7

 多重構造の巨大な建物がどこまでも続いていて、地下には広大な迷宮が広がっている。そんな場所を私は彷徨さまよい歩いていた。


 ずっと続く暗闇、どこまでも広がる牢獄のような迷宮。肌寒い風が吹き抜ける、息が詰まるような空間だった。ここがどこであるか、何を求めているのかもわからない。ただ、ぼんやりとした意識の中で、白いスーツを着た西園寺の背中をずっと追いかけていた。


 彼は何かを解決するかのように急いでいる。その速度は増すばかりで、私は彼に追いつくことができず、焦燥が募る。足元はぐらつき、心は迷いに満ちていた。


 周りはどんどん暗くなり、黒い悪夢が私を包み込む。黒い悪夢からは次々と人の手が伸びてきて、私を捕えようと、一斉に掴もうとしてくる。ひたすら逃げようとするのだが、その中で、西園寺の背中が唯一の光となり、私に方向を示していた。だが、その光も次第に遠ざかり、私を置いていくようだった。


 そんな中、突然現れたのは白い獣だった。白く輝くその獣は、黒い悪夢と戦っている。その動きは激しく、時には悪夢の波を一掃するほどの力を発揮していた。白い獣の存在が、この地下の迷宮に光と希望をもたらしていた。その戦いは壮絶で、まるで運命自体と戦っているかのようだった。


 私はただ立ち尽くし、その全てを見守るしかなかった。白い獣が一瞬にして黒い影を切り裂く様は、美しくもあり、恐ろしくもあった。それはまるで、私自身が抱える葛藤や恐れと対峙するようで、心の奥深くに響くものがあった。


 やがて、白い獣は激しい戦いの末に大きな叫びと共に悪夢を打ち破り、周囲は明るい光に満ちた。しかし、その光が強すぎて、私の目は何も見ることができなくなり、意識は現実に引き戻された。


「……城さん! 東城さん、しっかりしてください! 東城さん!」


 目が覚めると、黒縁眼鏡をかけた梅田刑事のいつになく真剣な表情が目の前にあった。傍らには大柄な体格の小宮刑事が、細い目を瞬きながら、驚いたような声を上げた。


「ああ、良かった! 気がついたんですね! 大越さぁん、東城さんが、意識を取り戻しましたよぉ!」


 小宮が野太い声で後方に呼び掛けると、梅田が私の手を引き起こし、背中をそっと支えてくれた。普段は飄々とした彼の表情は心配そうに曇っており、彼なりの気遣いが感じられた。


 私は頭を振って、梅田に支えられるままに半身を起こした。身体にはまだ強烈な怠さと眠気が残っており、振り払おうと試みるのだが、体全体がまるで鉛のように重かった。


 私は不意に、西園寺の真っ白なスーツの胸が、真っ赤に染まった姿を思い起こした。


「はっ! そ、そうだ! 梅田さん  西園寺は? 西園寺が!」


「大丈夫です。班長は既にドクターヘリで警察病院に搬送されています。ウチの竹谷さんと中本が付き添っていますから、心配いりません」


 多くの捜査員が行き交う中、大越が大股で駆け寄ってきた。


「おお、東城さん! よく無事で!」


「大越さん! 西園寺は! 西園寺が胸を! 胸を撃たれたんです! 美波さんも撃たれて! 二人は? 二人は無事なんですか?」


 私はそこで!始めて自分の身体を見回した。胸も腹も、首筋にも手を這わせてみたが、何もない。どこにも異状などなかった。


 どういうことだ? 私はあの男に……黒田に撃たれたのではなかったのか。そんな馬鹿な!


 私のとっ散らかった記憶と慌てた様子のその動きに、梅田と大越は神妙な表情で顔を見合わせた。二人のその表情に、私は最悪の予感を感じて慌てて身を起こそうとしたが、大越が今度は慌てて両手を翳し、掌を振って私を制した。


「ああ! いや、東城さん、起き上がらんでいい! そのままで結構! 東城さんは大事な証言者だ。まずは事情を伺う前に、あなた自身も充分に落ち着かれた方がいい」


 辺りを見渡すと、もう周囲は騒然とした様子で、駆け足で走り抜けるスーツ姿の刑事や警官たちが忙しなく行き交っていた。


 何時間経ったのだろう? 今は何時だ? ずっと地下駐車場の、このコンクリートの上に倒れていたのだろうか?


 目の前の景色は混沌そのものだった。駐車場の緩やかなスロープの先には、一時的に設置されたと思われる警察のテントが見える。その仮設のテントからは、警察無線が断続的に聞こえており、刑事たちの緊張感をさらに高めているようだった。


 私は地面に足を投げ出したまま、改めて地下駐車場の周囲を見渡した。私の倒れていた場所は、そのままのようだった。既に風祭の遺体は司直の手で搬送されたようだが、遺体のあった場所には生々しい人型のチョーク跡とナンバーの入った三角のプレートが置かれている。


 夜の帳が徐々に明け始めており、朝の光が薄暗い山間にさし込んでいた。何台もの警察車両のヘッドライトがまだ点いており、近くの木々に長い影を落としている。


 スロープから駐車場へと至るコンクリートの地面は、あちこちが泥だらけで、雪の地面からそのまま現場へと多くの捜査員が歩いてきたのか、踏み荒らしたように泥のついた足跡が混在しており、明らかに多くの人々が、ここを行き来していることを物語っていた。


「東城さん、立てますか?」


 梅田が再び声をかける。彼の声には、力がこもっており、何かを抱えきれないほどの重荷を背負っているようにも感じられた。私はゆっくり立ち上がると、しっかりと地に足をつけた。まだ身体は重いが、意識ははっきりしてきた。


 周囲には、捜査のためにやってきた捜査員たちが、どんどんと螺旋の坂道を登り、山荘に入っていくのが見えた。母屋のあの地下へも当然、何人も向かうのだろう。地下の駐車場へも紺色のツナギを着た鑑識の捜査員が、続々と入っていくようだ。


 次々に増員されている様子の彼らの顔は皆、重苦しい表情をしており、山荘の方からは依然、狂ったように無線の声が行き交っているのが分かる。その緊迫した声が、この場がただ事ではないことを改めて突きつけてくる。


「東城さん、まずは安全な場所に移動しましょう。ここはもう、立ち入り禁止区域になりますから」


「梅田さん、今は何時ですか?」


「午前6時27分です。警備会社と消防署からの緊急通報で、この場所が割れました。夜中に雪が止んだことで、漸く我々も駆けつけられたもので、まったく……面目次第もありません」


 梅田が肩を貸してくれた。彼らを責めることなど、できるわけもない。彼は私の腕を軽く掴み、現場から離れたテントへと導いた。警察が設置した応急用の仮の捜査本部のテントの向こう側には、既に事件を聞きつけてきたと思われる人々を規制する、黄色と黒のテープが張られているのが見えた。


 私はふと気になって、壁際のシャッターボックスに目をやった。シャッターボックスは開いたままで、中の三角形のボタンと逆三角形のボタンが上下に並んでいるだけのかなり古い物だ。ゆっくりと上下するタイプの電動式の防火シャッターなら非常押しボタンが必ずあるのだが、それすらない跳ね上げ式だった。一見して、


 私はもう一度、後ろを振り返った。ようやく出られるという思いと、これからこの先、この光景を何度も思い出すことになるのだろうという、恐れが混じった複雑な思いで、私は地下駐車場を出た。


 地下駐車場から地上の駐車場へは、本当に目と鼻の先であった。既に多数の警察ナンバーの車両に加え、救急車が二台にレスキューの消防車までが二台待機している。


 朝焼けの空の下で、山荘周辺の黒黒とした森と雪景色に、赤色灯の明滅する光が、ひたすらに乱舞してまだらに照らしている様は、筆舌に尽くし難い光景だった。これから始まるであろう事の重大さを感じながら、私は梅田に従いながらも、心のどこかで不安と恐れを抱えていた。


 簡易なテントの中に連れて行かれた私は、ちょっとした椅子に腰を下ろすなり、大越刑事から状況説明を受け始めるようだった。傍らには、松岡も現れて梅田と小宮も含め、ちょうど西園寺班の男性陣が揃った形となっていた。


 大越の柔和な顔は普段よりずっと真剣で、いくら協力する機会が多いとはいえ、民間人の私が聞かされることには明確な制限があるようだった。


「東城さん、体の調子はどうですか? お話しできる状態ですか?」


 大越が改めて尋ねてきた。その声には私を安堵させるよりも、任務を遂行する必要性が込められているように感じた。


「自分自身、混乱していて大丈夫とはとても言えない状態ですが、僕なら平気です。それよりも、教えてください。僕が気を失っている間、何が起こったんですか? 何よりも西園寺の容態は、どうなんですか?」


 自分でも動揺しているのが分かる。私は矢継ぎ早に尋ねたが、表情はよほど切羽詰まったものだったに違いない。大越は一瞬、躊躇うような表情を見せたが、やがて深く何度か頷いた。


「とりあえず警察官の一人として、東城さんが知るべき最低限の情報だけは、お伝えしておきます。班長の西園寺は現在、病院で集中治療室に入りました。先ほど連絡があった中本君の話では、弾丸は急所を逸れていましたが、状況はかなり厳しいそうです。現在、一切の面会は謝絶されています」


 その言葉に、私の目の前に暗幕が掛かったようだった。


「山荘の地下で発見された九人の死体は、全員が他殺のようですな。当然ですが、全員死亡が確認されました。現場は非常に悲惨なものでしたが、殺害のすべてに関与していたと見られる、あの冴島紀子と名乗っていた容疑者は、すでに確保されています。便宜的に冴島紀子と呼称していますが、当の冴島紀子本人と思われる人物が殺害されていることから現在、警視庁が全力を挙げて身元を照会しておるところです」


 私はこれを聞いて、情報をどう繋ぎ合わせたらいいのか。分からなくなった。あの謎の黒服二人なら、ある程度事情を掴んでいることは確かだが、美波の安否を最優先にしている様子の彼らが、全ての鍵を握っているとはとても思えなかった。


「あの容疑者ですが、発見時には既に失神しておりました。現在、警察病院で厳重な監視下に置かれています。ただ……」


「あの女はどうなるんですか? あの女を見たでしょう? 姿形を美波さんそっくりに整形で変えていた! 特殊メイクで冴島紀子になりすまし、そもそも、アイツは日本人ですら……」


