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 三連の立派な動輪が連なった、約束の場所にたどり着くと、私は腕時計を確認した。時刻は19時42分。約束の時間より少し早過ぎるくらいなのは、どこか逸る気持ちがあるからだろうか。私はいつかと同じように、広々とした東京駅の地下の周囲を見渡した。


 東京駅の待ち合わせスポットといえば改札の中にある地下一階の銀の鈴が有名だが、改札外なら、この動輪の広場だろう。喫煙者を煙を吹き出す蒸気機関車に#準__なぞら__#えたものか、ここに移設される前は丸の内の地下北口にあり、喫煙所として利用されていた。


 今は広々とした地下の学生待合所を示すシンボルになっている。夕方過ぎには修学旅行から帰ってくる多くの学生や迎えに来た家族の団体客に出会でくわすこともあるのだが、今は丸の内の夜を満喫するビジネスパーソンや旅客達が、広い空間を各々が右往左往に、縦横無尽に行き交っていた。


 この広場からは地下鉄丸ノ内線や地下鉄大手町駅にある東西線、半蔵門線に千代田線、都営三田線へのアクセスも可能でJR京葉線や丸ビルの地下や新丸ビルへも続いている。いわば、ここは地下通路の交差点である。地下といえどターミナルの直下であるから、かなり広大で東京の地下はやはり迷路のように感じる。


 2014年3月31日の夜である。再びの動輪の広場で、私はいつかと同じように西園寺と待ち合わせすることにした。世間的には彼は名誉の負傷で絶対安静の身であるだけに、即日退院して最初の外出が夜のショットバーなどと聞かされた日には、マスコミや市民から非難の集中砲火を浴びそうなものだが、そこは宮仕えの公務員の一人であり、いくら英雄的な行動であろうと市民に奉仕するのが義務であり、その顔は多くの警察官と同様に、法に忠実で無個性なものに置き換わるのが常で、世間に面が割れる心配は少なそうである。


 どうやら警察組織による身内への箝口令は徹底されており、警察病院からの退院手続きは思った以上にスムーズで、丸の内警察署が誇る英雄の帰還は人知れずひっそりと成され、速やかに集中治療室を明け渡すことが出来た。


 西園寺はさすがに白の上下では目立つので、今夜はシックなビジネス用のスーツに着替えてきていた。私は日中は自分の編集部へ差し入れを届けたり、記者仲間への復帰の挨拶廻りに奔走したりしていたが、いつかと同じスーツで彼と合流することができた。


「こんな夜じゃないと出歩けない上に、公務員への報酬は名誉のみだなんて、英雄には生きづらい国だね」


 私は半ば冗談めかしてそう言った。西園寺は苦笑いを浮かべた。


「よせよ。棚からぼた餅を拾っただけの犬が、猿芝居で英雄扱いなんざ、痒すぎてケツから血が出そうだ。気の知れた仲間と酒が飲めるのが一番のご褒美よ」


 私は苦笑して、彼らしい言葉に納得した。


「そうだね。しかし、たかが三日ぶりなのに屋内に閉じこもってると、こうして外を出歩くのが、ずいぶんと久しぶりに感じるよ」


「違いねぇ。心底美味い酒を味わいたいなら、人生一度は生きるか死ぬかを味わうのも悪くないかもな」


 一頻り軽口を叩き合うと、私たちは今夜の目的地へ向かうことに集中した。


 美波の様子を思えば、二人ともお互いにまだ煮え切らない思いはあったが、何かを決断した故の強さというか、何も恐れない図々しさもあり、私達は腹を括っていた。私達は地下通路を通って近在のオフィスビルの中にあるハスターを目指した。街の雑踏を背に、しばしの静寂を求めるようにして足を進める。


 いつかと同じように地上の丸の内二丁目へと出ると、夜の光がビルのガラス越しに反射する場所に出た。夜の丸の内のイルミネーションは、宝石のような上品な温もりを帯びていた。私達は目的のオフィスビルにたどり着くと、地下のレストランゾーンへと向かった。


 馴染みのショットバーへと向かう途中、エレベーター横のバリアフリーの配慮がされた通路を通ると、初めてここを訪れた日のことが頭をよぎる。地階はB4Fまであり、地下二階には会員制のレストランがある。


 西園寺と私は、例によってオフィスビルの下層を奥へ奥へと進んでいった。白を貴重とした落ち着きのあるレストランゾーンの最奥。ひっそりと佇むように、その店はある。


 やがて目的のドアに辿り着いた。その入口はいつもと同じような雰囲気で、今日も静かに私たちを迎えているようだった。


“huster”。それは、かのH.Pラヴクラフトのクトゥルフ神話に出てくる、暴風を司る邪神の名前である。一見していつもと変わらない、シックで落ち着いた木製のクラシカルなドア。そして、そばにエレベーター。始めの頃は身障者向けの配慮が普通に為されている辺り、なかなか粋なものだと感じたが、考えてみればそれも当然であったのだと、今ならそう思える。


 入口の木製ドアを開けると小気味のよいベルの音が地下の闇に響き渡り、目の前の暗がりには階段がある。店はちょうど中二階の位置にあり、童心に帰って洞窟探検に赴くようなワクワク感がある。その暗がりは階下へと続き、奥にある篝火のような明かりが灯る、温かい空間へと訪れる客達を誘うのだ。


 階段の暗がりに私達の足音が響く。建材のオーク材の足音が響く演出と共に、私達は地下へと降りた。


 店内に入ると、巨大な魚影が私達の前を横切った。もちろん実際に水槽が目の前にある訳もなく、薄暗い深海の生物の映像をひたすら映しているだけの大きなスクリーンである。唐突に映像が切り替わる上に、注釈にほんの少しの間、名前が出るだけなので相変わらず心臓に悪い。


 例によって今夜もひたすら深海の光景が映し出されており、ヨコヅナイワシと名前だけが表示された。クトゥルフ神話の神々を深海の生物に見立てたであろう、ちょっと変わった演出が、この店の持ち味なのだ。


 駿河湾で発見された、このヨコヅナイワシはイワシと名前がつくものの、マイワシやカタクチイワシなどの、いわゆるイワシ(ニシン目ニシン科・カタクチイワシ科)とはまったく別のグループに属する魚で、6体しか発見されていない上に最大の個体は全長250cm以上に達し、水深2000m以深に棲息する深海固有種で、硬骨魚類としては世界最大であることが明らかになった魚らしい。上下の顎に発達した歯列、比較的小さな頭部と目に大きな口。そして近縁種よりも鱗の列数が多いのが最大の特徴で、駿河湾の頂点捕食者トッププレデターである可能性まで示唆されている。


 一見すると本当にグロテスクと思える過剰で大袈裟な演出なのだが、このちょっとしたサプライズも演出のうちだと後から知った。ストルフ効果と類似性の法則だと美波は言っていた。


 人は他と明らかに違うものは記憶に残りやすく、自分と共通点があるとその対象に親しみを感じやすくなるのだそうで、人からかけ離れた存在ほど愛着を覚えると、より他にない親密感が沸くそうだ。


 これは世界中に散らばる神々や邪神や悪神、妖怪や怪異譚に登場する様々な事象にも共通点がありそうだ。


「相変わらず気持ち悪いなぁ。これを見る度に俺はアイツの言葉を思い出すぜ」


「そうだね。美波さんが嬉しそうに話してたもんね」


 なんで深海の生き物ってのは揃いも揃って気持ち悪いんだろうな、という西園寺が何気なく問いかけた時のことだった。美波はそれは大変いい質問ですね、と例によって蘊蓄うんちくを語ってくれたのだ。彼女の言葉を思い出して私は言った。


「深海は水圧が高く、植物プランクトンが育たず餌が少なく、光も少なく、上層とかけ離れた特殊環境だから。これにより、光が少ない上層の深海魚は目が巨大化するか、管状目と言って望遠鏡のようになったり上向きになる。光がない下層の深海魚は目が退化する。いずれにせよ人間にとって見た目が気持ち悪い」


 私の言葉を受けて、今度は西園寺が言った。


「餌が少ないため、捕食魚は極力なるべく移動せず、取れるときは最大限大きな餌を取るように進化している。口が大きく、牙は鋭く獲物を逃さないようになっている。体の何倍もの餌を飲み込める伸縮式の胃袋を持っていたり、ゆっくり待つ事に特化した生き物が多く、流線型でなく、平たかったり目立たない形をしていたり。いずれの形も人間にとって気持ちが悪い」


「筋肉をなるべく使わず移動でき、浮力を高めるため、筋肉が少なく脂肪を多く含み、ぐにゃぐにゃした体をしている。これも人間にとっては動きが気持ちが悪い」


 私と西園寺は彼女の大袈裟な講義を思い出して笑った。覚えているものである。


「中深層の深海魚では、体表面の銀化という擬態色を持つものが多いが、メタリックで生物からかけ離れた印象になる。深くなるとほぼ暗色になる。熱帯魚に代表される色とりどりの綺麗さ、可憐さや可愛さはまったくない。発光するものも多いが、およそ不気味な色合いで発光する異形……化け物ばかり」


「哀れ人に捕獲されると、急激な水圧変化で浮き袋が膨れ上がるなどグロテスクな変形がなされ、それが元の姿だと誤解されている場合がある。ミツクリザメも普段は格納されている上唇が引き出された、凶悪な顔つきが知られているが、普段の姿ではない」


 美醜を比べることなど、深海の生き物の前にはまったく無意味だろう。闇の中で進化した独自の生態系は、未知の世界を覗くような好奇心へと人を誘う。深海はおそらく、あの世に最も近い場所なのだ。


 彼岸に憧れ、彼岸を覗こうとする者は、いつだって此岸にいる者だ。深き水中にいる者達は、陸にいる者達を気にかけはしない。


 生き物はいつだって素直なのだ。偽りなく、今を生きる為に生きている。彼らからすれば、人間の方がよほど異形というものだろう。


 店内に入ると、すぐに私たちはバーカウンターで陽気に笑う老人に目を引かれた。彼の声は既に酒に酔っているようで、見知らぬ我々にすぐさま声を掛けてきた。


「よければ一杯付き合ってもらえんか? 今夜はこれで最後にする! うひゃひゃひゃ!」


 老人は大声で笑いながら言った。西園寺がそっと私に目配せをしてから、老人に向かって、


「すまねぇな、爺さん。お互いゆっくりオールドパルでも煽りながら醜い浮き世を忘れて、この情けねぇ若者達の愚痴の一つも聞いてもらいてぇとこで、普段なら喜んで相手をするんだが、今夜はちょっと用があってな。またの機会にしようぜ。悪いんだが今夜は……」


 と軽く断った。しかし、老人はまだ諦める様子もなく食い下がった。


「ほっほぉ、今まさに修羅場を潜り抜けてきたような精悍な顔つきといい、情けない若者達などとは思わんがのぉ。こんなイケメン二人が用事とは何事かね? この歳になると、世間話の一つでも聞けると嬉しいんじゃがの」


 老人は笑いながら言葉を返した。


 彼の周りには既に数人の常連らしき客が、彼の話に花を咲かせており、彼の社交的な性格が伺えた。それにしても、初対面の我々にこれほどまでに話しかけてくるとは、彼なりの寂しさがあるのかもしれない。


 カウンターの席に座った老人の頬は既に真っ赤で、若干血走ってぼんやりしたような皺に埋もれた目元が完全に座っており、カウンターに座った老齢ながらも長身なその身体は、左に右にと振れていて、見た目にもかなり危なっかしい。身なりは立派なスーツ姿だが、これが駅やショッピングエリアなら、警備員が飛んできそうな酔客ではある。初対面の我々にも遠慮なく話しかけ、呂律が回っていないところを見ても、既に相当量のアルコールを摂取しているようである。


 ただ、この手の酔客は悪戯に無視や強硬な態度など取ってしまうと却って危険だ。高齢者なら尚更である。気が大きく怖いものなしになっているこの種の手合いは、なるべく刺激しないよう、笑顔で適当にあしらうに限る。とはいえ、苦言を呈するにしてもやんわりと受け答えするべきだろう。私も西園寺と同じように、老人にできるだけやんわりと伝えることにした。


「すみません、お爺さん。今夜は僕らは大事な話をしていて。その仕事に関わる話をしていたもので……。その、すみませんがここは……」


 儂が気に入らんというのなら、と言って老人は顎を引き、私を牽制した。


「足の不自由な……手負いの獣の話でもしようかね?」


 西園寺と私はその言葉に、思わず腰を浮かせかけた。その時、店の中にいた数人の男女が一斉に立ち上がり、老人の背後から二つの黒い人影がすっと老人を守るように老人の左右に立ちはだかった。


「お前らは……あの時の……!」


 詰め寄ろうと素早く立ち上がろうとした西園寺を、片手で待てとでもいうように片方の背の高い髭面の男が制した。私達も知っているところの髭面のバーテンダーで黒田という男だった。もう一人の野性味のある赤川と呼ばれていた若い男の動きを、この時、私は見逃さなかった。


 彼は西園寺と私が警戒する間もなく、既に懐に手を入れていた。速い。あの時の光景が生々しく目に焼き付いていた私は、迂闊にも、相棒を守るより先に、金縛りにあったように動けなかった。


 この人に近付くな。強面の二人と周囲の視線は、まぎれもなくそう言っていた。正に蛇に睨まれた蛙の心境である。私はそれだけで動けなかった。


 小粋なジャズの調べだけが、今さらのように十年一日のごとく店内に流れている中、私は視線だけを動かして店内をくまなく確認していた。そうせざるを得なかった。なぜなら、ここは既に私達の知る、ゆったりと時間が流れる大人の空間などではないと気づいたからだ。


 そうなのだ。後ろの二人は、まぎれもなくこの店でよく見かけるバーテンダーの二人で間違いなかったからなのだ。それにしても迂闊というよりない。入口の方からも私達に既に視線を向けている客達がいる。


 なぜ気付かなかった。囲まれている。


 迂闊だった。私は愕然としていた。


 ここは最初から、敵の城だった。


 ここがシックな夜のショットバーだろうと傍らに何人の客がいようとも、この二人は己の職務に忠実な男達のようだ。周囲の客達も同様だろう。己が主の為なら、躊躇いなく私達でも手にかけるであろう、圧倒的な凄みがその沈黙にあった。


 私は呆然と立ち尽くす他なかった。期せずして三日前は私達を助けてくれたとはいえ、あの状態の美波を気絶させ、尚且つ拐うほどの腕前を持つ、得体の知れない男達なのだということを改めて実感し、私は慄然とした。情けない話だが、この状況に頭が真っ白になっていた。西園寺はじりじりと私の盾になるべく気遣いつつも、警戒感たっぷりに憎々しげに老人を睨み付けている。


 返す返すも迂闊だった。ハスターは入口側のテーブル席は広いがカウンター席は奥にあり、奥に行くほど狭くなるのだ。袋小路の鼠の状態である。いや、それは正確ではない。あの犯人の言葉を借りるなら、私達は最初から敵の用意した檻の中にいたのである。


 それにしても、この老人……一体、何者だろう? それに後ろのバーテンダーの二人や周囲の客達もだ。ハスターの従業員や常連のビジネスマン達というだけではなさそうで、おそらく彼らには別の顔がある。そしてこれもおそらくだが、それは八割方、美波に関係しているだろうということだ。


 この事件の間に幾度となく姿を現してきた、この怪しげな黒ずくめの二人。この老人の専属のボディーガードなのだろうか? 身辺警護の資格を持つ警備会社の人間かSPなのだろうか? 動けない私達を解放した時のあの手際の鮮やかさといい、あの状態の美波ですら呆気なく気絶させて瞬く間もなく拐かすなど、考えてみればとんでもない連中な訳で、相当な手練れのはずだ。


 そして、この老人だ。


 酩酊して左右に振れていたかと思えば、今や私達を値踏みするかのように見つめてくる射るようなその目は、まるで獲物の動向を注意深く伺う老練な猛禽類のようである。よくよく見れば、その眼光は恐ろしく鋭い。それは酔客の持つ、どこか追い詰められた小動物のような虚勢を張るだけの、脆い危うさの持つ輝きではない。誰がどのような動きをしようとも無駄だという余裕さえ窺わせる。


 このバーテンダーの二人といい、後ろに控えているこの怪しげな老人といい、只者ではない。左右の二人の顔はまぎれもなくハスターの赤川と黒田の二人で間違いない。だが、明らかに動きが堅気のそれではないのだ。暴力団という言葉が瞬間、私の頭を掠めた。


 私達の間で交わされたこの一連のやり取りは、時間にしてほんの数秒の間であった。私と西園寺の警戒心は真犯人とのやり取りや現実的な命の危険を通したことで今や極限の緊張状態にあり、息苦しい互いの沈黙と一触即発の状態も相まって、こちらの出方によっては即座に命のやり取りにまで発展しそうな勢いであった。


 私はこの時、始めて心の底から人間を怖いと思った。恐怖した。背後のない人間などいないのだ。闇の穴はそこかしこに開けている。私は愚かにもあまりにも無自覚で無力だった。人間がいる限り都会の闇は、いつだって、どこにだって存在しているというのに。


