出続けた人

ぽんぽん丸

利き手の人差し指の先から

祖父は蛇口を捻って洗面台に静かに落ちる1本の流れを作った。自分の左手の人差し指の付け根の辺りに当てて指先に流れるようにした。それから何度か調整を加えてから納得がいって水流をそのままにしてどいて、私に「ほら、利き手で同じようにしてごらん」と祖父は言った。小さな私は子供用の台に上って言われた通りにすると静かな水流は私の人差し指を伝った。祖父は蛇口に慎重に手を置いて私の指のサイズに合わせて微調整をした。蛇口を僅かに動かす祖父の目は孫との交流の様子ではなかった。キッと食い入るように私の指先を伝う水流を見ていた。大人の真剣な表情を初めて見たように思う。納得がいったようで祖父は蛇口から手を離した。


「こんな感じだ。おじいちゃんは覚えてる限りずっとこんな感覚がしているんだ」


私は祖父の目を見てすごく大切なことなのだと思い、小さな指先を伝う細い水流を微動だにせずに凝視して聞いた。


「学校に行っても、ご飯を食べても、お風呂に入っていても、寝ている時に夢の中でも右手の人差し指から何かが出ている感覚がしたんだ」


後ろから見ていた祖父は私の肩に手を置いた。暖かい手だった。それから屈んで私に目線を合わせて私の手を伝う水流を一緒になってみた。


「今だけはおそろいだ」


私は祖父の顔を見た。子供の時分にはどういう顔なのかわからなかったが、優しい顔に見えた。だけど今思い返すとその表情のまま涙を流してもおかしくないような、すこし寂しそうな表情にも思える。


祖父は真面目な人だった。なので嘘偽りなく指先から何かが出続けている感覚を持っていたのだと思う。


「布団がぬれたりしないの?プールの時はどんな感じなの?ぎゅってしたら止まるの?」

「よく気が付くかしこい良い子だね。1つづつしか答えられないけどー


祖父の指先から出ている何かは液体状で重力に従って落ちていく感覚があるそうだ。だけどもちろん目には見えないし例えばグラスに人差し指を差し込んで一杯になるくらいに注いでもなにも無い。手で触っても感触はない。口をつけても飲み干すこともできない。確かに空のグラス。水の中でも、手袋をしても、地面に押し付けても、止血するように縛っても、指先から出続けている感覚があるそうだ。


「恥ずかしいから他の人には内緒だよ」


私は祖父の不思議な秘密が好きだった。プリキュアは今でも楽しいけど子供のために作られた話だから違う。祖父は人生について話してくれた。そのデティールの細部に触れる時に私は初めて人を知った。


「おじいちゃんも若い頃があったんだ。初めておばあさんに触れたのは

「右手の人差し指!」


どの話も出続けている指が主役だった。車や一人暮らしの家に鍵を差し込んだ時。大学の試験用紙を受け取る時。祖父はだいたいの物に右手の人差し指から触れていたから、人生のどんな話も出続けている指から始まる。私はおかしくって何でも聞いた。おばあちゃんや父親はその度にまた変な話をしてと言ったが私は好きだった。


「小学校まではみんなに話してたんだ。指先から出続けているって。みんな笑ったり興味を持ってたくさん話を聞いてくれたよ。でも中学生になってからかわれるようになってね。それから秘密にしているんだ」


私を膝の上に乗せてそんな風にいろいろなことを教えてくれた。


もうすぐ中学生になる春休みに祖父は他界した。


急に倒れたという知らせをうけて仕事で遅れる父を待たずに母と病床へ向かった。私は祖父が見たいと言っていたけど、なんだか恥ずかしくてまだ着ていなかった中学校の制服で向かった。


祖父はもう目も開かなくて私の制服姿を見ることはなかった。声をかけても祖父に繋がれた心電図の音が一定のリズムで無機質に返ってくるだけだった。私は仕方なく祖父の右手の人差し指を握った。きっとその時も出続けていたのだと思う。


私は子供の時分に大人としっかりと会話をしたことは祖父以外にない。私は子供で相手は大人だったけど、祖父は1人の人として私と会話をしていた。そんな気がする。


祖父は孤独だったのかもしれない。自分が確かに感じることを誰もきちんと聞いてくれないから。私は祖父の孤独を埋めることができた。また私はそうしながらすごく幸せだった。


我が子を前にして私は祖父のことをよく思い出す。言葉が伝わるようになったら1人の孤独を抱えた人間として正直に接してもいいのかもしれない。祖父のようなおかしさを一緒にして。愛情はそうやって生まれるのかもしれない。


よく泣く我が子に辟易しながら、小さな右手の人差し指を握ってみる。この子も指先から出続けていたらいいのになと思う。私はおじいちゃんのおかげで変な親になれたのだった。

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出続けた人 ぽんぽん丸 @mukuponpon

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