 東城さん落ち着いて、と松岡が思わず立ち上がろうとした私の肩を抑え、椅子に座り直させた。感情的になっているのは分かるが、あの卑劣な殺人犯のことだけは、放っておくわけにはいかないのだ。ましてや、あの女は信じられないことだが、国を跨ぐような規模の犯罪組織の構成員である可能性が高い上に今、次に消される可能性が最も高い人間なのだ。


 あの女のことは任せてください、と大越がしっかりと私から視線を逸らさずに厳格な口調で答えた。傍らにいた大柄な小宮が、後を受けて説明してくれた。


「駐車場には、銀政界の組員のものと思われる車両が何台かあって、組員は全員気絶した上で縛り上げられていました。各々、武装していた上に、実弾入りの拳銃を所持していた男もいたので、その場で緊急逮捕しました。既に護送車で、全員の身柄は移送されています」


 今度は松岡が、再び私を宥めるように言った。


「今は、とにかくまず休んでください。これを伝えるべきかは迷うところなんですが、被害者の中に桜庭警部補がいて、地下街で例の女を脱走させるなど、彼自身が事件に積極的に関わっていたことで現在、銀座中央署も公安部も捜査協力したウチも含め、警察の上層部はてんやわんやの状態です」


「月曜日の朝だというのに、上へ下への大混乱でしてね。捜査員の割り振りから見直さにゃならんつうことで、銀座中央署の捜査一課の捜査員まで外されてる状態なんですわ」


 梅田が苦々しい口調でそう言った。


 ここから先はお願いになるんですが、と大越は三本指を私の前に掲げた。


「東城さんには、今日から三日間は静養して、公には動かないようにして頂きたい。その後、改めて詳しい事情聴取を行いますから、その時には、こちらも色々とお伝えできるでしょう」


 大越の言葉とその意味ありげな視線に松岡と梅田と小宮の三人が深々と同時に頭を下げたのを見て、私はそれ以上は何も言えなくなった。


 既にこの重大事件は、私の手を離れたのだ。立ち入れる部分に制限がかけられるのも当然だろう。まして、私は事件記者だ。それも事件の当事者であり、世間に対して積極的に事件の顛末を伝えられる立場にある。これは、私が普段彼らと親密な協力関係にあることを抜きにしても、警察組織からマスコミへの報道規制の要請や口止めと取れなくもない。警察官までが共謀して事件に関わっているのだ。対外的に余計な動きはしてくれるなというのは当然だろう。


 私は大越の提案に頷くしかなかったが、心の中では西園寺の容態と、美波の様子がひたすら気にかかっていた。この事件の全容が明らかになることを切望してはいたが、事件のこの混沌とした様相と凄惨な爪痕が齎す混乱を想像して目の前が再び暗くなるようだった。


 テントからゆっくりと救急車へ向かおうとすると、その背後では、まだ早朝にも関わらず、地元の報道局や新聞各紙の記者等がバリケードの向こうからフラッシュを焚きながら、事件の重大さを世に伝えようとしていた。


 カメラがクリック音を立て、レポーターたちがマイクを持って緊迫した様子を生中継している。彼らの声は一様に緊張感に満ちていて、その場の空気は何とも言えない重さを持っていた。


 その時、一団の中に私は後輩の間宮の姿を認めた。間宮夏希は小柄な体格で、女子大を卒業してまだ一年ほどの新人記者だ。地下街の事件では積極的に情報収集に励んでくれた。普段、好奇心いっぱいで、事件の核心に迫るたびにきらりと輝くその瞳は、今は動揺を隠しきれていなかった。ショートカットで、小顔で真面目さを象徴しているような若い彼女の体は微かに震え、抑えきれない不安を顔に滲ませていた。彼女は私を見るなり、駆け寄ってきた。


「先輩! 東城先輩ッ! …良かった…本当によか……う、うわああぁん!」


 彼女が子供のように顔を歪め、泣きじゃくりながら私に抱きついてきた。思わずよろけそうになったが、その華奢で小さな体が震えているのを感じ、私は何も言えなくなった。その温かい涙は、この長い長い悪夢の夜をさらっていく雨のように私の肩に沁みた。私は彼女の肩を抱きながら、風に紛れるような弱い声で囁いた。


「大丈夫。大丈夫だよ、間宮。心配かけてごめん。その涙はこの先の為にとっておいてくれ」


 彼女の痛みが、私の心にも重くのしかかる。外科医の龍堂明は死んだ。あまりにも多くの命の灯火が、たった一夜の悪夢の中で消えた。間宮にまで心配させてしまっていたらしい。女を泣かせるなど最低な男だ。つくづく私は後輩の世話役には向いていない。私がもし一昔前の風祭と同じ立場だったら、彼女と同じように泣きじゃくっていたのだろうか。その彼も死んだ。もうどこにもいない。


「先輩、本当に大丈夫なんですか?」


 彼女の問いかけに、私は少しだけ笑ってみせた。


「ああ、なんとかね。でも間宮、どうしてここにたどり着けたんだ?」


 彼女は一瞬顔を上げ、涙を拭いながら話し始めた。


「実はですね、地下街の件の報告をしようとしたら先輩といきなり連絡がつかなくなって、何かあったんじゃないかって心配になって……。そしたら、地下街を捜査していた竹谷刑事と中本刑事から事情を聞いて、西園寺さんも同じく連絡が取れないって聞いて。その時は連絡先だけ交換したんですけど、夜中に竹谷さんから連絡をもらったんです。奥多摩湖の方で事件があっ、て先輩と西園寺さんがここにいるらしいと聞いて、すぐに駆けつけたんです」


 おそらく美波が手を回してくれたのだ。私は彼女の言葉を静かに聞き、彼女がこんな危険な場所にまで足を運んでくれたことに感謝すると同時に、心配が交錯した。


「ありがとう、間宮。でも、こんな場所に来るのは危険だ。もし何かあったらどうするんだ」


「でも、先輩が……!」


 彼女は言葉を詰まらせた。彼女の言いたいことは分かる。心配させたのは私の方だ。一方的に連絡を絶っていなくなったのだから、どう考えても、今回は私の方が悪い。


「分かった、悪かったよ。でも、次からは気をつけてくれ。君が無事なら、それでいいんだ」


「先輩こそ、金輪際こんな心臓の悪い思いは勘弁ですよ」


 膨れっ面をする後輩に私は小さく頷き、少し笑い合う事ができた。彼女の声には深い心配が込められていて、その温かさが一瞬で周囲の冷たい空気を和らげた。


「ああ、僕なら平気だよ。これから警察の事情聴取を受けるから、三日は顔を出せなくなる。編集長には後から連絡するから、君からも伝えておいてくれないか」


 報道陣はこの一幕を逃さず、彼女が私に抱きついたシーンから熱心にカメラに収めていた。記者たちが近づこうとするも、警官に制止されているのが見えた。カメラの閃光が次々と光り、この光景がどれだけ多くの人々に伝えられるのかを思うと、ぞっとしないではなかったが、取り敢えずの安心感が私を包んでいた。


 ジャケット越しでも朝方の空気は寒い。だが、心胆を凍りつかせた状況下を生き残った体験が、私の頭を妙に冴えさせてもいた。生傷は負ったが、三人の中では一番の軽傷だろう。この程度なら問題ない。血の臭気にあてられた、惨劇の場を後にした疲労感が、全身を包み込んでいた。冷たい空気を肺一杯に吸い込む。


……ああ、生きている。私は生きている。


 冴えた頭に残るのは、ただただ己の命があることの実感だった。生をたった今、噛み締め、実感している。たったそれだけの孤独な時間が何よりも幸福だった。私の命と本能がそうさせているのだろう。多くの血が流れ、命を賭して、痛みを実感して、漸く生き残ってたどり着いたのは最も原始的な感情だった。


 怖かった。辛かった。悲しかった。そして、私は無力だった。ただただ己の弱さが情けなかった。悔しかった。こんな姿など私らしくないと思ったが、同時にこんな自分を俯瞰することで己も野生の一部だと認識できた途端、余計な感情は一切消えた。これでいい。生きているのだから。私達は生きている。生き延びたのだ。


 死と恐怖と悪意に溢れた事件を。血塗れの惨劇と獣達の憎悪が渦巻く殺戮の舞台を。私は目を閉じて心底安堵すると、もう一度、冷たく湿った雪の帽子を湛えた白樺の森の冷気を深く深く吸い込んで、灰色の空を見上げると、大きく溜息をついた。


 今はとにかく休息が必要だ。身も心もボロボロで疲弊し過ぎている。恐怖に慄くのも安堵に涙を零すのも後だ。


 救急車に乗せられ、警察病院での診察を終え、簡単な聴取に応じて、なんだかんだで私が自宅のアパートに帰り着いた時には、もう深夜に近い時間帯に差し掛かっていた。


 面会謝絶の西園寺の容態がとにかく気がかりだったが、彼の頼もしい部下の女性二人が付きっきりで夜通し見守ると聞いて、私は素直に彼女達に任せることにした。特に竹谷刑事には、なんと詫びればよいか分からなかった。


 泣き腫らした赤い目で女性に訴えかけられては、引き下がるよりない。彼女の声は震え、その言葉は切り裂くような冷たい夜風と底深い闇にあてられ、芯まで凍てついた私の心に自責の念を植え付けるには充分なものだった。


 彼女の姿は気丈そのもので、その瞳に映るのは絶望に抗い、望みを捨てきれない者の持つ強さを湛えていた。その姿に、怪物に気圧された情けない私の心は、逃避を選ぶよりなかった。


 松岡や大越は、何かとマメに私の状態を気にかけてくれた。傍らでサポートしてくれた彼らのおかげで、警察の事情聴取は驚くほどスムーズだった。ほぼ起こったことだけを淡々と話しただけだが、彼らは熱心に聞いてくれた。


 その間、私の中で膨れ上がった疑問の数々はより鮮明に、より具体的になっていくようだった。なぜ黒田に銃で撃たれたはずの自分が無事なのか、なぜ意識を失っていただけなのか、警察の捜査がなぜこれほど淡々としているのか、疑問に思うことばかりだった。


 とても眠れるとは思えなかったが、いつの間にか私は、沼に溶けていく泥のように眠った。


 不思議と悪夢は見なかった。私は目が覚めると、まずは深く深呼吸をした。生きている。これだけでもう十分だった。


 カーテンを開けると春の朝の光が窓から差し込み、部屋には静かな日常が戻ってきたように感じた。まだ体には怠さが残っていたが、無事に目を覚ますことができただけで、なんとも言えない安堵を覚えた。