 閉ざされた檻の中で、獰猛な獣同士の暴力と死体から噴き出した血の噎せ返るような匂いにあてられ、麻痺するほどに酔った感覚だった。


 人の仮面を脱ぎ捨てた者達の獣の檻で供されるのは、匂い立つ血の酒と飛沫が吹き出す寸前の真っ赤な肉がもたらす狂気の宴だ。それは、あらゆる酔いとは無縁であり、血に飢えた獣達だけが知る濃密にして芳醇な芳香と極上の味に違いない。血に人は狂喜する。暴力は人を歓ばせる。獣となった人間に酒など似合わない。獣はむしろ血の匂いに酔うのだ。


 私は己の足元に広がる底深い闇にただただ慄然としていた。私達に安全な居場所など、実はどこにもないではないか。都会のコンクリートジャングルは、その多くが人の醜い素顔を隠す為の仮面であり、それは多くが人の善意と思い込みだけで、安全という幻想が成り立っているだけなのだ。今さらだが人は皆、獣だ。己の身が危機に陥れば、一皮剥けば、いつだって危うい獣性をさらけ出す。それは犯罪とて同じことなのだ。我々が真に恐れるべきは、我々の内側にある獣なのだ。


 探偵と犯罪者。秩序と混沌。闘争と狂気。僅かな刹那で、複雑に絡まり合う悪意と争いの一瞬で失われる命。そう、人の命が失われているのだ。命のやり取りを間近で目撃した経験というのは大きい。


「ほっほ……二人とも、警戒することはない」


 得体の知れない老紳士がパンパンと手を叩いた。その瞬間、場の緊張感は一気に解かれた。


「黒田、赤川。下がって飲み物でも用意せい。簡単なつまみもな。客人を怖がらせるでない。アレがいつも言っているだろう。この店は小さいながらもアレの城だ。そんな強面な態度でカウンターに立っていては、お客様に誠意ある接客などできんぞ」


 後ろの二人は互いに微笑み、ゆっくりと私達に向けて恭しく一礼した。見ると入口にいたサラリーマン達もスリップドレスを着た女達も今風の格好をした、馴染みの女性客三人も微笑んで、深々と私達に礼をする同じ動作をした。


 私と西園寺は正に、狐に摘ままれたような表情をしていたに違いない。訳が解らなかった。


「東城君に西園寺君だったな。いきなりだが、まずはお互いに自己紹介といこう。こちらに控えとる黒田と赤川の二人から事の経緯は窺っておる。度重なる無礼は全て儂の責任だ。混乱するのも無理からんこと。まったく……。この二人といい美波といい、一体誰に似たのか、とにかく、まだまだ気持ちに余裕がないのだな。堅物で真面目すぎるのはいかんぞ。ついでに君らもな」


 皆も座って楽しみなさい、と老人が言うと、店には元通りの夜の喧騒がやってきた。


「なんともまぁ、今回は災難なことだった。儂らがこんな形で出会ったのも、まぁ運命というべきなんだろうかなぁ……」


 老人は軽く一礼すると、にっこりと微笑んだ。


「はじめまして、片桐清史郎といいます。いつも孫の美波が世話になっております」


「ま、孫? え? えぇ! じゃ、じゃあ美波さんの……」


「片桐清史郎? Sってそういうことかよ! おいおい、マジかよ……。あの片桐清史郎? あの財界の黒幕とも古狐ともいわれた片桐財閥の会長……じゃねぇのかよ……」


「ほっほ……。もう間もなく会長ではなくなるがね。暇を持て余しているだけの相談役など、肩書きだけでビジネスの世界では、何の役にも立たんでな。馬鹿な身内と笑ってやってくれ。儂とて人の親、アレのことになると黙っておれなくなる。特に二人には、一月の事件で美波とコンタクトをとっていた時から、もう話には聞いておったのでな……」


 暖かい照明の下で、私と西園寺が改めておずおずと自己紹介すると、私達は揃ってカウンター席に腰を下ろした。いつもの隅の席には、美波の代わりに老人が座った。片桐清史郎はスーツのジャケットを脱ぎ、黒田に向かって何やらオーダーしている。


 素早くワイシャツにサスペンダー姿のラフな格好になった清史郎氏は、こうした場にも慣れた様子で、フックにジャケットを掛け、席に落ち着いてネクタイを緩めると、ふうと息をついた。


 ショットバーの雰囲気は、先ほどとは打って変わって落ち着いた風景へと変わっていた。いつも通りのシックで静かなジャズが流れる中、周囲は何事もなかったようにリラックスした雰囲気になっていた。


 私達はいつもの定位置に座り、まずは様子を窺った。西園寺は軽く首を振りながらも、目を細めて老人を見つめている。隠れ家のような場所。一般の視線から完全に遮断されている席。いつもと同じ空間だったが、明らかにいつもとはシチュエーションが違っていた。


「何を話すべきか、考えただけで胃が痛くなるな」


 西園寺が小さく呟いた。私も頷き、何を話すべきなのか、どう反応していいのかさえわからない状況になり、心底から緊張を感じてきていた。


「もうオフの時間だよ。そう緊張せんでくれ」


 まるで私達の心を読んだように、彼はそう言った。こういう時に掴みや社交辞令は不要だ。私はまず思ったことを口にすることにした。


「まさか、会長が直々にお越しになるとは思いませんでした。その……例の山荘で犯人の一人から、美波さんは後ろ楯を失ったなどと聞かされたものですから……」


 私がそう言うと老人は少し表情を曇らせた。


「ああ、失ったな。家族全員の総意だ」


「やはり……そうですか……」


 私は深く落胆した。私達がそのきっかけを作ってしまったようなものである。


「東城君だったかな。確かに美波は色々と失ったが、得たものもたくさんあるぞ。たとえば、今日からこの店は、オーナーが変わったばかりでな。君達のような友人が、たくさん訪れる店になるといいんだがね」


「は? まさか、美波が、ここの、オーナーに?」


「え? 家族に絶縁されたのではなかったのですか?」


「美波を全力で守る。それが家族全員の総意さ」


 驚いた私と西園寺に向け、老人はニヤリと笑った。


「東城君に西園寺君、君らはまだまだ青いな。家族の絆とは、こういうものさ。無関係な世間がどう騒いだところで、壊れもせんし断絶などせんよ。経営者として世間に配慮した、厳しい判断をしたというだけのことさ。それに、これは美波の意志でもある。美波は君達の無事と引き換えに、連中との取引に応じた。身代金を用意して貰う代わりに、片桐家の今後の庇護を拒否したのさ。決して例の一味が策を弄して世間を欺いて流した、一方的な批判や中傷に靡いた訳ではないのだ」


 私と西園寺は再び顔を見合わせた。薄々はそうでないかと思っていた。


「見合いが破談になり、仕事も失い、住まいの部屋も引き払い、色々と失ったが、なぁに、この程度でへこたれてもらっては困る。アイツには、これからこの店のオーナー以外でも稼いでもらわんといかん。片桐グループとしては、関連企業の経営に際しては、今後は縁故による一族の代表採用などは一切しないと宣言したようなもの。非情な決断ではあるのだがね。ことビジネスとなれば、そこに迷いはないさ」


「それを聞いて安心しました。その決断には重い責任と苦渋が伴ったと思います。安心ついでに、これからもここに来ることにします」


「今以上に通うだけだよな。ひょっとして、アイツを迎える為のサプライズじゃねぇか? だったら前祝いに呼んでもらえたみたいで、何よりだぜ」


「ありがとう。まだ美波には内緒だがね。我々の今夜の出会いに、改めて感謝するとしよう」


 私と西園寺は微笑んで互いに顔を見合わせた。孫娘の時の事を話す、彼の僅かな表情の緩和の中に、厳しくも優しい経営者の顔を改めて感じ、安堵していた。


「まぁ、君達が孫の友人として気心の知れた人間だと分かったところで、まず一杯やろう。まだ乾杯という訳にはいかん雰囲気だがな。まずはホットのウィスキーでもどうかな? 暖まるし気分がほぐれるぞ。緊張感はいつでも適度がいい。長く続けば人とて簡単に壊れるでな」


「ありがてぇ! 会長には悪いが、俺も堅苦しいのは苦手でな。俺も素でやらせてもらうぜ。要は世間に対して筋を通したってことなんだよな?」


「左様。これが美波を守る最善の方法だったのだ。聞いて驚くがいい。全会一致だったよ」


「お待たせしました」


 そう言って黒田が三人分のグラスを用意してくれた。温かい湯気と共に香りの良い蒸気が立ち上っている。ホットでやるのが片桐会長の好みらしい。ウィスキーはホットにすると、より香りが強調されて引き立つ。鼻の奥まで通る豊かな香りが蒸気と共に立ち上り、飲めばたちどころに胃の腑が温まるリラックスが得られる。


 カウンターに置かれたのは竹鶴ピュアモルト17年だった。普段の私達なら、まず手が出ない高級なウィスキーである。ずいぶんと気を遣わせてしまっている。そういえば去る3月20日、ロンドンのウォルドーフ・ヒルトン・ホテルのウイスキーライヴ・ロンドン前夜祭にて、ワールド・ベスト・ウイスキー(WBW)が発表され、受賞したばかりの日本の名酒である。西園寺が小躍りしそうなテンションになったことは言うまでもない。


 バーのカウンターに座って三人の男達が、静かにグラスを掲げる。自分で言うのもおかしいが、それはなかなか味のある光景であった。年配の老人は白髪を綺麗に整え、その眼差しには深い知識と経験が滲み出ている。


 淡い暖色系の照明が照らす中、バーテンダーが手際よくホットウィスキーを注ぐ。琥珀色の液体が湯気を立て、柔らかな香りが周囲に広がる。グラスを手にした私達は暫しの間、言葉を交わすことなく、ただ互いの目を見つめた。


 この瞬間、何も語ることなく全てを理解しようとする時間がそこにあった。何もせずとも、グラスを交わして穏やかな時間を共有する。この何とも贅沢な時間が、無言の会話となるようだった。


 老人はゆっくりと微笑んだ。私達も同じように微笑みを返す。そして、三人は同時にグラスを口に運び、その香りと温かさを共有した。深い感動と共に喉を通るその味わいが、心にまで染み渡ってくるようだった。


 その時間が止まったかのような一瞬の後、私達は静かにグラスを置いた。そこには言葉では表せない理解と敬意が存在していた。共に盃を交わせば、舌も緊張も滑らかになると判断しての事だろう。私達は暫し、その温かい香りと腹の底からじんわりと温まる、生を実感できる喜びと彼らの優しさに酔いしれた。


「さて、こちらも紹介してもらわんとな」


 そう言って老人は手を挙げると、改めて私達の前に謎の黒服達を引き合わせてくれた。


「改めて自己紹介します。黒田祐介。年齢は32歳で片桐家の執事をしております。以後、どうぞ正式にお見知り置きください」


「同じく赤川瞬。年齢は33歳で同じく片桐家の執事。美波様の、いわゆるボディーガードと、こちらのバーテンダーを兼務しています。その節は大変に失礼致しました。改めて宜しくお願い致します」


 二人は改めてにこやかに礼をした。なんというべきだろうか。一分の隙もない、その立ち振る舞いは、腕っ節の強さから磨かれたのだと改めて感心した。


「どうせだ。数々の疑問に答える前に、アレも二人にお披露目するがいい」


 はい、と言って赤川は鈍色に輝く銀色の警棒を腰の辺りから取り出して振った。キン、という音と共に警棒が伸長した。


「あの時の警棒か……」


「ええ。お詫びついでに、こちらについても、きちんとご説明させていただきます」


 彼はそのまま今度は捧げ持つように縦に長く持つと、警棒の底部を叩いた。するとなんということだろう。微かな金属音と共に警棒の先がさらに細く、長くなった。それは完全に吹き矢の形状をしていた。コトリ、とカウンター上に細長い警棒、もとい吹き矢が置かれた。


「どうぞ。まずは実際に手に取って見てみてください。いずれお二人も、使うことになるやもしれませんので」


 半ば予言めいた物騒な物言いをする男である。吹き矢の横に、注射器に入れられた矢が置かれた。吹き矢はダートと呼ばれるダーツゲームに使われる矢のような形で、市販の注射器に薬品を装填して使うタイプのようだ。分かりやすく赤いフサフサした羽根が付いている。当然だが、今は薬品は装填されていないので注射器の中身の部分は空だった。西園寺は両手でそっと手に取ると、改めて全体の形状を繁々と確認していた。赤川が手で示した。


「北海道のとある財団では、檻で生け捕りにしたヒグマに首輪や耳タグを装着して、ヒグマの行動を追跡する調査を行っています。首輪や耳タグを装着するためには、檻の中で生け捕りにしたヒグマを麻酔で眠らせる必要があります。様々な方法がありますが、知床ではヒグマに麻酔をかける際に、吹き矢を使用します。吹き筒という細長い筒に薬剤を入れたダートを込めて、筒の片側から息を吹き入れて、その空気圧を使ってヒグマにむけてダートを勢いよく飛ばします。ダートが命中すると、ダート内の薬剤がヒグマの体内に注入される仕組みです」


「よく出来たシロモノだぜ。まさか警棒が吹き矢に一瞬で化けるとは、こりゃ盲点だった」


「アンボイナと名付けました」


「名前があんのかよ……」


「イモガイのことだね」


 アンボイナガイはイモガイの中で最強の毒を持つ貝である。唾液腺から槍のようなふんで毒を注入して自分より何倍も大きな魚でも痺れさせて食べてしまう。イモガイは海中で針を飛ばして獲物を仕留める。人間でも刺されれば死に至る事があるくらいで、沖縄ではハブガイとも呼ばれている。


 上品な見た目とは裏腹に、凶悪な一面がある。使い手の性格を反映しているのかもしれない。己の得物を詳らかに明かすなど、自分の身を危険に晒すようなものだが、我々を信頼するか誠意の証か謝罪の形と取るべきだろうか。いずれ、今回のような急迫不正の侵害への対処以外の目的には、まず使われないだろう。


「熊や鹿などの野生動物を動けなくするタイプの、あの吹き矢と同じなんですね?」


「ええ。世間に出回っている吹き矢と構造的には変わりありません。長さ91センチ、口径16ミリの金属製の筒を使い、約5メートルまで近づいて、鹿であれば太ももを狙って、管楽器を吹く要領で唇をすぼめ、呼気を強く吹き込むことで矢を発射します。矢が刺さると注射器内の麻酔薬がガス圧で針から押し出され、筋肉に浸透していく。麻酔薬は1本2・7ミリグラム。体重90キロのエゾシカだと15分ほどで麻酔が効いて動けなくなる量ですね。もちろん人間相手に使用する場合は、エゾシカと同じ成分の麻酔を使用するわけにいきません」


 私の質問に答えている間にカキッという音がして、吹き矢は元通りの警棒に戻っていた。まさに一瞬の早業である。この金属質の音の変化で形状を判別するよりない。とんでもない武器があったものである。彼は警棒を畳むと、己の左の腰のホルダーに差した。


「詳しい薬品の名前は明かせませんが、非常に即効性のある強力な神経毒を使用した麻酔薬です。ライセンスを持った相棒が拳銃まで使っておいて今さらですが、こちらはまだ開発段階の実験用で、真っ当な手段で製造された武器ではありません」


 近接と射撃の両方の形状を使い慣れている様子の赤川の口調に、私は思わずゾッとした。この武器の特性を誰よりも理解している証拠だろう。訓練しているのだ。


 原始的な武器ではあるものの、狙撃手の腕前によっては、これがどれほど恐ろしい精度を発揮する武器かは計り知れない。だが、本当に恐ろしいのは一瞬で警棒から変形した点である。そして、注射器の汎用性はきわめて高い。致死性の猛毒すら携帯し、発射することさえ可能というその一点において、これは脅威である。用途によっては暗殺さえ容易にする武器になりえるのである。


 近接戦と中距離攻撃の合わせ技に加え、秘匿性にも優れている。要人警護が一瞬で砂上の楼閣となった瞬間を目撃したような奇妙な興奮に、私はただ戦慄した。


「こんなのを隠し持ってたのかよ……。いや、隠して持ってた訳じゃねぇのか……」


「変形する武器……。仕掛け武器とでもいうのか。凄い、こんなものが実在するなんて……」


 今度は隣にいた黒田が警棒を取り出して鞘から抜くと柄の部分より下の底部を叩いた。キン、という音と共に、黒い皮のようなものが剥き出しになって、ネコ科の動物の尾を思わせる細長い物が地面に伸びた。


 なんということだろう。一瞬で鞭になっている。私と西園寺は揃って互いに瞳孔が開いた顔で、その奇妙な武器に釘付けになっていた。この武器の恐ろしさは既に見ている。美波が使っていた、あの鞭の警棒版である。これが黒田の得物なのだろうか。


