、危ないといえば危ないが、慣れていることで、大丈夫なんだ」

 と、警官は思っていた。

 だから警官でなければ、この時間に、この道を通ることはないだろうと思っていたのだが、その日は、何やら、叢のところから、誰かが飛び出してきたのか、それこそ、黒い影が目の前をすっと走っていった。

「こんなところに、あんなに走ったら、危ないはずなのに、よく大丈夫だな」

 と警官は感じた。

 何しろ、見えている道も、木漏れ日と、粘土質の道が、濡れて光っているので、遠近化がまともに取れない道ということで、

「走るなど、もってのほか」

 ということである。

 しかも、今言ったように、粘土質なのだから、ただでさえ転びやすいのに、それを苦も無く通り過ぎていくのは、

「よほど誰も知らないところで練習をして熟知しているのか?」

 それとも、

「天性の才能のようなものがあって、通る時に大丈夫だといえるのではないだろうか?」:

 ということを考えると、

「あの男何者だろう?」

 と考えるよりも前に、

「自分が知っている人物なのではないか?」

 と考えるのであった。

 そのまま、同じように、警官が走り去る男を追いかけようとしたが、警官の方が足を取られそうで危なかった。その男は、警官がいることを分かっていながら、一直線で、支道を走り抜ける。

 走り抜けたその先にあるのは、支道の入り口。そこまでくれば、圧倒的に逃げ道は、安易な道だったのであろう。

 男は逃げた先まで、何とかして、追いかけた警官だったが、案の定、逃げられていた。

  道の向こうには、もう姿形もなく、

「忽然と消えた」

 とはまさにその通りであった。

 しかし、警官としては、

「どうせ、結果は分かっていた」

 というくらいに、その先に見えたはずの男の姿が、最初は、

「忘れるものか」

 と思っていたはずなのに、まったく意識しないようになっているのであった。

 警官は、出口のところで、しばし立ち止まって、まわりを見たが、見つかるわけもない。そして次に考えたことは、

「あの男。ここで何をしていたんだろう?」

 ということを感じると、急に怖くなったと言えばいいのか、その男を最初に見つけた場所に、

「何かのヒントがあるだろう」

 ということで、戻ってみることにした。

 今度は追いかけているわけではないので、急いでいく必要などないと思い、ゆっくりと歩いていると、例の男が、また戻ってきたかのように思ったが、

「それは、まったくの勘違いである」

 と感じたはずなのに、何かしら、影が、スーッと走りぬけたような気がしたのだ。

「誰だ。そこにいるのは」

 と、無駄だと思いながらも声を出してみた。

 木霊が道を駆け抜けたようで、向こうに誰かいれば、びっくりさせてしまうレベルであろう。

 だから、声を抑えたつもりだったが、実際には、結構な大きな声だったようで、

「こんなに、大きな声になっているなんて」

 と、思っていたが、それは、やはり、ここの場所の湿気が、余計に低音を響かせる効果があるのではないだろうか?

「低音と低温」

 それぞれに、意識させるものがあるのであろう。

 ひんやりとした状態で、汗を掻いていると、あっという間に身体が冷えてくるのを感じる。思わずくしゃみが出てみたりするのだが、ひんやりした状態で、今度は暑さを取り戻そうとするのか、身体の芯から熱くなるのを感じてくるのだ。

 だから、汗は出ても、すぐに乾いてしまう、潮っ気が、身体にへばりついてしまうのか、さらに身体が熱くなり。このまわりの湿気とのバランスが微妙にまずいのか、熱くなってくるのを抑えることができないのであった。

 そのうちに身体が震えてくるのであったが、その日は、そんなことはなかった。

 震える身体をさすりながら歩いていると、警官は、男が出てきたところまで、やっとたどり着いたのだ。

 思わず、

「どっこいしょ」

 と口走ってしまいそうになったのは、男を追いかけるのに、途中で手放してしまった自転車を抱え上げたからだった。

「ああ、どうしても、そういう声が聞こえてしまうんだ」

 と感じることであった。

 目の前にいたであろう男の姿を想像すると、

「男が何をしていたのか?」

 あるいは、

「何をしようとしていたのか?」

 それぞれに、自分が分からなくなっているのであった。

 といっても、

「さっきの男は幻だったのではないか?」

 と、思い始めたのだった。

「幻だ」

 と思えば思うほど、

「ウソだ」

 ということで、打ち消そうとするのだった。そこにいた男が幻だったかどうかは別にして、目の前に飛び込んできたものこそ、

「幻であってほしいのに」

 と感じるのであった。

 男が、隠れようとしたその時、ちょうどその時に、警官が通りかかったのではないだろうか?

 と、警官は、その時、誰かがいたような気がしたのだが、気のせいであろうか。

 目の前に横たわっているもの、それが、

「死体だ」

 と感じたのは、横たわっているその物体は、

「肉体の一部では?」

 と感じたこと、さらに、その表面から、真っ赤な鮮血が滴っていたのを見た時、ゾッとしたのと同様に、

「これを見せるために、あの男は、幻となって現れたのではないか?」

 という、

「まるで、何かの使者のように感じさせられたのだ」

 ここでも、

「使者と死者」

 同じ音で別の意味、

「同音異義語」

 とは、まさにこのことであろう。

 同音異義語ということであるが、似たような言葉もあるというもので、

「異」

 というのと、

「違」

 ということ、よく似ていると思うのだが、実は

「まったく違う意味だからこそ、違う字を相手に別の発想を抱かせるんだということになるだろう」

 そんなことを考えていると、死体が、まるで、

「ボンレスハムのように、ぶくぶく膨れ上がっていたのは、

「死後硬直の後だからだろうか?」

 と、膨れ上がりが、最初なのか、後なのかということが分からずに、その意識は、どこかに飛んでいるのであった。

 鮮血は途中で止まっているので、寒さで異常に早く膠着したのではないかと考えたのだった。


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