 まずはシャワーを浴び、昨夜の冷えた体を温めた。水の音が心地よく、洗い流すように全ての緊張が解けていくのを感じる。シャワーから出て、キッチンに向かった。


 コーヒーメーカーをセットし、いつものようにトーストと卵と簡単なサラダとスープで朝食を準備する。コーヒーの香りが部屋を満たしている当たり前な光景と、あの忌まわしい夜から少しずつでも日常が戻ってきていることを実感した。


 2014年3月31日の朝である。


 この日は国連の機関が人間が引き起こした気候変動が地球の隅々に影響を及ぼしており、最も深刻な影響を受けている国々は最貧困層だと警告したニュースが流れたり、米国とロシアがウクライナを巡る外交的対決の最中で協議を続けるニュースだったり、イスラエルがパレスチナ人囚人を解放するという約束を破るニュースであったりと、やたらと国際情勢の動きが、きな臭くなっているのを実感した日だった。


 国内では生放送単独司会世界最長記録でギネス記録を出した、あの有名人のテレビの昼の長寿番組が遂に終了したというニュースが流れてもいたが、やはり私が最も衝撃を受けたニュースは、奥多摩湖畔で起こった血も凍るような惨殺事件の報道であった。


 この日は民放の朝の情報番組からして特集が組まれていて、先の東京駅直近の八重洲地下街で起こった殺人事件とも関連づけて報道され、様々な波紋を呼んだ。


 また、やはりというべきか、私が後輩の間宮に抱きつかれているシーンまで報道された。職場の先輩の無事に涙する女性という名目ではあったが、カメラマンや記者たちがあの一幕を見逃すはずもなく、誘拐された事件記者の生還シーンという形になって、きっちりとカメラに収められ、テレビの映像や新聞の一面や全国ネットを飾る一コマになってしまった。


 テレビや新聞で自分が報じられることには慣れていないが、間宮との感動的な再会シーンが広く公になったことで、私は一時的にせよ世間の多くの注目を集めてしまった。


 また、時期を同じくして、凶悪な連続殺人犯の逮捕に大きく貢献した丸の内警察署の警部補の負傷という話題もまた大きく報道され、この影響は特に大きかった。


 この注目は私自身だけでなく、事件の真相を追求しようとする世間の人々の好奇心や正義感にも改めて火をつける結果となった。医師に弁護士に警察官に暴力団に有名芸能人が寄って集って財閥令嬢を貶め、拉致監禁しようとした事件など前代未聞の事件であり、こんな理不尽な事件などあり得ないと多くの人々が怒りに駆られ、かの犯人グループを糾弾した。


 とはいえ、その犯人グループもまた全員が殺害されているのだから、世間の大半は死人に鞭打つよりも、事件後にだんまりを決め込む、彼らの所属していた組織を糾弾する方向へと動いていたのが、私としては新鮮な驚きであった。


 また、二次団体とはいえ国が認めた環境保護NPO団体が元暴力団員らによって構成されていたという内容は、改めて国の認めた機関による汚職や公金を吸い上げる腐敗の構図とも関連付けられ、癒着していた警察官と共に、その衝撃の余波は大きかった。


 地下街の防犯カメラの映像には、白髪の人物が駅の方面へ立ち去る様子が残っており、報道された殺人犯の写真と木下美千子という名前が大々的に報道され、改めてなりすましと呼ばれる卑劣な犯罪と日本人の名前で普通に報道されるマスメディアの腐敗ぶりが浮き彫りになった形で、某巨大掲示板は再び祭状態となった。


 これを受けて片桐財閥の顧問弁護団が正式に記者会見を行い、度重なる誹謗中傷を行った特定個人へは徹底的に開示請求を行い、訴訟していくことを発表した。


 一時はかの財閥令嬢を挙って糾弾していた人々もまた、これには掌を返したような様相となり、またそれをSNSで煽動していたフリーライターや芸能人とそのマネージャーまでもが殺害される結果になったことで、その波紋は今後も大きく広がるであろうと思われた。


 期せずして、私達が関与した奥多摩湖畔での惨殺事件と人災のように突如として現れた、この得体の知れない殺人者の報道には、多くの人が心を痛めた。それはあたかも、誰もが心の中で期待し、待ち望んでいた悪の到来が具現化したような事件でもあり、同時に不可視の獣が実体化したかのような狂騒の始まりでもあった。


 朝食を終えてゆっくりと留守電メッセージを確認していると、不在の間に結構なメッセージが溜まっていた。記者仕事は主に取材などで外出先にいることが多い為、こうして自宅でゆっくりすることなど、そうそうない。メールで事足りそうな物だが、先方へはこちらの取材中の際の急な用事は、緊急連絡先に連絡するよう一括で指定している為に、急ぎ確認が必要な案件などは、全てこちらに回してもらっている。外出先で自宅の録音メッセージを再生することなどしょっちゅうだ。


 つくづく因果な仕事だと思いながら再生すると、間宮や他の記者仲間から心配の声がいくつも入っていた。彼らの声を聞くだけで、少しホッとする反面、自分がどれだけ多くの人に心配をかけていたのかを痛感した。


 特に間宮からは何度も連絡があり、彼女の声には明らかに不安や動揺が滲んでいた。後で改めて電話で詫びがてら、何か彼女が喜ぶようなものでも奢る約束をするのもいいかもしれない。


 その中で、父からのメッセージもあった。久しぶりに聞く父親の声は、どこか遠慮がちでありながらも、深い心配が込められていた。この時間なら、まだ家にいるはずだ。私は躊躇せず家の電話へかけた。幸い先ほど声を聞いたばかりの父が出た。


「達也か。もう大丈夫なのか?」


「父さん、久しぶり。いきなり全国ネットに登場しちゃったけど、驚かせちゃったかな?」


 父の声が少し震えていた。


「驚いたどころじゃない。まったく、父さんも母さんも寝耳に水だったぞ。テレビで事件のことを見て、心配でたまらなかった。母さんなんか飯を作るのも忘れてたくらいだ。とにかく無事でよかった。心配したんだぞ。怪我はないんだな?」


「うん。ごめん、心配かけて。今回の事件、なんだか根深いところまで立ち入ってさ。まさか戦後の朝鮮半島の話まで出てくるとは、思わなかったから……」


「まさかとは思うが……在日絡みか?」


「うん、詳しくは今は話せないんだけど、なんか色々絡んでるみたい」


「そうか、とにかく無事でよかった。大事なのは、お前がそこにいることだ。それで十分だ」


「ありがとう。そう言ってもらえると心強いよ。もう少し詳しい話は、落ち着いたら直接会って話すよ」


 普段は温厚だが、どこかぶっきらぼうな父親の心配の言葉が、どんな励ましよりも心に沁みた。私は気になって、父から私が小さい頃に聞かされた呪いというものについて、詳しく尋ねてみることにした。


 在日絡みと父が即座に私に尋ねたのは、父がかつて地方の新聞社へ移転した事と大いに関係している。今回の事件にも根底の部分にドス黒い暗闇があったことは間違いなく、父の声のトーンが明らかに少し沈んだが、真剣な様子で聞かせてくれた。


 やはり、というべきだろうか。父はどうやら、私がいずれこうした事態に遭遇することを、ある程度予想していたらしい。


 私はこの事件に遭遇したことで、事件記者をやっていく上で、どうやらたどり着くべくして、この事件にたどり着いたのだという印象を持つことになった。


 父とのめずらしく長いやり取りを終え、私は自宅のソファーで寝転がりながら、天井を見上げ、あの殺人者の顔を思い浮かべていた。


 呪い……か。確かにそうなのかもしれない。迷信を信じる質ではないが、こんな陰惨な事件が起きる度に、背景にこうした何かモヤモヤとした影が見えることを、意識せずにはいられない。私はもう一度大きく溜息をついた。


 それは2014年から数えれば、ちょうど70年前のことになる。


 かつて戦争に敗れ、日本軍が解体された時代はその後の歴史に大きな影を落とした。現在の警察ですら、警察予備隊としてまともに機能していなかった時代、国籍が曖昧なままに、この日本という国の裏側に外国籍が深く入り込んできたという事実を我々はこの国に暮らす限り、忘れてはならないことだろう。


 終戦から戦後の混乱期であった当時、一部の朝鮮人や台湾人らによる殺害、強盗、暴力事件などの不法行為が頻発した時期というのは日本に確かに存在した。


 時代が時代だった。戦後処理の混乱期、食糧難やあらゆる物資が不足していた時代、彼らは日本人からありとあらゆるものを奪い、日本人を虐げ、残虐の限りを尽くした。第二次世界大戦終結直後、日本が敗戦国となったことにより、朝鮮人にある種の優越感が発生した事は確かだ。


 かつては属国民であった人々が社会基盤を喪失したことにより、日本からの“解放”という名目で立ち上がるきっかけになった出来事があった。ここに彼らの大義名分があり、彼らの歪な被害者ビジネス誕生の原因がある。戦争の終わりが新たな闇を生んだといえる事象かもしれない。日本の教科書で近現代史が歪めて伝えられる動きがあるのも、ここに端を発している。

 

 当時の朝鮮人達による事件は記録に残るものでは、大津地方検察庁襲撃事件、長崎警察署襲撃事件、生田警察署襲撃事件、富坂警察署襲撃事件、新潟日報社襲撃事件、関東朝鮮人強盗団事件、直江津駅リンチ殺人事件など、事件に冠された、その名前だけでも多数にのぼる。


 それらの発端となった、特に有名な事件が阪神教育事件である。愛知県や滋賀県より西の地域は朝鮮人達に支配されている。そんな真しやかな噂さえ囁かれている。だが、それは噂でもデマでもなく、歴史的事実によるものなのだ。


 阪神教育事件は、戦後の日本国憲法下で非常事態宣言が布告された唯一の事例である。


 GHQの指令を受けた日本政府が「朝鮮人学校閉鎖令」を発令し、日本全国の朝鮮人学校を閉鎖しようとした事に対して、1948年(昭和23年)4月14日から4月26日にかけて大阪府と兵庫県で発生した在日韓国・朝鮮人と某政党による暴動あるいはテロ事件である。現在では、これは民族教育闘争であったという見方もされている。