「キロネックスと名付けました」


「殺人クラゲのことだね」


「物騒な名前ばかりかよ……。お前も妙な生き物に詳し過ぎだろ」


「美波さんから聞いたんだよ。危険な生物を敢えて名前にしたのは、武器を扱う者としての戒めじゃないかな」


 キロネックス・フレッケリは、和名をオーストラリアウンバチクラゲという。こちらも沖縄にはハブクラゲという近縁種がいる。通称キロネックスはかなり大型で、触手は最長で3メートルにも達することもあるクラゲである。数ある毒クラゲの中でも、その触手の長さからトップレベルで危険度が高く、実際に“殺人クラゲ”で検索すると真っ先に出てくるほど、かなり物騒な異名を持った危険生物である。


 加えて彼は凄腕の射撃の腕前も持っている。なるほど、この二人が組んで不意打ちという手段に出たら、徒党を組んだ銀政界の組員でさえ容易には勝てないだろう。美波の潜入とほぼ同時に、駐車場にいた銀政界の組員を奇襲して拘束したのは彼らだったのだ。並の腕前ではない。カキッという金属質の音と共に、黒田の鞭が警棒に戻った。


「〝騙し武器トリックウェポン〟。我々はギミックと呼んでいますが、これらの武器は一部でそう呼ばれています。美波様の車椅子や杖をご覧になりましたか? アレらと原理は同じです。わかりやすくいえば、パーツを換装したり変形する機能を持たせている」


「近接格闘用の特殊警棒が飛び道具の吹き矢に。錐状のアイスピックが長柄のエストックに、というように武器が化ける仕組みです。3Dプリンターやドローンが普及し、AIが戦争における戦術に使用されている今、かつて戦場で人間によって使われた剣や槍や弓などの原始的な武器は、こうした方向性へ進化している」


 他にも様々な形状を持った、ギミックが存在するのだろう。三人に共通して、いずれも非殺傷の武器を選んだところに今回の仕掛けの肝があるように感じた。


「暗器は身体のあらゆる部分に仕込んで使う訳ですが、このギミックは敢えて見せるところに使いどころがあります。隠す為には表面に出し、見せる為には陰に隠す。この心理的な仕組みを落とし込んだ物。我々の得物に限っていえば、見かけに騙されている相手には、非常に有効な手段になります」


 黒田と赤川が交互に説明してくれたが、私は未だに寒気がやまなかった。エストックと敢えて言ったが、ケースに入った見慣れたアイスピックが長柄の剣に変わるなど、こと暗殺という目的に使用する場合、その危険度は計り知れない。冴島紀子こと木下美千子が使っていた、あの獣の爪のような特殊な凶器と方向性としては何ら変わらない。しかし、それが武器というものである。


 躊躇なく相手を殺すのか、世間を欺くのか、誰かを守る為に使うのか。愛着を持って名を与え、訓練すれば使い手を守るだけでなく、強力無比な味方にもなる。結局のところ、武器は使う者次第なのだ。


「こうなった以上は、二人には包み隠さず全て話すべきなのじゃろうな……。事は殺人事件じゃ。西園寺君がいる以上、警察組織相手に隠し立てする訳にもいかんしの。君達にとってはアレの友人として。儂にとっては一族の呪われた血を最も色濃く継いでしまった者の身内としても、情報は共有しておくべきじゃろ……」


 片桐会長は再びグラスを煽ると、まるで物語でも始めるような口調で言った。


「畏れたまえ敬いたまえ。我ら血によって人となり、獣となりて、また人を失う。知らぬ者よ。かねて血を畏れたまえ……」


「それは、美波さんが言っていた……」


「あ、ああ。俺達がここでアイツと始めて出会った時の台詞じゃねぇか……」


「ほぉ、美波がそう言ったかね。左様、我が一族に古くから伝わる伝承の一節じゃ。祭事の祝詞にも少し似ておるがね。この平成の世の中も終わりが見えておる時期だというのに、こうして諳じてみると随分と大仰なことじゃの…」


「人と血と獣……美波のアレは遺伝的な形質だってのかよ?」


「獣の血を宿した血統、という意味にも聞こえますが……」


 西園寺と私の問いに老人はゆっくり頷いた。


「左様。我が片桐一族は、古くは大口真神おおくちのまかみを家神に奉じる一族だったということが、伝えられておっての」


「大口真神?」


「聖獣だよ。元々は日本に生息していた狼が神格化されたものといわれてる古い神様だね。万葉集にもその記述があるし、かの日本武尊やまとたけるが東征した際に現れた、白い狼が神様になったものだといわれてるね」


 大口真神は、麒麟や白沢などと同様に古来から聖獣として崇拝されてきた。また、猪や鹿から作物を守護するものとされ、人語を理解し、人間の性質を見分ける力を有し、善人を守護し、悪人を罰するものとして信仰された。また厄除け、特に火難や盗難から守る力が強いとされ、絵馬などにも描かれてきた。


 現在も埼玉県秩父地方の神社を中心に、狼が描かれた御札が頒布され、信仰を集めている。このすぐ南の武蔵御岳山上の武蔵御嶽神社には『日本書紀』の記述に基づく“おいぬ様”の伝説があり、日本武尊の東征の折、邪神が大鹿の姿で現れたのを野蒜で退治したが、その時に大山鳴動して霧に巻かれて道に迷ったのを、そこに忽然と白い狼が表れて道案内をして、無事に日本武尊軍を導いたので、尊は大口真神としてそこに留まるように、といったという。大口真神は江戸時代の天保年間の頃より盗難除け・魔物除けとしての信仰が盛んになった。


 私の説明に西園寺が頷いた。


「ああ、埼玉県にある神社には狼を神様として奉る神社があるってのは聞いたことあるな。聖獣を家神様として奉じる一族か。それが、美波のあの獣のような姿に何か関係していると?」


「うむ。日本には古来から、獣憑きの伝承というのはままある。憑き物筋というのは、多くが遺伝的な要因が強いとされ、富の盛衰などとも深く関わってきた。神と人と獣。その境というのは、多くが人の理解の及ぶ境涯にはない。時に人に牙を剥く。人の獣性とは業の深いものでの、獣の病とでも呼ぶしかない。美波にはそうした人ならぬ者を呼び覚ます獣の血が色濃く流れておる。それが二人が見た、あの状態だよ。人によっては神憑りと呼ぶ者もおるのだろうが、美波のあの姿は尋常な人の姿ではない」


 片桐会長はグラスを煽ると、大きく息をついた。


「けして人には非ず、人の世に馴染まず。血に飢えた人外の獣そのもの……。あの目を見ただろう? 到底、人ではない……。可愛い孫娘と思えば、本来なら目に入れても痛くないのじゃろうが、正直、儂とて美波のあの姿はおぞましいと思いこそすれ、愛おしいなどとは欠片も思えぬ。獣の病とは言い得て妙な、忌まわしき呪いが存在したものよ……」


「なぜ、身障者にあんなことが出来るんですか? 美波さんは自分の両足は、ギランバレー症候群だと言っていましたが……」


「うむ。脚の痺れが定期的に襲い掛かって立つことすらままならぬ。美波はそうした病にかかっておる。治せない病ではない。実際に既に病は完治しておる。日常生活に何ら支障を来すほどではないのだ。表向きは、だがね……」


「表向き? 実は歩けると? 身障者であるということが、実は嘘だったというのですか?」


「東城君、君も男なら女の嘘は受け入れてやるべきではないかね。そういきり立つでない。まぁ概ね嘘ではないというだけのことでな。美波は確かに障害を抱えてはいる。歩けないのではない。歩かないようにしているだけだ……」


「歩かないように……? それは……」


「言うまでもなかろう。ひとたび獣の血が目覚めれば、美波は人ではなくなる。尋常ならざる獣同然の力を得るという、超常現象としか思えないような病を抱えた身に、人の理屈など何が通じようか。それだけのこと……。確かに常軌を逸した話だよ。探偵小説なら、石礫の一つも飛んでくるところじゃろうな」


「しかし、あの姿は……。そう、アレはまるで何かが取り憑いたかのような……」


「いや。問題はそこじゃねぇぜ。美波のあの人間離れした恐ろしい身体能力の方が問題だ。今度こそ俺も、文字通りブッ飛んだ訳だが、ありゃ火事場の馬鹿力なんて生易しい代物なんかじゃねぇ。映画のアクションシーン並みに銃弾をかわして壁を蹴って、人間二人を素手でぶっ飛ばして、おまけに女の足をへし折って、片手で投げ飛ばすなんざ女の……いや、普通の人間に出来る芸当じゃねぇんだよ。東城、お前だから話す。俺はアレはな……正直な話、どんな犯罪者を相手にするよりも怖かった。相対した瞬間にわかった。殺意を漲らせた相手なら、まだ分かる。信じられるか? この俺がだぜ……? 脚の震えが止まらなかったんだよ……」


 それは私もあの時、感じたことだった。反射的に避けるとか弾丸の軌道を読むとか狙撃主の行動を予測し、遮蔽物などを盾にして回避行動をとるといった、人間なら当たり前にとる動きですらなかったのだ。


 そして、気づいたことがある。あの姿で感じたことをそのまま口にするならば。


「アレはそう、まるで獣の狩りのような……」


 獣は殺し合いはしない。狐が鶏を獲るのは喰うためで、殺すためではない。一方、鶏が抗うのは生きるためで、相手に殺されるためではない。獣は闘わずに済むのなら闘うことなどしないのだ。だから獣達は闘う前に逃げる。闘うのは、逃げ遅れた時と、喰うために相手を狩る時なのだ。


「気がついたかね? そう。アレは生物が生命の存続に対して取るであろう最も原始的な攻撃行動の一つだ。なぜ、ああなってしまうのか、なぜ、あんなことが出来てしまうのか皆目解らんのじゃよ。正に獣憑きの狂える所業としか……。怒った猫とて前足を張り、毛を逆立てて相手を威嚇したりもするが、アレはもう別物。美波のあの動きを見ただろう? あれこそ正に獣の狩りそのものよ。人が人を越えた先にあるものを言葉にするならば、それはもう狂った領域の業としか表現出来ないものだろう」


「ああ、ジイさんにゃ悪いが正直ゾッとしたぜ。俺はアイツと家が近所でな、電車の乗り降りだって何度か手助けしたこともある。普段のアイツは顔色一つ変えずにいるが、痺れがくれば歩いたりするのだって難儀なはずだぞ。何でそんな奴が、あんな動きを……」


「いや、驚いたけど、アレはあり得ないことじゃないよ。青森のイタコや沖縄のユタのように憑依現象というのは、本人の見た目も精神も身体能力や声の質まで大きく変わったりする。多重人格症は幼少期のトラウマが原因で人格形成期に別の人格に分かれたりする訳だけれど、その別人格に変われば、利き腕が右利きの人が左利きになったりもするし、肉体年齢ですら変わったりする。たとえ日常的に行っていない運動でも、違和感なく出来てしまう現象というのは実は僕らの身近にもあるんだ」


「そう。東城君といったかの…。臆病じゃが、君はなかなかに博学のようだな。西園寺君や、東城君の言うように、人狼症に憑依現象に多重人格症と実は科学的に説明のつかないことは何一つ起こってはおらんのじゃよ。火事場の馬鹿力などというが、生命の危機を感じた時には、人とて尋常でない力を発揮することもあろう。人としての箍が外れれば、そうしたことは普通にあり得るということだ。普通の人間には、もはや人ですらない姿に見えるがの……」


 私と西園寺は言葉を失っていた。老人はカウンターを見つめながら、語り続けた。


「三井や三菱のお膝元でもある、この丸の内で美波が働いておるというのも、考えてみれば不思議なことじゃのう……。今でこそ多くの企業を抱え、大きくなってしまった片桐財閥だが、昭和の初期まで我が家は筋金入りの女系の一族だった。信じられないことかも知れんが、女の仕置き人さえいたという記録もある」


「仕置き人?」


「死刑執行人のことだよ。罪人の首を一太刀ではねて介錯するアレさ。処刑人。今は三人の刑務官が同時にボタンを押して、床の穴から落とす絞首刑の仕事だね」


「この呪わしい血は、女にだけ遺伝するようでのう……。その昔はまじないだの祈祷だのも行っていたようだ。それがまたよく中ったのだそうでな。もちろん超常的な力に説明などつけられん。遺伝的な形質といってしまえば、それまでなのだがね……」


 私は絶句していた。信じ難い出来事が次々と裏付けられても尚、目の前に転がっている現実はあまりにも私の想像を越えていた。


「その病は突然に発症する。忌まわしき兆しがあるのだよ。初潮を過ぎた、我が一族の女だけに顕れる特別な兆しがな」


 私は一瞬でそれを察した。ウィッグの下から現れた、あの長い白髪こそが、あの超常現象のような姿の、何よりの根拠ではないかと何故か私は確信していた。


「まさか、美波さんの、あの髪は……」


「馬鹿げてる。そんなことがあり得るのか?」


「ある。厳然としてある。白不浄の鬼や白鬼びゃっきと我が一族はそう呼んでいる。何とも忌まわしき名ではないか……。この兆しの為に、我が一族が受け続けてきたのは神聖視と迫害と差別の歴史だ」


「黒不浄に赤不浄に白不浄というのは、神道の呼び名ですよね? 黒不浄は死を穢れとして扱う時の呼び名で白不浄というのは出産のこと。赤不浄というのは、女性の経血を含む出血のこと。神はこれらを忌み嫌うって聞いたことがあります。死ぬ為には生が必要で、出産は言うまでもなく命が誕生すること。人間の営みにとって根源的なものである、生命に関わることを白と黒と赤に分けた」


「待てよ、人間の誕生と死や女の生理を神様が忌み嫌うってのが意味がわからねぇぞ。不浄ってのは穢れってことだよな? 女人禁制とか神社にデカデカと札まで立ててあるの見たことあるぞ。女を穢れとは何事だってキャンキャン喚いてた奴を俺は知ってるぜ」


 西園寺の言葉に私は頭を振った。神道に限らず宗教上の教義は、実際にこうした誤解を受けることが多い。


「神道でいうところの穢れはイコール汚れのことじゃないよ。穢れは気枯れとも書き、気を消耗した状態の事さ。出産によって出血する事があるから、気力や体力を消耗した状態でのお参りは避けなさいって意味合いがある。山岳宗教でも山は聖域で女性の不浄を嫌うけど、こうした女人禁制ってのは本来、決定的な言葉が抜けてるんだよ。お前は特に命を産む大切な命だし修行する男が現世に執着する妨げになるから、入ってきちゃ駄目ってこと」


「うむ、神代の昔には神聖視された誕生を司る白不浄も時代が変われば、それらは穢れ……。神憑りも時代が下れば獣憑き。今なら気の狂れた病。白不浄の鬼である女達は囚われ、秘された。文字通りの座敷牢の囚われだよ」


「会長、兆しはまだあるのではないですか? そう、たとえば脚の痺れとか……」


「そう、四肢の痺れが止まらなくなる。美波の場合は17才。高校2年生の時にいきなりきた」


「それが、八年前の事件なんですね?」


「うむ……。目黒区にある片桐が管財人となった古いミッション系の学園だ。曰く付きの、だがね……」


「それは俺も知ってるぜ。確か殺人事件が過去に二度も起こってる学園じゃねぇかよ。そうか、美波はあの学園の卒業生なのか……」


「いや、卒業すらしておらん。事件の影響で中退した。あやつは今でも、自分が姉の凪沙を殺したのは自分だと、己を責めているのだ……」


「待ってくれよ、爺さん。その事件は確か実行犯が捕まってる事件のはずだぜ。当時学園の女生徒三人が襲われ、二人が亡くなって、犯人はその場で逮捕されたんだって記録を読んだ覚えがあるんだが……」


「その生き残りが美波だ。多くは語るまい。その後、美波は米国に渡っての。MITを首席で卒業して、帰ってきて今の仕事に就いた。我々も安心しておったのだがな。今回と同じことが、過去に起こったのだとしたら?」


「え? あの犯人とまったく同じだと? まさか……そんなことはあり得ないでしょう!」


「信じられんのも無理はない。人間を発狂させてしまう獣など、一体誰が信じる? 実際に犯人は人事不省のまま、既に獄中で死んでおる。あやつに眠る獣は、普段は押さえつけられているということじゃよ」


「美波さんが仮に多重人格者だとしても、彼女に普段の意識はないのですか? 心神喪失状態だというなら、今回だってそうです。冴島紀子……木下三千子は少なくとも彼女の命を脅かした人間です。こう言ってはなんですが、痛めつけられても仕方ないほどの罪を冒しました」


「わからん。外敵をきちんと識別しているのかどうかさえ、未知数なのだからな……」


 片桐会長が言葉を切った瞬間、私の携帯が振動した。メッセージの通知音が、店内の静寂を切り裂く。西園寺が私に視線を向けながら、わずかに眉をひそめた。


「美波さんからだ」


 私は小さく呟き、メッセージを読む。画面に表示されたのは、“長いお別れ。動輪の広場で待っています”という言葉だった。不穏な言葉に、私の心がざわつく。


 西園寺が、肩越しに覗き込みながら言った。


「長いお別れってどういうことだ。アイツ、まさか……」


 私が答えようとする前に、片桐会長が静かに言葉を挟んだ。


「東城君、西園寺君。行ってあげてくれ」


 会長の言葉が言い終わる前に、私達は既に席を立っていた。片桐会長は真剣な眼差しで真っ直ぐに私達を見据えた。


「美波を、あの娘のことを頼むぞ」


「すぐに戻ります。三人で、必ず」


「ああ、任せてくれ。せっかくの前祝いに主役がいなきゃ始まらないからな」


 会長の声には、ある種の決断が含まれており、私たちはもはや何も言わずに行動を起こすべきだと直感した。私と西園寺は同時に強く頷き、カウンターから立ち上がって急いで出口へ向かった。


 私たちは急いで出入り口をドアを開けた。夜の冷たい空気が頬を撫でる。私は店を出て階段に足をかけた時、自分の携帯をテーブルに忘れたことに気づき、慌てて店内へ戻ろうとした。


 店は変わらず夜の落ち着いた雰囲気を保っていたが、ひっそりとカウンターで話し込む三人の姿が目に留まった。会話の一部が耳に入ってきたので、私は思わず足を止めた。


「長いお別れ……ですか。まさか自責の念に駆られて、自ら命を絶つつもりでは?」


「舜、言葉を選べ。御前の前で何てことを」


「よい。黒田よ、赤川の方がお前よりもはるかに現実的な分、現状認識は出来ておるようだ。赤川よ、お前はどう思う? お前は内心、実は楽しみで仕方ないのではないのか? 幼い時から兄弟同然に育ってきたお前達だから言うが、儂はこの現状は、何ら障害にも停滞にもならんと思っておる。むしろ楽しみな展開だよ。お前も実はそうではないのか?」


「はい。私も楽しみです。あの二人が美波様の婿候補として、今後どう化けてくれるか……。奥様や旦那様には叱られてしまうでしょうが」


「婿ォっ!? 舜、お前……気でも狂れたのか?いくらなんでも美波様が……」


「ハハハハ! そうだろう? あのじゃじゃ馬を御せる乗り手など生涯現れんと思っていたが、なかなかどうして世の中ひねくれた話よな。聞けば美波の方が乗り気だと言うではないか。あの有名事務所のタレントですら歯牙にもかけなかったあやつがな。よいよい。実に良いぞ……。男と女の鞘当てや友情に、余計な言葉など無用じゃてな」


「御前……よろしいのですか?」


「構わん。美波のことは、あの二人に任せるのだ。もはや片桐家だけの問題ではなくなったのだからな。黒田に赤川よ、あの二人とて、もうこちら側の人間だ。そして、お前達とて同じだぞ? 片桐家としては記者発表までして、当家として無関係だと敢えて美波を切った形を取ったのだ。美波とて、それがどういう意味かは承知しているはずだ。例の組織の件は、美波に一任する。表立っては美波には、今のところ何もしてやれん。この店を正式に与えることぐらいしかな。あの二人に協力してあげなさい」


「はっ……! 畏まりました!」


「はぁ……。御前がそう仰るのでしたら……」


「血と獣の呪いを巡る血腥い物語が、ついに始まったといったところかのう。今のところ国内も海外の相場でも株価の値動きには全く兆候さえ見せん。今がチャンスと思わせておるのに、網にさえかからん。思った以上に強かな奴らだよ。片桐の情報網を駆使して奴らを調べさせてはいるが、こうなると、どうにも不穏な流れよな……。日本の公安も動き出すほどの、あの刺青の組織が果たして今後どう動き出すのかは、こちらとしても皆目解らんな……」


「近いうちに……また何者かが動くと?」


「うむ。年のせいかの……これで終わりとは、とても思えんのじゃよ……」


 彼らの会話を聞き終えると、私は黙って店を後にした。完全には理解できなかったが、美波の未来について彼らが真剣に考え、議論していることだけは感じ取ることができた。そして、気になる謎の組織も、今は鳴りを潜めているだけなのだろう。背後に何者がいるのか、もう既に水面下では何かが始まり、動き出そうとしている。そんな予感をひしひしと感じた。


 ならば、私達も覚悟を決めねばならない。


 見ると西園寺が階段の中途で私を待っていた。どうやら、盗み聞きをしていたのは私だけではなかったらしい。私は黙って頷いて、その場を後にした。


 動輪の広場までは、ここからなら15分もかからない。


 東京駅が見えてきた辺りで西園寺は足を止めた。


「なぁ、東城よ」


「ん?」


「俺がガキの頃によ、実家で飼ってた猫がいたんだよ。灰色の毛の藤猫で尻尾をピーンと立ててよ、目を離した時にはそこにいないほど落ち着きのない猫でよ、そこら辺を好き勝手に歩いてる割には、ちゃっかり目の前でいつの間にか横にいてグウグウ寝ていたりな」


「へぇ、それは初めて聞いたね。藤猫か……。確か蓬や灰毛とも呼ばれる種類の猫だよね。イエネコのルーツといわれているリビア山猫の血統だ。キジトラと同じような毛色で警戒心が強くて用心深くて、本能の強い野性味のある猫が多いんじゃなかったかな」


「ああ、自由奔放って感じだった。俺が物心つく頃から、そいつはもういつだって俺の家にいて、飯の時間になると俺達が飯を食ってる横に後からやって来て、それが当たり前みたいな感じで茶の間の隅っこに敷いてある座布団の定位置に座り込んで、お袋が用意した冷めた飯を食う。それがそいつの日課だった。俺が寝る時には布団の上に乗っかって来て、丸くなって、これまた堂々とグウグウ寝る。おやつの時間になるとスナック菓子をねだってきたり、じゃらして遊んだりしてると、たまに引っ掻いてきたりな」


「へぇ。狂犬カミソリ西園寺の幼少期の相棒で最初の友達は、意外にも猫だったと?」


「ああ、とにかくすばしっこい奴でよ、外で獲物を取っ捕まえて食ってくるもんだから、家で食う飯なんか、ほんのちょっぴりでいいんだ。猫のご飯より少ないなんて、呆けた爺さん婆さんは飯の量をよくボヤくらしいがな」


「認知症の典型的な症例だね。食事をしたことや時間さえ忘れてしまう。あまりにも頻繁に続く上に怒りやすいから、家族は子供を相手にするように量を少なくして対応する。同居する家族にとっては凄く悲しい言動だよね。当の本人は家の人に意地悪されてると吹聴したり徘徊したりね。人は年を経ても、猫のように奔放には生きられないからね……」


「ああ、人間みたいに悩んだり悔やんだり恨んだり忘れたりしねぇ。猫みたいに単純に生きられたら人も楽だろうになぁ……。ビビったのはよ、猫ってのは木に登るんだよな」


「そうそう。アニメなんかだと猛獣から逃れる為に、人が木の上に逃げたりする描写なんかがあるけど、チーターやライオンなど猫科の獣は基本的に全て木には登れるね。四足の獣の跳躍力と瞬間的な加速力、強靭で柔らかくてしなやかな四肢は、短時間に爆発的な力を出す。そういう風に出来ている」


「ある秋の日の夕方のことだった。ウチの猫が俺の家の庭にある高い柿の木の枝の辺りを、草むらからじっと見上げてんだよ。何してるんだと思って見てたら、もういきなりだった。物凄いスピードで木を駆け上がっていったんだ。柿の実を今にも啄もうとしたカラスを、俺の目の前で狩りやがったんだ」


「凄い猫だね。カラスの動向を物陰から注意深く窺っていたという訳か…」


「ああ、猫の狩りがあれほど素早いとは思わなかった。手際も鮮やかでよ、あっという間に首をかっ切ったか噛みついたのか、地面にボトリとカラスの死骸が落っこちてきた。狩りってのは一瞬で敵の命を奪うもんだろ? 分別も何もねぇガキの頃の話だからよ、俺は素直にその姿をカッコいいって感じたんだ」


「なるほど。残酷非道なんかじゃなく、ちょっとしたヒーローを見るような感覚だった訳か」


「ああ。あっという間に仕事を終わらせて、獲物を咥えて悠々といなくなる。その後ろ姿が何か惹かれるものがあったんだよな。でな、面白いのは、カラスってのは群れで行動してるもんだからよ、群れの一匹が殺されて、天敵が近くにいると敏感に察知すると一斉に縄張りを変える習性があるらしくてな。おかげで俺の家の近所一帯は、カラスやネズミは好んで近寄らなくて、被害なんかほとんどなかったらしいんだ」


「一匹の、小さいけれど優秀な狩人が治安維持にあたっていたという訳か」


「ああ。隣の家のおばちゃんが“いつもありがとうございます”なんて言って、野菜やら果物やら、お裾分けなんかをくれてな。お袋もウチの畑で取れた大根なんかをお返ししてたぜ。もちろんガキの頃の話だから、それは後から知ったことなんだがよ」


 ある意味で狩りの駆け引きとも本分ともいえるような仕事だろう。優秀なハンターであるか否かは獲物が確実に手を出す瞬間、予測された行動に対して、いかに致命傷を与えられるかの一瞬の腕前にかかっているということである。不意打ちが最も有効な戦術だということを、彼らは経験で学んでいるのだろう。私は頷いた。


「凄い猫だね。最近の都会のカラスを狩るのには、自治体がお金を出して鷹匠を雇ったりするらしいけど、考えてみればそれが猫本来の姿なんだよね。彼らは本当は生粋のハンターなんだ。今のペットとして飼われてる猫は、生まれた時から甘やかされて育てられてる上に家の外に出してもらえないから、狩りというものをまったく知らないんだ。農家が昔から猫をよく飼ってるのは、納屋に寄り付く鼠とか害獣を駆除してくれるからなんだよね。空き巣や強盗対策や狸の被害には逆に犬を飼う。蔵が大きな家ほど、痩せてる猫や獰猛な犬を飼いたがったらしいからね」


「そう、俺の家もそうだった。たまに取っ捕まえてきたネズミなんか口にくわえてよ、家の玄関の前や遊んでる俺の前に、これ見よがしにちょこんと置くんだよ。婆ちゃんが“よくやったねぇ、偉い偉い”とか言って頭を撫でてやると、今度はそいつをムシャムシャと目の前で勢いよく食い始めるんだぜ。その光景が思った以上にガキの俺にはエグくてよ。ネズミの内臓なんかを残して、よく俺の前に置くんだよ。多分だが、俺にも“食え”とか“手土産”のつもりだったんだろうな。いやいや、ちょっと待てよ、ガキの俺にはとんでもねぇグロ映像な訳よ。ビビったぜ。おかげで物心つく頃には大抵のエログロは見慣れてたぜ。アイツのおかげで、どこかで耐性がついちまってたのかも知れねぇな」


「ははは、子供からしたら、ちょっとしたトラウマになるようなショッキング映像だよねぇ。その猫は生まれた時から家にいた訳だろう? 西園寺は一人っ子だから、きっと西園寺が赤ちゃんの頃から隣に居てくれたんじゃないかな」


「ああ、俺の最初の相棒さ。猫ってのは義理堅いんだってな。受けた恩は忘れねぇ。死ぬ時には人前からこっそりと消えて、人目につかねぇとこでひっそりと死んじまう。カッコつけたがりなのか、実は誇り高いのか、自分が一番だと思ってるのか。獲物をよく取っ捕まえる猫ほど、その傾向が強いらしい」


「猫の寿命は確か、人間でいったら2年から16年だったよね。随分な開きがある。短命な個体も中にはいるしね。生まれた時からいたとすれば、けっこうな長生きだったんじゃない? その猫は?」


「ああ、俺が小学三年生の時に死んじまったよ。死因は人間でいったら老衰。大往生さ。今でも死ぬ前の、アイツのあの鳴き声だけが俺には忘れられなくてな。なぁ、奔放に生きてきた飼い猫ってのは、死ぬ前に人間の前でどんな反応をするか知ってるか?」


「さあて……発情期とは違う訳だからね。息も絶え絶えに弱々しい、か細い声で鳴いて死ぬとか?」


「いいや、逆だ。凄ぇ声で鳴いた。断末魔の叫びとか、そんなレベルじゃねぇ。多分なんだが、苦しんでるんじゃねぇんだよ。その声が耳から離れねぇんだ……。“出せ! ここから出せ!”ってな。俺にはそう叫んでるように見えた。俺が耳をふさいで“もういいよ。外に出してあげようよ”って言ったら、俺は親父に両手を掴まれて言われたよ。“この姿をよく見とけ。この声をきちんと聞け。耳を塞ぐな”って言われてな」


「考えさせられる逸話だね。猫としては世話になった家だから、死ぬ姿なんか見てほしくない。最期は好きに死なせろ。けれど親父さんからしたら、家族の最期はきちんと見届けろと……。そういうことだよね?」


「ああ、獣ってのは分かりやすいんだ。人間みたいに、めそめそしたりジメジメしてねぇんだよ。後腐れなく、最期は孤独に死にたがる」


「猫は孤独に死にたがる……か。志は気高く、誇り高いってことかもしれないよね」


「さあてな……。自由過ぎるくらい自由な奴らってだけなのかもしれねぇぜ。何も知らねぇガキの頃は解らなかった。なんで死ねばいきなり消えてなくなっちまうんだよってな。訳が分からねぇじゃねぇかよ。けど今なら少しだけ解る気がするんだよ。俺は羨ましいんだと思う。生きてるってことはよ、たぶん家族だとか友達だとか人間関係だとか、自分の血だとか、育ってきた環境だったり自分の仕事だったり、政治的な思想や考え方だので右だの左だので分けたりとかよ、収入だったり職業の貴賎の別だったり、いろんなしがらみやストレスを抱えたり、何かに縛られながら成り立ってるもんじゃねぇか。人間ってのはなんか面倒くせぇことが山積みでよ。そこからいざ解き放たれる時にはよ、自由でいたいじゃねぇかよ。後ろを振り返りたくなんかねぇだろ。旨い飯をくれた奴らが、自分が死ぬことで悲しんでる姿なんざ、やるせねぇだろ。生きてる奴が忘れられなくなっちまうじゃねぇか……。好き勝手に生きてきたんならよ、そんな辛い思いを最後にするのは嫌だろ? 最後まで自由気ままでいてぇじゃねぇか」


「柵か……。正に檻のようなイメージの言葉だよね。社会の中で生きてる僕らは、歯車として生きていくことを課せられている。義務と権利で人の生活が成り立っているとするなら、人は一人で生きてはいない。その仕組みからは逃れられない。そこから逃げることも叶わないんだ。人間としての檻を破るっていうことは、即ち人間をやめること……。それは多分、人にとって一番の幸福なのかもね。何も考えずに時間にも何者にも縛られたくないってね……。ただ生きてそこにいればいいというのは獣の性。でも僕らは人間なんだ。記憶と記録に残したいと考えてしまう。獣の自由な感覚は、羨ましいけど、僕にはわからない……」


「それでいいんじゃねぇのか? 一番人間らしい感情だと思うぜ。わからねぇってのはよ。命は一つでよ、最期くらいは自分の気持ちの行き先は自分で選びてぇじゃねぇか、自由によ。その辺のわだかまりを獣は振り切りてぇと叫ぶのかもしれねぇ。生まれた時も一匹なら、生きて死ぬのも最期は一匹だ。生き物として子供を残したら後は役割なんかねぇよ。意識は消えて、死ぬだけだ……」


「死後を考えるのは人間だけ、か……」


 西園寺は立ち止まると最後に一口、大きく煙草の煙を吸い込んで盛大に吐き出すと、懐の携帯灰皿に捨てて揉み消した。


「何のことはねぇ。俺の家は祖父さんの代から警察官の一族だ。これも後からお袋から聞いたんだがよ、ウチの親父もそうだったらしい。俺に命の大切さだとか家族が死ぬってことがどういうことなのか、生き物ってのはどう死んでいくのかを考えさせる為に、俺が生まれた年に子猫を飼い始めたっていうのさ。親父も祖父さんから、そう教えられたんだそうだ。生まれた時から生きる教材としてウチには猫を飼うって暗黙の了解みてぇな約束事があった訳さ」


「大事な教育の一貫だったってことか。いい親父さんじゃないか。一家揃って警察の一族らしい在り方だともいえるよね」


「へっ、そんな大層なもんじゃねぇよ。アイツが死んだ当時は訳がわからなくてよ、苦しんでる猫の姿をしっかり見とけなんて、何て残酷なことしやがると思ったもんだが、今なら気持ちは分かる。俺もきっとそうするはずだからな。一人の男の生き方って人生哲学を猫から学んだってのは、我ながら可笑しな話だな」


「その猫の名前は? 相棒の最初の相棒の名前を、僕も心に刻んでおきたいんだ」


「聞いたら笑うぜ。トラさ。そのまんまだろ? 猫なのにな。親父は李徴って付けたがったらしい。『山月記』に準えたんだろうがな」


「『人虎伝』だね。人が獣に変わって人を襲って葛藤するなんて古今東西、昔から別に珍しいことじゃないのかもしれないよね。……だったら僕らがやることは一つだけだね」


「ああ、見えてきたな相棒。行こうぜ」


 動輪の広場には白いロングコートのフードを深く被った美波が、車椅子に座って私達を待っていた。


 皮肉なことに、車椅子に座って銀色の杖と白い花のブーケを手にした、その美しくも孤独な彼女の姿は儚げで、今にも消え入りそうなほどに美しい佇まいは酷く絵になる光景だった。