 朝鮮人学校事件、大阪での事件は大阪朝鮮人騒擾事件、また神戸での騒乱事件は神戸朝鮮人学校事件とも呼ばれる。戦後に日本人ではなくなった朝鮮人達は阪神地区の役所を襲撃した。公権力を暴力によって脅し、力によって屈伏し、優越感をもって支配し始めたのだ。


 結果として、阪神地区の役所には在日枠と呼ばれる特別なものが設けられた。それは現在では在日特権などとも呼ばれる、人種差別を背景にした忌まわしき制度だ。彼らは頑として否定するが、この国に密かに存在する特別な採用枠は未だに撤廃されてなどいない。それは日本に住む特定人種による、暴力によって成り立っていると断言できる国際的に恥ずべき制度なのだ。在日採用枠によって入り込んだ朝鮮人達は、後に政界、財界、司法、マスメディア、芸能界など、あらゆる組織に触手を伸ばしていった。


 たとえば三宮市では義務教育の道徳でハングル語を教えている。これが兵庫や大阪に在日朝鮮人が蔓延っている元凶であり、犯罪の温床とも指摘されている。反日という歪んだ教育はひとえに、日本が彼らに大義名分を与えてしまったのだ。


 広島ではかなり問題となった、性暴力の被害が多発することも、ここに原因がある。


 1950年。日本のほど近くで朝鮮戦争が始まると、日本は朝鮮半島から大量の難民を受け入れた。祖国から逃れてきた人々は、特別永住許可という日本の庇護下を得て後も祖国へ帰ることはせず、そのまま日本に定住した。


 彼らは「日本人から過去、性暴力を受けた」とか 「朝鮮戦争は日本と朝鮮が戦争をしたもの」とかなり意味不明なことを、本気で信じていたりする。これは歴史認識の違いなどという言葉で、教育で事実を歪めて伝えてしまっていることにすべての原因がある。いわゆる反日教育である。


「過った戦争を起こした報復に日本人女性を殺したり犯すのは正しいこと」という間違った教育を、本気でしているのだ。それを真に受けた人物が実際に東京の進学校小松川高校の女子高生を強姦し、殺害する事件も起きた。彼らによくやったと褒められた、信じ難い事件が実際にこの日本で起きているのだ。


「日本が過去、半島や大陸で戦争をした」から現在、その報復に「日本人の子どもを強姦するのは正しい」 という間違った教育を受けた間違った考え方をする人々が大量に日本に入植し、日本国籍を取得し、日本人の名前を名乗り、子どもが沢山いる保育園や小学校や教育委員会に紛れこんでいる。


 それは、現在では日本教職員組合と呼ばれている。この日教組と呼ばれる組織は日本の公立小学校・中学校・高等学校の教員・学校職員による労働組合の連合体であり、教職員組合としては日本最大であり、日本労働組合総連合会(連合)、公務公共サービス労働組合協議会(公務労協)、教育インターナショナル(EI)に加盟しているとされる。


 日教組と呼ばれるこの組織を日本がおぞましいと嫌悪するのには、ここに理由がある。それはまるで寄生種が宿主を内側から蝕み、殺そうとしている様にも似ているからだ。


 日教組という組織によって歴史教科書には嘘が沢山書かれ、とにかく日本が悪いという捏造の歴史を今も子どもたちに教えている。


 例えば、日本と朝鮮は1910年に条約を締結して併合したのに、侵略したとか植民地にしたという嘘を信じている人々は未だに沢山いる。イングランドとスコットランドは併合条約を締結したのにイングランドがスコットランドを侵略して植民地にしたと言えば、イギリスでは大笑いされるだろう。だが、日本ではそれが大真面目に試験のテストに出される。


 時に目を覆いたくなるような日本人の子どもを狙った犯罪がペドフィリア(小児性愛)の問題だけではないことも指摘されている。ペドフィリアだけが問題ならば子どもが被害者だが、今起きている問題は日本人の子どもが被害者という性質がある。彼らの中には日本人の子どもでなければならないという事情が根底にあるのだ。これこそヘイトクライムという人種や民族という属性自体が攻撃の動機になっているからこそ、起こっている事象なのである。すると、日本人はお人好しだから、やはり恨まれるようなことをしたからではと思う。


 ひとえに日本はお人好し過ぎたのだろう。困っている人へ親切にしてやると、上位に立たれたと恨み出す者が世の中には沢山いる。それが現実だったのだ。


 朝鮮半島は長らく、中国の属国下にあった地域だ。上と下という隷属の歴史に立ってきた者達にとっては、善意など通じない。施しは上位の者が下位の者へ行うものという文化的な背景すらあったのだ。そうした精神性の者達に経済支援をし続ければ日本のせいで豊かな国になった、上位に立つなど許せないなどという報復感情さえ持つことになるのだ。


 インフラの開発にハングル語の復活や学校の創設や教育や文化の普及など、ありとあらゆる支援を行い、同じ境遇にある台湾からは感謝さえされているというのに、彼らの感情は日本人にとっては意味不明だろう。


 しかし、残念ながらそれが世界であり、今起きている日本人への犯罪は我々がこうした歪な構造に気づかない限り、今後も繰り返されるし、起きても隠蔽され続けるだろう。保育園や小学校へのストリーミングカメラ導入に教員や教育委員会が、なぜか反対し続けているという歪んだ動機もここにある。


 敗戦国とは惨めなものだ。敗者に語る舌や資格はなく、歴史的な事実はただ膨大な言葉と差別という盾に阻まれ、闇に埋もれていく。


 繰り返すが、彼らは日本の属国下にあったが、敗戦を期にやりたい放題したのだ。その弊害は今も尚、この国にかけられた呪縛として未だに深く、強く残っているということだ。


 平和憲法の名の下に日本が軍隊になれないのは多くが報道の力だ。国籍を曖昧にする人々が、人権や平和を盾に自衛隊の行動を著しく制限している現実だってある。それが、この現代の日本という国の闇の一部であり、戦後レジームと呼ばれるものとも深く結び付いたものの正体だろう。


 ニュースや報道番組で他の国々では当たり前に行われている、◯◯系◯◯人の◯◯容疑者という犯罪者の表記すら隠されて報道され、日本人の名前で報道されてしまう。原国籍の名前がきちんと報道されない。信じられないことだが、日本で日本人が差別されているのだ。


 司法や行政や内閣にさえ、彼らの力は及んでいる。この国で政治的な発言の多くがタブーとされてしまうこともそうだ。公の場で政治的に極端な右寄りや左寄りに偏った発言に踏み込めば、仕事で左遷されたりクビにされたり、仕事を減らされかねないと誰もが恐れ、怯える。


 この奇妙な現象は、ひとえに彼らがマスメディアというものを事実上、長い年月をかけて裏側から支配してきたことにある。元の国籍すら曖昧にして差別という言葉を後ろ楯にし、体制そのものを国籍条項という不可侵制と差別という言葉で塗り替えてきたのだ。


 多くの人々がその矛盾に気づいていても、歴史と年月の堆積と財力やコネクション、暴力団による集団が背景にあることや血筋を問題にされる歪な差別構造が生じたことで、日本人が日本人の血筋として生まれてきながら、あらゆるものを制限されるような異常な状況が生まれている。


 差別や人権とは、多くが教育によって植え付けられる。知る者は制約と引き換えに避ける手段が与えられもするが、知らないものには何も及ばない。しかし、この日本で日本人として生まれただけで、それを憎む人間達がいるということを忘れてはならない。これを歴史と血に刻まれた呪いと呼ばずして何と呼ぶのだろうか。


 もう既に引退して地方局に引っ込んだが、新聞記者だった私の父は言っていた。平和と引き換えに日本人は弱くなったし弱くさせられたんだ、と。徹底的に軟弱であることを求められ、平和主義で暴力には抗うな、と教えられた。それが戦後の教育だったのだ。それは戦後GHQによる戦後政策や大国の思惑、被差別民のたどった歴史やその理屈に翻弄されることによってかけられた呪いだったのかもしれない。


 彼らは主張する。日本に生まれながら日本人として扱われないという現実は、偏見や差別だと。日本こそが我々の祖国を侵略した戦犯国であり、我々を虐げる元凶だと。


 豊かさに裏打ちされた日本人への妬ましさや羨望を隠し、過去に様々な事件を起こした彼らは日本人から蛇蝎だかつの如く忌み嫌われている。そして、彼ら自身が日本人ではない己の血を醜いと感じ、日本人を憎み、同胞からパンチョッパリ(半日本人)と忌み嫌われている。水面下に淀むおりは確実に堆積して影となり、明確な闇となっている。戦後の闇と呼ばれたりもする。


 それは互いを憎み、嫌い、かつ表面上は人権擁護を謳い、ビジネスとして穏やかに接しながら、懐では銃口やナイフを向けて互いに暮らしているようなものだろう。朝鮮半島からもたらされた、この歪な反日思想は、未だに消えることはない。もはや血に刻まれた呪いとしか定義できないものだろう。彼らの犯罪によって日本人に犠牲者がいても尚も隠され、未だに変わらない呪いとして、この現代のこの日本に存在し続けている。これが互いにあらゆる偏りや不公平感を生む原因にもなっている。


 彼らの多くは日本人と見かけ上はまったく変わらないのに、だ。彼らを非難すること自体が人種差別だと彼らが主張してきた歴史があり、それ故に彼らは日本人からも朝鮮人からも蛇蝎だかつの如く忌み嫌われ、日本人と共に生きている。この時間的な経過というものは大きい。


「日本人に生まれてよかった」。こんな何気ない言葉にすら批判が生まれる。もはや人権や差別とは利権の構図とも結びついている。それ故に厄介なのだ。


 私は我々を罵った赤川の言葉を思い出していた。力なき正義など無力に等しい。否。正義などしょせん後付けの繰り言でしかない。弱いから乗っ取られたのだと。


 チェスに喩えたが、しかし盤上の遊戯に準えるにはあまりに血腥く、殺伐とし過ぎてはいないか。否。人殺しにそもそも、エレガントさなど微塵もない。現実の事件になれば、事件を解き明かすと決めたのなら、己が肉の塊になることさえ覚悟せねばならない。


 謎解きを遊戯にしたいのなら、せいぜい自分の足元に仕掛けられた罠に気付くことだ。現実の死はそれほどに残酷で、ただそこに転がっているだけのものかもしれないのだから。


 私など、ただ状況に右往左往していただけだ。覚悟も力も足りなかったのだ。赤川の言葉というよりも、自分の弱さそのものがいつまでも私を責め苛んでいるようだった。弱い者に語る舌などない。それは確かにそうなのかもしれない。しかし、そうではないと否定する気持ちも大きかった。