 ほっとすると同時に、私は地下に満ちた冷たい空気が一層にひんやりと張りつめたものに感じられた。彼女の纏う毛足の長いロングコートの下の純白のドレス姿に私は言葉を失った。それは清らかな花嫁衣装というよりは、やはりどこか胸を締め付けるような喪失を感じさせた。それはいつかのホワイトドレスとは違っていた。それはヒューネラルドレス……死装束だったからだ。


 何か声をかけねばならない。そう思いはするのだが、動揺すると、なかなかに最初の言葉というものは喉から出ない。きっかけが掴めない。


「それは……彼岸花かい?」


 結局、私はそんな不吉な言葉で美波に問いかけてしまった。我ながらデリカシーのない男だと言ってしまってから後悔した。そんな気づかいは無用な間柄なはずなのに。私の問いに彼女は微笑んで言った。


「アマリリスですわ。ヒガンバナ科の多年草で、ちょうど今ぐらいの時期に赤や白の色とりどりの花を咲かせますの。花言葉は誇り、内気、おしゃべり、強い虚栄心……。華麗な美しさという意味もあるそうですわ。真っ白で素敵なお花でしょう?」


 赤い色は好きではないのです、と美波は寂しそうに俯いたまま言った。


「枕元に置いてあったのです。きっと、お祖父様が元気を出すようにと手配したのでしょうね……」


 そうして私達は再び黙った。空気がやはり、あからさまに重い。空気は読むのではなく作るものだとは思うところなのだが、いかんせん、どうにもやりにくい。喧嘩をした訳でもないのに、それに近いような感覚、というべきだろうか。普通なら、互いの無事を手に手を取って喜び合うか、映画やドラマのように、オーバーに抱擁するなりするところなのだろうが、私達の前には重い沈黙があった。


「お前、その格好は? そのドレス、この間とは違うよな。死装束じゃねぇのか、それ……」


「他意はありませんわ。友人や大切な仲間や家族に囲まれて幸せに生きていても、それでも人はひとりきりで生まれ、ひとりきりで死んでいくのが命の理というものでしょう。誰かとの出会いもまた、いつか別れることを前提としています。その時、互いを高め合える存在だと認めることができれば、相手の想いだって尊重できるようになり、大切な存在として、ずっと心に残ることになるでしょう。けれど現実はいつだって残酷です。時間の流れに人は逆らえない。人が死ぬことに畏敬や弔いの念を感じなくなったら、人はただの獣と同じです。私は人として生きて、人として死んでいきたい……。最後まで、ただ人でありたいのです。自分の死後のことを考えるのは、人間だけの特権なのでしょうから……」


 奇しくも私達が先ほどまで語っていたことを彼女はそう言った。彼女が死ぬことを考えていたというわけではないようで、取り敢えずは安心はした。だが、その言葉と長いお別れという言葉は却って私の心に沈殿した澱を堆積させただけだった。私とは決定的に違うものを抱えながら、彼女は生きている。覚悟の違いとでもいうべきなのだろうか。そこに私は彼女との決して相容れない隔たりと差を感じてしまった。


「私のあの姿……がっかりしましたか?」


「ん? がっかり? ああ、がっかりはしなかったなぁ。でも、ま……ブッ飛びはしたかな。へへ、文字通りな」


「僕も……まぁビックリはしたかな。アメイジングな体験だったよね」


 一見、いつも通りの穏やかなやり取りなのだが、今は互いが互いを気遣う、どこか私達らしくない、ぎこちない沈黙があった。私と西園寺はいつものように美波の次の言葉を待っている。しかし、美波は美波で私達の出方を探っている。


 お互いに生まれた心の隙間を見つめるような状況の中で、美波は静かにその沈黙を破った。


「私の記憶には……うろがあるのです」


 寂しくも哀しげな声だった。美波は私達から顔を逸らしながら続けた。


「お二人にだけは知られたくなかった…。確かに私は片桐財閥の三女で元モデル。姉と共に僅かな期間ですが、芸能界にいたこともあります。もう八年も前のことですが……。私に流れる片桐の、この忌まわしい血が私の虚の正体なのです。足の痺れは酷くなって、記憶が飛ぶ症状は頻繁になってきて……。頭痛と足の痺れと記憶の虚……。もうまともな学校生活など、できる訳もありませんでした」


 親子連れの旅客が脇を通り過ぎた。美波はフードを被ったまま、顔を伏せるように横を向いた。


「高校は中途で退学。その隙間を埋めようとして、今まで独学で様々な技能を磨いてきましたわ。時間だけは膨大にありましたから……」


「ありとあらゆる知識に精通しているのはそのせいか。美波さんらしいね。ただ、それって普通の人間の普通の速さじゃないんだよねぇ」


「飛び級でマサチューセッツを卒業って聞いたぜ。普通じゃねぇぞ。どういう頭の構造してやがんだよ……」


「誰かの足手まといになって生きたくなかった……。それだけのことですわ。身障者ですもの。自分の命の先が見えていたら、一分一秒どころか、百分の一秒や千分の一の時間の流れとて惜しくなるものです」


 物凄い速度で思考している。その主観的な時間の流れ方や感覚は恐らくだが、私の数倍はいっているはずだ。彼女の一見すると落ち着きがないととれるような言動を普通の人間と同じような感覚で見てはいけないということだろう。時間の流れ方が違うと言い換えてもいい。


「お祖父様がお二人にどう説明したかは存じませんが、私の脚の病……ギランバレー症候群は確かに病としては既に完治しています。お医者さんに言わせればリハビリの経過も順調だし、普通に歩けるし日常生活に何ら支障をきたすほどではないのだそうです。しかし、実際は定期的に立てなくなるほどの痺れが今でも襲ってくるのです……。その為にも、この車椅子は手放せません。しかし、それはやはり嘘ですわね。世間を欺く対外的で表向きの嘘…。私には精神的にも肉体的にも、もっと深刻な症状があります。それが、私のこの記憶の虚なのです。てんかん患者が突然倒れる発作のように、突然に意識を失うというだけではないのです。さらに恐ろしい先があります……。それは片桐にとって致命的になりかねない恥であり、弱点でもあります。結局のところ、お二人を巻き込んでしまった今回の事件は、私の存在そのものが引き金になって起こってしまったことなのですわ」


 ああ、とボソリと呟くように西園寺は頷いた。ジイさんに聞いてもう知ってるよ、と彼も顔を伏せながら続けた。


「我ら血に依りて人となり、獣となってまた人を失う。知らぬ者よ。かねて血を恐れたまえ…か。この間の事件で、お前が言ってた台詞だったよな。まさか、こういうことだとはな……」


 西園寺はそう言うと、彼らしくもなく黙ってしまった。こういう時は、お互いに思ったことを口にするに限る。その方が私達らしくていい。私は意を決した。


「本当に何て言ったらいいのかな……。僕は正直、驚きと共に戸惑っているよ。血の暴走とでも表現すべきなのかな……。何もかもわからないことだらけだ……。いや、現象を頭で理解しようとはしているんだ。にわかには信じがたいことなんだけれど、この目で実際に見て体験してしまった以上、否定なんてできないよね。遺伝的な形質というには家柄も事情も、あまりに特殊すぎる」


「ええ……。それはこの世で誰もが持っていて、誰もが辿り着けない絶対的な孤独と闇の中にある場所からやって来るのです。理性によって制御し、人を人たらしめている狭間の場所から来るモノとでもいうべきなのでしょうか」


 ああ、と私は納得した。あの狂気の発作の前の美波の状態が、如実に物語っていたことに気づいたからだ。私は思わず溜め息混じりに呟いていた。


「人の本能……。精神と肉体の司令塔となる部分。人の内側…脳髄から引き出され、表に現れている人格とは全く異なる存在……。


 人間の脳には、生まれてから死ぬまで使われていない部分や眠ったままの部分があり、人は生涯を通してその数パーセントの能力しか使っていないということは、脳科学の分野ではよく知られているところだ。その名はエンターテイメントの小説を通して、広く世に知られることにもなった。それはナイトヘッドと呼ばれている領域のことではなかったか。


 あり得ない。しかし私は実際に見て体験している。起こった現象を言葉で説明するというのは実に難儀なことだ。私など今でもなお、仮説で自分を無理矢理に納得させている状態なのである。何もかも答えを求めてしまうのは、人ゆえの業なのか。


 だからこれは仮に、である。


 人間の脳は通常わずか2%しか機能しておらず、近年の脳科学の研究では人の脳は死ぬまで5%ほどしか使われないといわれている。スタンフォード大学の研究によれば、平均的な人間は持っている力の2%しか機能させていないといわれ、残りの98%の力が眠ったままであるとされている。


 ロシアのセルゲイ・イフラモフ教授が数年前に行った研究によれば、脳の機能の50%を使うことができれば、1ダースの大学の博士号を取り、1ダースの言語を習得し、ブリタニカ百科事典を丸ごと暗記することさえ可能だとのことだ。


 たとえば、人間の脳は朝起きてから寝るまでの間に活動し続け、1秒間に4000億ビットの情報を受け取り、処理している。これは簡単に言えば、4000億個の文字を受け取り、処理するというようなことらしい。そして、脳は自ら司令塔として活動しながら肉体にあらゆる命令を与えている。


 脳は莫大な量の情報を同時に処理することは出来ず、人の器官の中で最もエネルギーを消費する器官である。もし、脳をフル活動させるとしたら変電所一つ分のエネルギーが必要らしい。


 故に人間はコンピューターが休止状態に入るように眠り、絶えずエネルギーを摂取し、リミッターをかけ、力をセーブしなければ脳の容れ物である肉体の方がもたないのだ。人間が他の生物と決定的に違うのは、頭脳の使用に特化しているが故にその肉体の大きさに見合わないその器官を維持する為に燃費が非常に悪く、エネルギー効率が頗る悪い生き物である為、様々な栄養素を接種しなければならなくなったということだろう。


 そのため脳はすでにプログラミングをされたものを使って、一般化、歪曲、省略・削除という省エネ作業をする。脳は、受け取ったすべての五感情報をそのまま処理するのではなく必要なものだけを取捨選択し、パターン化し、脚色して脳の中で情報を加工し、再構築して情報を処理する。


 この省エネ作業により、脳は4000億ビットのうち2000ビットを毎秒処理するだけで済む。ハーバード大学の神経学者ジョン・マウンセルは

「人間は現実に存在するものを見ていると思っているが、実はそうではない」

 とも言った。仮に脳髄からもたらされる、何らかの精神的な力なり能力なりがあったとする。人は意識の力によりマイナスのエネルギーを強く引き寄せ、様々なネガティブな出来事をも同時に引き寄せるような性質があるとする。


 そのエネルギーが実体化したような、正に超常の神や怪物としか定義できないような存在が人間の内側に存在したとする。人はその神や怪物を何によって知覚するだろうか。言うまでもなく、それは脳である。脳で人は神や怪物を知覚し、己の身に宿し、怪物のごとき能力を時に操る。それが人狼化であり、神憑りであり、獣憑きと呼ばれる現象の状態ではないのか。


 滅茶苦茶な仮説だが、この現象をうまく説明するには、対象者の肉体や精神の病的な変調を例にとる以外にない。その存在が、仮に表の人格を乗っ取るなどという荒唐無稽な事象があるのだとすれば、その存在はもはや対象者自身ではない。姿形は同じでも、それは本人とは全くの別人。人外の力を引き出す可能性すらあり得るのだ。人は時にそれを、ドッペルゲンガーとも別人格とも呼ぶ。


 それは何かをしでかすというよりは、我々の内側からやって来て、我々のトラウマを激しく突き、現実を揺さぶり、恐怖と混乱をもたらす存在になるだろう。そして、皮肉なことに人はこれを最終的に何らかの病や狂気が原因としか定義できないのである。


 太古の昔から人類の歴史に超常的な力を発揮する人物がまま現れたり、人間の能力を超えたような文明の残滓や破壊の痕跡が記録に残っているのは、その能力の一端を操れる人間達が紛れもなく過去に存在したからではないのか?


 突拍子もない仮説だと笑われるだろう。だが、これを裏付ける典型的な症例があるのである。それは統合失調症状における「捕食者」的存在とそっくりなのだ。


 動揺と混乱でも何とか己の貧弱な科学的思考を駆使して不可解な現象を読み解こうと抗っている姿は殊更に滑稽だったが、たどたどしい口調で二人に説明した私のその仮説を否定するでもなく、美波はゆっくりと頷いた。


「17才の時です。頭に耐え難い頭痛が起こって、吐き気と目眩が突然襲ってきたのです。頭が割れそうに痛くて、叫び出したくなるほどに。実際にとんでもない叫び声をあげたのですが……。それが最初の症状でした。目の前がチカチカして、視野が穴だらけになって視界が真っ赤に染まったのです。その時は意識を失っただけだったのです。最初は脳梗塞か蚊文症の酷い症状なのかと思いました。壊れる寸前のボクサーがかかるパンチドランカーの症状と似ていると友人に言われました。幸い症状は一時的なもので、直線は真っ直ぐ書けるし、眼底検査も深視力の検査もしましたが、異状の原因はまったく解りませんでした。もちろん脳波もMRIの検査もしましたわ。これも全く異常がなかったのです。それはよかったのですが……」


 事件が起こったのです、と美波は絞り出すような声で言った。


「私は大切な友達とたった一人の自分の姉を、その事件で失いました……。この私の、この記憶の虚……いいえ、私のせいで……」


 美波は苦しげな表情で目を閉じた。その辛い過去が、彼女に嘘をつかせていたということなのだろう。まだ友人として付き合いは浅いが、彼女とこれまで接してきた私達は、彼女がいかに正義感と自信と深い優しさに溢れた女性かということだけは知っている。身障者のふりをしなければならないほどに壮絶な過去とは、一体どのような事件だったのだろう。


 もちろん、それは彼女の心の傷を悪戯に、不用意に抉るような行為であり、それは友人としても一人の男としても、彼女の前だからこそ出来ないことだった。いずれ、その事件が彼女自身の口から語られる日が来るのだろうか。それは解らない。未来の姿を想像することすら、今の私達には叶わない。そんな気がした。


 そこで私はあることに思い至った。そして、慄然としていた。なぜ彼女が身障者のふりをしていたのかについてだ。


 もう考えるまでもないことだ。彼女の持ち物が。彼女がソドムとゴモラと呼んでいる物が最初から全てを語っていることに気付いたからだ。


「その車椅子は、自分を縛る拘束具だったというわけか。……いや、違うよね。そもそも身障者が利便性を追求した作りになっていないんだ。かといって誰かを傷つける為に、とんでもないスピードになるように改造したものでもない。美波さん、君はまさか……。なんて……なんて恐ろしいことを考えるんだ……」


「ああ、その様々な機能がついた仕込み杖も、要はそういうことだったんだな。お前、自分の血が暴走したら、自分から死ぬつもりでいたな? この馬鹿が……! 一人で悩んで、一人で勝手に答えを出して、何もかも抱え込んで終わりにしようとするんじゃねぇよ!」


「いいえ! 私は片桐の名に誓ったのです。人として取り返しのつかないことをしてしまってはなりません。その時は一族の恥として潔く死ぬつもりでいます。それは今でも変わりません。赤川と黒田にも言いつけてあることです。私の血が暴走して誰かを傷つけそうになったら、その時は迷わず私を殺せ、と。それが貴方達の本来の仕事だと。お爺様の考え方は違っていたようですが……」


「あたりまえだ。家族が死ぬことを望む奴がいるか。まして孫娘なら尚更だ。爺さんやあの二人の気持ちも解ってやれ。お前が身内に殺される必要なんかこれっぽっちもねぇ。自ら死ぬ必要なんか、もっとあり得ねぇ。お前を眠らせるなり気絶させるなりすれば、それで済む話だ。実際にそうしたじゃねぇか。お前の爺さんの判断は理にかなってる。何も間違っちゃいねぇ」


 私は強く頷いて西園寺に同意した。


 今にして思えば、あの場での赤川と黒田の二人の動きは、予め綿密に打ち合わせていたとしか思えないような動きだった。目の前であんな信じがたい出来事が起こっていながら、それを前もって予期していたとしか思えないほどの、手際のよさだったのである。


 美波の意識のあるなしに関わらず、二人の人間をあっという間に殺害した冴島紀子があの場にいようといまいと、二人の動きはそれほどまでに迅速かつ臨機応変な対応だった。会長の密命を受けた赤川と黒田の想定外の行動は、意識を失う寸前の美波にも予測できない動きだったということだ。


 あの真面目そうな赤川が私達を口汚く罵ったのも、拳銃を隠し持った黒田が、最初に派手に冴島典子に向けて何発も発砲してみせたのも、恐らくはわざとだったのだ。


 片桐会長のメモを手渡された刑事の西園寺は二人の本当のターゲットが美波であること。威嚇の為に冴島紀子に撃った拳銃の弾丸が空砲の音だとすぐに気がついたに違いない。西園寺の位置からは赤川が見えていたのだ。だからこそ、西園寺は美波に流れ弾が当たりかねない状況でも、私の静止を降りきって躊躇なく言ったのだ。


『かまわねぇ! 俺ごと撃って終わらせろ!』


 敵を欺くには味方から。敵の手口を敵に返す。実に鮮やかな救出劇ではないか。黒田が西園寺に向けた、あの一瞬の笑顔には理由があったのだ。それは西園寺自らが壁役となって美波と紀子の視界を塞ぎ、赤川が麻酔銃を撃ち込みやすい状況を作ることにあった。修羅場を通った人間同士だけが出来る、コンタクトであったのだろう。


 本命は赤川の隠し持っていた、腕時計に仕込んでいた、あの麻酔銃だったのだ。音もなくピンポイントに奇襲する原始的な戦法である。奇しくも冴島紀子が使った暗器と同系統だったのである。用途はまったく違っていたわけだが。


 気絶させられていたことで、ようやくにして理解できたが、私はものの見事に綺麗に騙された。拳銃がフェイクなどとは普通は思わない。あの場では拳銃を持った黒田の一挙手一投足が完全に場を支配していたといっていい。美波の注意を引く為に特殊警棒で近接戦を挑んだ、一見すると無茶な斬り込み役と囮役を担った赤川こそが、本命のヒットマン役を担っていたということだ。


 西園寺が壁となり、黒田の発砲を避けようとすれば、必然的に赤川が最も近い位置になる。美波と紀子の両者は避けようのない近接距離の死角から、強力な麻酔針を打ち込まれたに違いない。あの小型の麻酔銃では構造上、連続発射に向かなかったのだ。リロードするにも時間がかかる。事情を知った今だからこそ状況は理解できたが、私には何が起こったのか、さっぱりわからなかった。


 あの時は黒田と赤川が邪魔者を片付けて、二人を拉致したようにしか思えなかったが、真相は誰一人傷つけることなく隠密裏に事件の犯人を拘束し、身内である美波を救っていたわけである。警官が事件の犯人でもあった、この一連の事件。表向きには被害者を救助し、西園寺が身を挺して事件を終息させたという体裁を作り上げる必要があったのだ。


 それは片桐家にとっては実に理にかなった不意討ちであり、綿密に練られた作戦の上での行動だったわけである。片桐清史郎氏の突然の登場は、明らかに警官であり、キャリアでもある西園寺の動きを予測した上での先手だったのだ。公安警察へ手を回せるほどの超法規的な措置に踏み切り、事情を知らない西園寺をも味方に引き込んだ片桐財閥の、いや片桐清史郎という怪物の力を私はまざまざと思い知らされた感覚だった。


 美波は神妙に頷いた。


「ええ、お爺様の選択は実に正しい判断でした。すっかり騙されましたが、老獪というよりありません。私の中の獣の残忍さと恐ろしさと俊敏さを、私は誰よりもよく知っています。銃器の弱点はその音ともう一つ。発砲した際の硝煙の匂いです。飛び道具を持った相手なら真っ先に倒すのが戦術でしょう。けれど、それはやはり本当の解決ではありませんわ。今回は、たまたま上手く事が運んだだけのこと……」


 何もかもうまくいきません、と彼女は呟いた。


「この車椅子と杖は、私が私であることの証のようなものてん……だったのですが……」


 美波は力なく微笑んだ。自分ではどうにもならない獣を抑え込んで彼女は生きている。普段の底抜けに明るい、天真爛漫な彼女から、そんな重い台詞が飛び出すことになるとは思ってもみないことだった。


 いや、それは正確な表現ではない。人間が他者と接する時の明るさや優しさとは本来、生来的なものであるように思われがちだが、人が己の内面を見つめた時の悲しみや暗闇といったネガティブな感情の反動が、そうした優しさや思いやりに繋がっていることだってある。


 いつかの事件で犯人が言っていたことだ。己の死を意識するからこそ、人は生きることの意味を真剣に考える。それは生きている残り時間や誰かと言葉を交わし、共に過ごすことを、何よりもかけがえのない時間と感じるようになるということだ。己の命の行く末を殊更に意識するようになるということは、生きていることへの感謝や誰かと接していられる時間の貴重さや有り難みを思い知ることなのだ。だからこそ、人はかつてのあどけない子供時代のように自然に明るくもなれるし、屈託のない笑顔になれるのかもしれない。


 彼女が自分の過去や身の上について私達に話すのは、思えばこの時が初めてのことだったように思う。名状し難い悪夢のような複雑怪奇な事件を経て、彼女はついに私達に自分の秘密を打ち明けている。


 そして、それがなぜ、今、どうして、このタイミングで私達に向けて彼女が語っているのか。鈍い私にでも、それぐらいは痛いくらい伝わることだった。彼女もまた私達を守る為に動こうとしているのだ。それ故の離別だ。


 私は俯いていた。己の力不足がこれほどまでに、今ほど情けなく感じたことはない。死んだ風祭の言葉を思い出す。上辺の綺麗事にすがって言葉を重ねるのは無意味なのだ。美波や西園寺のように暴力や荒事を収める機転も秀でた身体能力もなく、ひたすら急転する事態に右往左往しているばかりで、私は何の力にもなっていない足手まといだった。


 恐らく危機は去っていない。気を抜くな。心を落ち着かせ、今は冷静に状況を把握し、迅速に行動しろ。そして準備や確認を怠るな。あらゆる情報に耳を傾け、思い込みに左右されない様にしろ。お前やお前の家族、お前の仲間、その生命以上に大切なものなんてない。判断を誤るな。もう絶対に何も起こさせない。お前の言葉は何も間違っていない。


 人間とは勝手なものだ、と私はつくづく実感する。何もかも手遅れになってから、誰かの命が失われなければ、人はこうしたことに気がつけない。こうした心がけや思いや正義感は、いざという時にこそ発揮されない。


 私は無力だ。悔しい。私は拳を握りしめ、歯噛みすることしかできなかった。それほどに、私は無力だ。


 警官である西園寺は、もっと痛切に感じていることだろう。よもや、こんな異常な手口で一人の人間に成り変わり、戸籍ごと乗っ取って、裏側からあらゆる組織を作り替えようとする犯人がいるなどと普通は考えられない。西園寺が責任を感じる必要など皆目ないのだが、この男はそういう男である。自分の甘さが絶対に許せない質だ。美波とはまた違う事情で、あらゆる犯罪に対して背負っているものが違う。そして形は違えど、それは私にしても同様だった。


 冴島紀子。桜庭大介。風祭純也。犯人達の顔が、次々に私の脳裏に甦った。これが名状し難い悪夢のような事件のもたらした生々しくも無惨な爪痕だというのか。


 私は悔しさと同時に今さらながらに怒りが込み上がってきていた。こんな馬鹿げた、こんな卑劣な犯罪があっていいのだろうか? あまつさえ、こんなことがこの国では平気で許され、隠されているというのだろうか?


 こんなことが日常で行われているのなら、我々は既に、完全に血と暴力と戦後の闇と侵略行為に屈していることになる。私達は奇しくも、それぞれが己の裁量で事件の後始末をしなければならない岐路に立たされることになったのだ。事件の余波といってもいいだろう。


 そして人生の別離とは、なぜこのように、かくも不条理に、突然にやって来てしまうものなのだろうか。


 卑劣な事件や人の悪意や災いは、そして運命という予測に成り立つ抗えない時間の流れや人の背負ってきた過去という時間の堆積は、なぜこんなにも突然に、互いに築いてきた、かけがえのない時間や絆を簡単に、いともあっさりと無慈悲に断ち切ろうとするものなのだろうか。


 彼女が長いお別れと表現した理由が、私には容易に想像できた。西園寺も同様だろう。それほどに目の前に横たわった現実が私には未だに信じ難く、受け止め難いものだった。そして、その認識の仕方こそ私の弱さと甘さの証明であり、弱点なのだと美波は厳しくも暗にそう言っているのである。


 受け止めなければならない辛く重い現実と残酷な別れを同時に告げられること。それはこんなにも辛いことなのか。


 皮肉にも、私達はまたも東京駅の動輪の広場にいる。新幹線もとっくに終電を迎え、地上の在来線の電車も残り少なくなった東京駅の地下は、旅客も少なく、その足取りも早々としていた。工事の業者らしき風体の男達が何人か、私達の横を通り過ぎていく。著しく変化する東京駅のロケーションは、今年の12月に100年を迎えるのではなかったか。誰もが美しき旅の始まりに思いを馳せる、その赤レンガの勇壮な丸の内駅舎の地下は、私達を殊更に孤独にでもするようにがらんとしていた。


 私は目の前にある、繋がった三連の立派な動輪の姿に、私達自身の姿を重ね合わせずにはいられなかった。


 私達の行く列車の車輪は今や、その動きを完全に止めてしまった。行く手に立ち塞がる巨大な大岩と降りしきる豪雨と土砂の奔流に見舞われた後のようなものであろうか。足踏みしかできない泥土に絡め取られ、冷たく乾いて固められてしまったかのような感覚だった。


 今回の事件が今までの事件と決定的に違うのは、我々自身が事件の主要な登場人物であり、当事者そのものであったということだ。そこには予め与えられる資料や推理の為のデータなど最初からある訳もない。最終的には狩るか狩られるか、いかに生き残るかという事件だったのだ。我ながら、よく生きていたものだと思う。


 しかし、問題はこれからなのだ。冴島紀子と名乗っていたあの女は元より、桜庭大介という警察キャリアと風祭純也というマスコミ関係者に情報をリークしていた人間がいたということは、それは取りも直さず日本でも有数の企業を擁する片桐家の隠された弱みや警察関係者やマスコミ関係者の動きや弱点を熟知しており、それを突いてくる人間が今後も現れかねないことを示唆している。


 背乗りという犯罪の恐ろしさは、インターネットを通じ、ある程度の人々が今や実態を知るところにもなっているが、この闇の本当の恐ろしさはそんなものではない。真実をひた隠し、報道すらせずに事実を歪め、偏った意図でそれが世間に伝えられていることなのだ。この脅威を未だに知らない人々がいることなのだ。


 人の内側にある闇やその正体を、外見から真に覗くことはできない。国籍、血筋、血縁、表と裏。過去とその背景。人が隠している秘密。その多くが語ることも口にすることも踏み込むことも許されないタブーとして存在しているのだ。個人情報と人権主義と人道主義は、その多くは、何も語るな、探るなという脅迫としてしか機能していない。それらは現代の人間を語る上で糊塗された、体のいい仮面にしか過ぎない。醜い獣の姿を鏡で写すことは出来ないのだ。


 マスコミの報道、政府の発言、学校で学んできた事。それら表層的な情報が全て真実であるという保証など、実はどこにも存在しないのだ。マスメディアに携わる者として。現代に生きる日本人として。いや、一人の人間として、これからは私自身が警鐘を鳴らすべきなのだろう。


 多発する犯罪の手口が多様化して、外国人が身近に暮らして日常に溶け込み、あらゆる境界が取り払われてきている昨今、各自が自身で調べ、何が真実で何が嘘かを判断しなければ、我々は既に生き残れない現実の中にいるということだ。訳も分からず戸籍を乗っ取られ、拉致され、殺されるかもしれないという現実は、私達の前に黒々と横たわっていることになるからだ。


 そうでなければ自身や家族、大切な人が取り返しのつかない不利益を被る。私達は獣であり、私達は人間でもある。血は生き物を既定している全てなのかもしれない。しかし、それでも血は緩やかに全てを溶かし、全てはそこから始まるものだろう。


 刑事に事件記者に探偵。奇しくも警察にマスコミに財閥令嬢の私達三人が体験した今回の事件は、結果として私達が多くの弱点をさらけ出してしまったことになるのである。内側に広がる闇が、実体化して襲ってきたような感覚だった。


 美波は片桐財閥の庇護や監視下にあるとはいえ、その縁故とは切れている女性であり、表向きには身障者なのである。犯人達は正にそこを突いてきた。冴島紀子は、そんな犯人達の裏を突いて彼らを殺した。もしも、死んだ桜庭が西園寺に取って代わり、同じく死んだ風祭がそれを特ダネとして、第一報を世間に歪んで伝えていたとしたら、果たしてこの事件はどうなっていたことだろう?


 今回のケースがかなり特殊なものだったとはいえ、探偵や刑事はいつだって被害者にだってなり得るということを示唆している。この点は重要である。それ故の彼女の決断なのだ。それは踏み込んではいけないタブーに切り込み、己の命や社会的な立場を投げ出す覚悟で挑まなければならない者達が現実に存在しているからなのだ。


 今や実体を伴った得体の知れない現実は、哀れな獲物である私達の脚を掴み、身動きできない状態にさせている。それは命の危機を積極的に伴う、逃れようのない現実である。哀れな私達の目の前に、生々しくも黒々と、堂々と横たわっている。私は犯罪の事件記者でありながら、犯罪というものを甘く見ていた。探偵行為とは、それ即ち事件の当事者にも被害者にもなってしまうということなのだ。


 ミステリにおける推理や論理だのとはカテゴリーが全く違う。空想の机上でただ人殺しや悲劇や事件を、当事者や被害者を横に除け、他人事のように論理だ推理だを開示し、分析だ真相の究明やら解決だのを建前にして、ああでもないこうでもないと重箱の隅をいいだけ突いてパズルを組み立て、さも得意げに推理を披露しているゲームなどとは訳が違うのだ。


 現実の事件や暴力やテロの前では謎や論理や人の命や感情など、いとも簡単に吹き飛んでしまう。悔しいことだが、冴島紀子が言っていたように現実はいつだって無慈悲で残酷だ。そして、真に恐るべき犯罪とは、無慈悲で残酷なその事件の存在が、誰にも知られずに成功した場合なのである。今回の事件は正にそうした類いの事件だったのだ。


 現実の殺人や暴力という急迫不正の侵害の前には、動機だの正義だの白だの黒だの謎だのは、しょせん後付けの繰り言にしか過ぎないのである。完全犯罪の殺人の前にあるものは、時間的な経過を見ても解決の有無ではない。勝つか負けるかでもない。発覚の前に事件の当事者が生きるか死ぬかなのである。


 事件は人によって語られ、人によって綴られ、何らかの形で表に出ることで世間に周知され、始めて事件と呼ばれるものになる。誰にも語られなければ、事件は存在していないのと同じなのだ。定義すらされず、事件にすらならず、行方不明者すら存在しない。それは完全犯罪が成功した例なのだろう。登場人物が全ていなくなってしまえば、事件はそれでもう一つの終わりなのである。


 それでも敢えてミステリに準えるなら、かつてイギリスの偉大な女流作家、アガサ・クリスティーの作品が世間に与えた影響は多大なものであったろう。


『そして、誰もいなくなった』とは、実に的を射た、言い得て妙な、救いのない現実を的確に描写したタイトルではないか。今回の事件の犯人達が、私達を亡き者にして私達に成り変わっていたのなら、正に現実はそうなっていたはずなのだ。


 かの作品が世界に与えた影響は、何よりもその恐ろしき顛末と救いのない残酷な結末だったからに他ならず、私は今回の事件を通して己の命を拾ったことで、それが恐ろしいほど身に染みて実感できた。


 人の身に襲いかかる危険や危機の加速度は、それに気がついた時にはもう既にして遅い。本当の危機とは、人の危機意識のはるか先を行っているものなのだ。それはいつだって死角から突然に、無慈悲に残酷に襲い掛かってくるものであるが故に、事件や予期せぬ事故という形となり、逃れようのない恐怖と人間の無力さを、この現実にまざまざと刻むことになるのだろう。


 暗闇はいつだって、どこにだって、誰にだってある。過去というバックボーンを持たない人などいない。背中のない人などいない。生きる為に食べ物を口にしない人などいない。そして悲しいことに人間はいつだって運命の奴隷であり、悪意という名の形なき不可視の獣には抗うことすら叶わない、哀れな獲物でしかないのである。


 人の悪意や因果は人がこの世に存在する限り、けして消えはしない。そして悪意とは、目に見えないものとは限らない。そして、それは犯罪だけに留まらない。


 太古の昔から、それは人の内に確かに潜み、時にあからさまな狂気となって猛威を奮っては、哀れな同族を数多となく狩り殺し、塁々と築かれた死体の肉と叫びと嗚咽の堆積によって人の歴史は紡がれてきたのではなかったか。


 今やインターネットは生活の一部となったが、それとて元々は軍事技術に端を発している。文明は発展し、科学技術や医療技術が飛躍的に向上してきたのもテロや戦争が、つまるところ暴力や災害がきっかけではなかったか。


 力なき者、負けた者、弱き者、消え行く者や死に行く者に、もはや語る言葉や舌はなく、残された者が好き勝手に屍肉を漁り、簒奪する。簒奪者が平和や人権という体のいい言葉で噎せ返る血の臭いを湖塗し、勝者の論理で歴史を綴り、数の暴力と金に任せ、怒声や罵声で声なき悲鳴を遮る。それだけのことだ。それが暴力というものの本質なのだ。


 せめて、お互いが無事であったということ。それだけを唯一の救いや糧にする時間さえも、我々には許されていないとでもいうのだろうか。悔しかった。


 それは確かに私の弱さと甘さであり、彼女の強さと優しさの根幹なのだ。それは確かにそうなのだ。それだけは私にも理解できる。


 しかし、それよりも何よりも私と西園寺を苦しめるのは、彼女の抱えている絶対的な孤独と苦しみと怒りや悲しみは、恐らく他の誰にも共有できないものだということだ。正体をなくした人事不省の酔っ払いが、暴行に及んで誰かを傷つけてしまうような事件とは次元が違う。