 もう亡くなってしまったが、私は一人の尊敬する俳優が、その出演作で感情いっぱいに演じた言葉を思い出していた。


“強くなることはないです。弱い自分に苦しむことが大事なことなんです。”


“人間は元々弱い生き物なんです。それなのに、心の苦しみから逃れようとして強くなろうとする。強くなるということは、鈍くなるということなんです。痛みに鈍感になるということなんです。”


“自分の痛みに鈍感になると、人の痛みにも鈍感になる。自分が強いと錯覚した人間は他人を攻撃する。痛みに鈍感になり、優しさを失う。”


“いいんですよ、弱いまんまで。自分の弱さと向き合い、それを大事になさい。人間は弱いままでいいんですよ、いつまでも…。弱い者が手を取り合い、生きていく社会こそが素晴らしい。”


 力とは何なのだろう? 誰かを守ることとは究極的には、どうすることなのだろう? 他人を傷つけることか? その過程で誰かを殺すことか? 自分には関わりない相手だからと。自分の命を脅かす相手には容赦はするなと。


 時には人を傷つけることすら厭わない。武器を手に取らなければ、守れないほどの状況下に晒されたという現実は、選ばなければならない天秤を突きつけられた感覚に近かった。


 留守番電話に残っていたメッセージが、人の声が、これだけ自分の心に響き、残るものだとは思わなかった。生と死の狭間に立ったことで、私は改めて人の絆の大切さを思い知ることになった。人の言葉の偉大さは、やはり意識の上にも下にも届くことだろう。絶望の淵から人を蹴落とすのも、引き上げるのも選んだ言葉一つだ。


 彼らからの心配や励ましの言葉を聞きながら、私は自分がどれだけ多くの人々と繋がっているのか、そして多くの人々に支えられているのかを改めて感じ取ることができた。それは同時に、この悪夢のような事件を乗り越えるための大きな力になるのだろうと確信していた。


 慣れない公の目を意識しつつも、私は情報の深掘りと真相究明に向けて行動を開始しなければならない。警察の事情聴取で得られる限定的な情報では、例の組織は表には現れては来ないだろう。自ら情報を集めるために動き出し、能動的に生き延びる術を獲得する以外にない。特に、背後に潜む大きな陰謀や真犯人についての手がかりを求めて、かつての取材先や信頼できる情報源へ足を運ぶ必要もあるだろう。


 あと二日など、とてもじっと待っていられる状態ではなかったが、一方で動いてはならないとも考えていた。西園寺が入院している病院を訪れたい気持ちもあったのだが、それもまだ早いと考えていた。


 彼がどのような状態にあるのか、そして何を知っているのかが気になったが、大越刑事がわざわざ三日と期限付きにしたのは当然、何か理由があるはずなのだ。朝の情報番組を見る限りでは、彼の回復と共に、事件には新たな展開が期待されると世間は考えているようだ。


 最終的には、事件の全容を明らかにし、真実を世に問いたいと考えていた。あらゆる手段を使って真相に迫らなければならない。だが、その過程でさらに大きな危険が待ち受けているであろうことも、痛いほど理解していた。軽はずみな行動はできない。軽挙妄動こそ厳に慎むべきだが、このままにしてもいけない。


 私は己の頬を両手で張った。


 恐れるな。迷うな。今は求めるもののみを一身に追おう。それが私の役割だ。自らの弱さにいつまでも落ち込んではいられない。必ず真相を究明する。その決断と迷わない行動が自然に次の自分へと導いてくれるはずだ。まずは、これでいいと思うことだ。


 他の全てを投げ打つ覚悟で。そんな焼けつく渇望の先に待つ真実がたとえどんなものであれ、生きているのだから。明日があるのなら、どこまでも追える。それが今、私のできる後始末の付け方だ。


 こうして三日間の有給休暇中は、ひたすら自宅で休むことになった。編集長以下、編集部の同僚や後輩達からも無理せず休めの一点張りで、こちらは却って閉口してしまったのだが、例の事件の件の問い合わせがそれなりに来ているのだと間宮に聞かされ、迷惑を掛けている手前、黙って休息をとることにした。

 

 しかし、私にとって休むというのは、外で走り回ることをやめるだけ。自宅の書斎にこもり、これまでの記事の切り抜きやノート、事件に関するメモを広げてみる。


 写真や記録を眺めながら、これまでのカバーストーリーや独自に掘り下げた情報を再整理する。時には、古い記事から新たな糸口を見つけ出すこともある。こうして過去の記事を再検証することで、現在の事件にも新しい視点やアプローチが見えてくる。


 コーヒーを片手に、無数のタブを開いては情報を集め、社内のデータベースやオンラインのニュースアーカイブを調べる。たまには、関連するドキュメンタリーや報道特集も再視聴する。これら全てが、私が真実を追い求める過程の一部だ。自宅にいても、心と頭は常に動いている。


 もちろん、身体を休めるために散歩をしたり、好きな音楽を聴きながらリラックスする時間も必要だ。しかし、私の場合、事件記者としての情熱というべきか、こうした習慣が、静かな時間さえも探求の瞬間に変えてしまう。


 そして、運命の三日目は訪れた。


 私は真っ先に丸の内警察署へ連絡する事にした。まずはこちらの状況を伝える意味でも、西園寺のいる病院を訪れるにしても、必要な事だった。電話には松岡が出た。


「おはよう、東城さん。あれから三日目ですね。どうですか、少しは休めましたか?」


 携帯から松岡の声が響いた。


「うん、ありがとう。おかげさまでね。みんなはどうしてます?」


 私がそう尋ねると、まず梅田が電話口に出たので、私はすぐに全員の様子が分かるようスピーカーに切り替えた。


「おっと、東城さんいいところに! 今日はこれから銀政界のところにガサ入れですよ。これで一気に決着つけてやります! 弔い合戦ってやつですな」


 彼の声には意気込みが感じられたが、傍らから死んでないから、という竹谷刑事の鋭いツッコミと周囲の明るい笑い声が響いた。


「それは頼もしいね」


 と返すと、今度は野太い小宮の声が続いた。


「はい、僕と中本さんも一緒です。奴ら、ギタギタにしてやりますよ!」


 あの大柄な刑事が本気を出したら、どんなヤクザでもひとたまりもないだろう。いつになく過激な小宮に割り込むようにして、やたらとチャキチャキした博多弁の声が続いた。


「朝からウチら物凄か気合入っとんで、一丁派手にコロッケぶちかましちゃるつもりばい!」


「中本さん、殴り込みかカチコミに行くわけじゃないんだから、そこはエレガントにね。あと素直に容疑者って言おう。興奮し過ぎ」


 私がいつもの調子でツッコミに終止すると再び笑い声が聞こえた。


 竹谷刑事の声は、いつもと違う温かみを帯びていた。


「東城さん、西園寺主任のこと、よろしくお願いしますね。彼もきっと、東城さんのことを待っていますから」


「ありがとう、竹谷さん。彼にもよろしく伝えとくよ」


 私が彼女に礼を言うと、最後に松岡が再び話を引き継いだ。


「大越さんと俺は事件の報告書をまとめてるところです。本当に、色々ありましたけど、東城さん達が無事でひとまず安心しましたよ。でも油断は禁物です。念の為、応援を呼んでますので引き続き気をつけてください」


「ありがとう、みんな。本当にいつも助かるよ」


 声が微かに震えてしまった。彼らがいなければ、きっとここまで来れなかった。それぞれの言葉に胸が熱くなりながら、私は電話を切った。これからも彼らと共に歩んでいく決意を新たにした。


 ようやく出られる。ドアを開けると、明るい陽射しが待っていた。風も穏やかで日中は少し暑くなるかもしれない。


「おはようございます、東城さん」


 自宅の鍵を閉めようとすると、突然背後から声を掛けられた。振り返ると、そこには灰色のスーツを着た中肉中背の男が立っていた。


「警視庁銀座中央署捜査一課の佐藤貴文と申します。今日は警察病院までは自分が同行させていただきます」


 すぐに身分証明書を取り出して名乗る辺り、手慣れている。どうやら応援とは彼の事だったようだ。彼の表情は淡々としており、公務員としての落ち着きが感じられた。私は一瞬、状況を把握するのに少し時間がかかったが、すぐに彼の存在がどういう意味を持つのか理解した。どうやら、私の安全を確保するために送られてきたようだ。何から何まで気を遣わせてしまっている。私は素直に彼に礼を言った。


「ありがとうございます、佐藤刑事。では、お願いします」


 私たちは揃ってアパートの外に出た。朝の新鮮な空気と春先の穏やかな日差しが、どこかほっとさせる。彼と共に歩き出すと、確かな足取りが何とも心強かった。どんな事態が待ち受けているのかわからないが、この男がいれば何とかなるだろうという安心感が湧いた。


「佐藤さんは、今日のガサ入れには参加しないんですか? あの……例の」


 中本と小宮が息巻いていた。銀政界への捜査令状が降りたらしく、警察では朝から残った残党狩りに躍起になっていると聞いた。組長の山本六郎以下、今回の事件に関与していた組織が壊滅するのはもう時間の問題だろう。仲間の命と誇りを傷つけられたら、集団で牙を剥く。それは暴力団も警察組織も変わらないだろう。


「ウチは専ら後方支援ですよ。直属の上司が桜庭警部補でしたからね。後始末に関われればよかったんですが、これも大事な仕事だと心得ていますよ」


 案内された車はシルバーのトヨタのカムリだった。乗り心地が良く、乗員の安全性が高いところがメリットに感じた。警察官の私有車らしく防犯性も気密性も高く、長距離の移動に適していて、尚且つ車の運転も楽しみたい、車好きの刑事を感じさせるチョイスにはぴったりなボディタイプの車と言えた。


「さて、行きましょうか。我らが英雄のところへ」


 佐藤がそう言って促すと、私は頷いた。初対面の彼は、灰色のスーツを着こなし、中肉中背の体格ながら、その所作は隙のない逞しさが滲み出ていた。


 その表情は淡々としていて、まるで長い年月を刑事として過ごしてきたかのような落ち着きを持っている。これほどまでに自信に満ち溢れた佇まいは、これまで数え切れないほどの事件を扱ってきた証しなのかもしれない。