 美波の抱える記憶の虚。彼女が獣と呼ぶモノの真の恐ろしさは、彼女自身が犯罪の被害者などではなく、積極的に加害者になり得てしまうことなのだ。それも相当に高い確率なのである。それ故に彼女は悩み、苦しみ、いつでも死ねる覚悟さえ決めて孤独に生きてきたのだ。彼女のような聡明な女性ですら悩み、今もなお苦しんでいることなのだ。


 だからこそ、西園寺も私も彼女の言葉を黙って聞いていた。ただ聞くことしかできなかった。そして、聞くべきなのだろう。少なくとも、今は。


「私は怖いのです。恐ろしいのです……。自分が自分でなくなってしまうということが……。知性も理性も吹き飛んで、この呪わしい血で目の前が真っ赤に染まって、身体に流れる血がマグマのように熱く燃え上がると、いきなり記憶が飛ぶ。木村憲仁の事件を覚えていますでしょう? あの人も恐らくそうだったと思うのです。爆発的な人の怒りや悲しみは善きにつけ悪しきにつけ、時には人知の及ばない境界さえ踏み越え、人の限界を越えさせます。狂人の叡知と私がそう呼んだのには、そういう理由があったのです……。それは、およそ人の理解が及ぶ境涯ではないのです。それはもう普通の人間には、狂ったとしか表現できない感覚なのですわ。人が人の境界を越えた先にあるものを、言葉で説明することなどできません。それは人の辿り着ける埓外にあるものなのです。人の内にありながら、人が辿り着いてはいけない場所なのかもしれません。けものへんに王と書いて狂うと読みますが、私の姿は正にケダモノ。己の本能のままに目の前の獲物を壊すことしか考えられなくなる。人を殺めれば、次はさらにおぞましい姿を晒すことにもなるでしょう……。言葉も何も通じない…。敢えてこの言葉を使いますが、獣の血の赴くままになった人間は、人に害を与える完全な障害者であり、その獣はもはや人ではありません。殺意のままに、狂気の赴くままに敵を狩り、人を殺してしまう忌避すべき私達の敵です……」


 震えている。怒っている。悲しんでいる。悔やんでいる。片桐美波の目から一滴、涙が落ちた。


「ずっとこのまま、秘密のままにしておきたかった。これが私の隠された本性です……。私は人々が唾棄すべき浅ましき獣憑きの血を継いでいるのです。私の遠い遠いご先祖様は獣を越え、人を越え、人ならぬモノの声を聞き、人の及ばぬ言葉さえ語ったのだそうですが…。残念ながら、私には正体不明の病だけが受け継がれました。それは、獣の病です。脚の痺れは年々酷くなって、片桐の家で私は高校を卒業しないうちから軟禁同然の生活を好んで続けてきましたわ。一人暮らしを始め、監視付きで表に出られるようになったのも、実は最近のことなのです。当然ですわね……。いくら地位も名誉も財産もある財閥の娘でも、檻に入れておかなければ、いつ狂って人様を傷つけるか解らない女なのですから……」


 諦めたようなトーンで、美波は続けた。


「片桐の家は、こんな私を放逐しませんでした……。家族を殺めたも同然の私を断罪することもしませんでした。アレは全て事故だったのだ、と。私は赦されることも断罪されることもないまま、身体の病だけは治っていきましたが、自分の症状が深刻だというのは己の身体で理解できました。もう今さらですが、きちんと人外の化け物である私の姿を見て下さい」


 そう言って彼女は己の髪をむんずと掴んで、自らウィッグを外した。つい、この間の事件では、それは半ば妖怪の都市伝説としか思えなかった。そう、答えは既に出てきていたのだ。だが、目の前で改めて見るその真相は、あまりにも私の理解を越えていた。


 絹糸のように細い片桐美波のその髪は、一本一本が透けるように根元から毛先まで艶やかで白かった。彼女自身が容姿端麗であることが、尚更その異様さを際立たせている。冗談でも誇張でもなく、彼女の白髪は、それ自体がまるで別の生き物であるかのように神々しかった。


 しかし、それは一方で病的な繊細さと危うさを湛えた白さだった。先ず初見の人間には本物だとすら思えないに違いない。そもそもが老いの故ではない上に美波は女性なのである。髪は女の命とも例えられるが、八年という時を孤独に過ごしてきた彼女の気持ちを思うと、この身体的な特徴が彼女にもたらした心痛や変化はいかばかりであろうか。


「これが、都市伝説のターボ婆さん。真珠ナメクジの女神。白髪の狂女の正体ですわ。私は女としての生き方を完全に捨てました……」


「それでも、お前はお前だろう。意識もあるし、感情だってある。アレがこれから先も目覚めて、必ず今回みてぇな事件が起きるとは限らねぇんじゃねぇのか? お前は探偵として最後まで俺達を守った。その理解でいいんじゃねぇのかよ?」


「そうだよ。あの場での君のターゲットは僕が見た限りでも、明らかに冴島紀子一人に絞られていた。君の中のアレは少なくとも、きちんと敵を識別している証拠だ。君自身の探偵としての血がそうさせたんだ」


「探偵ですって!? 知性も理性もなくなるのですよ!? こんな身障者の足が、細い腕が自分のものじゃないように動く! 自分の意志など何も及ばない中でとんでもない力を出す! とんでもない速さで走る! 壁や床など気にもかけずに縦横無尽に跳び、人を引き裂いて殺そうとする! こんな馬鹿げたことがありまして? 自分がしたことすら覚えていない! 忘れるどころか記憶にすらない! 目覚めれば、リミッターが外れた反動で丸二日はまともに動けない! こんな正体不明な心神喪失状態の狂気を抱え、人を平気で傷つけてしまう狂人が探偵などであるはずありませんわ!」


 その絶叫は、私達の胸を深々と突いた。


 探偵という言葉に彼女がどんな思いや願いを託していたのか。そう思うと、己の身が引き裂かれるような思いだった。私達は心のどこかで、探偵という言葉に過剰な期待を込めてはいなかったか。彼女の類い稀な知性に頼りきっていなかったか。それが彼女の重荷になっていることにも気付かずに。


 西園寺は眉間に皺を寄せ、キツく目を閉じていた。私は血が滲み出そうなほどに唇を噛み締めていた。それほどまでに彼女の叫びの一つ一つが、悲痛な刃となって私達の胸を一太刀ごとに切り裂いていた。


 彼女が探偵という名前を誇らしく受け入れていた、その本当の理由。彼女が自ら探偵女王などという表現を使ったその理由。それが悔しいほど理解できたからだ。私達は、探偵という英雄を誉め称える言葉で、彼女をただ悪戯に責め立てていたに違いないのだ。


「解っていましたわ……。答えなんて最初から出ていた! 何度も何度も夢に見てきました。悪夢にうなされてきました。皆が皆、私を後ろ指で指して罵るのです! この狂人! このケダモノ!  死ね、死ね、と!あれは前世の記憶でも恐怖からくる妄想でもない! アレは未来の私の姿なのです!  私は記憶にない虚の中で、誰かを嬉々として傷つけてしまう女なのですわ! 私の悪夢は、何一つ間違ってなどいなかったのです!」


「それは夢だ。お前の妄想だ。悪夢であって現実じゃねぇ!」


「いいえ、今回の事件で解ったはずです! このまま一緒にいれば、私は東城さんや西園寺さんだって、この手にかけてしまいかねないのです! それが私には悔しいのです! それが恐ろしいのです。私は狂人……。ワタクシは狂った獸……。人々が蔑む人でなし……。怒りに任せて人を狩り、壊して引き裂いて食らうことしか見えなくなる盲目のケダモノ。何が隅の麗人でしょう! お二人は知らないでしょう? あの女は、警察の監視下、片桐の屋敷で今もイヒイヒ笑っているだけです。誰が話しかけても、ただただ笑っているだけ! 完全に壊れてしまいました! 私が壊したのです! 暴力とは恐怖を刻み見つけ、肉体と精神をズタズタにすること。私はただの狂人! 人を壊して狂わせる、ただの狂った人殺しなのです!」


「馬鹿なこと言うな! お前は人殺しでも狂人でもねぇだろ!」


「そうだ! それは違うよ、美波さん。人事不省でも、君の行為は紛れもなく正当防衛だ。僕達が、いや……誰だって君の為に証言台に立つさ。立ってくれるさ。誰かの身を守る為に怒りに駆られて戦った人を誰も責めたりなどするもんか。君も片桐会長も、黒田さんも赤川さんも、何一つ間違っちゃいないじゃないか! 自棄で自暴自棄になっちゃいけない。自分を責めちゃいけない。冷静になるんだ、美波さん。方法や形や意識のあるなしはどうあれ、君は僕達を救った。その事実だけは絶対変わらない!」


「そうだ。お前は俺達を救ったんだ。俺達は命の恩人のダチに感謝こそすれ、罵ったり蔑んだり壁を作ったりなんかしねぇよ。俺達を見損なうな! あの女を殺そうとしたことには変わりねぇかもしれねぇがよ、俺達は今までと何ら変わらねぇし、お前にもこんなことで変わってほしくなんかねぇ。長いお別れだと? スカしたハードボイルドじゃねぇんだぞ。ふざけんな! このまま黙って一人でカッコつけて、さよならだなんてつまらねぇこと、この俺が絶対にさせるもんかよ!」


「僕も同じだ、美波さん。このまま、この丸の内から君が黙っていなくなってしまうなんて悲しいこと、僕らは認めないよ。僕達を守る為なら尚更だ。本当に糾弾されるべきなのは君の名前を奪い、その姿になりすまし、君を騙ろうとした犯罪者の方だ。アレは君の中の一面で君の正体なのかもしれないよ。誰がどう見たって君かもしれない。けれど、けっして君そのものじゃないだろう! 誰も信じちゃくれないけれど、僕らは知っているんだ」


「けれど……。でもッ……!」


「テロもデモもないッ! 君は君だ! 片桐美波なんだよ!」


「落ち着け、東城。美波、お前は気に病んでるようだがな、東城が言ったようにあの女のしたことは手口も何もかも、到底許されることじゃねぇんだ。刑事がこんなこと言っちゃなんだがよ、あの女や死んだあの二人の出身地や元国籍や身元が判明すれば、真相はもう公安のファイルにしか記載されないような闇の中で処理されることになるだろう。警察と弁護士と医者とマスコミがグルなら、事件はただの事故。表沙汰にすらならねぇのと同じことだ。この国ってのはな、未だにそんな闇や見えない悪意を抱えてるんだ。東城が記事にして公にしたところで結果は同じだ。俺はな、アレは……日本人を憎む、あの狂気に取り憑かれた化け物は、誰かがぶっ壊してくれた方がよかったんだとも思ってるんだぜ。ああ、わかってるよ。この国の公僕としちゃ、失格なのかもしれねぇ。」


「覚えてすらいないのですよ! 己が誰かを傷つけようとしたことでさえ……。今回だって黒田や赤川が本来の仕事をしてくれたから事なきを得ただけです!  覚えてさえいないなら、全てセーフなのですか? 私は無実で、それでお仕舞いだとでもいうつもりですか? 人々が蔑むケダモノが、檻に入れて然るべき犯罪者が野に放たれたのと何ら変わらないのですよ!」


「それがどうした! 犯罪者だって人だ。人はいつだって、何度だって間違う。自分で解っていながら、取り返しのつかないことさえ平気でやっちまう。普通じゃ考えられねぇことさえ平気で出来ちまう。他人に厳しく、自分には甘い。ゲスで卑怯で言い訳がましくてよ。マナーもモラルもルールも、何一つまともに守ろうとしねぇ。何でも食うし、何でも壊す。自分の欲にひたすら忠実でよ、一皮剥けば外道の獸ばかりさ。……だがよ、それが弱っちい人ってモンなんじゃねぇのか? 人が人じゃなくなっちまうなんざ、よくある話じゃねぇかよ。ンなこと、俺達の間じゃ今さらだろうが!」


 西園寺の言葉に私は強く頷いていた。人は己の罪を数える為に生きている訳ではない。殊更に他人に対して批判的な世の中だが、善悪正誤の基準は実のところひどく曖昧なものだ。法は元より、倫理だの公共のマナーだのルールだのは、人が人である限り、絶対的な人を量る天秤にはなりえないのかもしれない。


「へっ、悪ぃな。つい声を荒らげちまってよ。まぁとにかくよ、お互いチームの為に冷静になろうぜ。……そういや東城よ、犯罪心理学に生来性犯罪性説っつうのがあったよな。犯罪者の中には一定の身体的・精神的特徴を具備した者がいて、このような者は必然的に犯罪に陥るもので、隔世遺伝説によって説明できるってヤツがよ。あのトンデモ学説を唱えたのはクレッチマーだったっけかなぁ?」


 西園寺はニヤニヤしながら、私の方へと何か小さなモノを投げて寄越した。


 訳もわからず、私はそれを受け取った。私は掌に収まった、その何か小さく硬いモノをしげしげと見つめた。美波の不安げな眼差しが、私へと向いている。


……そういうことか!


 私はこんな状況でありながら、内心ニヤリとしてしまっていた。この機転の速さと一度決めたら躊躇せず曲げない鉄の決断力と意志こそが、この男が丸の内のカミソリといわれる所以なのだ。最速で私は相棒の意図を悟った。腐れ縁とはよくよく言ったものである。


 しかしまぁ! この男ときたら、何と不器用でわざとらしいのだろう。私もこの偏屈な相棒の期待に応えなければならないだろう。


 ここからはもう賭けだ。


 先ほどはハードボイルドをこき下ろしたが、いつかこの男が言っていた。男の仕事の価値を決める七割は決断だ。後はおまけのようなものだ、と。


 私も覚悟を決めた。男とはきっと、こういうものなのだ。彼女の弱さや孤独を支えることは、それ以上に大きな物を守ることに繋がるのだ。乗るか反るかしかないのなら、この与えられた大きな選択とチャンスの時には迷うな。私は友人に投げつけられた、この小さな切り札に全てを賭けることにした。


 私はなるべくわざとらしくならないよう、私らしく、いつものようにのんびりと、事もなげに相棒に受け答えることにした。


「知ってる癖に……。生来性犯罪性説を提唱したのは、クレッチマーじゃなくロンブローゾだよ。ロンブローゾが活躍した時期は犯罪心理学の歴史的にも興味深い時期でね。『犯罪人論』が出版された1976年から3年後にウィルヘルム・ヴントが世界初の心理学実験室を開設したんだよね。1888年の8月から11月はイギリスで切り裂きジャック事件が発生しているし、法医学講師トマス・ボンドが当時としては先駆的な犯罪者プロファイリングを行い、ロンドン警視庁に手紙を送ってもいる。同時期にアーサー・コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ・シリーズが愛読され、ミステリー作品が一気に世界中で愛される契機にもなった時期だ。日本でも1914年に辻潤が邦訳した『天才論』は話題を呼んだし、文学においては小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』や夢野久作の『ドグラ・マグラ』といった衒学趣味的な小説にもロンブローゾの影響を見て取ることができるね。小酒井不木も『科学探偵』の中で、犯罪者の人相に関するロンブローゾの学説を紹介したりもしている。犯罪を犯す者はすべからく予め決まっている……。生来性犯罪者説という事の是非はともかくとして、ミステリというジャンルとは非常に相性がいい学説なのは確かみたいだね」


 私は先ほど西園寺から受け取ったそれを。小さなそのコインを再び彼にキャッチボールをするように投げ返した。パシッと西園寺は素早くそれを空中で受け取った。多少コントロールが甘かった。今のは危なかった!


「そうだったそうだった。……ほら見ろよ。犯罪者と探偵が実は皮一枚で同じだってことは、歴史的事実が証明しちまってるじゃねぇかよ。探偵ってのはな、己の正義を貫く為なら、時には人だって殺すこともあるんだぜ。そういや、あの女が言ってたバロネス・オルツィの隅の老人の元ネタだってホームズのライバル、ジェームズ・モリアーティ教授じゃないかっていう説があるんだろ? 実際は違うのかもしれねぇがよ。だが、始めてそれを聞いた時はよ、俺は感動したもんだぜ。もう拍手喝采のスタンディングオベーションを捧げたい気持ちになったもんよ! 日本だってそうだろ? かの明智小五郎のライバル、怪人20面相が主役の話があったら、面白い話が組めそうじゃねぇかよ。悪役が探偵だなんて痛快じゃねぇかよ。そう思うと想像が掻き立てられて、ミステリがより面白くなるじゃねぇか。役者の世界だってそうだろ? 悪役が時に正義の味方もこなすからこそ、いい味が出るんだよ。悪役ってのはな、美味しいんだ!」


「ああ、こんな美味しい役もないよ。僕らはもう立派な共犯者じゃないか。社会で生きてくってことはさ、きっと上辺がお上品なだけじゃやっていけないよ。酸いも甘いも、苦いも辛いもかぎ分けて、時にはアウトローなことだってやってのける。きっと、そんな新時代のヒーローが必要とされてるんだ」


 美波は両手で口許を押さえ、涙を溜め、今にも泣き出しそうな顔で私達の顔を交互に見つめている。意図しない私達の明るさに彼女は戸惑っているようだ。


……よし、いい傾向だ。


 やはり私達を繋いできたものは、これだったのだ。正に切り札である。これこそが。このイカサマコインこそが、私達が最後にたどり着くべき答えだったのだ。


 私はいつか西園寺が美波と賭けに使った、この鳥打ち帽にパイプをくわえた、かの名探偵の絵柄が、なんと両面に描かれた表も裏もない、両方同じデザインが施されたこのイカサマコインのくだらなさを、今ほどありがたいと感じたことはない。このイカサマコインに裏側などない。揉め事はコインで決める。底意地の悪い友人は、無茶なことをする友人の為にちゃっかり汚い手まで用意していたのである。


……さあ、総仕上げだ!