 助手席のドアを開けると、外はまだ朝の新鮮な空気が漂っていた。道行く人々が駅の方向へと足早に向かっているのが分かる。東京の朝は、いつも何かに追われているような、急いでいる人でいっぱいだ。街はすでに活気に満ち、車の音や人々の話し声が混ざり合っている。


「東城さん、ご迷惑をお掛けしたお詫びに、今日は私を専属のドライバーだと思って下さい。何かあったら、すぐに言ってくださいね」


 佐藤刑事の声には、優しさと同時に強い決意が込められていた。聞けば、彼は異動する前は丸の内警察署の所属だったらしい。彼と共に車に乗り込むと、その確かな足取りがどこか心強い。どんな危険が待ち受けていても、この男がいれば大丈夫だろうという安心感が、僅かながらも胸に湧き上がってきた。


「西園寺のこと、どう思います?」


 私がそう尋ねると、彼は少し目を細めてから答えた。


「彼は自分の信じる正義のためなら、どんな困難にも立ち向かう男です。それが時には周囲を苦しめることもありますが、誰もが認める熱血漢。私たち刑事にとって、彼から学ぶべきことは多いんですよ」


 話しながら、私たちは車に近づき、都市の喧騒に身を任せるようにして警察病院へと走り出した。亀有から警察病院のある中野までは、首都高速環状線を通って板橋区を経由するルートなら、車で30分ほどだろうか。


「自分はこれから一人言を言います。これは警察官の身分や職分とはまったく関係のない、ただの佐藤貴文個人の一人言であります。故に責任は一切取れませんのであしからず」


 佐藤巡査は淡々とハンドルを握りながら、視線を前方に投げ出したまま淡々と続けた。


「自分は西園寺和也警部補を尊敬しております。西園寺警部補はいつも言っています。警官が事件にあたるのは当たり前。犬が棒に当たるのは当たり前。面倒がらずに、事件はいつだって自分のことだと思って最後までやり遂げろ。自分の手柄は警官全ての手柄。全部まるっと誰かにくれてやるくらいの器量と度胸と根性を見せろ。己の信念と仲間の為に体を張れ。警察は皆で一つの生き物なんだ。一人の手柄は組織の誇り。一人の過ちは組織の過ち。世の為人の為。それだけでいい、と」


 西園寺らしいと私はそう思った。友人として、相棒として彼を私が尊敬するのは、正に彼のエネルギッシュで、貪欲なまでに己を貫き通す意志の固さなのだ。


「その男気溢れる人柄に感化される現場の警官や刑事は多いんですよ。私もそのうちの一人ですから。容疑者を徹底的に追い詰める強引なやり方に異を唱える人が多いのは確かですが、そうした人達の発言は多くがやっかみです。憎まれ役を好んで行う人間こそが、本当の責任者というものでしょう。今回の件で一気に名前を上げましたからね。警察で今や、カミソリ西園寺の名を知らない者などいません」


 この数ヶ月で私も西園寺も様々な事件に出会った。現場での彼の自信に満ちた姿勢や態度は、どれだけの刑事達の支えになっていたことだろう。


「今回の事件で西園寺警部補は名誉の負傷をされました。しかも、それは日本の財界や警察組織全ての人間に関わる重大な案件だったようです。防犯カメラの映像からは信じられないことですが、片桐美波さんが二人いた事が確認されています。主犯は確保されましたが、現在は公安部の預りとなっており、その内容は口外法度。見ざる聞かざる言わざるで通す。犯罪者を噛み殺す、不正を許さない狂犬にも、たまには休暇を与えてやれ、という通達が関係各所に届いております」


 そう言って佐藤刑事はハンドルを握りながら、僅かにこちらに向けて微笑んだ。


「ありがとう佐藤刑事」


 ほどなくして、私は警察病院へと到着した。もう既に面会謝絶は解けていて、短時間であれば見舞いに病室を訪れても構わないと案内され、私は西園寺のいる病室を訪れた。


 病院の集中治療室。私は見舞いの果物のバスケットを傍らに置くと西園寺のベッドのそばに立ち、彼の静かな寝顔を見下ろしていた。断続的に機械の音だけが、重苦しい沈黙を破る。彼の顔色は青白く、呼吸器に繋がれたチューブが唯一彼の生命を繋いでいる証のように思えた。


「西園寺、何を考えていたんだ……」


 いつの間にか。声が震えていた。


「どうして、あんな危険な真似をしたんだ。僕たちはもう、単なる仲間同士じゃない。相棒だろう? なのに、どうして何も言わずに……」


 私は彼の手を握りしめた。返事はない。私の心は喪失と痛みでいっぱいだったが、彼の無言の答えが何を意味しているのか、わかっていた。彼はいつものように、全てを背負い込んで、一人で解決しようとしていたのだ。


「無茶をしないでくれ」


 私は少し声を荒げた。


「目を覚ましてくれよ、西園寺。君がいなきゃ、僕はどうしたらいい?」


 部屋の中には僕の独り言だけが響いていた。でも、どこかで、彼が聞いてくれていると信じたかった。彼がまた目を開けて、いつものように皮肉混じりに毒舌を言ってくれることを心から願っていた。


「頼むよ。目を覚ましてくれよ……嘘でもなんでもいい。僕達は二人でロイヤルガードの騎士じゃなかったのかい? 二人で美波さんを守るんだろう?」


 その言葉が、静まり返った集中治療室に響き渡る。部屋は仄暗く、外の廊下のライトだけが窓ガラスに静かに反射している。そんな中、私は西園寺のベッドの側に立っていた。彼の顔は平和そうで、まるで深い眠りについているかのようだった。しかし、彼の生命を支える機械の微かな音が、その平和が一時的なものであることを教えてくれる。


 突然、私の背後で微かな音がした。車椅子の軋む音。それは静かで、しかし確かな存在感を放っていた。振り返ると、そこには美波がいた。彼女は車椅子に座っていて、まるで幽霊のように静かに、そして突如として私の前に現れた。彼女の顔には疲労が色濃く表れていたが、その眼差しは鋭いものがあった。


「こんな時間に、どうしたんだい?」


 私が尋ねると、美波は一瞬、目を閉じて深く息を吸った。


「ちょっと、空気が変わる場所が必要でしたから」


 彼女の声は低く、かすれていたが、その音色には美波特有の冷静さと優しさが滲んでいた。


「身体はもう……平気なのかい?」


 その質問に百の意味を込めたつもりだった。厳しい視線を向けた私の問いに、彼女はゆっくり頭を振った。


「気づいたら自宅のベッドにいました。あれから何が起こったのか、正確には分かりません」


 部屋の中は再び静寂に包まれた。機械の音だけが殊更に目立って聞こえる。彼女と私。二人の間に流れる空気が、これから始まる会話の重みを予感させた。私は彼女と入れ替わるようにして、西園寺のベッドから離れた。


「割と綺麗だろ。死んでないよ、それ」


 私は振り返らずにそう言った。病院のベッド。傷ついた男。意識のない彼を挟んで男女が語り合う。昔、有名なアニメで見た展開にそっくりなシチュエーションだった。茶化すつもりはないのだが、お互いに生きている。今はそれだけでいい。


 美波は心底ほっとしたように、裸に包帯とギブスを巻かれた西園寺の手を取った。


「ご迷惑を……かけてしまいましたわね……」


「迷惑だなんて思ってないよ」


「血とは……呪いなのでしょうか?」


 彼女は唐突にそう言った。


「そう……たとえば、絆とは、何でしょう?」


「人と人との結びつき。支え合いや助け合いっていう単純で素直な理解でいいんじゃないのかな。本来は犬や馬や鷹などの家畜を通りがかりの立木に繋いでおくための綱だ。“ほだし”や“ほだす”ともいうね。例えば……情に絆される、とか言うね」


 多少の皮肉を込めて私は彼女にそう答えた。そして、私はそんな冷酷で皮肉屋な自分がほんの少し厭になった。二人がお互いの命を庇って手を尽くしてくれたからこそ傷を負ったが、三人共無事で生きていられるというのに。


 きっと私は、悔しかったのだろう。何も出来なかった足手まといな自分が。二人が勝手に私の命を救って置き去りにして、手の届かない場所に行ってしまうことが。悔しかったし、そんな二人が妬ましかったのだ。


 普段いがみ合っている二人が、いざという時には、誰よりもお互いを気遣って、己の命を顧みず、自らを危険に晒せる勇気や、その強さや優しさが羨ましかったのだ。二人を責めたかったのだ。咎めたかったのだ。まるで、父親や母親に駄々をこねる子供だ。私は東京駅で迷子になったあの頃から、何一つ変わっていない。弱い子供のままだ。

 

 己の無力さを痛感して尚も、美波を責めてしまう自分の弱さが私はとことん厭になった。そして、こうした私の卑怯な弱さや矮小な醜さなど彼女はいつだってお見通しなのだ。あくまで静かに、優しげに美波は私の言葉にこくりと頷いた。


「そうなのでしょうね。情に絆される……。本当にそうです。元々はしがらみや呪縛や束縛という意味で使われていたはずです。でも絆は呪縛とは違うものでしょう?」


 人工的で殺風景に感じるほどの明るさの蛍光灯の灯る、ICUの廊下の天井を見上げながら美波は言った。


「東城さん、絆とは……たとえば悪意ある何者かによって簡単に断ち切られ、壊れてしまうほど脆いものなのでしょうか?  家族の絆とは、誰か第三者が介在して第三者的な視点が導入されて悪意ある言葉で無茶苦茶にされてしまう…たったそれだけのことで、いとも容易く揺らいでしまうものなのでしょうか? 友人関係は、誰かが外側から嘘や裏切りを煽って、悪意を以て騒ぎ立てたくらいのことで簡単に壊れてしまうくらい、脆くて儚いものでしょうか?」


 迷っているのか。悔やんでいるのか。いや、彼女はひたすらに、今も己を責めている。それだけは伝わってくる。そして、それが私達三人に共通している決定的な弱点であり、敵は正にそこを突いてきたのだと、私は冷めた頭で考えていた。美波は続けた。


「過去に傷を持つ、世間知らずな私には解らないのです……。いいえ、こんな風に迷っているということは、私の中にある確信が揺らいでしまっているのです。自分の存在自体が事件を引き起こすことに覚悟が足りなかった。今も色々と判断できないでいるのです。とてもモヤモヤして煮え切らないのです……。よく血は水よりも濃いといいますわ。縁は異なもの味なものともいいます。縁とは人同士を繋ぐきっかけ。絆とは、そうした数値化できない、互いが築いてきた時間的な経過や重さや固さのこと…それは言葉に出来ない、たくさんの記憶や感情なり、思い出なりがあって始めて成り立っているものでしょう……」


 美波は西園寺の手を取りながら私を向いて言った。


「そう、たとえば……東城さんは私が嫌いですか? 」


 直接的な質問である。事件が起こる前。あの時と同じ質問だ。彼女は本当にストレートだ。あの時は西園寺はいなかった。だが、今は西園寺は傍らにいる。シチュエーションが違うだけで、同じ言葉はこうも印象が違うものなのか。


 そして、これは恐らく男や女や友人として嫌いかというよりも、もっと奥深く幅広くといった総括的な関係性の方を。端的に言えば、未来の私達の姿という意味で問うているのだと思う。彼女はとても己の感情には忠実だが、論理的で、時に氷のような心も併せ持っている。今は眠っている西園寺にも同じように、何の気なしに尋ねるかもしれない。だから私はきちんと首を振って否定した。

 

「嫌わないよ。自分を責めちゃいけない。こんな事件が起きるきっかけになったのは美波さん、君のせいじゃない。君が僕らに敢えて黙っていたことがあるからといって、じゃあ友人関係なんか終わりだ、金輪際お断りだ、面倒くさいことになりそうだなんて、そんな馬鹿なことは言わないよ。僕らは君が財閥のお嬢様や身障者じゃないかもしれないってことは、薄々は気づいていたんだからね。西園寺は僕と違って君が神狩ちなみで過去の事件の関係者だってことも知っていたよ。過去なんて関係ない。きっと、今でもそう言うと思う。僕もそう思う。これは好きだけど、ラブでもライクでもないかな。今のところね」


 私の皮肉に、美波はクスリと笑った。


「良かった……。私も東城さんと西園寺さんが好きです。男性としても、友人としてもね。少なくとも、事件を通してこんなことになっても関係が揺らぐことはないと信じています。けれど……」


 このままではいられないでしょう、と彼女は寂しそうに視線を落とした。なるほど。彼女の弱点はやはり優しすぎることだ。私達の身を案じているのだ。だから迷わず、私は答えた。


「美波さん、君は誰の物でも、誰の為の物でもない。僕や西園寺だってそうだ。僕らは大きくは国という枠組みの中で、社会的には職業というものを持っていて、それぞれにお互いの囲みの中で生きている。僕らはこの日本っていう国の中にいて、会社や組織の駒だったり部品だったり、あるいは歯車だったりするのかもしれないよ。けれど、君と繋がっている僕らは、いつだって僕らさ。そうだろう?」


 一度言葉にすると、堰を切ったように一気に言葉が溢れ出た。言葉にしなければ、一生後悔する。そして、そうすることが出来るのは私だけにしか与えられていない私の役割だ。なぜか私はそう思った。私には彼女に与えられるものなんて何一つない。ジャーナリストとしての器の中身や今後の未来すら、もはや揺らいでしまっている今、無力な私が彼女に出来る全て。それはやはり、自分の気持ちを言葉にすることでしか伝えられない。


「美波さん、僕らは不可解な事件や謎っていうものを通して、出会って、今までチームみたいにしてやってきたさ。お互いこうやって改めて言葉にはしてこなかったけどさ、それは会社や組織や家族からも切れて、お互いがお互いに、何か譲れないものの為に、一生懸命になれたからこそ成り立ってきた関係だろう? お互いに秘密を共有するみたいに、不謹慎だけど謎を解くというスタンスを楽しみにしてきたからだ。だからこそ、いつもの僕らにもう一度戻ろうよ。誰かを助けるのに理由なんか必要だったかい? 目の前に不可解な謎があったら解いてみたいだろう? 誰かに笑われても嫌われても、ブレずに守り抜きたい何かがあったから、僕達は素直にそうしてきただけだろう?」


「それは愛だとか友情だとか、正義感というものの一部なのでしょうか。私にも、今の自分自身の感情がよく解りません。犯罪やテロは許さないとか社会正義はこうあるべきだ、なんて大それたことを考えている訳ではありません。私はいつかの事件で探偵の一手に失敗は許されないと言ったばかりでした。自分の言葉がこんな風に返ってくるとは思いませんでしたが…。私は失敗してばかりの欠陥品の女王なのです。それでも敢えて訊ねますわ。東城さんは、自分が貫きたい、その感情は、何だと思いますか?」


「上手く言葉に出来ないな。ただの意地や好奇心なのかもしれない。けどさ、そんな意地やプライドや興味本意の方が、人としてけっこう大事な部分なんじゃないのかな……。お互いがお互いに譲れないものがあって、きっとその為に君や僕が行動した結果が今なんだよ。君は自分を責めている。僕は無力な自分が許せない。西園寺だってきっとそうだよ。西園寺が言っていたよ。何があっても僕が君を守れとね。君を守ることが今の僕達にできる全てで、最大の抵抗だって西園寺は分かっていたのさ。僕も今なら……今さらだけど、そう思うよ」


「けれど、彼らがもし今回と同じように現れ、今回と同じ要求をしてきたら? 彼らの要求に従うことは……」


「そうだね、僕は記者の仕事を辞めなきゃいけなくなるかもしれないね。嫌がらせや報復だってされるかもしれない。僕の家族が危険に晒されることになるかもしれない。次に予測される、彼らの暴力の最悪の手口だからね。でもね美波さん。これから先、どんな結末が待っていても、そこに後悔なんかないよ。君の言葉を借りれば、自分自身の魂の価値を決めるのは、いつだって自分自身だ。そうだろう?」


 私の言葉に美波は微かに力なく微笑んだ。


「ごめんなさい。嬉しいはずなのに、こんな気持ちになったのなんて、正直初めてなのです。まだうまく笑えません。そうですわね……。私、考え過ぎているのかもしれません。他人の喜びや悲しみなど本当は解る訳ないのに愛想笑いばかりして、それでとうとう誤魔化せなくなって……。二人が拐われた時、私は本当に、普段の私ではありませんでしたわ。ちっとも私らしくありませんでした。東城さん、分かっていたつもりでしたが、人として時を重ねて生きていくというのは、こんなにも重いものなのですね。過去は際限なく増えていくのに、己や誰かと向き合った途端に、自分の望む未来が霧に紛れて遠退いていくようです……」


 迷って悩んでいる方が、よほど綺麗だ。


 我ながら自分勝手だとそう思った。きっと私にとって彼女だけが特別な理由は、折り合いをつけて着飾っている現実に対して、剥き出しの裸で生きている美しさを感じたからだ。生と死を間近に置いているが故の美しさを垣間見れる瞬間があるからだ。それは恋でも友情でもないと思う。憧憬に近い感覚かもしれない。やっと私はそこに至ることができた。


 靄に霞み、着飾ったまがいものの現実は、あの白い異形と共に嵐が過ぎ去ったようにかき消えていた。私が彼女に抱えていた漠とした不安めいたモヤモヤした想いもまた霧散した。私はあの瞬間に自分の思いに至れた。あの儚く、命を磨り減らして叫ぶ獣は、今にも消えてしまいそうな彼女の精一杯の本当の姿だったのだ。彼女の正体に憧れ、畏れ、同時に彼女がひたすら白く、まぶしすぎる存在のように思えた。それが分かったからこそ今、自分の感情の置き場所を違えてはいけないと思った。


 だからこそ、やっと追いついた彼女だけは、どうしてもそばにいてほしい。やっと自分の想いをはっきりと言葉にできる。叶うなら、西園寺と共に彼女のそばにいたい。馬鹿でくだらない話を繰り返していたい。彼女と同じ時間を共有し、同じ謎を追っていたい。何のことはない。彼女は最初から私達に対してそうしたスタンスでいたではないか。ただの一度しかない命なのだ。下僕でも恋人でもいいから、そばにいろと。実際は違うのかもしれないが。


 それでも、こんなにも私達を愛してくれる、この不器用な女は男達をやはり疑わずにはいられないのだろう。ありふれた日常を繰り返していたい。そんな嫉妬深くも愛情深い女性というものに対して、この想いは嘘じゃないと私達は懲りずに何度も否定するのだろう。


「誰も愛さない」と口で言うのは簡単だ。その前に「君の他に」と気障な言葉がついた途端に嘘にも裏切りにもなる。百の言葉よりも一つの抱擁ができるなら、それは本当に楽な選択だろう。どれだけ言っても信用しない彼女の唇をキスでふさいでしまうのは、とてもロマンチックで魅力的な選択だ。だが、手の平を返すような、その自分勝手に男を振りかざす振る舞いは、お互いに望むところではないだろう。今はその時ではない。私は嫉妬深い癖に臆病で意気地なしな男なのだ。自分でも嫌になる。どこかで安息の孤独を望んでいる気持ちは、僕らに共通している。


 他人が思うほど器用に生きているわけではない。青臭くて泥臭い話だが、本気で彼女のそばにいたいとそう思っているのだ。この複雑な関係は、きっとこのままでいられない時が来るのだろう。明日のことなどわからない。まったく男女とは、どうしてこう一筋縄ではいかないのだろう。


「僕は君とこれからも一緒にいたい。もちろん、西園寺も一緒にだ。同じ謎を追って、また同じ気持ちの下で同じ時間を過ごしていきたい。それじゃ駄目かい?」


「東城さんの気持ち……凄く嬉しいです。けれど分かっているはずです。お互いに甘えたり依存し合うだけの関係は望むところではないでしょう。人生に本当に必要な決断とは、孤独の中からしか生まれません。私達は互いに距離を置くべきです。東城さんや西園寺さんは、彼らに関わってはいけません。未来を選べない、過去に傷を持つ私でなければ彼らと戦うのには…」


 足手まといだからです。


 美波は明瞭な口調ではっきりと私に告げた。分かっていたことだ。予感していたことだ。彼女にとって私と西園寺は大切な仲間だ。だからこそ、私達の居場所を守りたいと思うのだろう。彼らと事を構えるのには、実際に相当な覚悟がいる。今回の事件で嫌というほど分かった。それほど危険な選択でもあるのだ。