「タブーがこれほどいいだけ出てくると、いっそ清々しいよね。法をねじ曲げてくる相手に遠慮なんか必要ない。時には命を張ってでも守り通さなきゃいけない意地がある。それはきっと正義とはちょっと違うね。上手く言えないんだけど、譲れないもののために動くこと。僕らの間じゃ今さらなんだよねぇ。……ねぇ美波さん、丸の内の探偵女王は黒を白にできる唯一の女なんじゃないのかい? 弱きを助け、残酷で獰猛な犯罪者という悪しき獣を挫く、この大都会東京の夜の丸の内に颯爽と現れた、白く美しい獣。……僕はね、美波さん。君のあの姿を見た時に正直、心が震えたんだよ。怖いとか恐ろしいという感覚じゃなかった。それは違ったんだ。もちろん今の君だってそうだよ。・…まるで、何かが生まれる寸前の卵を見ているような感覚なんだ。高揚したし、感動してるんだよ。これが真珠ナメクジの女神の本当の正体だったのか! ……ってね」


「なればいいんじゃねぇのか? お前がいつも言ってるじゃねぇかよ。なりたい自分になればいいってよ。……じゃあ、なれよ。なってやれよ。お前がなりたい探偵女王様によ。俺は警察官だからな。白でも黒と疑うのが商売だ。だがよ、人間はそう単純に出来てねぇだろう? 物事ってのは、白だの黒だの表や裏だので価値をはかるもんじゃねぇし、真実を暴ける人間が孤独で苦しむ必要なんかどこにもねぇだろ。美波、俺達はお前のそのブッ飛んだ力を必要としてるんだ。いや、俺達だけじゃねぇ。お前の助けが必要になる人間はお前が探偵でいる限り必ず現れるはずだ。謎めいた不可解でややこしい事件は、今のこの国にはまだ山ほど出てくるはずだ。東城も言ったが俺にも付け足させろ。丸の内の探偵女王は、黒を白にできるブッ飛んだ女。パーソナルカラーは白だ。……そうだ! 二つ名は白の女王ってのはどうだ? おいおい、かっこ良すぎるじゃねぇかよ! こんな美味しい役もねぇぜ」


「いいね、それ! そのアイディアはいただきだ。僕が彼女の活躍を本にするよ! そうすれば謎めいた事件の方から、素敵な夜のショットバーに転がり込んでくるじゃないか!  この赤レンガの東京駅。摩天楼のビルがひしめく丸の内という舞台。謎めいた女は、闇を抱えた美しき名探偵。グレート! シチュエーションだって完璧じゃないか。……いいね! 凄くいい! これは使えるよ!」


「西園寺さん……。東城さん……。グスッ……こんな御殿場のジャジャ丸娘と……一緒にいていいんですの?」


「お転婆のじゃじゃ馬娘ね。ほらほら、鼻水出てるよ」


「へっ……いつまでも、らしくもなく辛気臭ぇツラしてんじゃねぇよ。いつものように頬杖ついて、顎を上げて高飛車な女らしくシャキッと澄ましてろ。お前は傷ついた深窓の令嬢なんて柄じゃねぇだろ。お前はもう一人じゃねぇ。俺達がいるだろ。牢屋のガードルのゾンビだよ」


「ロイヤルガードのコンビね。美波さん、君がどう思おうと、僕らはもう同じ列車に乗った仲間なんだ。僕らはもう女王の傍にいる近衛騎士みたいなものじゃないかな。嘘から出た真さ。たくさんの立派なビルに囲まれていても、いつも堂々と佇んでいる東京駅みたいにさ。君が探偵の女王なら、僕達にはそういう役目が振られているんだよ、きっとね」


「東城さんと西園寺さんが近衛騎士? 私が……探偵の女王……?」


「そうさ、いつか君が言っていたことだろう? 人の価値を決めるのは自分自身。信じる自分自身の心と魂だってさ。だったらさ、僕らは君と共に誰かを守る為に戦う道を歩む。誰に何を言われてもいい。そんな誇り高きドンキホーテのチームがいたっていいじゃないか。この丸の内という偉大な王を守る、赤レンガの騎士達と白い女王がいたっていいじゃないか。誇らしいと思うよ。僕達は隅に追いやられた白の女王を守る。そんな栄誉に与れた、誇り高き騎士になるのさ。……まだ頼りないかもしれないけどさ、僕が今度は君の盾になる。白の女王を守る、金剛石より硬い意志を持つ盾になって、今度は僕の言葉で、僕が君を守ってみせる! ペンは剣よりも強いってことを改めて証明しなきゃね」


「おお、おお。張り切ってくれるじゃねぇかよ。お前が盾なら、俺はさしずめ女王の剣だぜ。なんてったってアダ名が狂犬だからな。腐った人の世の、ありとあらゆる悪意としがらみをぶった切るような、とっておきの女王の剣になりゃいいんだろ? なってやるぜ! それはきっと、刑事の俺にしか出来ねぇことだろうからな」


「美波さん、この動輪の広場を見てごらん。この立派な三つの車輪を見てみなよ。僕らは誰一人欠けていても駄目なんだ。傷ついた身障者で何が悪いのさ。隅の麗人で何が悪いのさ。車輪は一つじゃ回らないものだろう? 時には障害を力で乗り越えなきゃならない。周りはそれを支えてあげられなければ踏ん張れない。傷つくことを恐れてちゃ、列車はそれだけで動かなくなるんだ。僕らはお互いに支えて、支えられているからこそ全力で走り出せるんだ。それをいつだって忘れちゃいけないんだと思う。一月の事件を覚えているかい? 僕と西園寺はここで待ち合わせたんだ。今回の事件も、この動輪の広場から全て始まったよね? ここで始まり、ここで終わり、そして再び新たな物語が始まる。そう考えればいいんじゃないのかな。……まぁ、ちょっとだけ、取って付けたようなご都合主義な展開ではあるけどさ。ねぇ、美波さん。でも、これってドラマチックで凄く素敵なことじゃないかい? ブリリアントだ! 君がさっき言っていたことだよ。答えなんて最初から出ていたじゃないか。君は探偵として僕らの前に現れた。僕らの出会いはきっと運命だったのさ」


「運命……? けれど、私は本当の身障者ではありません。お二人を欺いてもきました。お二人が私を守ってくれても、世間の人々はそう見てはくれないことでしょう。この事件と片桐の名前はこれからも、様々なものを同時に引き寄せてしまいます。今回の事件と同じように……。事件を解決することは、新たな事件の幕開けです。あのタトゥーの組織が何者なのかを、確かめねばなりません。今後どんな相手が現れるのかは未知数です。きっと命がけの戦いにだってなります。私達の誰かが殺されるかもしれません。また無実の罪を着せられることだってあるかもしれません。……お二人とも、その覚悟は良いのですか?」


「へっ……何を今さら。お前、自分がまだオールマイティーのジョーカーだなんて思ってるのか? お前はいいとこクィーンだろ。ナイトやルークの役を振られた俺達を信用しねぇのか? ここまで来たらもう一蓮托生だろ。俺もお前と同じように少しひねくれててな、敢えてこの言葉を使わせてもらうぜ。化け物を狩れるのは同じ化け物だけだ。とびっきりブッ飛んだ化け物の力が必要なんだ。法をねじ曲げ、権力さえ歪め、世論を誘導して悪党さえも操って手駒に使うような連中に従来のやり方なんか通用しねぇ。自分の身の危険なんか承知の上だ。俺は法の執行者であると同時に、いつだってアウトローになれる。その上で俺達は改めてチームになろうと言ってるんだ」


「そうだよ。何を水臭いことを言ってるんだい? 僕らは同じ化け物であり、同じ人間であひ、獸なんだよ。この世の中が最初から傾いていて、僕らがそれを偏った目で見ている弱者の集まりだなんて、最初から解りきっていることじゃないか。僕はね、いつだって遵法者の側でいたいけど時には法を超えることだって厭わないよ。もう迷わないさ。あらゆる壁を乗り越えるんだろう? 偽りの世界を壊し、全てを繋ぐんだろう? だったらさ、今こそ過去の自分を振りきって、君らしく駆け抜けてほしい。その獣の血を忌まわしい血と恐れずに、僕らの最後の切り札になる銀色の牙になって、これからも犯罪さえ操るような連中と戦う為に、立ち上がってほしい。人の踏み込めない、闇に満ちた複雑怪奇な謎を解き明かし、深海の闇の中は伊達じゃないってことを証明してほしい。ねぇ、西園寺。君もそう思うだろ?」


 私は西園寺に向け、イカサマコインを力強く親指で弾いた。パシッという音がして、そのコインは西園寺の右手に綺麗に収まった。


……さあ、後はそれが彼女の手に渡ればいい!


「コイツが普通じゃないなんてこと、今さらだしな。いつかも言ったがよ、完璧な人間がこの世のどこを探したらいるってんだ? 威張って言うことじゃねぇがよ。俺は誰かの助けや支えなしには、生きていけねぇ自信があるぞ。同じ列車に乗って同じ酒を酌み交わして、いいだけ騒いで下品に笑い合った仲ならよ、そいつがどんな曰く付きの悪魔だろうがブッ飛んだ死神だろうが、地獄の果てまで相乗りしてやるぜ。そんな無茶くらい出来なくて何が人生、楽しいものかよ! それによ、名探偵がイカレてなきゃミステリは面白くもなんともねぇ。そうだろ?」


 ピン、という小気味のよい音と共に、西園寺はコインを指で弾いた。車椅子に座った美波の両手にポトリとそれが落ちる。


 ついにその絵柄の描かれたイカサマコインは、美波の元に届いた。


 美波はそれを摘まみながら、しげしげと光に翳すようにして見つめると、艶ボクロのある口元を少し緩めて微笑んだ。


「まったく最近の殿方達ときたら……。図々しいにも程がありますわ……。やれやれですわ、お二人共。ふふ、本当に無茶ぶりもいいところですわねぇ……」


 そう言って苦笑すると、背中を向けた片桐美波は、鈍色に光る王錫のような銀色の杖を車椅子にそっと立て掛けると、真っ白なコートのフードを外し、颯爽と車椅子から立ち上がった。


 元モデルという話だが、現役といわれても納得してしまう美しさだ。改めて見るに、日本女性にしては長身な細身と艶ボクロの際立つエキゾチックな顔立ち。見る者を思わずゾッとさせるほどの白く、長く、美しい白髪だった。もちろん老いの故ではない。妖しき夜の美しさを湛えた、片桐美波のその正体と後ろ姿に、私達は思わず嘆息の溜め息を漏らしたほどだった。


 背中を向け、腰まで伸びた長い白髪を彼女が白いコートの背中へ両手で流すと、眠気を誘うかのような甘い芳香が一時の間、ふわりと辺りに舞った。


 動輪の下で立ち上がった彼女の本当の姿を改めて見るに、この時の私の感動といったら、他では言い表せないものだった。まだ開発途上の薄暗い東京駅の地下の照明を受け、なかば銀色に染まった白髪と、毛足の長い上等な白いミンクのロングコートが彼女には本当によく似合っている。


 白い死装束のヒューネラルドレスをその身に纏い、死ぬ覚悟さえ決めて生きてきた、本気の彼女を目の当たりにしたことで、私はいよいよぞくぞくと皮膚が粟立つ思いだった。


 それは悪しき因果と怨嗟の慟哭を断ち切る為に。事件によって失われた死者への弔いと無念の遺志に応える為に。血に餓えた犯罪という暴力への確かな抵抗の証として、彼女だけが纏うことを許された衣装なのかもしれない。その美しくも怪しい姿は彼女の異形のごとき美しさをさらに際立たせ、見る者を惹き付けてやまない、正に武者震いのする高揚にも似た感動であった。私が彼女を始めて見た時の、レッドアラートのような胸の高鳴りは、きっとこの瞬間を、この未来を私の本能が敏感に察知していたからに違いない。


 白の女王……か。


 私はこの時、まぎれもなく一つの時を見た。そう、彼女のその姿に濁りなき一つの真実と在るべき未来の姿を確かに見たのだ。誰かとこの驚きを共有したいと強く強く思った。ややもすると衒学趣味的な表現だが、この表現は使えると思う。


 私がミステリ作家なら、心強い友人達を讃えて巻末にはこう記すことだろう。


 親愛なる読者諸氏よ、イカサマのコインが時に真実を語ることもあるものだ。その一枚に描かれていた絵柄こそが、物語の全てを象徴していたからである。真実には裏も表もない。これは実に皮肉の利いた話であった。


 その思いや願いは幾つもの国を越え、世界中で愛され、脈々と連綿と受け継がれてきた知性と誇りの証であり、真実を求める人々の魂が願い求めてやまない奇矯の物語の核となる器であり、憧れであり、唯一無二の称号のようなものである。


 快刀乱麻を断つが如く偽りの世界を壊し、世界を繋ぎ、真実の扉を開く者。


 かつて偉大な作家達によって紡がれ、語られてきた存在が、この美しき赤レンガの駅舎に現れるとは、誠に皮肉の利いた話である。そしてこの瞬間こそが正に、実に痛快な物語の幕開けだったのである。親愛なる読者諸氏よ、この物語は正に探偵が真の探偵たる者として“覚醒”する物語だったのだ。どうやら、私達は大きな賭けに勝った。今夜はきっと記念すべき一日である。盛大に歓喜の祝杯をあげねばなるまい。


 今ここに、一人の探偵が夜の丸の内に華麗に降り立ったのだから。


 片桐美波は静かに私達の方へと振り返った。その表情には、もはや一切の迷いも翳りもなく、もちろん一筋の怖れとてないすっきりとした表情をしていた。


 傍らで誇らしげに微笑む私達の視線をたっぷりと味わうかのように暫しの間、目を閉じていた片桐美波は、白く美しいその細面の顔をゆっくりと上げると、まるで悪巧みでもするかのようにニヤリと微笑んだ。その威風堂々たる不敵な笑みと、艶然とした妖しくも美しき異形の悪女にして女王然とした気高き佇まいは、正に新時代の探偵と呼ぶに相応しいふてぶてしさと、その内に人をも殺める猛毒を秘めた女だけが持つ、独特の艶やかさと言い知れぬ華があった。


 さて、と片桐美波は充分に間を持たせ、予め決まっていた台詞であったかのように颯爽と言った。


「私はもう泣きませんわ。過去と己の血を恐れていては己が立ち行きません。自分の失敗を語るのに躊躇はしません。私に振られた大役を華麗に演じる為に、そろそろ私はきちんと立ち上がることに致しましょう」


 その強い決意を体全体から放つように、彼女は言葉に力を込めた。


「私は一人の探偵として、一匹の獣として、これからも夜の闇となり、影となって深淵なる謎を解き、街を泣かせる者達と戦い続けていきます。人は誰もが小さな不滅の火花を内に秘めて生きていますわ。私はこれからも、そんな人々の未来へ続く灯火を守り続けていかなければならないのでしょう?  ならば道化の女王らしく、その名に恥じぬよう堂々としていなければなりませんわ」


 私達は互いに視線を交わし、新たな旅の始まりを誓った。美波の言葉一つ一つを心に刻んだ。彼女がこれから歩む道は、困難をきわめるだろう。しかし、もう恐れも揺らぎもするまい。苦楽を共にし、同じ道を共に歩む。その覚悟を交わせる仲間がいるのだから。旅が続く限り、祝いの盃を交わそう。この旅が祝福と光を示す灯火になることを祈って。


「艶やかに、麗らかに、美しく。この命、尽き果てる最期の時まで誇り高く、強く正しく気高くあれ、と。漆黒の闇に図々しくも堂々と咲き誇る、一輪の白いアマリリスもまた風情があってよいものでしょう?東城さん、西園寺さん。これからも私の傍にいて下さい。夜の闇を駆け抜ける銀獣の生き様、その目に焼きつけていて下さい。それだけできっと、私は誇り高く死んでいけますわ。血塗れになることを恐れぬ探偵の本当の狩り、見せて差し上げましょう。そう、私は……」


 美波は微笑んで言った。


「白の女王ですものね]


【了】

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隅の麗人 Case.3 白の女王 久浄 要 @kujyou-kaname

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