 だが、私は彼女が既に自分の未来をかなぐり捨てて、彼らに挑もうとしていることには抵抗があった。


「美波さん、自棄になっちゃいけない。過去は変えられないけれど、未来は変えられるじゃないか。君が自分の消せない過去に“だから何だ”と前を向くのも、“どうせ私なんて”と下を向くのか、それは分からないよ。どの選択をするかで君の未来はいくらだって変わる。一人で悩まないでくれ。“さあ、どうする?”と問い掛けられる今を、僕らは精一杯生きるしかないんだよ。サイコロを振る神様が、この世の全てを決めている訳じゃないだろう?」


 美波はゆっくりと私に微笑んだ。


「東城さん……貴方はやはり私が思ったとおりの方です。優しくて温かくて、そして真っ直ぐで……。最初に出会った時から、私がどれだけ貴方達に救われてきたことか。私は幸せ者です。凄く、凄く嬉しいです。だからこそ、分かってください。離れなければならないのです。東城さんと西園寺さんは、今の世の中に必要な人。暴力や権力の脅しで失われることだけはあってはならないのです。真実は私達だけが知っている。それだけでいいのですから……」


「待ってくれ!」


 これだけは言わせてほしい、と僕は彼女を遮った。


「君は笑っていればいい。いつだって君には笑っていてほしい。自分の気持ちに偽って群れて笑うぐらいなら、気ままに一人で生きていくのもいいだろうさ。けどね、世の中にはひねくれている奴らもいてさ、神様にサイコロを振らせない変な人間がいたら、そんな人間についていきたい変わり者だっているんだよ。……ねぇ美波さん僕はね、そんな意地っ張りな選択が人生にあったっていいと思う。真実なんて実はどこにもないんだよ。僕はそれでも、自分が間違ったスタンスでいても、分からないものや未知への欲求や、そこに仲間と一緒に到ろうとする気持ちや喜びや過程の方が、真実を知ることよりずっと大切なことだと思う」


 私は必死の思いで訴えた。


「己の意地と誇りを張り通すことで、誰かの命が危なくなるなんて、そんな馬鹿なことが放置されている現実の方が絶対に間違ってるんだ。誰かが人質にされ、誰かが脅されるような汚い真似を許す訳にはいかない。君だって、実はそうなんだろう? 誰かに笑われても嫌われても、そこは染まってほしくなんかないんだよ。君が守りたいものを一緒に守り抜きたいならそうするんだ。それが僕らの意地と誇りだ。君にだけは……それだけは分かってほしい」


「少し……考えさせてください」


 私の目の前でゆっくりと、病室のドアが閉じられた。


 その時だった。盛大に背後から、わざとらしい欠伸の声が聞こえた。呆れるよりも先に、私は思わず微笑んでしまった。ずっと私達の会話を聞いていたのだろう。


「お前な、物には言い方ってもんがあんだろうが。アレはアレで期待とプレッシャーに悩むタチなんだよ。女をな、泣かせんじゃねぇよ」


「それはこっちの台詞だね。美波さんにあれだけ心配させといて……。狸寝入りの上に盗み聞きかい? 趣味が悪いね」


「へっ…バレてたか。いつかの盗み聞きの仕返しのつもりだったんだがな」


「お見通しだよ。美波さんだって気付いてたと思うよ。まったく二人揃って無茶をする……。西園寺、君が一番重症だ。急所に当たって、致命傷になっててもおかしくなかったんだよ」


「へっ……三人仲良く身も心もボロボロか。生きてるからいいけどよ。なぁに、俺の命なんて安いもんさ。だがな、俺は死なねぇ! 俺は生き意地がとことん汚ぇぜ。二階級特進だけはしねぇと神に誓ったからな。簡単にくたばるかよ。それに東城よ、勘違いしてるようだが、この状況は俺が自ら望んで選んだことだぜ」


 そう言って彼は、何でもないように半身を起こした。


「最初から、怪我一つ負わないと解ってたからな」


 そう言って西園寺は重そうなギブスを外した。簡単に着脱した、と表現した方がいいだろうか。その呆気なさと包帯を外しても傷一つ負っていない筋肉質の胸に、私が驚いて硬直したのを見て、西園寺はニヤリと笑った。


「まだ解らねぇか? 黒田だよ」


「あの人が!? 紳士ぶっておきながら、君を撃った張本人だろうに!」


「撃たせたんだよ。俺はわざと撃たれたんだ。そして、この通り俺は怪我なんて負ってないぜ。赤川と黒田だったか。あの二人、腕っ節といい度胸といい、本当にたいした役者共だぜ」


「あんな酷い目に合っておきながら、彼らを庇うつもりかい?」


「いいや、アイツらは敵じゃねぇ。信用出来るぜ。いずれ俺を殺そうって奴が、こんな気の利いたものを残しちゃくれないからな」


 そう言って西園寺はボックスタイプの赤い煙草の箱と一枚の紙を私に差し出した。西園寺が煙草の箱を拳でトンと叩くと、薄い紙にしか思えない箱が硬い金属質の音と共に展開図のようにバラけた。あっと私は思わず、その仕掛けに声を上げ、その10センチ四方の小さなメモ用紙を手に取った。


『誇り高き女王の騎士よ。次の指示に従うこと。

1.煙草の箱を左胸の懐に入れること。

2.黒田の銃で撃たれること。

3.刑事として三日死んだ振りをすること。

 今は再起の時を待て。これは女王が覚醒する為の戦である。迷えば敗れる。我らが勝利の為に決断せよ。英雄を望む者達の覚悟を見せてほしい。 S』


「あれはスーツからこぼれ落ちたんじゃなかったのか! そういえば、君は煙草が切れたとぼやいて握り潰してたよね。そうか、あのやり取りの中で、そんなことが……」


「俺が煙草を吸う上に、休みの日でも同じスーツを着てるってことを、予め知ってなきゃ出来ねぇ芸当だ。奴らは何度もあの状況をシミュレーションしていた。このSって奴に指示されたんだろうな」


「じゃあ、あの日に犯人達が計画を失敗したのは……」


「そうだ。最初から美波を守っていた奴らがいたんだ。そいつらが、いきなり美波誘拐のシナリオを察知し、最初の段階で阻止した。奴らの筋書きでは、トイレで美波を襲い、俺達と同じようにキャリーバッグで拐うって算段だったんだろう。あの場に居合わせた奴らの証言が、どこか辻褄が合わねぇのも道理だったのさ。奴らの完全犯罪は最初から失敗していたんだ。敵を欺くには味方からってな。お前まで騙し打ちするみたいで悪いとは思ったが、捜査一課のみんなを責めないでやってくれ。こうでもしなきゃ、国に認められたNPOなんて奴らの肩書きを、どうしても潰せなかったんでな。警察の上層部に掛け合うのと、例のICチップを死守する事と残党狩りは急務だったもんでよ」


「解るわけないよ……色々とアンフェア過ぎる……」


「…ああ、信じられるか? 俺達を罵った理由は真実過ぎるくらい真実の、奴らの本音だったんだろうが、アレも実は念の入った芝居だったんだよ。黒田は実弾など、ただの一発も撃っちゃいない。二発だけゴム弾を装填して、シャッターと俺の懐の血糊の入ったタバコを撃ち抜いただけで、後はすべて空砲が装填されていた。俺なら音で、すぐに空砲だと気づくと踏んだんだろう。あの女が最後には拳銃に頼るだろうことも計算した上で、実弾を使わなかったんだ」


「そうか! 拳銃はフェイクの陽動で本命は、あの赤川って人がやったのか!」


 私は美波の使っていた仕掛け武器とでも呼ぶような、あの杖を思い出していた。赤川の所持していた警棒も、同じ音を発していた。あの警棒も恐らく変形するタイプなのではないのか。これも恐らくだが、私は強力な麻酔針のようなものを撃ち込まれたのだ。


 音もなく、麻酔針で背後から眠らされたのなら、撃たれた私が怪我をしていないのも納得だ。まさか、拳銃がフェイクなどとは思わない。確かに首筋に僅かに切皮痛がしたのと、目覚めた時に異様な眠気と怠さを感じたのは、昏睡させられていたからなのだろう。


 彼らは西園寺が身を挺して拳銃を所持した犯人と戦い、負傷したというシナリオを意図的に作り上げる必要があったのだ。公務員が重大な事件に関与している場合、特にキャリアの警察官や政治家が事件に絡む場合、警察や他の法執行機関は非常に、慎重に行動するであろうことは窺える。


 私の公の場での行動を控えさせたのは、個人の安全を保護する為に必要な措置だったのだろう。証拠が外部に漏れるリスクを減らし、誰かが捜査を妨害する可能性がある行動を防ぐ方法としては、これ以上ないやり方だった。また、メディアの注目が集まることで、捜査や法的手続きに影響が出ることを避けるためにも、こうした措置が取られたのだろう。念の入った作戦である。


「ああ、お前に後の始末を頼むと赤川が言ったのは、そういう意味なんだよ。三日待ったのは、銀政界への逮捕状を用意する時間や世間を丸ごと味方につけて、美波の風評をチャラにしなきゃいけなかったからだ。あの状況下で、あんな事態になることを、予め予測していた奴がいたんだ。その上で俺達や敵の動きを封じる為に、あの二人は指示通りにそうした。それだけのことだったんだ」


「一体、何者なんだ? 美波さんは君の容態を見て、やっと状況を理解したって感じだった。気付いたら自宅のベッドにいたって言ってたよね。美波さんは本当に、あの時の記憶がないってことなの……?」


「解らねぇ。思い出したくないというより、覚えていない。記憶にない。自分が自分以外の人格に乗っ取られるだなんて、そんな馬鹿げたことが現実にあり得るのかどうか……。だが、それを確かめるのはそう難しい話じゃない。向こうからのコンタクトをいちいち待つ必要もないぜ。東城、悪いが手を貸してくれ。あと悪いが、上着も貸してくれ。この大袈裟なギブスが邪魔くさかったぜ。痛みなんかほとんどねぇよ。大袈裟に血糊が吹き出ただけなのによ。チッ……一張羅が台無しだ」


「無茶だよ。入院即退院なんて非常識過ぎる。

と言いたいところなんだけど、実は僕も君が目覚めるのを待ってたんだ。美波さんは必ず帰ってくるよ。その前に僕らには、やらなきゃいけないことがあるようだ」


「ああ、今しかない。三日経ったら会いに来いって意味なんだ。俺の勘が正しければ、きっとアイツらは今も俺達を待っているはずだ」


「影の黒幕もいるよね?」


「ああ、あの店に……husterに行くぞ」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る